タイ・プーミポン国王の崩御とこれから――問われる皇太子のメディア戦略

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2016年10月13日、タイの国王プーミポン・アドゥンヤデート陛下が崩御した。前日から、国王が入院するシリラート病院の周辺は、国王の写真を持って快復を願って集まった民衆で溢れていたが、その願いは叶わなかった。

 

国王崩御のニュースを食い入るように見る人々(10月13日)

国王崩御のニュースを食い入るように見る人々(10月13日)

 

プーミポン国王が、国民に愛された偉大な国王であったことは間違いない。首相は、10月13日がタイ国民にとって、10月23日の「ワン・ピヤ・マハーラート(愛する大王の日:ラーマ5世の逝去日)」と同様に忘れられない日になるだろうと述べた。現チャクリー王朝において「大王」の称号を持っているのは、始祖であるラーマ1世と、近代化の父として名高いラーマ5世、そしてプーミポン国王(ラーマ9世)の3人だけである。

 

今、タイの多くの人々は国の父と言われたプーミポン国王の死を、自身の父親の死のように悲しみ嘆いている。Facebookのプロフィール画像を白黒に変更、もしくは真っ黒に塗りつぶすことで哀悼の意を示したものや、twitter上で「私はラーマ9世の治世に生まれた」という意味のハッシュタグをつけた投稿があふれている。

 

バンコクでは、全国各地から弔問に訪れる黒服をまとった人々が王宮の門前に長蛇の列を作っている。周辺には、国王の崩御を悲しむ同志として、弔問する人々のために炊き出しを行ったり、水や気付け薬を配ったり、交通規制のある王宮周辺まで無償でバイク送迎をしたりする人々も多い。中には、SNSで楽しい写真をアップしたり、黒い服を着なかったりする人を「魔女狩り」する過激な人々もいるほどである(注1)。

 

(注1) 実際に、商店が滅茶苦茶にされたり、暴力を振るわれたりする人々も出ている。こうした行動について、16日、タクシン元首相の娘がInstagram上で疑問を呈し、そこに国王の第一王女(現在は王族籍はない)であるウボンラットが「同意します」という書き込みをしたことも話題になっている[Matichon Online:http://www.matichon.co.th/news/324030(2016.10.19.最終閲覧)]

 

タイの人々が国父であるプーミポン国王を失った悲しみと動揺から立ち直り、次の国王の戴冠を喜べるようになるには、今しばらく時間が必要だろう。

 

タイのユニクロも、喪服向けのレイアウトになっている

タイのユニクロも、喪服向けのレイアウトになっている

 

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町のいたるところの掲示板は、国王の追悼文を掲載

町のいたるところの掲示板は、国王の追悼文を掲載

 

とはいえ、すでに時代は動き始めた。国王は崩御したのであり、今後の動向を見極める上では、次期国王である皇太子のことを知っていくことも肝要である。ただし、徐々にメディアの関心が皇太子に集まりつつある中、偉大だったプーミポン国王と比べ、皇太子の能力を疑問視する海外メディアも少なくない。

 

プーミポン国王は、在位年数が70年と世界最長で、政治にも大きな影響力を持っていた。国王は1973年に政治に介入してその権威を確立し、軍のジュニア・パートナーからシニア・パートナーに変わった。プーミポン国王の即位から27年目のことであった。

 

タイは陸軍が政権を握ることが多く、政権交代がクーデタによって成されることが多い国として知られるが、73年以降「軍隊は国王の意向を無視して政治に介入することがもはや困難になった」[玉田 2013]。また、現在憲法上では政治体制を「国王を元首とする民主主義」と明記しており、国王は一種の超法規的影響力を持つとされるが、これに類似する文言が憲法に盛り込まれたのも、1978年のことであった[ibid.

 

皇太子が国王のように政治や社会に影響力を発揮するにも、時間が必要だと考えられる。なぜなら、国民が君主の政治介入を容認する大きな理由に、君主への敬愛があるからである。通常、民主主義国の君主は、政治に介入しない。国民からの敬愛を受けるには、国王がそうだったように、皇太子の積極的なメディア展開が必要だろう。

 

 

報道されない皇太子:国王との分担

 

亡きプーミポン国王は国民の精神的支柱ともいうべき存在であった。「国民のために奉仕する国王」と呼ばれるほどの公務を行い、特に、地方行幸を通して国民と膝をつき合わせて会話をし、親しく触れ合う姿は日常的に報道されている。タイのアイデンティティ委員会(National Identity Office)が、タイ国民とは国王を敬愛する人々であると定義していることも、その存在感の大きさを示す事例である。

 

国王の行幸日数は、最も多かった1970年代中頃で、年間250日にも上る。国王は季節によって住む離宮を変え、そこを拠点に行幸を行った。毎年同じ時期に同じ地域を行幸するため、地方の人々にとって「国王が来る時期」は慣習化していった。中には、その時期に合わせて上奏文を準備し、離宮に持参する者も多くいたという。

 

行幸の中では、地域の人々との対話の時間が重視された。「王室語を使わず、方言で話していいですよ」と、国王から優しく声をかけられたという人も多い。また、公務の時間以外には、国王がひとりでバイクに乗って街に降り、食堂で食事をしながら地元の人々とお喋りに興じた、などという逸話が、離宮近くの町に多く残されている。行幸中に見られる国王の気さくな性格も、国民から広く愛された大きな要因である。

 

とはいえ、この偉大な国王も、即位当初から現在のように注目を浴びていたわけではない。例えば、50年代後半に行われた地方行幸では、国王の顔がわからない国民も多く、そのために現場が混乱することもあった。国王の人となりや公務の様子が広く伝わったのは、頻繁にメディアがその様子を伝えてきたことも影響している。

 

一方で、皇太子の地方訪問や公務については、これまで大々的に報じられることは少なかった。公務記録を見てみると、地方訪問も行っているし、公務の数が少なすぎるわけでもない。それにもかかわらず、皇太子の仕事ぶりについては、あまり表立って語られてこなかった。

 

皇太子は、10代半ばの1966年から約10年間、イギリスやオーストラリアで軍関係の学校に通い、76年にタイに本帰国した。翌年77年には最初の妃と結婚し、これを境に、皇太子が国王の行幸に同行することはほとんどなくなった。ここから、皇太子は国王の陰で公務を行うようになる。

 

皇太子が本格的に公務を担う70年代後半は、国王が最も地方行幸を行うようになった時期であり、その中では「王室プロジェクト」(注2)の下見が中心に行われている。プロジェクトの進行過程で市井の人々と会話する国王の姿は、70年代前半に数を急増させた新聞が、こぞって写真付きで報道した。

 

(注2) 王室プロジェクトとは、水利事業の導入や、麻薬栽培から換金作物栽培への転換など、民衆救済を目的として国王の発案で実施されるものである。国民が国王を敬愛する理由として挙げられることも多い。

 

一方、皇太子による地方訪問は、ベトナム戦争からの帰還兵や国境警備警察などの慰問が主たる目的であった。皇太子自身が帰国後すぐに陸軍に入ったためであると考えられる。訪問の際には、復員した負傷兵や兵士の遺族などと限られた人々との交流会が催された。

 

こうした慰問は国王も行っていたが、皇太子の帰国後にはその回数が減る傾向にある。さらに、共闘関係にあった米軍があくまでベトナム戦争に敗戦した側であることもあって、それを想起させる内容の皇太子の地方訪問については、メディアでの扱いも消極的で、皇太子の地方訪問の様子が伝えられることは多くなかった。

 

それに加え、国王がますます地方行幸の日数を増やす中で、バンコクにおける公務を代行したのは、すでに王位継承権を持ち、かつ仏教行事を執り行うことができる男子である皇太子であった。実際、皇太子の公務記録には「国王の名代として」の公務が多く登場する。

 

しかし、王室行事や要人の謁見などの公務は、そもそも非公開であることが多く、かつメディアはあまり扱ってこなかった。国王の行幸が大々的に報道される中、皇太子については、地方訪問の様子だけでなく、バンコクでの公務の多くについても、ほとんど取り上げられなかったのである。

 

実際には、国王は地方の離宮、皇太子はバンコクを拠点とすることで、公務の分担が容易になり、公務の幅も種類も広がっている。こうして、70年代後半から、国王と皇太子との役割分担が徐々に明確になり、80年代には決定的になった。国王と皇太子とのつながりや共通性は、少なくともメディアの上では希薄に見えただろう。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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