2016.12.07

紙切れや包装紙に詩を書いて――障害者の自己表現は自由でハッピーなのか?

障害者文化論・荒井裕樹先生インタビュー

情報 #障害者文化論#教養入門#高校生のための教養入門

2020年の東京パラリンピックを前にして、障害者アートに注目が集まっています。「世間の価値観にとらわれない自由な自己表現」が魅力だと言われる障害者アート。その歴史を紐解くと、社会の偏見を乗り越え、内面化しながら、表現せざるを得ない人々がいました。学部選択に悩む高校生に、最先端の学問をお届けする「高校生のための教養入門」。今回は、ハンセン病療養所で生まれた文学作品や、精神科病院のアート活動を研究している荒井裕樹先生にお話をうかがいました。(聞き手・構成/山本菜々子)

障害者が文化をつくっていく

――荒井先生のご専門はなんでしょうか。

「障害者文化論」と名乗っています。でも、こういった名前の講座が大学にあるわけではありません。「障害をもつ人が文学やアートを通じて自己表現することの意味」について考えてみたいと思っているのですが、既製の学問にはあてはまるものがないので、4年くらい前から勝手に名乗りました。

障害者のことを考える学問は、「医学」や「福祉学」が中心ですよね。多くの場合、「障害者に関わることを勉強したい」という人は、まず医学・看護学・福祉学に進みます。でも、障害者が生きるフィールドは医療や福祉の世界だけじゃありません。文化や芸術に関わることもたくさんあります。

病気や障害をもっていると、生き方が制限されたり、人生の選択肢が限定されたりすることがあります。でも、そういった逆境を逆手にとって、面白いことをやったり、新しいことをやったりする人がいる。その「人のエネルギー」みたいなものに注目したいので「障害〈者〉文化論」と、「者」という一字にこだわっています。

――障害をテーマにした文学作品を扱うというよりは、障害者が生みだした自己表現にスポットを当てているのですね。興味を持ったきっかけはなんですか?

もともとは学校の教師を目指していました。高校生のときに「神戸連続児童殺傷事件」が起きて、ものすごく衝撃を受けたんです。進学先を決める時も、少年法専門の弁護士になるか、学校現場の教師になるか、悩みに悩んで教師を選びました。教師の方が「子どもたちが生きる日々の現場」に近いと思ったからです。

ですが、学部在学中に自分は学校と言う空間が苦手なことに気がつきました。「みんなと同じ課題をやる」のとか、「課題のための課題」とか無理なんです(笑)。学校が苦手な先生なんて、船に弱い漁師みたいなもんです。

――それは致命的ですね(笑)。

自分自身も、学校に馴染めなかった子どもでしたね。勉強は苦手だったし、それ以上に嫌いでした。小学生の頃は夏休みの宿題を一度も提出したことがないし、国語や算数のドリルも一冊も終わらせたことがない。小さい頃はチックの症状が激しくて、それをからかわれたりしていたから、学校は苦痛でしかない場所でした。だから、そういった生徒の気持ちを推し量れる教員になれるんじゃないかって、一時は本気で思いましたけど、やっぱり苦手なものは苦手なんですよね(笑)。それで研究職に方向転換したんです。

もともと社会問題に興味があったのですが、国語の教師になるための訓練しかしていませんから、大学院では国文学研究室に入りました。入ったゼミナールの課題で、たまたま北條民雄(1914-1937)を扱うことになったんです。北條はハンセン病という病気を患っていて、隔離された療養所で小説を書いていました。興味本位で彼がいた療養所を訪ねたことが、研究者としてのはじまりです。

その療養所で山下道輔さん(1929-2014)という方に出会いました。山下さんはご自身ハンセン病を患って12歳で療養所に入った方です。患者たちが生きた歴史を伝えるために、療養所の中で「ハンセン病図書館」を切り盛りしていました。ハンセン病の研究をする人にとっては大変な有名人です。

その山下さんが「隔離の文化」という言い方をしていたんですよね。この病気の患者たちは、社会で壮絶な差別や迫害を受けてきている。そういった経験をもつ人たちが、療養所という限られた空間で何十年と生活を共にする。そうすると、療養所のなかで独特の人間関係や生活習慣や文化風習ができあがる。それが「隔離の文化」だと。その言葉が印象的で、そういった世界を突きつめて考えたいと思ったのが「障害者文化論」の原型です。

障害者の自己表現はハッピー?

――「隔離の文化」とはどういう意味なのでしょうか。

それがよくわかるハンセン病関連の資料をいくつかお見せします。これ、なんだかわかりますか? ハンセン病療養所の中で使われていたお金です。「園券(園内通用券)」と言います。むかしのハンセン病療養所では、患者が入所するとき日本銀行券をこの園券に替えさせられたんです。1952年まで使われました。

a-2

――療養所なのに、お金が必要なんですか?

療養所といっても、みんな安静にしていたわけじゃなく、病気の軽い患者たちは園内で仕事をしたりしていました。その作業賃にも園券が使われていたんです。園内には店もありましたから、そういった買い物にも必要なんです。これは「拾銭(10銭)」と「五拾銭(50銭)」で、ブリキみたいな金属でできています。療養所や時代によって、園券にもいくつか種類があって、額の大きい紙幣もあります。

あと、患者の逃走を防止するためでもありました。だから、園券自体が患者たちの尊厳をひどく傷つけるものでもあったんです。

この園券が使われていた療養所では、2回「偽造事件」が起きた記録があります。これ、当時のことを覚えていた方から直接伺ったことがあるんですけど、園券を「遊園地の入場券」と偽って、外部の印刷所で「偽造」した患者がいたんだそうです。部屋の屋根裏に隠していたところ、職員に見つかって療養所内の監房に入れられてしまったようですが。したたかというか、なんというか……。

――……想像以上にパワフルですね。

むかしの療養所では患者への人権侵害も行われていたので、生活環境としてはひどいところだったと思います。でも、すべての患者たちが24時間365日ずっと泣いていたわけじゃない。患者同士の友情があり、愛情があり、したたかさがあり、それぞれの人生のドラマがあったんです。一色に染まらない患者像を丁寧に見ていくことが大切です。「個人」への興味関心って大事なんですよ。でないと、「どうしてこの人は療養所で生きなければならなかったのか」という、根本的な問題が見えてこない。

あと、これはなんだと思いますか?

a-1

――着物をきていますね。「絵葉書」ということですが……、歌舞伎役者のポストカードが療養所の中で人気だったとか?

そう、歌舞伎ですけど、役者をやっているのは全員ハンセン病の患者です。東京にある多磨全生園という療養所には、むかし劇場があって、患者たちが歌舞伎座を作っていました。自分たちで娯楽を生みだしていたわけです。

娯楽のない時代でしたから、療養所の外からも人が来たという話を聞いたことがあります。記録を見ると、1回の興行の入場券が2000枚くらい刷られているので、かなり大きなイベントだったようですね。それが療養所の広報用の絵はがきになっているんです。

――隔離された世界から飛び出す可能性が、文化にはあったのですね。障害者文化論の視点から作品を見る上で重視しているのはどこですか。

「その人が生きるために必要な作品を、その人自身が生みだしていく」というエネルギーみたいなものに興味があります。あと、生みだされた作品が媒介になって、その人を取り巻く周囲との関係性が変化することがあるので、そういったところも興味があります。

いじめられていたり、差別されていたりする人は、自分を表現するのが難しいんですよね。痛いことや苦しいことは、そもそも言葉になりにくい。何十年と苦しい思いをしてきた人に、「どんなご苦労があったんですか? 手短にお話しください」って言っても無理です。

それから、弱い立場にいる人が被害を訴えると報復の危険があります。だから、声を挙げることが難しい。でも、だからこそ表現したいし、せずにいられない、ということがあります。

患者たちの表現への情熱は、ぼくたちの想像を超えるものがありました。1950年代になって、患者の生活を補助する慰安金が支給されるようになったんですけど、それを注ぎ込んで文芸同人誌をつくった人たちがいました。

「そんなことしてないで衣服や食事を整えろよ」と思う方もいるかもしれません。でも、「食べること」よりも「書くこと」に情熱を傾けた人たちがいたということですね。ちなみに、その雑誌をつくった人たちは、ずっと後に「らい予防法違憲国家賠償訴訟」(2001年原告勝訴)の中心的な人物になりました。

『おねがひします鉄砲を』

――「障害者アート」には、「世間の価値観に縛られない自由な自己表現」というイメージがありますが、本当のところはどうなのでしょうか。

そんなにハッピーなことばかりじゃないですね。「自由な自己表現」という言い方は、半分はあっていて、半分あってない、という感じです。

大学院を出てポストドクターをしていた時期に、精神科病院のアトリエのお手伝いをしていたんですけど、そこで知り合った男性からこんな話を聞きました。ずっと女の子の絵を描きたいと思っていた。でも我慢していた。精神科への入院歴も通院歴もある自分が女の子の絵を描いていたら、犯罪を起こすんじゃないかと警戒されたり、心配されたりするに決まっている。だから、描くのを我慢していたというのです。

弱い立場にある人の方が「自分は社会からどう見られているか?」を意識しなければならないことが多いんです。社会の「偏見」や「イメージ」を敏感に察知して、自主規制している人は、世間一般のイメージよりはるかに多いですね。

たとえば、むかしのハンセン病患者が書いた詩を紹介します。現在では適切な表現ではない言葉も出てきます。たとえば「癩病院」の「癩」というのは「ハンセン病」を意味する当時の呼称。「支那」も中国を意味する当時の言葉です。歴史的な資料であることを考慮して、そのまま紹介します。

鉄砲 鉄砲!

機関銃 機関銃!

ひとつみんなで血書の

嘆願書をださうぢやないか!

とんできた米鬼には

支那のヘロヘロ飛行機さんには

日本のどこへきても

日本人のゐるところなら

たとへ癩病院の上空までが

かたく守られてゐるといふことを

思ひしらせてやるために――

ダ ダダ ダツ ダダダ

鉄砲を下さい!

機関銃をおさげねがひたい!

鉄砲と機関銃をおねがひします!

どうか どうか

おねがひします鉄砲を!

(三井平吉『おねがひします鉄砲を』第6連)

この詩が発表されたのは1943年10月なので、アジア・太平洋戦争の真っ直中ですね。日本の戦況が苦しくなっているころです。当時、ハンセン病療養所では患者たちの文学作品を対象にしたコンペティションがあって、この詩もそれに応募されました。

はじめて読んだときは衝撃でしたね。だって、患者が「戦争に協力させてください!」と叫んでいるわけですから。

――うーん。あの空気に同調していたのかと複雑な気持ちになります。

戦争に行けなくて肩身のせまい思いをしていた患者たちが、どんな心理状態に置かれていたかが、なんとなく想像できる詩ですよね。

当時は、戦争に協力することや、国家に奉仕することが一番価値のあることだったわけです。でも、病人や障害者は働くことができないので、そういった価値観に満ちた社会では迫害される。

社会が極端な価値観に傾斜してしまうと、その価値観に沿った生き方ができない人が迫害される。迫害された人はそれ以上いじめられないために、なんとかその価値観を身につけて、それ以上迫害されないようにしようとする。そうすると、その偏った価値観がますます正当化されていく。

この詩は、そんな「負の連鎖」の行きつくところを表していると思います。コンペティションに応募されたものですから、「こういう詩を書けば、社会の人から認めてもらえる」という意識が働いていたはずです。

当時、「戦意高揚」のための文学作品は社会にあふれていました。でも、ハンセン病療養所は隔離施設だったので、いわば「隔絶」した場所です。そういった場所でさえ、こういった風潮に染まっていた、とも言えるし、隔絶した場所だからこそ、社会の価値観が凝縮したかたちで表れてしまうことがある、とも言えます。

――社会から隔絶されているからこそ、「自由な自己表現」ができるわけではないのか。表現と社会との関係について考えさせられますね。

そういえば、以前、あるハンセン病療養所で古老のお話を聞いていた時、療養所で行われた「徴兵検査(兵隊に適した身体をしているか確かめる検査)」の話を聞かせてくれました。もう認知症がすすんでしまっていて、何を聞いても「さぁ…どうだったですかねぇ…」という感じなんですけど、5分に1回くらいの頻度で急にキリっとした顔つきになって、「あなた、お若いようですけど「徴兵検査」知ってますか!?」って、はっきりした口調になるんです。

どうやら、その人は療養所で徴兵検査を受けたようで、その時の恐怖を語るわけです。「戦争に行かされる恐怖」じゃないですよ。「“戦争に行けない人間”=“国家に奉仕できない役立たず”という烙印を押される恐怖」です。それを何度も何度も繰り返すんです。

その恐怖がどのようなものだったのかは、いまのぼくたちにはわかりません。むしろわかるような社会にしてはいけないんです。そのためにも「その恐怖は、どうすれば現在の言葉に翻訳できるのか」ということを、文学畑のぼくは考えるわけです。

「受け入れ難い」は大切

――荒井先生の研究の中で、影響を受けた方はいらっしゃいますか?

花田春兆さん(日本障害者協議会顧問)と、横田弘さん(日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」神奈川県連合会:1933-2013)ですかね。お二人とも有名な脳性マヒ者です。

花田さんはぼくの師匠ですが、俳人であり、作家であり、運動家でもあるという、様々な顔を持つ方です。

花田さんの出身校「光明学校」(現・東京都立光明特別支援学校)は、日本初の公立の肢体不自由児学校なんですけど、戦時中、空襲被害を避けるために「自主疎開」しているんです。

以前、Eテレが特番を組んだことがありますが(「戦闘配置されず~肢体不自由児たちの学童疎開~」2014年8月9日放送)、「学童疎開」って、当時の名目としては、将来の兵力や労働力を温存するために、子どもたちを空襲被害が少ない場所に「戦闘配置」するものなんです。

――疎開って危ないから子どもを「避難」させるものだと思っていました。

実態は「避難」でも、表向きは「戦闘配置」なんでしょう。だから、光明学校は「学童疎開」の対象にならなかったんです。露骨に言ってしまえば、兵力にも労働力にもなれない障害児を、わざわざ資材と人材を使って疎開させる必要なんかない、ということです。

光明学校は、職員の尽力でなんとか長野県に自力で疎開するんですけど、疎開先で軍部から校長先生に青酸カリが渡されたという話が残っています。確たる証拠があるエピソードではないらしいのですが、光明学校の疎開を経験した人たちの中ではまことしやかに伝わっていて、ぼくもそのうちのひとりから話を聞いたことがあります。そんなことがあってもまったく不思議じゃない空気感だった、ということでした。

実際、光明学校の先生たちは、障害児の教育に尽力しているという理由で「非国民」と批判されたそうです。「国家が大変なときに、役に立たない人間を手厚く扱うなんて許せない」ということだったようです。

ちなみに、花田さんって最強の天の邪鬼(あまのじゃく)なんですよ(笑)。「障害者にも文化・芸術の喜びを」という言葉が大嫌いなんです。花田さんはよく琵琶法師の話をします。いまふうの言い方をすれば「視覚障害者」の琵琶法師たちが、「平曲」(平家物語に節を付けて琵琶の伴奏で語るもの)を津々浦々に広めた。そのことで中世日本語の基盤が固まったんだと言われています。

つまり「花田春兆的歴史観」では、日本文化を1000年くらいのスパンで考えれば、文化・芸術を担ってきたのは障害者たちの方が中心だと。障害者が文化・芸術から切り離されたのは、たかだか近代に入ってからのことだし、そもそも障害者を文化・芸術から切り離したのは誰なんだ、というわけです。

――「そもそも俺たちがやってたのに、なに言ってるんだ」ということですね。横田弘さんは、お名前を聞いたことがあります。

横田さんは伝説の障害者運動家ですから、ご存じの方も多いんじゃないでしょうか。『障害者殺しの思想』という本や、原一男監督の『さようならCP』で有名な方です。横田さんは「福祉は思いやり」という発想が嫌いでしたね。もしも福祉が「思いやり」だとすると、社会状況が厳しくなってみんなが誰かのことを「思いやれない状況」になったら、まっさきに切りすてられるのは障害者です。

これも戦争体験が根っこにあるんだと思います。横田さんも「横浜大空襲」(1945年5月29日)で焼夷弾の雨を経験して、そのあと岩手県に疎開しています。あの社会状況のなかを障害者として生きた恐怖感みたいなものを、横田さんは肌感覚で知っていた。だから「思いやり」なんていうのは信じていませんでした。

1970年代は、障害者運動が最も熱く激しかった時代と言われますが、当時の運動を引っ張った障害者たちには、戦争中に辛い経験をしている人が多いんです。空襲で身内が全員亡くなっているとか、疎開先で凄惨ないじめに遭ったとか。花田春兆さんも徴兵検査を受けていて、そのときの悔しさや辛さを直接お聞きしたこともあります。当時の運動には、きっと、戦争体験が影響しているはずなんです。

横田さんたちの言動は過激でしたけど、その根っこにあるものを、きちんと掘り起こさないといけない。文学作品やアート作品だけでなく、「障害者運動」も障害者の「自己表現」の1つです。社会運動のような「人が生きようとして生み出す表現のエネルギー源」みたいなものにも、とても関心があります。

横田さんたちの運動はなんだったのか、いろいろな本が出ていますけど、なかには横田さんの主張をかなりまろやかに伝えているものがあります。でも、あの人たちが突きつけたことって、ぼくのように、一応身体がそれなりに動いて、「一般的な社会生活」をしている人間にとっては、もっと「受け入れがたい」ものを含んでいたんじゃないか。そこを「障害がある人も無い人も、同じ人間ですよね」といったような、誰も表面的には反対しないよう言い方でコーティングしてしまう人がいる。

ぼくが一番悩んだのは、横田さんの「日本国憲法」対する考え方でした。横田さんと憲法談義をした人間は、たぶん、そんなにいないと思います。横田さんは「憲法は健全者の権力者が作ったもので、障害者を守るものじゃない」と言い切られた。聞き間違いかと思って、何度か重ねてお聞きしましたけど、やっぱりそうおっしゃる。

確かに、憲法に「障害」という言葉はありません。でも、「幸福追求権」や「法の下の平等」や「基本的人権の尊重」という理念のおかげで、生きる希望をもった障害者や病者はたくさんいます。障害や病気の有無にかかわらず、ぼくたちが生きていくための拠り所です。でも、横田さんはそうおっしゃった。それが衝撃でした。横田さんの本意がどこにあったのか、いま書き下ろしで本を書いています(2017年1月頃、現代書館より刊行予定)。

――耳がいたいですね。ライターのような仕事をしていると、どうしても読者が受け入れやすいように、毒を抜いて書いてしまうんですよね。

でも、「受け入れ難い」って大事な感情なんですよ。自分はなぜこの人たちの主張を受け入れがたいのかって、考えないといけない。自分の価値観を問い直さなきゃいけない。そうじゃないと「自分に都合のいい相手」や「こちらが悩まなくても済む相手」だけを受け入れる、ということになってしまいます。

学際性とはなにか?

――障害者文化論は、障害者研究と文学との学際性のある学問ですよね。

「学際」って、最近あちこちで聞く言葉ですけど、たとえば文学研究畑のぼくが、自分の論文に社会学や歴史学の文献を引用すれば、それがすぐに「学際的研究」になる、というわけではないと思います。

ぼくなりの言い方をすると、「学際」というのは「現場を共有すること」だと思います。まずはひとつの学問の考え方やフォーマットを身体になじませる。その学問を意識して、「なにか問題が起きている現場」に立ってみる。そのとき、自分にはなにができて、なにができないのか、悩むことが大事です。

ぼくにとってはじめての「現場」はハンセン病療養所でした。国家賠償請求訴訟の直後だったので、医者だけじゃなく、政治家、弁護士、学者、ジャーナリスト、ボランティア、そういったいろいろな人たちが療養所に足を運んでいました。

そういった人たちに混じって「文学研究者である自分が言えることはなにか」を考えると、当然、言葉にできることも、言葉にできないことも、いろいろとあるわけです。自分が身につけた学問の常識では、言葉にできないことがたくさんある。その経験をもとに、自分のなかの「常識」を少しずつ変えていかなければならない。そのための試行錯誤が「学際」ということなんだと思います。

ぼくが最初に直面したのは、「文学研究とは、有名な作家、有名な作品を扱う研究である」という常識の壁です。社会の片隅でひっそりと暮らしていた、本名も生没年もわからない患者たちが書いた詩や小説を語る言葉がなかった。

療養所には、むかしの患者たちの文学作品が残っていました。みんな貧しかったので、原稿用紙なんて貴重品です。ただの紙切れとか、薬包紙とか、そういったものに詩や俳句なんかが書きつけられているんです。

でも、そういった文学作品は文学研究の論文にはなりにくい。目の前に「文学作品」があるのに、それを「研究対象」にできない「研究」ってなんなんだ!って、ずいぶんと悩みました。

――なんでも屋になるのではなく、「文学研究者」をより意識することが「学際」なのですね。

世界の成り立ちは、大学のなかにある講座の数より複雑です。だから、まずは一つの学問を学んでみて、それをすこしずつチューニングアップしていけばいい。ぼくは文学とかアートといった「表現」という観点から、障害者のことを考える自分なりの学問をつくりたいと思ったので、自分がトレーニングを受けた文学研究に手を加えて、「障害者文化論」というものを提案しているわけです。

――「障害者文化論」ってなんの役に立つの? と言われたとき、荒井さんはどう答えますか。

この社会には、自分のことを表現することが難しい人たちいて、それでも懸命に生みだされた表現がある。まずはそれを知るだけでも意味があると思います。苦しいときに表現できるすべがあること、苦しいときにも表現してきた人がいること、そういったことを知るだけでも、自分が生きていく上でのヒントになると思います。

それに「役に立つ」というのは、結構あやうい言葉だと思います。この社会が「弱い人」たちに対して冷たい社会だったとしたら、ぼくはその社会の「役に立ちたい」とは思いません。実際、戦時中には「役に立たない」とされた人たちが、ああいった境遇にあったわけですから。

むしろ、文学とかアートとかって、「役に立つ/役に立たない」といった価値観自体を揺さぶるものであるはずです。だから、高校生たちには、「役に立つか、役に立たないか」という表面的で短期的な観点で、「学びたい学問」の幅をせばめないでほしいと思います。

arai

高校生におすすめの5冊

 北條民雄(作家:1914-37年)は、19歳でハンセン病を発症して療養所に隔離収容され、24歳という若さで亡くなりました。代表作「いのちの初夜」は、北條が療養所に収容された日の衝撃的な体験をもとにした私小説的な中編作品です。人間は、受け入れがたい出来事(北條の場合は「ハンセン病の発病」)を、どのように受け容れていくのか。その葛藤の軌跡が描かれた重厚な一篇です。本作は「青空文庫」で読めます。オンデマンド版も販売されています。

 

戦後の障害者運動史で、重要で画期的な出来事(例えば「青い芝の会の結成」「障害者団体定期刊行物協会の発足」「国際障害者年(1981年)の取り組み」など)の裏では、この人がフル回転で動いていました。障害者運動の大物フィクサーです。本書は花田さんの半生記ですが、単なる「自伝」に留まりません。重度障害者にとって、「昭和」という時代や社会がどのような問題を抱えていたのかについて語られています。語り口も軽妙です。

障害者運動の中で「最も過激」と言われたのが「日本脳性マヒ者協会青い芝の会」です。横田弘さん(1933-2013年)は、その団体の精神的支柱となった「行動綱領」を書いた人物です。「善意」「愛」「正義」という言葉で包み隠された「障害者殺しの思想」を、重度障害者の立場から、熱く鋭く告発していきます。歯に衣着せぬ言い回しに戸惑うかもしれませんが、じっくりと読み、しっかりと考えれば、実は「単純で当たり前なこと」を言っていることに気がつくと思います。

エイブル・アート・ジャパン編『“癒し”としての自己表現――精神病院での芸術活動、安彦講平と表現者たちの34年の軌跡』2001年

http://tanpoposhop.cart.fc2.com/ca34/27/p-r34-s/

安彦さんは、約半世紀にわたって、精神科病院の中で〈造形教室〉を主宰している美術家です。最近では「アートセラピー」や「芸術療法」といった言葉も珍しくなくなりましたが、そんな言葉が一般には知られてさえいない時代から、造形活動を続けてきました。私は安彦さんが主宰する〈造形教室〉の皆さんから「心の病は“治す”のではなく“癒す”ことが大事なのだ」ということを学びました。アートに興味を持つ人にはぜひ手にとってほしい一冊です。

 

最後に、自分の本で恐縮ですが1冊紹介します。〈造形教室〉の活動を紹介した本です。時々「アート(自己表現)って、癒しに繋がるよね」なんてことを言う人がいますが、そもそも「アート(自己表現)」が人を「癒す」って、具体的にはどういうことなのでしょうか。そのことについて、ゼロから考えてみたのがこの本です。

プロフィール

荒井裕樹日本近現代文学 / 障害者文化論

2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。

この執筆者の記事