2011.06.13

ソチ・オリンピックを見据えた北コーカサスリゾート計画と欧米の動き

廣瀬陽子 国際政治 / 旧ソ連地域研究

国際 #プーチン#ソチ・オリンピック#北コーカサスリゾート計画#ガスパイプライン#ガスプロム

ソチ・オリンピックと北コーカサスでのリゾート計画

2014年の冬季オリンピック開催地となったソチ。ロシアのクラスノダール地方にあるソチは、黒海に面した著名な保養地である。温暖な気候で、豊かな果物や海産物に恵まれ、コーカサス山脈を望む美しい砂浜を有し、冬はスキーも楽しめる。温泉もあり、多くの療養施設もある。ソ連時代から現在にいたるまで、多くの人々がリゾートを楽しんできたし、ソ連やロシアの著名な指導者たちの別荘も多く存在している。

そんなソチでは、オリンピックを見据え、『オリンピック実行プロジェクト』および『山岳リゾート・ソチ開発プロジェクト』が進められている。前者はオリンピック開催に向け、オリンピック会場を建設したり、世界からの選手や応援団、観光客の来訪に備えたさまざまな施設を建設・整備したりするもの。後者はもっと長いスパンで、ソチおよび周辺の北コーカサス地域を冬のリゾート地として、本格的に開発することを目的としている。どちらにとっても重要なのは、インフラ整備と住民の生活の質向上である。

「ジュブガ―ラザレフスキー―ソチ」ガスパイプライン

2011年6月7日、「ジュブガ―ラザレフスキー―ソチ」ガスパイプラインが開通した。上記ふたつのプロジェクトの一環として、2009年9月末、ロシアの半国営ガス会社「ガスプロム」が、アドレルスク熱併用型(コジェネレーション型)発電所の建設と同時に着手したものである。パイプラインは171.6キロメートルで、黒海海底の天然ガスを黒海沿岸のトゥアプセ、ラザレフスキー地方、ソチなどに輸送する。

約25万人が居住するといわれる黒海沿岸地域の人口密集地帯は、ガス、電力がつねに不足しており、これまで一般世帯には電力制限がなされていた。このパイプラインの開通で、年間を通じ一般家庭にも高品質のガスと電力を安定供給できるようになり、オリンピックを控えたソチにも大量のエネルギー供給が可能となった。これにより当地の住民の生活の安定と雇用の創出、そして経済発展が期待されている。また、アドゥレルスク熱併用型発電所はオリンピック公園のインフラ全体に電力を供給する予定である。

開通式には、ウラディミル・プーチン首相とガスプロムのアレクセイ・ミレルCEOが参加し、両氏はこのパイプラインの意義と可能性を強調した。そして、プーチン首相が開通のボタンを押したのであった。

「ジュブガ―ラザレフスキー―ソチ」ガスパイプライン (出典 ガスプロムHP http://www.gazprom.com/production/projects/pipelines/dls/)

フランスも協力へ

そして、『山岳リゾート・ソチ開発プロジェクト』にはフランスが協力することとなった。フランスのドービルで開催された主要8カ国首脳会議(G8サミット)の折、ロシアのドミトリ・メドベージェフ大統領とフランスのニコラ・サルコジ仏大統領で合意されたという(5月26日)。

以前に拙稿「ロシア政権が恐れる北コーカサス問題と民主化ドミノ」(http://webronza.asahi.com/synodos/2011041100001.html)でも簡単にふれたが、北コーカサスではテロが横行しており、その状況は悪化の一途を辿っている。ロシア政府は、少なくとも3~4年以内に北コーカサスの状況を改善することは不可能だと考えている。不安定化の背景には貧困と住民の生活難がある。そのためロシア政府は、ソチ・オリンピックと連動させながら、北コーカサスにスキー場や観光施設を建設し、地域の発展と雇用創出、ひいては市民生活の安定を達成したいと企図しているわけだ。

しかし、課題は山積している。市民生活の質や人権状況が劣悪なだけでなく、当地のホテルはインフラやサービスも含め低品質なものばかりであり、イスラームの信仰のゆえに飲酒の習慣が基本的にない場所が多いなど、伝統的な生活スタイルが観光にそぐわない部分が多々あるからだ。そこで、ロシア政府はリゾート先進国であるフランスに以前から協力を求めていた。

実際に支援を担うのはフランス預金供託公庫(Caisse des Depots et Consignations)銀行である。当行は1816年に設立され、最古の国営銀行といわれており、インフラプロジェクト財政や年金の資金マネジメントで有名だ。

だが、本件は、経済問題というより政治問題となっている。最近、ミストラル級強襲揚陸艦の購入や共同建造の契約が進んでいるなど(ロシアがNATO加盟国から武器・兵器を購入するのは初)、ロシアとフランスの関係が深まっているが、ロシアとしてはソチ・オリンピック成功のために、ソチや周辺地域の開発にフランスなど大国のお墨付きを得ておきたいということがある。またフランスとしては、ロシアでのビジネスからイギリス、ドイツを占め出せるという利点がある。

米国も支援

また、イスラーム過激派やテロリストの動向であるが、この問題は当然、プロジェクトとも関連してくる。たとえば、北コーカサスに位置するカバルディノ・バルカルの武装派は、ロシア政府による開発計画は地元のイスラーム教徒たちにとって不幸であり、阻止すべきものだと主張している。

そのようななかでロシアにとって力強い援軍が名乗り出た。米国である。米国務省は5月26日、北コーカサスを拠点とする独立派イスラーム武装勢力である「コーカサス首長国」をテロ組織だと認定。指導者のドク・ウマロフ司令官の所在に関する情報提供者に対し、500万ドルの報奨金を出すと発表したのだ。

米国はなぜ、今回の行動に出たのだろうか。明確な理由は明らかになっていないが、2013年のロシア大統領選挙を見据えての決定だという見解は広く共有されている。欧米はプーチン首相が大統領に返り咲くよりも、メドヴェージェフ大統領が続投する方が望ましいと考えているといわれている。ロシア政府がもっとも手を焼いている北コーカサス問題が好転すれば、メドヴェージェフ大統領の立場を強化するというわけだ。

ロシア政府は今回の米国の決定を歓迎する声明を出した。ウマロフは今年1月24日に発生したドモジェドボロシア国際空港テロ事件で犯行声明を出しているほか、ロシアでのテロを広範に呼びかけており、ロシアにとっては大きな不安定要因となっている。米国の今回の決定は、ロシアにとってはソチ・オリンピックならびに北コーカサス開発を成功に導くための大きなバックアップとなることは間違いない。ロシアは5月27日に、リビアのカダフィー大佐の退陣に向け交渉を開始したことを明らかにしたが、それは米国への返礼とも考えられている。

とはいえ、米国の今回の決定が北コーカサスの安定にどれだけの影響力をもつのかはまったく未知数であり、むしろほとんど効果をもたないというようなネガティブな見解の方が多くみられる。それでも、米国の決定がロシア政府への政治的支援となったことは間違いなく、北コーカサスのテロリスト問題が、米露間の駆け引きの材料になっているといえるだろう。

交錯する利害関係

2014年のオリンピックが近づくなか、ソチでの建設準備は予定より遅れているという説も根強く、また本稿では紙幅の関係で触れなかったが、チェルケス人問題やグルジアファクターなど危険要因もあり、政権が抱える課題はじつに大きい。そのようななかでの、「ジュブガ―ラザレフスキー―ソチ」ガスパイプラインの開通、フランスの『山岳リゾート・ソチ開発プロジェクト』への協力、そして米国のテロ対策への協力は、ロシア政府にとってはきわめて嬉しい材料である。

だが、そうした動きの背景に、各国政府の思惑が絡んでいることも、また本稿で明らかになったことと思う。ロシアはソチ・オリンピックの開催と北コーカサスの安定という内政的課題の解決を、『オリンピック実行プロジェクト』および『山岳リゾート・ソチ開発プロジェクト』によって一挙に解決しようとする一方、プロジェクトと外交とを絡めてより有利かつ安定的な状況をつくりだそうとしている。他方、フランスとアメリカもそれに乗じるかたちで、自らの外交ポジションを高めようとしている。

つまり、ソチ・オリンピックと北コーカサス問題はロシアならびに欧米諸国の「外交カード」になっている。北コーカサス問題は、これまでロシアの内政問題である感が強かった。しかし、ソチ・オリンピックが近づくにつれて、その戦略的意義と諸外国の関心が高まることは間違いなく、今後、北コーカサスはロシアと欧米の利害が交錯する地となっていくといえそうだ。

推薦図書

本コーナーで2回目の紹介となってしまって大変恐縮であるが、2014年のソチ・オリンピックのことにも、北コーカサス問題についても触れている拙著の新書二冊が、今回の記事を読み解く上でやはり参考になるかと思い、拙著を選んだ。そもそも、プーチン首相が大統領時代に「自分がオリンピック時に大統領に返り咲いている」ことを思い願って、ソチ・オリンピックを肝いりで誘致したにもかかわらず、本記事で論じたように、欧米はメドヴェージェフの続投を望みながら、北コーカサスの安定化や発展に協力しているというのが皮肉である。そのような理解を助けるためにも、いま一度、コーカサスを総合的に理解することを勧めたい。

プロフィール

廣瀬陽子国際政治 / 旧ソ連地域研究

1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。

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