2014.10.27

戦場からの集団的自衛権入門

『日本人は人を殺しに行くのか』著者・伊勢崎賢治氏インタビュー

情報 #集団的自衛権#日本人は人を殺しに行くのか#新刊インタビュー

集団的自衛権で、日本は戦争に巻き込まれることになるのだろうか――集団的自衛権の行使を容認するために、憲法9条の解釈を変更することが閣議決定されてからはや3カ月、ようやく集団的自衛権の基本から今後の日本のあり方までを丁寧に解説する一冊の本が出版された。『日本人は人を殺しにいくのか 戦場からの集団的自衛権入門』(朝日新書)だ。集団的自衛権とはなにか? 集団的自衛権は日本になにをもたらすのか。紛争屋を自称し、世界各地で武装解除を行ってきた著者・伊勢崎賢治氏にインタビューを行った。(聞き手・構成/金子昂)

そもそも集団的自衛権って?

―― 集団的自衛権の行使容認のために憲法9条の解釈を変更するという閣議決定がなされました。当時の議論を振り返ると、そもそも集団的自衛権とはなにか、基本的な知識があまり共有されていなかったように思います。まずは集団的自衛権とはいったいどういうものなのかをお教えください。

本書にも書きましたが、まず「個別的自衛権」「集団的自衛権」そして「集団的安全保障」の3つの違いをおさなくてはいけません。

火事の例が一番わかりやすいと思います。自分の家が火事になったら、まずは自力で消火活動をしますよね。これが個別的自衛権です。そして隣の家のおじさんであったり、近所の親しい人たちが消火活動に参加してくれるのが集団的自衛権。そして消防車などが駆けつけることが集団的安全保障ですね。

気を付けないといけないことは、国連憲章51条に書かれているオリジナルの集団的自衛権と、日本の集団的自衛権にはズレがある点です。前者は、「同盟国が攻撃を受けており、自国にもその攻撃が及ぶとなった場合に武力を行使してもいい」というもの。後者は、2003年の国会答弁によると「自国と密接な関係にある外国が攻撃を受けた場合、自国が直接攻撃をされていないにもかかわらず、武力で阻止する権利」となっている。「自国と密接な関係にある外国」とは、まあアメリカですね。日本の対米従属意識がよく表れています。

つまりね、国連オリジナルの集団的自衛権は、「自国に攻撃が及ぶ可能性」があるときに、武力を行使していいものなのに、日本は「自国と密接な関係にある外国(アメリカ)が攻撃を受けた場合に(自国に攻撃が及ぶかどうかは関係なく)武力を行使していい」という解釈になっている。これが「集団的自衛権が容認されたら関係のない戦争に巻き込まれる」という不安のモトなんでしょう。

そして今回の議論で、いままで集団的自衛権を行使することを禁止していた憲法9条の解釈を変更する閣議決定が行われたわけです。

―― ややこしいのが「集団的自衛権」とは別に「集団安全保障」があることだと思います。しかも集団的自衛権に比べて圧倒的に知られていない。

集団安全保障は、内戦後の治安を維持するために多国籍軍を発動したりするものです。主たる活動は自衛隊も参加しているPKOですね。これこそ「関係のない戦争に巻き込まれる」ことなんですね。でも、関係のない国でも、人道的な観点から皆んなで助けよう、って自衛隊派遣反対派でも反対しにくいですよね。

ぼくは、集団安全保障のことを「国連的措置法」と呼ぶべきだと主張しています。どうしてわざわざ同じ「集団」という言葉を使っているのか。集団的自衛権と集団安全保障(国連的措置)を混合させようとしているような気がしてならない。

―― 混合させることに意図的なものを感じられているのでしょうか?

ええ、集団安全保障(国連的措置)の「集団」は、国連加盟国全体を指し示しています。利害関係を超えて、みんなで助け合い、世界のために活動するものなんですね。それを、同盟国を対象とする集団的自衛権と混合させて、集団的自衛権への抵抗感を緩和させようとしているように思うんです。

だから、この一連の語彙の日本語訳は、その本来の意味をちゃんと反映するために、個別的自衛権は最もコアのものだから「的」を抜かして「個別自衛権」とし、集団的自衛権は「集団的個別自衛権(Collective Self-Defense)」、集団安全保障は、厳密には国連安保理ですが、「国連的措置(UN Security Council Measure)」とするべきだと思います。

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日本はすでに集団的自衛権を行使している!?

―― 本書を読んでいて、国連でも集団的自衛権にせよ、集団安全保障にせよ、都合よく解釈して運用されてきたんだな、と思いました。

ああ、そうなんですよね。

例えば湾岸戦争のとき、クウェートに攻め込んだイラクに対して、国連安保理はクウェートから無条件で撤退することを求めました。しかし、当時の大統領であるフセインが拒否をすると、アメリカを代表とする多国籍軍がイラクに対して空爆とミサイル攻撃を開始しました。

本来ならば、まず侵略されているクウェートによって個別的自衛権が行使され、続いて近隣諸国と共同で集団的自衛権が行使される。その後、必要があれば国連安保理が集団安全保障(国連的措置)をとるのが国連のあり方です。集団安全保障(国連的措置)と個別的自衛権・集団的自衛権には、概念上のタイムラグがあるのですね。

そもそも国連憲章に個別的自衛権と集団的自衛権が顕れたのは、他国から侵略されている国が、国連安保理が集団安全保障(国連的措置)を行使するかを決めるまで、なにもできずボコボコにされているのは困るだろうと考えたからです。それが、フセインを倒したいと思う力が、集団的自衛権と集団安全保障(国連的措置)をタイムラグなしに、ほとんど同時に発動させた。この辺から、国連が旗を振り(安保理が露中vs米英仏みたいに決裂しない限り)、特定の同盟や有志連合の集団的自衛権の行使を後押しするようなる構造が始まります。オリジナルな集団的自衛権が変貌してゆくのです。

―― その上、日本も今回の憲法9条解釈変更の前に、集団的自衛権を行使しているんですよね。

ええ、アフガニスタン戦争のときに自衛隊をインド洋に派遣して給油活動をしていますね。あれはたいへん珍しい集団的自衛権の行使です。

アフガニスタン戦争はNATOが集団的自衛権を行使して始めた戦争で、日本はNATOに所属していません。それにもかかわらず、給油活動とはいえ作戦に参加している。これは、外から見たら、集団的自衛権の行使です。日本国内では、特措法で乗りきった。

イラク戦争のときも、特措法で自衛隊を派遣している。外から見たら、NATOですら割れた(ドイツ、フランスなどが離脱)集団的自衛権の行使に、日本はわざわざ参加したのです。

憲法9条で禁じられている集団的自衛権を、特措法で行使してきたのです。今回の閣議決定があろうとなかろうと、これは続くし、もっとやりやすくなる、と考えるのは極自然です。もはや集団的自衛権だけでない。あとでお話することになると思いますが、法治国家としての振る舞い方の根本を問わなくてはいけないと思います。

集団的自衛権の行使が必要な理由?

―― すでに集団的自衛権が行使されているのなら、いちいち憲法9条の解釈を変えようとしているのかが疑問です。議題に挙げて注目を浴びせれば、反対の声があがるのは当然でしょう。そもそも、政府は、どんなときに集団的自衛権が必要だと考えているのでしょうか。

自民・公明党は、「安全保障法制整備に関する与党協議会」で、集団的自衛権を使って対応する必要がある事例を15個あげています。本書では、それが集団的自衛権とはまったく無関係であることを丁寧に解説しました。ただ、あれに反論すること自体が馬鹿馬鹿しいんですよね。本書で真面目に喧嘩しちゃったのはちょっと後悔しています(笑)。

きっと政府はあの15事例を英語に訳して世界に発信していないと思いますよ。さすがにあんな酷いものを発信できるほど自信はないでしょう。これに携わったあの懇談会には面識のある学者が何人かいますが、彼らにとっては負の業績になるんじゃないでしょうか。

―― せっかくですのでひとつ事例をご紹介ください。

例えば、多くの人は尖閣諸島を中国が攻め込んでくるのではないかという不安を持っていると思います。おそらくそれに応えるかたちで、政府は、離島等における不法行為への対処のために集団的自衛権が必要だと言っていました。

でも、たとえ離島であろうが、日本の領土であることに代わりはありませんよね。これは集団的自衛権ではなく個別的自衛権の話です。いまの体制で対処できる。もし現状の個別的自衛権では対処しきれないというのならば、武器の使用基準を緩めればいい話です。集団的自衛権を持ち出す理由がない。

こんな荒唐無稽な話が15個もならんでいるんですよ。本当に馬鹿馬鹿しい。たぶん今後、安倍政権は、この15事例、使わないんじゃないですかね。実際、この頃、あんまり話題になりませんし。

「心の箍」を外す、集団的自衛権

―― 安倍政権は、集団的自衛権の行使を容認しないと、有事の際にアメリカが守ってくれないと考えているようです。しかし本書では、「アメリカは日本に集団的自衛権を行使して欲しいなんて思ってもいない」とあります。

チョット、ニュアンスが違います。本書でも書いたように、アメリカというものが、一枚岩であろうはずがありません。時の政権によっても違うし、国防省、国務省、CIAでも違う。ましてや、「日本通」と言われる有力者も。日米のことを想っていると言っても、所詮はアメリカの国益のためですからね。いわゆる戦後体制というのは、主権を放棄してまで米軍基地を置かせ続けてくれる日本の維持。こんなお友達は、アメリカはNATOにも持っていないわけで。同盟と言っても、みんな「主体性」があるから、イラクでは離反したりする。こんな従順なお友達はいないわけです。それを未来永劫、維持したい。これは、一枚岩じゃなくても、一貫した対日本の“アメリカ”じゃないでしょうか。

つまり、日本は、アメリカの同盟国ではなく、アメリカの国土の一部なのです。ですから、日米間に、「集団的自衛権」は存在せず、ただ、「アメリカの個別的自衛権の道具」としての日本があるだけなのです。

―― 集団的自衛権が行使できないと、他国に侵略されてしまうのではないかと心配する声もありますね。

中国が、わざわざ日本(尖閣とか無人の島でなく日本人が住んでいる本土)に入ってきて、“侵略”することはありえないですよ。だって、第二次大戦の“侵略国”(僕たち)をとんでもない犠牲の上になぎ倒して、二度とこんな不埒な輩の出現を許さじと、戦勝国5大国が、戦後の世界を支配するためにつくったのが国際連合(英語は連合国そのままのUnited Nations)。それも、お互い仲が良いとは言えないので、“拒否権”という怪物のような特権を自らに与えながら。

当然、その国連憲章では、“侵略”という行為は最大のタブーなのです。彼らが、“侵略”というタブーを犯してまで、地球上で最強の特権で頂点に君臨できる世界統治のレジュームを自ら壊すはずがないのです。だから、彼らが“侵略”する場合は、“侵略”ではない国連憲章上の言い訳を必ず探す。そこで、今までの彼らの“侵略”の時に使われてきたのが、“同胞を助ける”という名目の「集団的自衛権」だったのです。

日本国内に、彼らの同胞(それも政権を執るようなかなり大きな)ができ、それが窮地に陥り、武力介入を正当化する武力闘争(つまり内戦)にならない限り、中国は“本土”を“侵略”しません。

だから、「集団的自衛権の行使をしないと侵略される」ではなく、「侵略を合法化するのは集団的自衛権」というパラダイムに変えないと、「他国に侵略されたくなかったら、集団的自衛権の行使を合法的に許す状況をつくらないことが一番効果的」という本当の国防戦略が取れなくなります。

先月一ヶ月ほどフィリピンにいたのですが、そこで名だたるフィリピン人の国際政治学者と話をすると、日本よりも中国の脅威におびえているんですよね。確かに、係争関係にあった南沙諸島の一部(満潮時には水没する)、盗られちゃっていますし、このままだと本土侵略かも、と。歴史的に華僑の多い国なので、財界人に中国系が多く、内側から支配される可能性は日本よりは高い。

でも、いまお話した論理で、「“本土”の“侵略”」の可能性を冷静に見る必要を説くと、……という感じになる。やっぱり、領土の一部がとられちゃうと、次は“本土”までってという恐怖感が募るのはしょうがないのかも知れませんが、こうやって、メディア論でいう、デーモナイゼイション(Demonization):悪魔化が蔓延ることになります。そして、これを「排他的ナショナリズム」が絡め取ります。いとも簡単に。

―― ……お話を伺っていると、いったいなぜ現政権は集団的自衛権の話を持ち出したのだろうと疑問に思うのですが。

その真意をずっと考えています。

ひとつ思いつくのは、日本人の「心の箍(たが)」を外そうとしているのでないかということです。日本は、一応9条下で認められている個別的自衛権でも、あんまり過激に行使しないでしょう。そんなしょっちゅうバンバン撃たないじゃないですか。警察権の行使でさえ。本書でも繰り返し扱いましたが、自衛権の行使には、いわゆる3要件というのがあり、アメリカであろうが、日本だろうが、軍による武力行使であろうが、警察官の武器使用であろうが、それは同じなのです。でも、実際の行使の現場での好戦性、つまり「撃ち易さ」は、それぞれの歴史、文化、国民性、そして、具体的な行使の事例の積み重ねによって影響され、だいぶ違う。

まあ、日本人の自衛権の非好戦性は、9条のせいである、と。個別的自衛権の行使でも舐められるのは9条のせいであると、と。だから、9条を無くしたい。でも、9条そのものを無くすのはハードルが高そうだから、少なくとも無力化できないか。そうすると、現在9条の唯一の内実的な縛りは集団的自衛権の行使だから、それをまず「理論のすり替え(15事例も、首相会見の“パネル2枚”の事例も、結局、個別的自衛権と国連的措置の話なんですが)」と言われようと感情に訴えて外してしまえば、9条を実質無力化できる、と。

こんなことを狙ったのではないでしょうか。

日本ができる「非軍事の軍事的貢献」

―― 集団的自衛権よりもよっぽど世界に貢献できる効果的な方法についても本書では紹介されています。つまり、軍事同盟は、さまざまな国同士の「補完の関係」によって成り立っている。それぞれの国がそれぞれに事情を抱える中で、長所を活かして協力し合うことに意味があるのであって、日本がアメリカのようになる必要はない、と。

私がアフガニスタンでみたアメリカとNATO加盟国は、各国が各作戦に参加するかは、ふたつの要件によって、“主体的”に決めていると感じました。

ひとつは、「脅威の認識」があること。仮に同盟国が攻撃されていても、自国への脅威がなければ攻撃には参加しない。もうひとつが、脅威への対処の「方策」が一致していること。例えば、地上部隊を送るのか、空爆だけにするのか、それとも、それらを一切せず、こっちの味方になりそうな現地人の武装組織を支援するのか、とか。この二つの要件が満たされないと、NATO加盟国でも、離脱します。2003年のイラク侵攻や、2011年のリビア空爆がいい例です。

大事なのは“主体的”であることです。つまりノーといえるのが同盟国同士の振る舞いなんですね。アメリカから言われたからやるのではないのです。それぞれが、目の前のその脅威に対する対応をまず主体的に考える。そして、やるとなったら、「総合力」として闘う。これについてはあとでまた言及します。

―― 集団的自衛権を行使できるようになっても、そもそも主体性がなければまったく意味がないというわけですね。本書では日本が自らの特性を活かして国際貢献するためのヒントとして、アメリカの戦略ドクトリン「COIN(Counter-Insurgency)」が紹介されています。

COINは、アメリカ陸軍・海兵隊のフィールドマニュアルです。Insurgencyとはテロリストのこと。つまりCOINは、アメリカの「対テロ戦マニュアル」なんです。

いままで圧倒的な軍事力をもってアメリカはInsurgencyと戦ってきました。しかしそれでも中東各地の戦争は泥沼化している。イラク戦争が泥沼化する中で、2006年にアメリカはそれまでの戦略ドクトリンを方向転換させました。それがCOINの誕生です。

Insurgentsとの戦いは、国vs国の戦いとは話が違います。戦争の原因というと、結局は資源でしょ、としたり顔で言う人がいますけど、現代のこの戦いはチョット様相が違います。我々(この戦いは中国やロシアも逃れられませんが特にアメリカに組する陣営)に対する「怒り」です。

こちらはグローバル化の名の下、良かれと思って彼らのテリトリーに入り込みますが、それを領土だけでなく彼らの文化、価値観、誇り、アイデンティティーへの侵略と見なす。お気軽な我々に対する「非対称な怒り」です。その「非対称な怒り」が、アフガニスタンでの代理戦争、数あるパレスチナ問題の戦局などを経るごとに、「神聖化」されてゆく。

武力によって根こそぎ粉砕しようとしても、できません。なぜかというと、軍事的なダメージを与えても、それがまた「怒り」を創出し続けるからです。親玉たち(ビンラディンなどの面々)を無人爆撃機や特殊部隊の急襲で始末しても、彼らの死は「神聖化」されるだけ。逆に、箍を失ったその下の若いもんたちが無軌道を競うようになり、どんどん過激化してゆく。今、「アルカイダもたじろぐ」と言われるイスラム国の出現は、ビンラディンを殺さなかったら……。アメリカは戦略的勝利と位置付けていますが。

つまり、この戦いには、終わりはないのです。残念ながら。

唯一、我々ができることがあるとしたら、できるだけ、そういう連中が棲みにくい環境をつくること。これしかありません。彼らが棲みついているところは、「民衆」なのです。だから、「民衆」をこちら側に付けるしかない。

屈強な米兵がチョコレートを配りますか? だめです。逆効果です。民衆が安心して住める「秩序」を提供できる現地社会、現地政権をつくるしかないのです。これに気づいて軍事ドクトリンを変更したのが、2006年、当のアメリカなのです。その時、現場で、米軍のスローガンになっていたのは、「Winning the War(敵を軍事的にやっつける)」ではなく、「Winning the People(人心掌握戦に勝つ)」だったのです。それが、COINです。

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―― 具体的な成果はあがっているのでしょうか?

全然ダメ。それはイラクやアフガニスタンをみていただければ一目瞭然です。当のアメリカが分かっていても、アメリカがやることに無理がある……。しかし、いまのところCOINにかわる戦略ドクトリンは存在していない。そしてぼくは、おそらくこれ以上の方法は将来にも登場しないと思います。

―― そのCOINが、なぜ日本の特性を活かす可能性になるのでしょうか?

そもそも2006年にアメリカがCOINをまとめるきっかけになったのは、その前の2004年、2005年当時のアフガニスタン。「アフガンの成功をイラクへ」とアメリカ軍が盛んに言っていたのです。その当時の(ホント、あの頃が懐かしい…)アフガンの成功の源泉となったのが、日本が主導した武装解除なんです。具体的な話は『武装解除 – 紛争屋がみた世界』(講談社現代新書)に書いているのでぜひお読みください。

アフガン戦は、その後のイラク戦とは裏腹に、NATOが一致団結した集団的自衛権の行使です。そして、その「長」であるアメリカが求めたのは、「民衆」が帰依できる「ネーション」(国家)づくりに向かう、同盟の「総合力」なのです。例えば、ドイツやノルウェーには、国際的に、非好戦的な国家であるというイメージのあるため、あまり「火力」の提供を期待せず、逆にアメリカができないこと(アフガンの反米勢力の懐に入り、民衆の人心掌握を行う)を託す。そのドイツとノルウェーにさえ、「俺たちでもできなかった」と言わしめ、交渉だけで武装解除を実現し、アフガンに、戦後の新しい「ネーション」の基盤をつくったのが、当時の日本だったのです。この時、アメリカ軍は、この日本の貢献を「非軍事の軍事的貢献」と言っていました。

日本は、自衛隊の「火力」なしで、米・NATOの集団的自衛権の行使に貢献しました。

2006年のアメリカのCOINの後、幾つかの同盟国も、それぞれの“主体的”な試行錯誤の末、それぞれのCOINを生み出しました。イギリスCOIN、カナダCOINがそれです。アメリカCOINに対抗するノリです。日本も、その主体性を生かしたジャパンCOINを編み出すべきだと思います。そのための具体的な方法は、詳しく本書に書きました。

なるべく敵を作らないこと

―― 単に「アメリカと同じように戦争をする」のは、もったいないことなんですね。

安全保障の面からいっても危険なことです。

どんな独裁国家であっても、国家は、一応は国民からの信託がありますから、「まともな敵」なんですよ。でも、Insurgentsは、大義、つまり前述したように「神聖化した非対称な怒り」で突き動かされている無軌道な国境のない実体です。今、アメリカ陣営は、「まともな敵」をいかに手なづけるかに躍起になっているんですね。

そうすると、あの15事例はなんですか? 機雷掃海の事例14。誰が機雷を巻くと想定しているですか? イランですか? イランは、敵国かもしれないけど交渉ができる「まともな敵」としてアメリカが関係修復を模索している相手ですよ。事例14は、「お前ら、機雷撒くだろ。自衛隊がいるもんね。撒きたきゃ撒いてみろよ!」と、まだ撒いてもいない先から喧嘩売っている。これ、英語にして、世界に発信したら、一番頭を抱えるのがアメリカでしょう。全くアホらしい。

―― 本書でも、テロリストの存在が日本の脅威であることをお書きになっています。

だって海岸線沿いにぐるりと原発がある国ですよ? 廃炉、汚染物質、汚染水処理で四苦八苦している福島第一に、海側から、世界中で安価に手に入るRPGを一発撃ちこまれたら……。3・11直後真っ先に逃げたのが横須賀第七艦隊のジョージワシントン号だったように、今度こそ、アメリカが日本を放棄するかもしれません。アメリカの世界戦略の最大拠点が無くなるのです。これをイスラム国が狙わないと思いますか?

もし自分探しでイスラム国に行った日本人が、現地の信頼を勝ち得て、「よし、日本に戻って、やれ!」となったら。「総電源喪失」に大掛かりな軍事作戦は必要ないですよ。軽装備の小グループで原発の占拠は可能です。日本を通常戦力の増強だけで防衛できると思ったら大間違いです。まず「敵をなるべくつくらない」、「敵をつくる一切の言動・行動を差し控える」ということをベースに、通常戦力、諜報能力の構築を考えないと、この国は護れません。

日本人は人を殺しに行くのか

―― 集団的自衛権には、「戦争をする国になってしまう!」とは違う視点で、大きな問題があることがよくわかりました。あえて質問をさせてください。日本人は人を殺しに行くのでしょうか?

……いまの状況をみていると、なるんでしょうね。

例えば、イスラム国に日本の自衛隊が派遣されるようなことはまだ起きないとは思いますよ。起こりうる最初の事件はPKOでしょうね。いま南スーダンは落ち着いていますが、もし避難してくる群衆の中に武装集団が混じっていたら、当然、交戦。あやまって一般人を殺してしまうことは想定しなければなりません。実際に南スーダンでは、自衛隊が駐留している国連の施設に、民衆が助けを求めてなだれ込んでくる事態も発生しています[*1]。

[*1] http://digital.asahi.com/notice/notice_ltov.html 朝日新聞2014年4月21日

自衛隊は、法的には「警察予備隊」のまま存在しています。つまり軍法がない。自衛隊法にも、国外で犯した過失を裁く規定はありません。刑法も、日本人が海外で犯す業務上過失致死傷は裁けない。自衛隊が一般人を殺してしまったとき、日本は世界から「日本は本当に法治国家なのか」と責められる事態に陥るでしょうね。僕が知る限り、軍法の無い軍事組織を国外に送る国は、日本以外にありません。

―― 思った以上に問題は根深いわけですね。これからどうすればいいのでしょう。

いまは根本的な問題を考えるいい時期なんだと思います。ぼくが参加している国民安保法制懇(安倍晋三首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)に対抗し、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認に反対する憲法学者や元政府関係者ら12人が立ち上げた懇親会)というのがあります。集団的自衛権を認めるなら憲法を変えてからという改憲派や、個別自衛権も容認できないというバリバリの護憲派まで、全く立場の違う大家たちが、今、安倍政権のやろうとしていることはおかしい、という一点で、それぞれの陣営のシガラミを破ってまとまった集まりです。

本書でも、そして今日お話したように、国連憲章に集団的自衛権が顕れてから国際情勢は激変を重ね、そして、テロリストとの戦いを迎えて、激変は更に進化の兆しを見せています。

これを機に、日本伝統のイデオロギー対立の構造も、不可避的に再構築されて行くのだと思います。その意味で、安倍さんに“極右”というようなレッテルを張るのは、単なる思考停止だと思います。逆に、再構築の機会をつくってくれたと、安倍さんの出現を評価するくらいの胆力で、現在、そして近未来の「集団的自衛権」のあり方を考えるべきなのだと思います。

 

プロフィール

伊勢崎賢治国際政治

1957年東京都生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防講座」担当教授。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わる。国連PKO上級幹部として東ティモール、シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮。著書に『インドスラム・レポート』(明石書店)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版)、『紛争屋の外交論』(NHK出版新書)など。新刊に『「国防軍」 私の懸念』(かもがわ出版、柳澤協二、小池清彦との共著)、『テロリストは日本の「何」を見ているのか』(幻冬舎)、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)、『本当の戦争の話をしよう:世界の「対立」を仕切る』(朝日出版社)、『日本人は人を殺しに行くのか:戦場からの集団的自衛権入門』(朝日新書)

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