2013.10.21

過去を生きた人びとに寄り添って――「島」から学ぶ、歴史社会学

社会学者・石原俊氏インタビュー

情報 #教養入門#歴史社会学#小笠原諸島

「歴史社会学」という学問をご存知ですか? 「歴史学? 社会学? いったいどっちなの?」と疑問に思う方も少なくないかもしれません。今回の「高校生のための教養入門」は社会学者の石原俊先生に、ご専門である歴史社会学についてお話を伺いました。なんだか難しそうな雰囲気の漂う「歴史社会学」。石原先生が歴史社会学にのめり込むきっかけとなったのは、かつては忘れられていたという、ある「島」との出会いでした。(聞き手/金子昂、構成/倉住亮多)

社会学のルーツは歴史社会学にあり!?

―― 歴史社会学とはどんな学問なのでしょうか?

歴史社会学は、社会学のおおもとになる分野だと私は思っています。社会学の歴史は、だいたい150年程度しかありません。政治経済学や歴史学などに続くかたちで19世紀に社会学が誕生しました。社会学は、いわゆる「近代」と呼ばれる社会を、自己反省的に見る学問として誕生したと私は考えています。

日本の学校における歴史の学習は、基本的にたくさんの暗記労働をこなした人間がいい大学への切符を手に入れるという、非常に悪名高いものです(笑)。中学校や高校の先生たちも、ほんとうはそんな暗記労働などさせたくないでしょうけど、こうした受験制度のために、大学以前の学校で歴史学を含む社会科学の研究成果を学ぶ機会はほとんどない状態です。そのため高校生はきっと「近代」という言葉を、事件や年号を覚える時期区分の道具として“覚えている”と思います。「明治維新からアジア太平洋戦争までの時期を『近代』と呼ぶ」と。

しかし社会科学における「近代」は、時期区分ではなく、ものごとを包括的、普遍的に捉えるための理論的な概念なんです。そして社会学が対象とするこの「近代」には、非常に強いメカニズムを備えた制度や装置が存在することが特徴です。「近代」とは、それらの制度や装置の複合体に、人類史上始めて世界中の人びとが巻き込まれていってしまった時代だと言えます。この観点からみれば、現代社会でも「近代」は継続中です。

―― 「非常に強いメカニズムを備えた制度や装置」とは?

たとえば資本主義とか国民国家とか、あるいは官僚制であるとか、学校制度、医療・福祉制度などといったものを思い浮かべることができるのではないかと思います。そうした非常に強い力をもった制度の複合体に、人びとがグローバルな規模で巻き込まれてしまう、そういう時代が「近代」であるということですね。

そうした近代におけるさまざまな制度や装置のメカニズムを明らかにし、また、そのなかで人びとがどのように生活しているのかを明らかにするのが、社会学のもともとの問題意識であったように思います。

ここで勘の良い人はわかると思うんですけれども、そうした意味で社会学は、歴史的な考え方とは無縁ではいられません。そうした意味で社会学は、近代というものを歴史社会学的に捉える学問として誕生したとさえ言えるかもしれません。

過去を生きた人びとの視点から

―― 社会学そのものが歴史的な考え方を必要とする学問であるという話ですが、それでは一般的な社会学と歴史社会学の相違点はどこにあるんでしょうか?

たとえば経済学だと、貨幣や資本をめぐる現象に焦点が絞られています。あるいは政治学であれば、国家組織、国際機構やさまざまな政治集団を対象としています。このようにそれぞれかなりはっきりとした対象があるわけですよね。

一方、社会学は「なんでもあり」というところがあり、研究の対象とするものを「◯◯社会学」というかたちで規定します。たとえば、都市社会学、産業社会学、家族社会学、ジェンダーの社会学、医療社会学など、さまざまなものがあって、そうしたものをまとめて「連字符社会学」と呼ぶんです。連字符というのはハイフンのことで、たとえば「都市−社会学」のように、対象とする領域と「社会学」をハイフンで結んだかたちに表記できるところから来ています。

これらの連字符社会学は、都市にせよ、産業にせよ、家族にせよ、近代的な制度を扱っていますから、そもそも歴史社会学的な発想をもっている。では連字符社会学と歴史社会学はどこが違うかというと、それらの連字符社会学が歴史的な側面を扱うときは、どうしても研究者が生きている同時代の視点から、過去のことがらのなかの都合のいいところだけを拾ってきたりする場合が、全部とはいいませんが、少なくないんですね。それは歴史学ではなく社会学と名乗っている以上、仕方ないといえば仕方ないのですが。

一方で歴史社会学は、過去の人びとの歴史的経験の意味というものを、現在の観点から一方的に評価するのではなく、できるだけ同時代を生きた人びとにとっての意識や実践の意味に焦点をあてて見ていきます。過去の眼に寄り添って現在の社会をみていくことで、現在の眼からみた過去のステレオタイプなイメージを問い直していこうとする、そういうところが他の連字符社会学とは少し違うと思います。

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ウェーバーの歴史社会学的発想

―― 連字符社会学は現在の視点から見ていくのに対して、歴史社会学は過去に内在した視点で見ていくと。具体的にはどのような視点なのでしょうか?

最もメジャーな社会学の大家として、マックス・ウェーバーがいます。ウェーバーは近代国家や近代法、あるいは近代的な官僚制のメカニズムを明らかにしたほか、そこに巻き込まれて生きている人びとの意識構造や生活様式などを、西洋社会の数百年の歴史的経験を踏まえながら分析した、歴史社会学の開祖の一人です。

ウェーバーの歴史社会学的発想というのは、非常に壮大でダイナミックなもので、たとえばウェーバーは、近代社会の「法による支配」のあり方は合法的支配だということを言ったんですけれども、このときに一般的な合法的支配のイメージをひっくり返すようなことをやってしまうわけです。

―― 一般的な合法的支配のイメージはどんなものだったのでしょうか。

一般的な法による支配のイメージは、たとえば正義による支配や、理性による支配といったものだと思いますが、ウェーバーはそうは言わないんです。ウェーバーは「法律や規則に基づいて、支配をおこなう権限を与えられた者が、さまざまな命令権を発動する。そうしたことが正当であると人びとが信仰している社会こそが、近代社会である」と言うんですね。

ちなみにウェーバーは、前近代社会の支配様式を「伝統的支配」と呼んでいます。伝統的支配とはウェーバーによると、昔から継続してきた伝統的な秩序、あるいはそうした伝統的な秩序によって権威を与えられた人間による支配が正当であるという信仰に基づいた支配のことです。

たとえば宗教的な権威者であったり、王権であったり、地域の首長であったり、そういう人びとが支配をおこなうことが正当であると人びとが信仰している、これが伝統的支配であると言ったんです。けれどもウェーバーは、近代の合法的支配も相変わらず、人びとの信仰がもとになっていると指摘するんです。

近代社会のど真ん中で無自覚に生きている多くの人びとは、法による支配、合法的な支配というものは、理性や正義による支配だと思い込んでいたわけですから、これが信仰の問題だというウェーバーの議論は、非常にショックを与えるようなものの見方だったんです。

やはりウェーバーは、歴史社会学的な発想があったからこそ、そういうものの見方ができたのだと思います。

「近代」が問い直された時代

―― 石原先生が歴史社会学に興味を持ったきっかけはなんですか?

あまり自分のことを語るのは得意じゃないですが(笑)、私は1990年代の前半に大学に入学しました。学部生のときはちょうど「戦後50年」をめぐる知的雰囲気があったんです。90年代初めに米ソ冷戦体制が一応崩壊して、その体制下で封印されてきたものがワーっと、日本や東アジア諸地域からあふれ出てきていました。「近代とはなんだったのか?」「戦争とはなんだったのか?」「戦後とはなんだったのか?」といったことが改めて問い直された時代でしたね。

そうしたなかで、歴史学はもちろんのこと、歴史社会学のような歴史的な視点を持つ社会学でも、冷戦体制下の知的枠組み、イデオロギーの対立から自由になろうとする雰囲気がすごく強かったですね。そうした知的雰囲気のなかで、たとえば「植民地帝国」という言葉だとか、あるいは「総力戦体制」という言葉とか、「ポストコロニアル」などという言葉がさかんに言われるようになった。

―― そういった言葉を耳にしているうちに、気がついたら歴史社会学に興味を持っていたと。

そうですね。学部生の頃は歴史社会学を研究していくんだという意識はあまりなかったですが、結果的にそうした日本や東アジアという文脈のなかで、近代や文明というものを根本的・根源的に問うという、ラディカルな歴史社会学の潮流というものに、意識せずにシンクロしていたんだと、いま振り返ると感じますね。

沖縄から歴史社会学へ

―― 大学院に入る頃には、歴史社会学の研究にターゲットを絞られていたんでしょうか?

そうでもないんですよ。

私は卒業論文で、米軍占領下の沖縄について書きました。地上戦後の沖縄は、冷戦体制もとで米軍の軍政下に置かれ、基地が次々と建設されていました。そうしたなかで1960年代、「全沖縄軍労働組合(全軍労)」という沖縄住民の米軍基地労働者の労働組合ができ、当時の沖縄の社会運動のなかで非常にラディカルな動きをみせていました。当時の全軍労の運動を中心に、1960年代沖縄の社会運動をめぐる状況について、無謀にも取り上げようとしたんですね。

私が学部生だった1995年、沖縄で小学生が海兵隊員に集団レイプされて、非常に大規模な抗議行動が起こりました。その抗議行動と連動する形で、学者出身の大田昌秀知事が米軍基地を2015年までに撤去するというアクションプランを打ち立てたんですね。これは今ではほとんど忘れられていて、まもなく2015年になろうとしていますが……。

大田知事が打ち立てたプランは、もちろん先のレイプ事件への抗議行動の高まりが背景にあったわけですが、日本の近代化のなかで構造的な差別を受けてきた沖縄をめぐる状況を変えていくんだという、「戦後50年」と米ソ冷戦体制の終結を意識した行動だったわけです。沖縄が日本の総力戦で地上戦に使われて「捨て石」にされ、戦後に日本が独立して復興していくなかで米軍に譲り渡され、第二の「捨て石」にされた。近代以降の日本・東アジアのなかで幾重にも「捨て石」にされてきた、その構造を少しでも変えなさいというメッセージだったんです。

私も、そうした社会状況の影響を無意識に受けていたんでしょうね。そういう、かなり具体的なところから、歴史社会学に入っていきました。

新たな「島」との出会い

―― 研究対象がたまたま歴史社会学的なものだったということなんですね。

そうなんです。卒業論文は意外と書いていて楽しくて、なんとなしに大学院に進学してしまいました。ただ、沖縄の研究をそのまま続けていくかに関しては、もちろん自分の実力不足もありましたが、はたして性格的に向いているのかという問題もあって、すごく大きな迷いがありました。さらに、そもそも大学院に入ってはみたけれど、研究者としてやっていけるのかどうかという自信もなくしてしまい、修士論文も気が進まないなかで書いていましたね。

このまま留年してどこか就職でも探そうかななどと考えながら、沖縄の戦後の軍事占領下のことについて調べていたときに、たまたま小笠原諸島の父島でも、日本軍は沖縄と同じように地上戦をやるつもりだったと知ったんです。

そこで、小笠原諸島の戦時中や敗戦後の状況について書かれた論文や資料を入手して読んでみたんですね。むろん、小笠原諸島の南にある硫黄島で地上戦がおこなわれたこと、敗戦後は小笠原諸島・硫黄諸島(火山列島)が沖縄と同様に米軍占領下に置かれていたことは、私も知っていました。でも、小笠原諸島の住民たちが強いられた、ただならぬ「戦争経験」や「戦後経験」について、初めて知ることも多かった。小笠原諸島って、今でこそ世界自然遺産登録で非常に有名になりましたけれども、20世紀のちょうど終わり頃って、ほんとうに「忘れられた島」だったんですよ(笑)。

ただ、この時点ではまだ、小笠原諸島について本格的に研究しようとは思っていなくて、なかば興味本位で資料を集めていたんですけれども、調べているうちに、小笠原諸島の200年間の社会史を正面から扱った研究は、歴史学でも社会学でもほとんど発表されていないことに気がついたんです。また、早いうちに現地に行って話を聞いておかないと、戦前・戦中に生きていた人たちの記憶が失われてしまうだろうとも感じました。じっさい、私がお話を聴かせていただいた方がたも、いまでは半数以上の方が亡くなってしまっています。

こういう状況のなかで、だったらちょっと研究してみようかなと、ちょっと調べてみようかなと思ったわけです。そしたら博士課程に進学する気力が湧いてきまして(笑)、まだその時は博士論文のテーマにするつもりまではなかったんですけれども、とりあえずこれやってみようかと。それで、博士課程に進学して調べ始めてみたんです。そしたらまあ面白かったんですね、これが。ちなみにこの博士論文をもとに『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』(平凡社、2007年)という本を書きました。

―― 小笠原諸島について研究していくうちに気がついたことについてお話いただけますか?

そうですね。やや後づけ的な言い方ですが、歴史社会学の根源的な問いである、近代とはなにか、つまり主権国家や国民国家とはなにか、あるいは近代的な市場や資本主義とはなにか、近代的な法とはなにかといった、そういうベーシックな問いに対する解答が、この島の歴史経験には非常にラディカルな形で表れているなと、調べていくうちに気づいたんです。

それで本格的に研究してみようという気になって、実はもうそのときはすでに博士課程の2年生くらいだったんですけれども(笑)、それでやっと博士論文をこのテーマで書こうという決心がついたんです。

グローバリゼーションの最前線は最底辺!?

―― 石原先生は小笠原諸島だけでなくいろいろな島について研究されていますが、やはり小笠原諸島がきっかけで「島」の虜になったんですか?

小笠原諸島って近代とともに歴史が始まる場所なんですよ。いわゆる前近代的な伝統社会が存在していない場所で、すべての住民が移住者なんです。もともとは無人島で、江戸時代には「無人島(ぶにんしま、ぶにんじま)」と呼ばれていました。真偽は不明ですが、その「ぶにん」が訛って、英語名の「Bonin Islands(ボニン・アイランズ)」になったという説もあります。

19世紀は、海のグローバリゼーションのフロンティアが大西洋から太平洋に移った時代なんですね。当時、太平洋では捕鯨船が行き来していて、絶滅しそうなほどクジラを獲りまくっていたんです。そこから鯨油を採取して、その鯨油がもたらす富がアメリカの資本主義勃興の蓄積に貢献したというのは有名な話です。だから、やや誤解を恐れずにいえば、当時のグローバリゼーションの最前線は捕鯨船だったんですね。

しかし、その最前線は同時に最底辺でもあって、捕鯨船の水夫っていうのは当時のグローバリゼーションのなかでは、最も劣悪な環境にある労働者だったんです。ハーマン・メルヴィルの小説『白鯨(モービィ・ディック)』やジョン万次郎の航海記などでも有名ですけど、捕鯨船はだいたい3、4年のあいだ、太平洋を中心に海上をぐるぐる周ってから、アメリカの東海岸に戻ってくるので、とにかくしょっちゅういろんなところに寄港するんです。でも、日本内地は幕藩体制下にあって寄港できなかったので、小笠原諸島が北太平洋の寄港地として発達したんですね。

日本の幕末にあたる1830年頃、気候が温暖なので、ここで家畜を育てたり、野菜を作ったりして捕鯨船と取引すれば、夢のような生活ができるんじゃないかと考えたらしく、小笠原諸島の父島に初めて入植者が住みつきました。最初は30人ほどでした。ここには、アメリカ人であったり、イギリスなどのヨーロッパ人であったり、あるいはハワイの先住民であったり、いろいろなルーツの人たちが混じっていました。その後、捕鯨船から逃げたり、捕鯨船から置き去りにされたりした、世界中にルーツをもつ人たちが次々に上陸してきて、かれらが最初の住民になっていくんです。

―― ということは、小笠原諸島の歴史を調べていくうちに、アメリカやイギリスなど捕鯨船を出していた他の国の資料も調べなきゃいけないことになりますね。

ええ、捕鯨船・捕鯨業関係の資料は随分読みましたね。

小笠原諸島という場所自体が、19世紀当時のグローバリゼーションの最前線だったんですね。それで、最前線であると同時に最底辺でもある捕鯨船の労働現場に耐えられなくなった人たちが逃れてきたり、一時的に休息したりするような、退避地であり自主管理領域(アジール)だったんです。

このように、小笠原諸島は近代世界のグローバリゼーションのなかで、非常にユニークな位置にある島々なわけです。そのような島々を、明治維新直後の近代日本国家が併合していく。そして、この島々にアジールというべき場を作っていた先住者は、日本国民として帰化させられていく。小笠原諸島は、世界市場や主権国家・国民国家や近代法といったさまざまな近代的な制度の力が、非常に露骨な形でガツンと表れる、またそれゆえに、わたしたちが常識だと思い込んでいるいろいろな近代的制度が、いかに異様なものであるかが見えてしまう、そういう場所だといえるでしょう。

―― いまはどういう研究をされているんでしょうか?

ひとつは硫黄諸島の研究ですね。小笠原諸島の父島からだいたい南に250kmくらいのところにある群島なんですが、この群島にかつて住んでいた人たちの歴史的な経験というものを、ほそぼそと調べています。

硫黄諸島もはじめは無人島で、20世紀の始めくらいに、小笠原諸島よりだいぶん遅れて入植地になります。それからサトウキビのプランテーションができて、人口も1,000人以上になっていくわけですが、アジア太平洋戦争のときに、硫黄島で地上戦をおこなうことを想定して、日本軍が北硫黄島を含む大多数の住民を強制疎開させるんです。

小笠原諸島の父島や母島などからも、6,500名ほどいた住民うち約5,800名を強制疎開させたんですが、父島、母島では結果的に地上戦はおこなわれませんでした。しかし、硫黄島では地上戦がおこなわれ、戦後、硫黄諸島と小笠原諸島は米軍に占領されました。1968年に沖縄に先立って日本に施政権が返還され、このときに父島や母島の住民とその子孫たちは、四半世紀ぶりに島に帰ることができたんです。

ところが硫黄諸島の人びとは、施政権が「返還」されたのに、帰ることが許されなかった。米軍に代わって、今度は自衛隊(とアメリカの沿岸警備隊)が硫黄島を使うということになったんですね。これはいわば自国の軍隊に占領されるということで、北硫黄島を含む住民はいまだに帰ることができていない。マーシャル諸島にも核実験の残留放射能のために住民がいまだに故郷から引き離されている島があり、インド洋のディエゴガルシア島のように米軍基地にするために住民が強制移住させられた島もありますが、硫黄諸島も似たような状況に置かれている場所なんです。

いまでも、硫黄諸島の強制疎開前の住民だった人たちが生きていらして、だいたい関東地方を中心に、各地に住んでいます。この人たちにほそぼそと話を聞いて回っている状況です。まもなく刊行される『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(弘文堂)という拙著では、狭い意味での小笠原諸島だけでなく、硫黄諸島を含めた島々の社会史を、大学生・大学院生向けに簡潔にまとめたものです。高校生でも、ちょっと無理をすれば読めると思います(笑)。

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浮かび上がる「物語」

―― 石原先生が歴史社会学が面白いと感じるのはどんなときですか?

いろいろ面白いですよ(笑)。文献資料を集めたり、インタビューしたりすること自体、もちろん苦痛も伴いますけれども、同時に楽しいです。

歴史社会学という、歴史学よりもうちょっと理論志向が強い分野で歴史研究している者として、いちばん面白い瞬間は、それまでの歴史研究ではあまり見えていなかったり語られてこなかったりしてきた、別の歴史的な文脈や物語が見えてきたときですね。

たとえば私も当初は、小笠原諸島の人びとの社会史のなかでも、沖縄との比較で敗戦後の米軍占領下の状況に注目したり、戦時期に日本国家の「捨て石」にされていくような状況に関心がありました。でも、あまり研究されていないということで、どんどん歴史をさかのぼって調べていくわけです。

そうすると、先ほどもお話したように、最初の先住者は世界各地から来た人びとだということは知っていたのですが、この先住者たちは、広大な地理的・歴史的背景をもった人たちであることがわかってくる。いろいろ資料を読み込んでいくと、最初の移民団は入植を目的にしていたけれども、その後日本が併合するまでに入ってきた住民は、ほとんど捕鯨船や商船や軍艦から、特に捕鯨船から逃げてきた人ばかりだとわかってきたんですね。そして今度は、捕鯨船員の労働史や捕鯨業の経済史・社会史を調べていくわけです。さらにさかのぼって、19世紀の捕鯨船は、16世紀以来グローバリゼーションを引っぱってきた船である外洋帆船の最後の時代にあたるので、帆船をめぐる数百年の労働史や社会史を調べていくんですね。

すると、外洋帆船に乗っている人たちって、それこそ最初のグローバリゼーションのプロセスで「もたざる者」として船の労働現場に投げ出された人たちであることに気がつくんです。最初は大西洋のグローバリゼーションのプロセスで、最前線であり最底辺である帆船の労働現場で働いたり、ときにはそこから逃げ出したりしながら、ノマド(移動民)のように生きている最初期のプロレタリアート(もたざる者・貧困者。転じて近代的労働者の意味になる)の群れが現れます。19世紀に入るとグローバリゼーションのフロンティアになった太平洋で、同様の人びとの群れが現れる。そうしたノマド(移動民)の一部が、小笠原諸島に行きついたということがわかってくる。

19世紀の太平洋には、「カナカ」とか「ビーチコーマー」とか呼ばれるような人たちがいました。「カナカ」というのは、いまは太平洋各地の民族名称に採用されていますが、19世紀は捕鯨船に雇われた太平洋の先住民を指す蔑称だったんです。「ビーチコーマー」というのは自称「白人」で、太平洋の島々と捕鯨船の労働現場をわたりあるきながら流民的に生きていた人びとのことを指す言葉です。こうした近代的ノマド(移動民)が小笠原諸島に来ている、いまも住んでいる先住者の子孫の人たちはその末裔なんだってわかっちゃったんですね。これはもう、小笠原諸島を日本の辺境の島のひとつとしてみるようなこれまでの観点からは、絶対に見えなかった別の「物語」の系列ですよね。こうした発見はめったにあることではないんですが、こういうことがわかったときには、歴史社会学冥利だなと思いますね。

「いま・ここ」を相対化する

―― 多くの大学生は研究者にならず、いわゆる一般企業に就職します。歴史社会学を勉強することは、彼らにとってどんな意味があると思いますか?

今は歴史的な経験というものが、かつてなくないがしろにされている時代だと思うんです。グローバリズムの時代だとか、新自由主義の時代だとか言われますけれども、要するに「いま・ここ」の瞬間で、どれだけ市場における優秀なプレイヤーになれるかという発想にとらわれがちな時代ですよね。そういうときにやっぱり「いま・ここ」ということを少しでも相対化するような営みが必要で、歴史的な視野にたったセンスや想像力というものが、いまほど重要な時代はないんじゃないかと考えています。

あと、歴史社会学を学ぶさいには、とりわけ1960年代以降のラディカルな歴史社会学がだいじにしてきた、近代社会や文明社会のなかでマイナー化された人びとに対する感受性のようなものが、非常に大事な側面じゃないかと思います。歴史社会学や社会史の発想には、エリートや自分でなにかを書き残せる立場にある人に焦点を当ててきた「正史」ではなく、さまざまなマイノリティやノンエリートの人びとが、どういうふうに試行錯誤しつつ生き抜いてきたのかということを、非常に細かく地を這うような目線で見ていくようなところがあります。

そうした目線でみていくと、そのなかには、「受験歴史」では学ぶことのできない、いろんな生き方の知恵みたいなものが詰まっているんです。非常につらく酷い状況に置かれたときや、国家や地域社会や所属組織の主流から置き去りにされたり排除されたりしたときに、人びとがどういうふうに生きぬいてきたのか。そういう知恵がいっぱい詰まっています。そういうことも、歴史社会学を学ぶことからつかみ取れるんじゃないかなというふうに思いますね。

―― 最後に、高校生に向けてメッセージをお願いします。

大学進学を考えている人に向けた話になりますが、いま大学進学率は先進国のみならず、新興国でもどんどん上がっています。それでも世界的にみれば、大学に進学できるというのは、まだまだ特権的なことですよね。そのなかで、最大限に特権を享受してほしいです。それには、やはり自由であることに「開き直る」ことがだいじだと思っています。最近の日本では大学生の経済状態や就職状況が20世紀よりも明らかに悪くなってきており、遊ぶお金のためではなく生活費や学費を稼ぐために、長時間のアルバイトに従事する学生も増えてきています。それでも、大学生になったら、なんとかやりくりしながら、とにかく好きなことをやっていただきたい、自由という特権を活かして、いろんなことを試していただきたいと思っています。

それから最後に、大学というのは、これだけ大学進学率が上がって大学が大衆化しても、依然として「勉強」ではなくて最終的には「学問」をするところであるということを、私は大事にしたいですね。

他人が既に調べたり考えたりしたこと、つまり論文や著作に表現されていることをフォローする、これが高校時代までの、そして残念ながら現在は大学でも大部分を占めている、「勉強」といういとなみです。一方で「学問」といういとなみとは、他人が調べたり考えついたりした過去の膨大な知的営みをふまえつつ、1%でも0.5%でも0.1%でもいいので、自分の調査や思考によって新たな知見を付け加えることです。

これはもうほとんど私の信念なんですが、大学に進学する以上は、研究やジャーナリズムを目指さない場合でも、せめて最後の卒業論文や卒業研究の段階で、この「学問」をやっていただきたい、ぜひそこに到達していただきたい、というのが私のメッセージです。

歴史社会学がわかる! 高校生のための6冊

前者は、いわずと知れた歴史社会学の古典です。人びとをたえざる利潤追求・資本蓄積へと駆り立てる資本主義という制度が、なぜプロテスタントのなかでも最も禁欲的な宗派であるカルヴァン派が強いイギリスで最初に発達したのか、ブルジョワジー(有産階級)の信仰にかかわる精神構造と行為様式に着目しながら、緻密かつ大胆に解き明かしています。後者はこのインタビューでも簡単に解説した、「伝統的支配」や「合法的支配」についての歴史社会学的な分析です。「合法的支配」に関する議論は、有名なウェーバーの近代官僚制の定義と関連しています。

1848年から翌年にかけて西欧で同時多発的に革命が起こります。フランスでは、革命で最も大きな役割を果たしたプロレタリアート(もたざる者)たちがブルジョワジー(有産階級)側の勢力によって弾圧された後、男性普通選挙制度に支えられた議会制民主主義が成立します。だが、この民主主義体制はまもなく、ブルジョワジー(有産階級)諸派の代表を自任する政治集団間の抗争によって空洞化していき、ルイ・ボナパルト(ナポレオンIII世)による帝制を呼び込んでしまうことになります。そうした過程を分析した歴史社会学的著作の古典のひとつであり、マルクスの著作のなかで最もとっつきやすいもののひとつです。

著者の専攻は「社会学」ではなく「歴史学」(社会史)ですが、近代日本を歴史社会学的/社会史的に考えるさいに、まず読むべき著作です。幕藩体制後期から明治期にかけて、エリートや知識人が主導する近代化・文明化のプロジェクトの底流で、「民衆」の世界で何が起こっていたのか?同時期の農民の抵抗運動は、「勤勉」や「倹約」を是とする「通俗道徳」に支えられていたために、結果的に幕藩体制を崩すような運動に成長することはできず、近代日本国家のエリートたちもこうした「通俗道徳」を積極的に取り込んでいきました。しかし、こうした「通俗道徳」を基盤とする農民の抵抗運動は、幕末期から明治期にかけて何度か、国家と決定的な敵対関係に入ることがありました。かれらの抵抗は、エリート・有産階級側の激しい弾圧によって潰されていきます。近代日本国家が何を取り込み、何を鎮圧しながら形作られていったのかを、痛いほどよく表した著作です。

著者の専攻は同じく「社会学」ではなく「社会思想史」ですが、日本/東アジアの近代を歴史社会学的/社会史的に考えるさいに、まず読むべき著作です。東アジアは、世界市場・資本主義・主権国家・国民国家など、それぞれ異なるルーツをもつ近代的な諸制度が、19世紀に一気に押し寄せた地域です。そのなかで日本国家は、西欧産の諸制度を積極的に模倣して主権国家・国民国家の体裁を急速に整備し、資本主義的生産体制を養成するとともに、さらに東アジア諸地域への植民地主義的介入を進め、覇権国家としての地位を築いていきます。そして、アジア太平洋戦争で日本は敗戦国となり帝国も崩壊したにもかかわらず、日本は東アジアの冷戦秩序のなかでいち早く高度経済成長を許され、先進国としての特権的地位を確保し続けました。このような過程で東アジアの近代のなかに幾重にも刻まれてきた暴力や摩擦・亀裂に向き合うために、わたしたちが何を考えるべきなのかというヒントが、この本にはつまっています。

今回のインタビューでお話した内容に最も関連が深い拙著を、1冊だけあげておきます。もとになっているのは博士論文ですが、高校生でも読める平易な文体に書き直してありますので、ぜひ手にとってみてください。

プロフィール

石原俊社会学

明治学院大学社会学部教授。1974年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科(社会学専修)博士後期課程修了。博士(文学)。千葉大学大学院人文社会科学研究科助教、明治学院大学社会学部准教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員研究員などを経て、現職。
著書(単著)に、『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』(平凡社、2007年:第7回日本社会学会奨励賞受賞)、『殺すこと/殺されることへの感度――2009年からみる日本社会のゆくえ』(東信堂、2010年)、『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(弘文堂、2013年)、『群島と大学――冷戦ガラパゴスを超えて』(共和国、2017年)。著書(編著)に、『戦争社会学の構想――制度・体験・メディア』(福間良明・野上 元・蘭 信三との共編:勉誠出版、2013年)。

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