クルド人の誇る古都マハーバードへの旅

シリーズ「クルド人の風景」では、日本で報道が少ないクルド地域について、毎月専門家がやさしく解説していきます。(協力:クルド問題研究会)

 

 

はじめに

 

全世界に約2500万から3500万人の人口を擁するとされるクルド人は、トルコに約1,500万人、イランに580万~830万人、イラクに570万~760万人、シリアに150万~200万人、欧米に100万人以上が暮らす。

 

2016年11月7-11日に、クルド系住民が多く居住するイラン北西部の西アゼルバイジャン州とクルディスタン州を訪問した。イラクとの国境に近いこの地域では、反体制派クルド系武装組織とイラン治安当局との間で銃撃戦が散発的に発生してきたため、外国人の訪問は場所によっては難しく、16年前に訪問を断念した経緯があった。

 

今回は、イランの関係機関から訪問の許可を取得し、万全の体制で臨んだところ、州政府や県庁から、上にも下にも置かない予想外の大歓迎を受けることとなった。断り切れない熱いクルド流「おもてなし」のおかげで、行く先々にお役所からの案内(兼お目付け役?)数名が常に随行する大名行列となってしまったのである。

 

 

悲劇ではなく、ネオンに彩られた町

 

マハーバードと言えば、イランだけではなく、イラク、トルコ、シリア、そして遥かヨーロッパに住むクルド人にとっても、特別に思い入れのある町である。それは、1946年1月22日に、クルド民族が歴史上唯一の独立国「クルディスタン共和国(マハーバード共和国)」を樹立させた地であるからに他ならない。

 

しかし、1946年4月に後ろ盾のソ連政府が、石油利権と引き換えに軍隊を撤退させたため、マハーバード共和国は、12月14日にイラン政府軍の猛攻によって瓦解した。1947年3月31日に大統領のガーズィー・モハンマドを始めとする「イラン・クルディスタン民主党」(Kurdish Democratic Party of Iran: KDPI、現在の正式英語名称はDemocratic Party of Iranian Kurdistan)のリーダー多数が処刑された。

 

イランで反体制運動が高揚した1970年代末に、KDPIはクルド人の地位向上を期待して革命運動に参加した。しかし、1979年2月に樹立された革命政権で主導権を握ったホメイニー師をリーダーとするイスラーム勢力は、マイノリティの権利よりも、国家の統合を優先させた。

 

折しも、1980年9月にイラク軍がイランに侵攻し、イラン・イラク戦争が開始すると、KDPIとイラクの関係を疑うイスラーム革命防衛隊(Islamic Revolutionary Guard Corps: IRGC)は、クルド人活動家への弾圧を強化し、ついには武力衝突に至った。船戸与一著『砂のクロニクル』(1994年)では、イラン革命とクルドの武装蜂起によって引き裂かれたクルド民族の悲劇の舞台として、マハーバードが描かれている。

 

ところが、11月7日の夜8時頃に町に到着すると、ネオンが輝き、電化製品や家具を販売する新しく大きな商店やショッピングセンターが立ち並び、予想以上に明るくて景気がよさそうなのである。

 

2006年から2013年まで続いた国際的な経済制裁下で、アラブ首長国連邦やトルコから輸入された外国製品が、イランのクルディスタン地方に大量に流入するようになった。その中には米軍侵攻後のイラク国内の混乱を利用して税関を通さず、馬やロバ、時には「クールバル」と呼ばれる荷担ぎ人夫がイラクとイランを隔てる険しい山を越えて運んだ密輸品もかなりある。

 

こうした密輸品をさばくための市場が、サルダシュト、バーネ、マリーヴァーン、サッケズといったイラク国境からほど近い町に形成された。中国、タイ、マレーシア、韓国、日本、トルコで製造された密輸品は、関税を払っておらず、正規品の半額ほどで買える。携帯電話、ビデオ機材、オーディオ機器、家電製品、台所用品、家具、薬品、化粧品、食料、自動車部品、アクセサリー、洋服、靴、装飾品など、ありとあらゆる商品が各種ブランドを取り揃えて、バーネのショッピングセンターに並ぶようになった。

 

偽ブランドや不良品を掴まされることもある。それでも、経済制裁下で入手しにくくなった外国製品を安価に入手したい消費者が、イラン各地からはるばる国境の町に押し寄せることが一時社会現象となった。

 

イランには、花嫁の実家が家電製品や台所用品、家具など、ジャヒーズィーエと呼ばれる嫁入れ道具一切を用意する習慣がある。通常、花婿は新居や自動車などを準備して、花嫁と嫁入り道具を待つ。家財道具一式を購入するとなると、かなりの出費となるので、密輸品天国への買い物ツアーが流行したのである。

 

マハーバードは、イラクとの国境の町のピーランシャフルからわずか80キロメートル、サルダシュトから120キロで、バーネからも160キロの地点に位置する。古くからこの地の政治や商業の中心として栄えたマハーバードの市民も、国境貿易や密貿易で相当潤ったのであろう。

 

マハーバードから郊外の村に行く丘を抜ける曲がりくねった道をさらに行くと、ピーランシャフルに至り、そしてイラク・クルディスタン地域政府(Kurdistan Regional Government: KRG)の首都アルビルまで167キロメートル、わずか4~5時間で到着するとのこと。毎日、マハーバードからアルビル行のバスが出ていて、簡単に国境を越えて、買い物に行ったり、親族に会いに行ったりできるようである。

 

 

老朽化したボーイング機での恐怖のフライト体験

 

マハーバード到着より8時間前に、私たち一行は初めて訪問するクルドの古都に向けて胸を弾ませ、テヘランのメフラバード空港からイラン航空ウルミエ行きのフライトに乗り込んだ。定刻より少し遅れて、飛行機が動き始めた。10メートルほど進んだところで、突如停止し、それから何の説明もないまま待たされること30分。なぜか機内が蒸し暑くなり、体調不良を訴えるおばあさんに、怒鳴り出すビジネスマン風の男性、キレる化粧の濃い中年女性。機内の騒ぎに対し、無頓着なフライトアテンダントの対応により不安が増す。

 

ようやく冷房が入り、騒ぐのに疲れた人々が機内食のサンドイッチを食べ始め、機内にあきらめムードが漂ったところに、再度、出発のアナウンスが流れ、数十メートル滑走したところで、再び停止。革命前に購入した老朽化したボーイング機の故障が、今度こそ致命傷に至ったのではないか、と不安になり、心底、飛行機から降りたくなった。

 

それからさらに1時間近く待たされて、ようやく離陸した時には、機内から安堵とも、あきらめともつかぬ溜息が一斉に漏れた。イランの飛行機は、この40年間だましだまし整備しつつ、パイロットの高等技術でなんとか運航してきたが、それも限界にきて、この数年、かなりの頻度でイラン国内外で墜落している。私は、もう日本には再び帰れないかもしれないと覚悟を決めた。

 

2015年7月にイランと国連安保理5か国及びドイツ(P5+1)は、イランの核開発活動を制限する代わりに核関連の制裁を解除するという内容の核合意を締結した。それを受け、イランは37年ぶりに旅客機を購入できることになった。イラン側の切実な熱望と世界的な航空機需要の減少を打開したい航空機メーカー側の思惑が重なり、2016年1月の制裁解除後、欧州エアバス社及びボーイング社とイラン航空の大型契約が成立した。しかし、そこに待ったがかかった。

 

アメリカは、テロ支援や人権侵害、ミサイル計画など、核関連以外の独自制裁をイランに依然として課しており、それに抵触するとの横やりが米財務当局や米国議会から入ったのだ。結局、イラン核合意を「外交的遺産(レガシー)」としたいオバマ政権の働きかけにより、2016年9月に米財務省は、軍事転用や他国への売却移転の禁止を条件に、米ボーイング機と欧州エアバス機の対イラン輸出を許可した。2016年12月22日に、エアバス社はイラン航空と旅客機100機の売却契約を確定させ、2017年1月17日に最初の旅客機A320がテヘランのメフラバード空港に到着した。

 

2016年12月11日に、ボーイング社も、取引総額166億米ドル(約1兆9600億円)に上る旅客機80機をイラン航空に販売する正式契約を締結し、2018年に最初の機体がイラン側に引き渡される見通しである。同社は、イランとの取引に否定的なトランプ政権や議会多数派の共和党議員に対し、「世界で同社の航空機販売は減っており、イランへの販売中止は大きな打撃であり、イラン向けの機材製造の就業者人口は10万人に達する」と主張し、契約履行を推し進めていこうとしている(注1)。

 

私は、世界各地でひどい飛行機に乗った体験があるが、今回がもっとも死を身近に感じたフライトであった。トランプ政権や米議会共和党議員は、人権侵害やテロ支援を理由に、イランへの航空機販売を妨害しようとしているが、ここまで老朽化した飛行機に乗り続けるのは、もはや人権侵害というか、アメリカによって「死と隣り合わせの旅」を強制されているかのようである。トランプ大統領には、超豪華自家用ジェット機の代わりに、是非ともこの40年もののボーイング機でスリル満点の空の旅を味わってほしいものである。

 

運命をともにしているためか、機内にはいつしか連帯ムードが醸し出された。私も隣に座った小学校元教師の女性やウルミエ大学の女子大生とお菓子を交換したり、飛行機の恐怖や仕事や家族の話から、ウルミエ湖の塩害問題までおしゃべりをしたりした。ウルミエに到着する2時間後にはすっかり仲良くなり、二人と別れるのが少し名残り惜しいような気すらした。

 

前述のように、ウルミエ空港で待ち受けていたイラン外務省職員とイスラーム文化指導省の儀典係の強い主張で、フライトが大幅に遅れ、マハーバード到着が夜の8時を過ぎていたにもかかわらず、人気のない真っ暗な県庁を訪れるはめになった。副県知事以下、県のお歴々がマハーバード県をあげて私たちを歓迎するために待ち構えているというのだ。

 

入れ違いにホテルに行ってしまっていた副県知事一行を待つこと数十分、ようやく副県知事室に案内された。テーブルの上の皿に山盛りに積み上げられた果物かごから、地元産フルーツのおいしさを強調する副知事の強い勧めに従って、りんごやきゅうりをとり、ナイフで皮をむきながら、県の情勢についての1時間にわたるブリーフを受けた。確かにきゅうりは瑞々しく、リンゴは甘酸っぱくておいしい。

 

副県知事はテヘランの有名大学で教育学博士号を修めたなかなかの知識人で、明治の初等教育拡充策や、JICAによるウルミエ湖の環境支援プロジェクトを高く評価する発言で、日本への敬意を示してみせた。

 

マハーバード県の人口は、約25万人で10分の7がクルド系で、残りはアゼリー系の住民が住み、主な産業は、農業や農産加工業、石油化学工業で、中国、ギリシア、ロシア企業から投資を受けているという。県都のマハーバード市に所在するアーザード大学は、約13,000人の大学生を擁し、46の学科で博士号を出し、パヤーメ・ヌール大学の通信過程を受講している学生もおり、識字率は90%以上に上る教育都市とのこと。

 

その昔、アゼルバイジャン地方の中心都市タブリーズには、ガージャール朝ペルシア(1796-1925年)第二の都が置かれ、オスマン朝(1299-1922年)やロシア帝国との交易や往来の拠点として栄えた。イギリス、フランス、ロシアやトルコの領事館やミッション・スクールが開設されたタブリーズやウルミエなどの地域の主要都市は、外国人や外国の文物があふれる「文明の窓口」となった。イラン北西部の都市には、今でも教育と文化の伝統が息づいている。

 

また、マハーバードは、西アゼルバイジャン州では、ウルミエ、ホイに次ぐ人口を持つ都市として、政府の開発プロジェクトの重点地域でもあり、近郊の鉱山開発が有望産業と見られている。失業率の高さが悩みの種であるが、ロウハーニー政権によるクルディスタン地域重視の発言に期待を寄せているようであった。

 

同市ではNGO活動が盛んで、ウルミエに次いで多くのNGOが、環境問題や、女性や孤児、貧困過程の支援など社会問題解決に取り組んでいるそうである。1997年から2005年までのハータミー政権期には、イスラーム体制の枠内での民主化を目指す「イスラーム市民社会」の理念の下、市民によるNGO活動が奨励された。しかし、2005年に就任したアフマディーネジャード大統領の下では、NGOは、欧米から資金援助を受けるスパイとの扱いを受け、監視や弾圧の対象とされるようになった。ロウハーニー政権になってから再び活発化したNGO活動への許可は、マハーバード県庁の市民活動課によって出され、支援がされているという。

 

 

噂のスター(ターラー)ホテル

 

ようやく熱い歓迎から解放されてホテルに向かった。町一番の四つ星高級ホテルのスター(ターラー、ターラーはペルシア語で星の意味)ホテルは、2年前に建設されたばかりで、扉にかざすだけで鍵が開く最新式のカードキーのシステムを持ち、インターネットの接続速度はテヘランより速く、不必要に明るいネオンが表玄関を飾り、地方都市のホテルに不釣り合いなほど豪華な造りになっていた。

 

実は、このホテルに宿泊することをとても楽しみにしていた。2015年5月に、マハーバード市出身の女性従業員が、スター・ホテルの4階から転落し、不可解な死を遂げるという事件が起きた。事件直後に、女性は治安関係者とみられる男の手から逃れるために身投げしたという噂が流れ、怒った若者たちがホテル前で抗議活動を始め、ホテルの一部が焼失するという事態に発展した。別の報道では、ホテルの支配人がこの女性とホテルの宿泊客との密通を、女性の家族に伝えたために起きた悲劇であるとされており、真相は不明なまま、当局が火消しに努め、事態は沈静化した。

 

その時、当局の担当者として、事件の説明と抗議者への説得にあたったラードファル副県知事は「マハーバードは、2015年3月21日のノウルーズ(新年)には、10万人近くの観光客が訪れたように、近年、投資や観光客を惹きつけてきたが、スター・ホテル前での暴動事件は、同市の治安の不安定さを印象付け、評判を落とす大きな要因になりうる」として嘆き、マハーバード市民や、暴動に加わった若者、その家族、街の有力者に対し、「イスラーム体制に敵意をもつKDPIやマルクス主義を掲げるイラン・クルド労働者革命組織( Revolutionary Organization of the Kurdish Toilers of Iran: Komala)といった反革命分子に若者たちが扇動され、取り込まれることのないよう説得してほしい」と述べ、治安関係者によるクルド女性への暴行という噂の出所がクルドの反体制派組織であることを暗に示す発言を行っている(注2)。

 

事件の渦中にいたホテルのオーナーは、こちらの期待通りヤクザ映画の悪役スターとして出演できそうな凄みのある人相であった。イラン中央政府、イラク・クルディスタン地域政府、マハーバードの治安当局やイラクとの密貿易に群がる人々と対等に渡り合ってビジネスを続けるには、相当な気合と迫力がないとできないと確信したのであった。数年前までの密輸マーケット行きの客の波が一段落したためか、ホテル内は閑散としていた。半ば期待していた劇的な事件は特に起きることもなく、比較的良いサービスを受け、2日後にはホテルを後にした。

 

 

山の向こうの対「イスラーム国(Islamic State: IS)」戦

 

副知事が、若者の間に広がるクルドの武装組織の影響に懸念を示しているが、近年、KDPIのイランへの越境攻撃や軍事活動が頻繁に報道されるようになっている。1979年に非合法化されたKDPIは、イスラーム体制に対する武装蜂起に失敗し、1984年には拠点をイランからイラクに移すことを余儀なくされた。

 

KDPIは、イラン政府との良好な関係維持に腐心するイラク「クルディスタン民主党」(Kurdistan Democratic Party: KDP)との緊張関係に加え、内部分裂や、Komalaを含む他のイラン出身のクルド人組織との対立にも悩まされた。1989年には、党首のアブドゥルラフマン・ガーセムルーがイラン中央政府との和解交渉の最中にウィーンで暗殺され、KDPIは人気が高く政治力に長けたリーダーを失って大きな打撃を被った。

 

1997年以降、「全てのイラン人のためのイラン」を掲げる、改革派のモハンマド・ハータミー大統領の下で自由化の兆しが訪れると、イスラーム体制の枠内でクルドの文化的権利の向上を目指す運動が起きた。イラン在住のクルド系知識人によって様々な出版物が発行され、雨後の筍のように次々と現れたクルド人の文化団体や文学組織の活動が活発化した。ラジオや機関誌で国境の向こうから発される組織政党の勇ましいスローガンは、イラン・クルドの実情と離れて次第に空疎化し、人気の低下に拍車がかかった。

 

この時期、トルコの「クルディスタン労働者党」(Partiya Karkerên Kurdistan: PKK)が、イラン支部「クルディスタン自由生命党」(Parti Jiyani Azadi Kurdistan: PJAK)を設立した。このPJAKにハータミー政権期に文化活動を担い、アフマディーネジャード政権下で挫折した若者たちの一部が参加し、イラン、トルコ、イラクの国境をまたがるカンディール山脈を本拠地として武装闘争を開始するようになった。2005年に120名のイランの治安関係者がPJAKに殺害されたとの報道もあるほど、PJAKとイランの治安部隊の間で激しい戦闘が続いたが、2011年にPJAKとイラン政府は停戦協定を締結した。

 

PJAKの華々しい武装闘争の陰で、KDPIの影は薄くなっていたが、ISの登場が組織の再武装化の転機となった。2015年5月頃の報道では、PKKの拠点カンディール山脈で、PKKの発砲により、KDPI要員2名が死亡し、数名が負傷する事件が起きた。KDPIは、従来、カンディール山脈を通ってイランに入る際には、PKKに通行許可をとっていたが、独自の拠点を築き始めたため、PKKが阻止行動に出たという経緯のようである。

 

カンディール山脈はイラク領土内にあるが、ほぼPKKの独立地帯であり、他の組織やイラク・クルディスタン地域政府軍すら入ってこれない聖域(サンクチュアリ)と化している。サッダーム・フセイン時代にはイラクのペシュメルガがこの地帯を拠点としており、1980年代には、KDPIを含むイラン・クルドの反体制組織が、イラン・イスラーム共和国政府攻撃への出撃基地としていた。

 

1990年代以降KDPIは、アルビル東部のコイサンジャクに拠点を移し、イラク・クルディスタン地域政府の命令により、対イラン軍事作戦を控えていた。その空白を埋めるかのように、PKK傘下のイラン・クルド組織PJAKが、カンディール山脈を拠点にイラン政府に対する軍事活動を活発化させた。IS掃討作戦でのPKKの活躍により、イランのクルド青年たちの間でその人気が高まり、ISからの攻撃に苦しむシリアやイラクのクルド同胞を救いたいとPJAK志願者が急増した。

 

イラクやシリアでの対IS作戦には、PKKのみならず、KDPIを含め多くのイラン・クルドのペシュメルガも参加した。2014年から開始した米主導の有志国によるクルド戦闘員の軍事訓練には、厳密な選考が行われず、一説にはイラン・クルドの反イスラーム体制組織の要員が参加したと言われる。KDPIによる軍事活動の再開の背景は、PJAK人気への焦りと、対IS戦参加を通してつけた自信がのぞく。

 

2016年6月15日に、ウルミエ近郊のオシュナヴィーエでのKDPIのペシュメルガとIRGCの戦闘が発生し、6月25日には、KDPIの発祥地であるマハーバードで、IRGCがKDPIと交戦したと報道されている。2016年9月19日にインタビューに答えたKDPI党首モスタファ・ヘジュリーは、同党のペシュメルガは、イラン・クルディスタンで政府軍との武装闘争に入ったと明言した。

 

彼は「イラン・クルディスタンの人民の間に入って、希望と鼓舞を与えつつ、イラン・イスラーム共和国軍との新しい闘争段階に入った。20年間近く、イラク・クルディスタンを拠点としてきたKDPIは武装闘争から遠ざかっていたが、イラン政府軍がペシュメルガのイランとイラクの往来を妨害したため、武装闘争をせざるをえなくなった」とその動機を説明している。

 

いくつかのイラン・クルディスタンの市民活動家や政治組織は、同党の新戦略のために、当局の監視が強化され、市民活動が制限されるようになるとして非難しているとされる。また、イラン治安当局もKDPIがサウジアラビアから資金援助を受けていると懸念を示している。へジュリー自身もイスラエル政府を含む外国政府との接触の事実を認めている。KDPIの突然の武装行動の背景には、核合意や対IS戦で中東地域で存在感を強めるイランを警戒するサウジアラビアやイスラエルの影が見え隠れする。

 

11月8日は終日、マハーバード市内を視察した。報道とは異なり、市内は拍子抜けするほど平穏である。国境を隔てて約240キロメートル先にあるモスルでのISとイラク政府軍の激しい戦闘の影響は全く感じられず、警察や軍の姿も見当たらず、市内中心部の公園にダブダブズボンのクルドの伝統衣装を着たおじいさんたちが集まって、木陰に座って談笑したりしている様子がうかがえた。「乙女の園」ならぬ「おじいさんの園」である。

 

街の中心(マハーバード共和国が宣言された場所)には、八百屋や乾物屋、パン屋など日常生活品から洋服、携帯ショップなど様々な業種の店が立ち並んでいた。歩いている人は男性が多く、私たち一行を物珍しそうに眺める視線が気になったが、街路樹の繁る通りは、散歩するのに楽しく、それなりに活気があった。

 

 

サファヴィー朝期にマハーバードの太守であったボダーグ・ソルタン(1641-1690)の霊廟の敷地内の木陰で、老人たちがバックギャモンのようなゲームをしていて、牧歌的である(筆者撮影)。

サファヴィー朝期にマハーバードの太守であったボダーグ・ソルタン(1641-1690)の霊廟の敷地内の木陰で、老人たちがバックギャモンのようなゲームをしていて、牧歌的である(筆者撮影)。

マハーバード市の中心部(筆者撮影)

マハーバード市の中心部(筆者撮影)

クルド風のパン(筆者撮影)

クルド風のパン(筆者撮影)

 

 

初めてなのに懐かしい場所

 

「サルチャーム!サルチャーム!」(クルド語でこんにちは)。賑やかな声がしたかと思うと、気づいたら、すでに色とりどりのクルドの衣装を着た女たちに囲まれ、抱き寄せられて頬ずりをされていた。マハーバードの郊外にあるキャフリーゼ・シェイハーン村での出来事である。「農村が見たい」という同行者のIさんの突然の要望を、マハーバード県副知事室は重く受け止め、私たち一行を副知事の運転手さんの実家に恭しく案内してくれた。

 

A先生は、村長宅の男性部屋に連れて行かれた。後で聞いた話によると、男性部屋には、イラク・クルドの伝説的英雄、モッラー・ムスタファ・バルザーニーと村の男たちの記念写真が飾ってあったそうだ。1946年、マハーバードに亡命中であったKDPの党首バルザーニーとその三千人の軍団は、マハーバード共和国の樹立を援け、中央政府軍に対峙した。辛くも敗れ、迫りくる追手から逃れ、雪の山脈を越えてソ連に亡命し、11年後にイラクに帰還する、有名なバルザーニー軍団の逃避行への旅路はこの地から始まったのである。

 

他方、私とIさんは、女性と子供だけのサロンに手を引かれ、好奇心に満ちた十数の瞳に取り囲まれた。Iさんの発案で、お互いに自己紹介をし合うことになった。若い娘たちは、マリヤム、シャーフナーズ(太陽の恵み)、セターレ(星)など、美しい顔に似合った綺羅星のような素敵な名前ばかりであるのに対し、運転手のお母さんにあたる家の女主人は、エンテハー(終わり)で、その親戚の女性の名前はバッセ(もうたくさん)。

 

現在50から60代の女性たちの名前は、産児制限をせず、子沢山の家庭が多かった時代の名残なのであろう。当時、戦前の日本と同じようにイランでも、貴重な労働力であり、家系を継ぐ男子が尊重されていたため、3人目か4人目の女子には、「これで終わり」や「もうたくさん」という気持ちを込めて、日本で言えば「末子」という名を親がつける習慣があった。

 

イランでは、1966年の女性一人当たりの出生率は、7.7人であったが、1976年に6名に微減し、革命後の多産奨励策により、1980年には再び7名に増加した。イラン・イラク戦争後の産児制限策の普及もあり、1995年に出生率は2.8人に激減し、2011年には1.8人と先進国並みに減少した。

 

2016年の調査によれば、マハーバードの出生率は2.3人である。大学入学比率も、1976年に女子は全大学生の約三割であったが、2006年には男子を凌駕し、51%を占めるようになった。1990年代以降に生まれた娘たちの世代は、キャフリザー・シェイフハーン村のような農村地帯でも出生率が低下し、生まれた女子に美しい名前をつけ、女子も男子と同様に大切に育て、運転手さんの二人の姉妹のように大学までの高等教育を受けさせるようになったようである。

 

 

山の牧草地から家路に就く牛の群れ(筆者撮影)

山の牧草地から家路に就く牛の群れ(筆者撮影)

村で唯一の小学校(筆者撮影)

村で唯一の小学校(筆者撮影)

 

 

復権するマハーバードの勇者たち

 

2016年8月にマハーバード出身の詩人、ヘームンことセイイェド・モハンマド・シェイホルエスラーム・モクリーの自宅が、文化遺産庁管轄下の文学館に改装されてオープンした。1921年に生まれたクルドを代表する詩人は、10代後半の多感な時期に同い年で学友のアブドゥル・ラフマーン・シャラフカンディー(ペンネームはハジャール)らとともに、秘密の文学サークルを作り、密かにクルドの詩を学んでいた。英国の委任統治下でクルド語の出版がある程度許容されていたイラクから、クルド語出版物を密かに持ち込み、仲間内で読み合っていたのである。

 

「そこは愛国主義の空気に包まれた、青年たちの秘密の隠れ家だった。そこで私はザビーヒー、ラスーリー・ミーカーイーリー・クズルジー、ナーナワーザーダ、イーラーヒー、サイーディーらと知己を得た」とヘームンは当時を回想している(注3)。1925年に即位したパフラヴィー朝第一代国王レザー・シャーは、近代的な中央集権国家の成立を目指し、クルド人に対し、公的な場でのクルド語の使用を禁止するイラン同化政策や、強制移住や土地の没収等で定住化を推進し、伝統的な部族の紐帯の解体を試みた。秘密の文学サークルは、国王の政策へのクルド青年たちによるささやかな抵抗であった。

 

ヘームンとハジャールが二十歳の時に、連合国軍の圧力で、レザー・シャーが強制退位に追い込まれ、イラン南部には英国軍が進駐し、アゼルバイジャン地方やクルディスタン地方、カスピ海沿岸などイランの北西部は、ソ連軍の占領下に置かれた。第二次世界大戦中のクルディスタン地域には、レザー・シャーの独裁体制から一転して解放的な雰囲気が漂っていた。

 

そんな時、イラクに拠点を置くクルド・ナショナリスト組織のメンバーがマハーバードを訪れ、ザビーヒーやヘームンの文学サークルに接触してきた。クルドの国境を越えた連帯を説くイラク在住のクルド人ナショナリストの働きかけを受け、1942年にザビーヒ―が中心となって、彼らは秘密結社「クルディスタン復興委員会(通称コマラ)」をマハーバードで結成した。

 

当初、コマラは、主にクルド語やクルド文化の印刷・出版を通した啓蒙活動を行い、クルド人の教育とイラン中央政府や外国勢力、そして部族長や宗教指導者など封建的支配者からの精神的・社会的解放を目指した。組織の発足後まもなく発刊されたクルド語の詩集は、人々から熱狂的に迎えられ、イランのみならず、イラクにおいても広く読まれた。文字の読める者が読めない者たちに、クルド人の誇りと故郷への愛を歌い上げた彼らの詩を語って聞かせたという。コマラの人気を取りこむ形で、元々のメンバーに部族の有力者や宗教学者など伝統的な指導層が加わって、KDPIが1945年に結成された。

 

KDPI 党首のガーズィー・モハンマドは、1946年にソ連の庇護の下、マハーバード共和国を樹立し、初代大統領に就任した。ガーズィー・モハンマドに可愛がられていたヘームンとハジャールは、新共和国の桂冠詩人に任じられた。ヘームンは首相のハージー・バーバー・シャイフの秘書官も務めた。文学館には、クルドの民族衣装に刀や銃で武装した詩人とその仲間たちの誇らしげな写真が展示されていた。

 

ソ連軍の撤退とともにマハーバード共和国が、1946年末に崩壊すると、ヘームンは国境を越えてイラクのソレイマニエに亡命するが、彼の地で逮捕された。その後密かに、故郷のラーチン村に戻り、潜んでいたが、1970年にバクダードに移り、ハジャールと再会し、クルド科学アカデミーの一員として文学活動に勤しんだ。そして、1979年の革命後に、再びイランに戻り、ウルミエでクルド語の出版社を設立し、クルド語の文化誌を編集して1986年まで終生を過ごした(注4)。 

 

親友のハジャールは、ヘームン以上に波乱の人生を送った。マハーバード共和国瓦解後、ブーカーンの刑務所に収監されたハジャールは、移送中にイラクへ逃亡した。1961年から75年までイラクで続いたモッラー・モスタファ・バルザーニー率いる蜂起に参加し、クルドの民を鼓舞するためにラジオ放送とKDP公式機関誌編集の責任を負った。

 

ハジャールの詩は、会話体に近いクルド語のモクリー方言で書かれたが、他の地域のクルド人にも理解できるよう各地のクルド語方言や共通に理解できる言葉を使うことで、クルドの文化的統一を果たそうとした彼の悲願の結晶でもあった。彼の詩は、虐げられた者の圧政者への抵抗の権利を擁護し、クルドの民の置かれた苦境は、無知蒙昧に甘んじてきた自らの責任も一因しているとして、自省と勇気を促す詩で多くのクルド人に愛された。

 

1970年の休戦協定により、ハジャールはバクダードに居を移し、ヘームンに合流してクルド語・文化活動に献身した。1975年にクルド蜂起が鎮圧されると、詩人はイランに帰還し、テヘラン近郊のキャラジでクルド語の研究とアラビア語作品のペルシア語翻訳に没頭した。その間、彼は『クルド語=ペルシア語辞書』の編纂とイブン・スィーナーの『医学典範』五巻の全訳を成し遂げ、クルド文学のみならず、ペルシア文学界の功労者として認められている(注5)。

 

文学館の案内には、ヘームンたちがガーズィー・モハンマドに従って、マハーバード共和国建国に参加したことが、堂々と書かれていた。現政権下では、マハーバード共和国の歴史は、クルド・ナショナリズムを煽るとしてタブー視されてきた過去とは異なり、イラン全体の歴史の一幕としてある程度許容されつつあるように感じた。

 

案内役の市役所の役人たち(アゼリー系)は、我々の活動を注視しつつも、マハーバードの歴史やクルドの歴史に関心を持ったり、本を購入することに特段警戒を持っている様子ではなかった。

 

旧市街の一角にあるヘームン邸文学館を出ると、すっかり日が暮れ、泥壁の続く伝統的な家々の間の狭い小路をオレンジ色の光が柔らかな光を投げかけていた。月明かりの下、この小路を歩きながら文学談義や共和国建国の理想に燃えたかつての詩人や志士たちの姿が浮かび上がってくるようであった。 

 

マハーバードは、地方都市でありながらも、何もない田舎町ではなく、豊かな水と緑に覆われ、イランやイラク、トルコでも敬愛されている偉大な文学者や音楽家を輩出した古都としての味わい深いところであることが判明した。人々の暮らしはのんびりとしているが、けして貧しくはなく、文化と歴史、そして国境を越えた外国からの香りがそこここに漂う懐かしい佇まいの都市であった。

 

 

マハーバード市内を流れる川(筆者撮影)

マハーバード市内を流れる川(筆者撮影)

旧市街にあるヘームン文学館近くの小路(筆者撮影)

旧市街にあるヘームン文学館近くの小路(筆者撮影)

 

 

(注1)2016年9月25日付CNN.co.jp報道「米、イランへの旅客機売却を承認:ボーイングとエアバス」 http://www.cnn.co.jp/business/35089493.html, accessed on 29 September, 2016. 2016年12月17日付CNN.co.jp報道「米ボーイングがイランに80機売却 国交断絶後で最大の契約」http://www.cnn.co.jp/business/35093902.html, accessed January 20, 2017.

(注2)2015年05月08日付 Jam-e Jam紙「マハーバード出身の若い女性がホテルで死亡した事件の舞台裏と、その後(4)」『日本語で読む中東メディア』東京外国語大学発行(http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20150525_235539.html, accessed January 20, 2017)。

(注3)山口昭彦「第2次大戦期イランにおけるクルド・ナショナリズム運動-クルディスターン復興委員会の活動とその限界-」『日本中東学会年報』第9号、1994年、37-65頁。

(注4)Joyce Blau, “Hemin Mokriāni,” Encyclopaedia Iranica, 2003.

(注5)Keith Hitchins, “Hažār,” Encyclopaedia Iranica, 2012.

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.222 特集:沖縄

・仲村清司氏インタビュー「変わる沖縄——失われる心と『沖縄問題』」

・宮城大蔵「静かに深まる危機——沖縄基地問題の二〇年」

・北村毅「戦争の『犠牲』のリアリティー:当事者不在の政治の行く末にあるもの」

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