2017.03.28

コンゴ民主共和国における長距離徒歩交易

木村大治 人類学・アフリカ地域研究

国際 #アフリカ#等身大のアフリカ/最前線のアフリカ#コンゴ

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

中部アフリカの大国、コンゴ民主共和国(旧ザイール共和国、以下「コンゴ」と略称)は現在、紛争・難民・暴力といったキーワードで語られることが多い。私は約30年前からこの国で調査を続けているが、この記事では私自身の経験をもとに、そういったイメージに覆い隠されてほとんど知られていない、コンゴの人々の姿について紹介してみたい。

私の調査の拠点は、コンゴ中部のワンバ地域である(図1)。ワンバでは、過去40年以上にわたって類人猿ボノボの研究がおこなわれている。1973年に、加納隆至先生がこの地で調査を始め、今日に至るまで、後に述べる内戦の時期を除いて、延々と研究が続けられてきたのである。私はその基地をベースとして人類学的な調査をするために、1986年にはじめてこの地を踏んだ。調査の詳しい内容については、拙著『共在感覚』(2003)を参照していただくとして、ここで記すのは、30年を経ての人々の生活の変容と、それを引き起こした社会経済的変化についてである。

図1. コンゴ民主共和国

コンゴ図01

私は1980年代には、86年から89年にかけてワンバ地域に滞在した。コンゴ盆地を覆う熱帯雨林の中にある村のまわりには、森を切り開いて作られた焼畑が広がっている(写真1)。当時はそこで、主食作物であるキャッサバと、換金作物であるコーヒーが主に作られていた。いくつかのプランテーション会社が活動しており、そこにはダビッド氏とかドミンゴス氏といった名前の白人たちが駐在していた。

彼らはトラックで村人たちからコーヒー豆を買い集め、コンゴ川支流のルオ川に面する港町ベフォリに運んでいった。コーヒー豆はそこからさらに、マスワと呼ばれる鋼鉄船でキンシャサへと運ばれる。そして同じ流通ルートを反対方向に、さまざまな商品がこの地域へ入ってきていた。女性用の服地、鍋、食器、石鹸、塩、学用品。人々は、コーヒーを売って得た現金でこれらの生活必需品を購入していたのである。

写真1. 熱帯雨林

コンゴ写真01

ところが90年代初頭から、国内情勢は悪化していった。コンゴは鉱物資源に恵まれた大国だが、1960年の独立直後に、その鉱物資源の争奪によってコンゴ動乱(Congo Crisis)が起こった。その騒乱が収まった1965年から長く続いてきたモブツ大統領の独裁体制だったが、複数政党制へ移行した直後の1991年に、首都キンシャサ市内で給料未払いへの不満を持った兵士たちによって暴動が発生。

1997年、東部から進撃してきた解放勢力同盟(ADFL)のローラン・カビラ議長がモブツ体制を打ち倒し、大統領就任、国名をコンゴ民主共和国に変更した。内戦は近隣国の派兵により国際紛争へ発展する(コンゴ戦争 Congo War)。2001年、ローラン・カビラ大統領が暗殺され、息子のジョゼフ・カビラ氏が大統領に就任。2002年の「プレトリア包括和平合意」成立後、2006年にやっと大統領選挙がおこなわれ、カビラ氏が当選した。1990年代以降の戦闘に関連して死亡した人は500万人とも言われている。

私は1989年に帰国し、1990年に博士号を取得した。すぐにフィールドに戻り、続きの調査をしたかったのだが、紛争のためにそれはかなわなかった。やむなくカメルーンに転進し、そこで狩猟採集民バカ・ピグミーの研究をすることになった。(他のコンゴ研究者も同様で、自嘲気味に自分たちを「調査難民」と呼んだりもする。) 以来16年間、私はコンゴに足を踏み入れることができなかったのである。

この間、ワンバの村人たちはどのような生活をしていたのか。2005年末に調査を再開してから尋ねてみると、やはり大変だったようだ。幸運にも、この地域で軍隊同士の衝突はなかったが、近隣諸国から来た兵士たちが駐留し、村人たちに略奪行為や暴行をおこなったこともあるという。一部の人たちはそれを避けて、道路沿いの本村から森の中へと住居を移し、そこに畑を作って暮らしていた。

しかし、そのような直接的なダメージもさることながら、ボディブローのように効いてきたのが、地域の流通網の寸断である。プランテーション会社を運営する白人たちは、戦乱を避けてみな撤退してしまった。トラックも船も動かない。道路は補修されないので、雨水が溝を刻み、人が歩く幅だけ残して森に還っていく。丸太を渡しただけの橋は崩落する。その結果、いくら換金作物のコーヒーを生産しても、売るすべがなくなってしまったのである。私の友人のリンゴモ氏は、この期間に10トンものコーヒーを買い集め、売って儲けることを試みたが、そのコーヒーは倉庫の中でみな腐ってしまったという。さらに80年代後半からのコーヒー豆の国際価格の下落も、この傾向に拍車をかけた。

2005年末、16年ぶりにフィールドに帰ったときの印象は、「物がない」ということだった。とりあえず畑でキャッサバを作り、森や川で動物や魚を取れば食べていくことはできる。そういった生活の姿は以前とほとんど変わってなかった。しかし、県庁所在地の町ジョルに行っても、昔は買えたはずのさまざまな物品は見当たらず、市場はがらんとしていた。私は折に触れて、人たちの持っている物品を指して「これはどこから持ってきたんだ?」と尋ねてみた。すると返ってくる答えは、おしなべて「キサンガニから」、あるいは「トポケ(の土地)から」というものだった。(トポケは、キサンガニの西方に居住する民族集団である。)

ワンバからコンゴ東部の中心都市であるキサンガニまでは直線距離で約280km (図1)、もちろんすべて直線で歩けるわけはないから、実際の道のりはもっとかかる。彼らがよく物品を売り買いするというヤフィラの市場は、その西のロマミ川沿いに位置し、もう少しワンバの近くである。

1980年代にも、キサンガニに行ったという話を聞くことは珍しくなく、当時はそこまで車で行き来することも可能だった。しかしその行き来は、キサンガニで仕事を探し生活するため、といったものだった。ところが聞いてみると、紛争後のワンバの人たちは、物を売り買いするためだけに、徒歩でこの距離を往復するというのである。行くのにどのぐらいかかるのかと聞いてみると、“Mposo moko, kaka kotambola”「一週間、ずっと歩き続ける」などといった答えが返ってくる。途中寝るのはどうするのかというと「ただ道で寝る」、雨が降ったらどうするかというと「ただ濡れる」のだという。こういった過酷な「長距離徒歩交易」は特別なことではなく、村の若い男たちなら普通にやっていることのようである。

私は驚き、また興味を引かれて、この交易についていろいろと聞いてみた。昔からこんなことをやっていたのではなく、これは紛争の後に始まったことだという答えが返ってくる。彼らは30kgぐらいの荷物を背負子で担ぎ運んでいくが(写真2)、その内容は、干した肉、魚、芋虫、bika(ウリ科の植物の種で、すり潰して調味料にする)、キクラゲ、蒸留酒などが主なものである。

重量あたりの単価が高いものが選ばれているが、考えてみれば、背負って運んでいくのだから当然のことだろう。ときに、ブタやヤギ、ニワトリが生きたままで連れていかれることもある。森の中の道すがら、そのへんの草などを食べさせながら引いて行く。そしてそれらの物品を市場で売って現金を手に入れ、衣服やら鍋やら石鹸やら、以前はトラックによって運ばれてきていた生活必需品を買って、また森の中の道を取って返すのである。村の中に建てた私の家から見ていると、背負子を持った人々が、日に何人も東の方に向かって歩き過ぎるのが見える。

写真2. 荷物を背負って歩く

コンゴ写真02

私は、この森を突っ切っての交易に、一度付いて歩いてみたいと夢想していた。しかし考えてみると、私の体力でまともに一緒に歩き通せるとはとても思えない。足手まといになるだけだろう。途中で怪我をしたり病気になっても大変だ。そんなわけで、彼方のキサンガニの市場に、思いを馳せるだけだったのである。

2013年に、私の所属する大学院に高村伸吾君が入学してきた。彼は入学前、キンシャサでコンゴの人たちに日本語を教えるプロジェクトに携わっており、キサンガニからコンゴ川をカヌーで下った経験を持っていた。現地語であるリンガラ語も喋れる。最初はワンバに連れてきてみたが、村の中での細かい調査よりも、広域を歩き回る方が向いているように感じられた。

そこで、彼と一緒にワンバからキサンガニ方面に行き、交易の目的地である市場を見てみることにしたのである。もちろん歩いては無理なので、2台のバイクで運転手を雇って行くことになった。バイクならかろうじて、昔の自動車道路沿いに走ることができる。ただし道は相当遠回りになり、約500kmの行程である。バイクで行ったことのある人に、入念に道の様子を聞き、また経験を積んだ優秀な運転手を雇った。

道中は予想どおり大変だった。近くに村のない森の中の道を走っていると、嵐に吹き倒された大木が道を塞いでいる。昔なら道路整備の重機が片付けたのだろうが、今は巨木を避けて道の方が迂回するのである。われわれはバイクを降りて歩き、運転手はモトクロスのように道なき道を走る。何度も川にぶつかるが、まともな橋が架かっているところはほとんどない。

浅い川はバイクで突っ込んで渡り、われわれは靴を脱いでざばざばと水に入る。深い川では近くの村人たちが待ち構えていて、バイクを神輿のようにかついで渡してくれる。もちろんお礼は相応に払わねばならない。かろうじて丸木が一本橋の形で渡っているところはバイクを押しながらそろそろと渡すのだが、バランスを崩して水に落ちそうになることもしばしばである(写真3)。

写真3. バイクを渡す

コンゴ写真03

途中の小さな町で2泊し、3日目の午後、ワンバの村人たちがよく口にしていたヤフィラの市場に着く。近づいてまず聞こえてきたのは、籠もったエンジンの音だった。市場の入り口付近に、近くに住むトポケの人たちが作った米を籾摺り・精米している小屋 (rizerie) が立ち並んでおり(写真4)、米が一杯に詰まった大きな袋が並べられていた。

写真4. 精米小屋(撮影:高村伸吾)

コンゴ写真04

着いた日はちょうど、週1回の市日にあたっており、市場はゆらめくような熱気に包まれていた。近所のおばちゃんたちが持ってくる野菜や芋、ヤシアブラ、ワンバからも来ているであろう蒸留酒などの地元産品から、洋服、鍋、靴、薬、ラジカセといった工業製品まで、この地域で手に入るありとあらゆる品物が、数百メートルにわたって続く店々に並べられている(写真5)。

写真5. ヤフィラ市場(撮影:高村伸吾)

コンゴ写真05

人混みはかき分けて通り抜けるのが難しいほどだ。市場の向こう側の道を下るとロマミ川の川辺に出るが、そこには数百艘の丸木舟が集まっていた(写真6)。川を伝って商品を運んで来ているのだ。この日は知り合いには会わなかったが、別の市日にこの市場を訪れると、ワンバ地域の若者が「キムラサン!」「ダイジ!」などと声をかけてきた。彼らはたしかに、森を抜けてここまで来ている。

写真6. ロマミ川の川辺(撮影:高村伸吾)

コンゴ写真06

この後、高村君はヤフィラの近くの町イサンギに拠点を構え、この地域の市場のシステムを調査することになった。キサンガニ西部の80以上の市場をすべて訪れ、その規模や売っている商品、いつ開設されたかなどをひとつひとつ調べていくという過酷な調査だが、それによって、内戦によって崩壊した流通ネットワークがどのような形で再生してきているかが徐々に明らかになりつつある。

この旅で、ワンバ地域からヤフィラまでの長距離徒歩交易の道筋が、自分で歩いたわけではないがリアルなものとして見えてきた。しかし彼らは実際、どのようなルートで、そしてどのぐらいのスピードで森の中を歩いているのだろうか。何とかそれを知りたいと思い、次の年の調査で、ある方法を試してみることにした。ヤフィラに歩いていく若者にGPSを持参してもらい、村に帰ってきたときに回収してルートのデータを分析するのである。

私が家を建てているヤリサンガ村で、一番実直で信頼できるディヤマン氏にその仕事を頼み、前払いに5万コンゴフラン(約5000円)を渡し、データが回収できたあかつきにはさらに5万フラン払うという約束をした。依頼した直後に私はフィールドを後にしたが、ワンバに滞在して調査をしていた大学院生の横塚彩さんにGPSを回収してもらい、後に日本で無事に入手することができた。そこから取り出したデータが図2である。

図2. 徒歩交易の道筋 (Takamura 2015 より引用)

コンゴ図03

ディヤマン氏らは9月14日から10日かけてヤフィラに着き、帰りは5日ほどで村に帰り着いている。森の中の道にもかかわらず、直線的な行程になっているのが印象的である。長い年月の間に最短距離のルートが選ばれたのだろうか。行きは重い荷物を背負っているので行程がはかどらないが、帰りは荷物が軽いので早く歩けるのだという。帰りは“butu, moi, butu, moi”「夜も昼も、夜も昼も」歩き続けたと言っていた。このGPS調査は、今後、別のいくつかの地域からも試みるつもりである。

このように、書けばあっさりと書ける長距離徒歩交易だが、それが実際過酷なものであることは繰り返すまでもない。私たちにいろいろな村の知識を教えてくれるパパ・エドワールが語った、“Ezali mpasi, mpasi mingi monsieur” 「それは大変な、とても大変なことなんだよ、ムッシュー」という言葉が耳に残っている。それでも彼らは懸命に、生活のための交易路を作り上げてきたのである。今後のこの国の社会経済情勢の変化の中で、この異常とも言える形態が消滅していくのかどうか、私にはまだ読みきれないでいる。

また、交易品としての蒸留酒や干し肉の増産が、ワンバ地域の生態にも影響を与えつつあり、その影響の評価は、私が現在もらっている科学研究費の中心的なテーマでもある。そこでは、地域の生態(ecology)と広域的な経済(economy)を接合して見ることを試みているわけだが、両者がeco (ギリシャ語でοικος「家」の意)という言葉でつながっているのは、単なる語呂合わせではない。双方が、自分の棲まう場所(つまり「家」)と、そのまわりの「環境」の関係を考える、という意味で同じ志向性をもっているのである。私は元来、生態人類学を基礎とした研究をおこなってきたが、長距離徒歩交易に出会うことによって、地域の生態と広域の経済を接続して考える必要性に、いまさらながら気づかされたのである。

コンゴは現在、再び騒乱への瀬戸際に立っている。東部の戦闘状態は収まる気配を見せていない。2011年に再選されたカビラ大統領は、2期以上は務められず2016年末で任期満了のはずだが、大統領選挙の用意ができてないことを理由に、いまだその職に居座っている。反政府側との緊張状態が続いており、それが引き金になり再び内戦が起こったら、せっかく回復しかけている国内流通もまた元の木阿弥になってしまうだろう。われわれの調査も継続できるかどうか危うくなってくる。

こういった、コンゴの現代史という巨大な流れの中で、私自身が何ほどの役割を果たすことができるか心許ないが、ともあれ、多くの人にこの状況を知ってもらおうと、この記事を書いた次第である。

参考文献

Kimura, D. (ed.) 2015. Present Situation and Future Prospects of Nutrition Acquisition in African Tropical Forest. African Study Monographs Supplement Issue 51. (http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/asm/suppl/asm_s51.html)

Takamura, S. 2015. Reorganizing the Distribution System in Post-conflict Society: A Study on Orientale Province, the Democratic Republic of the Congo. In: Kimura, D. (ed.) Present Situation and Future Prospects of Nutrition Acquisition in African Tropical Forest. African Study Monographs Supplement Issue 51.

(http://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/kiroku/asm_suppl/abstracts/pdf/ASM_s51/04%20Takamura.pdf)

プロフィール

木村大治人類学・アフリカ地域研究

京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。理学博士。京都大学大学院理学研究科博士課程修了後、福井大学助教授、京都大学助教授などを経て現職。アフリカ熱帯林の農耕民、狩猟採集民の研究を進めている。主著に『共在感覚 -アフリカの二つの社会における言語的相互行為から』(2003年、京都大学学術出版会)、主編書に『森棲みの生態誌 -アフリカ熱帯林の人・自然・歴史 I』、『森棲みの社会誌 -アフリカ熱帯林の人・自然・歴史 II』(2010年、京都大学学術出版会)がある。

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