2018.11.29

なぜわれわれは「新しい能力」を強迫的に追い求めるのか?

『暴走する能力主義』著者、中村高康氏インタビュー

情報 #メリトクラシー#新刊インタビュー

「現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち」であり、「真の「学力」が十分に育成・評価されていない」。こう言われると、素直にうなずいてしまう人は多いだろう。そして、グローバル化し激変する世界に適した「新しい能力」が必要だと説かれると、抜本的な教育改革が必要だと思い込んでしまう。だが、こうした言説は現実を反映したものなのか? 『暴走する能力主義』著者、中村高康氏に話を伺った。

――どのような経緯で本書をお出しになったのでしょうか?

わたしの専門は教育社会学という、教育を社会学的に研究する分野です。その分野のなかでも、とくにわたしが関心をもって研究してきたのが、「教育と選抜」というテーマでした。若い頃は、大学生の就職場面での選抜の研究や、大学入試制度の研究などをしていました。比較的最近でも、学歴の研究や高校生の進路選択の研究などをしていました。

人が人を選ぶ場面においてこそ、社会の本音といいますか、その本質がよく現われるのではないか、そんな気がしていたためです。そのような研究を続けていくなかで、社会の変化をとらえる枠組みが自分の中で徐々にできあがっていき、それを博士論文としてまとめました。この博士論文は、東京大学出版会から『大衆化とメリトクラシー』というタイトルで2011年に出版されています。

今回の『暴走する能力主義』の基本アイデアである「メリトクラシーの再帰性」は、じつはこの『大衆化とメリトクラシー』ですでにその骨格は提示されていたものです。しかし、いかんせん専門書ということもあり価格も高く(笑)、一般読者の方が手に取りにくい本でした。そのうえ、研究者にも十分に咀嚼されていないとの思いを刊行当初から抱いていました。

そこで、できるだけ多くの方にとって理解可能なかたちで、なおかつ中心概念のアイデア力だけで勝負するような、明快な本を出せないだろうかとかねがね思っていました。そこに筑摩書房さんからお声がかかり、一も二もなく執筆にとりかかったという次第です。

――長い間温めてきたアイデアだったんですね。

はい。そして、本書のモチーフとしては、改革病ともいえる現代の社会風潮への強い違和感があります。どちらが本当の改革政党なのかを与党と野党で競うような政治状況のなかで、わたしの専門である教育の領域でも、昔では考えられなかったような大改革が、十分な議論もないままに延々と提案され続けています。また、実際にそれらが制度化され続けていくような状況がありました。

このような現実を理解する道具として、自分の考えている理論や研究成果を使えないか、そしてそれを使って現代の改革病批判の足場を提供できないか、そうしたことを考えながら本書を書きました。

――そこで、キー・コンセプトとなるのが「メリトクラシーの再帰性」になるわけですね。まず、「メリトクラシー」とはどのような意味なのでしょうか?

「メリトクラシー」という言葉は、日常的にはあまり使われませんが、使われるとしてもほとんど「能力主義」と同様の意味で使われています。ただ、社会学の文脈では、もう少しその言葉の出てきた経緯を意識して使われることも多いです。

そもそも「メリトクラシー(meritocracy)」という言葉は、イギリスの社会学者であるマイケル・ヤングの造語だといわれています。ヤングは、1958年に刊行されたThe Rise of Meritocracyという自著において、この用語を打ち出しました。それは空想小説のスタイルを取るかたちで、特権階級が世襲的に重要な地位を占めて社会を支配していた貴族主義的支配体制(aristocracy)の時代から、社会が近代化するなかで能力(merit)によって重要な地位を占めた者が支配する能力主義的支配体制(meritocracy)の時代への転換を示したものだったのです。

ですので、社会学的に「メリトクラシー」という場合には、社会全体の政治的支配体制のひとつのかたち、という意味もあるといえます。日本語の「能力主義」は、日常生活のなかでの人々の営みや思想・理念にも使える言葉であるわけですが、それ自体がマクロな支配体制を意味するわけではないですよね。その点でやはり少し異なるニュアンスがあります。○○cracyという英語には、○○主義という訳語が当てられると同時に、○○による政治支配体制という含意もあります。democracyは日本語訳としては民主主義であると同時に、民主制でもあるというのと同じです。

一方で、社会学者も含めて、メリトクラシーという言葉に込められた本来の皮肉な意味は、しばしば忘れられがちです。それは、ヤングが、能力による支配体制、すなわちメリトクラシーを必ずしもユートピアとしては描かなかったという点に関わります。能力主義を徹底し、知能検査や遺伝子検査のようなもので支配者を決めるグロテスクな世界を描くことにこそ、ヤングの意図がありました。そうでなければ未来小説にする必要は無かったはずですので。メリトクラシーが政治支配体制の一種である以上、そこに矛盾や葛藤を内包するものであることは、他の○○cracyとも、程度の差はあれ共通することなのです。

――そもそも、近代社会ではなぜ能力(merit)が重視されるようになるのでしょうか? 

近代社会の特徴のひとつとして、人々が自分の氏素性とは関係なく、自由に仕事を選んでよいということが、規範として成立している点があります。前近代の社会であれば、先祖代々の田畑や身分を守ることが当然視されていたがゆえに、自由に仕事を選べるものではありませんでした。少なくとも、そうした自由な選択が当然だという規範はなかったと考えられます。

しかし、近代化の過程のなかで、それではあまりに不自由でかつ不平等であり、適材適所でもないために効率も悪く不合理だということになり、自由に選ぶことが基本となる社会に至ったと考えてよいかと思います。ただし、仕事といっても、報酬の大きい仕事と小さい仕事、権力のある仕事とない仕事など、仕事によって人々の処遇は大きく異なるのも現実です。

そして、処遇の良い仕事は希少である一方で、それにつきたいと考える人は逆に多いため、恵まれた仕事につくことができるのは誰なのか、ということを決めなければなりません。同時に、それを決める基準はみんなが納得できるものでなければ、職業選択の自由のシステムはすぐに行き詰ってしまうでしょう。そこで、おおむねみんなが納得できる基準が使われるようになりました。それが「能力」だったということです。

――「身分」から「能力」へ、社会の支配的な基準が転換したわけですね。目に見えない「能力」をどのように測定するのですか?

そう。今度は「能力」をどうやって測るのかということが大問題となります。拙著でも述べましたが、能力は簡単には測れないものだからです。そこで人々が目を付けたのが、「学歴」でした。

学歴は仕事の能力そのものを示すものではありませんが、知識の量やその運用能力をなんとなく示しているように見えるので、近代社会になって急増するホワイトカラー的職業の選抜にはとくに有効でした。学歴主義がほぼ万国共通に見られるのは、こうした事情のためです。もっとも、現代においてはそれが揺らいでいるというわけですが。

――学歴主義が揺らぐなか、近年、新しい時代にふさわしいコミュニケーション能力や協調性、問題解決能力といった、従来の「学歴」では測れない「新しい能力」の必要性が各所で叫ばれています。先生はこうした主張や動向に否定的ですね。

理由は非常に単純です。少し時代をさかのぼって歴史を調べてみれば簡単にわかることですが、ご指摘のような「新しい能力」はどれもみな、昔から言われていたものばかりだからです。

たとえば、コミュニケーション能力や人間力などの、人間関係を円滑に進めるためのスキルは、現代においてもさまざまな場面でその重要性が指摘されていますが、では昔はそれらを無視してきたのかというと、まったくそんなことはありません。拙著でも多くの例を紹介していますが、わかりやすいところでいえば、日本の企業が採用人事の際にしばしば掲げる「人物重視」の採用方針などはその典型です。

わたしたちは「今までは学歴や知識ばかりを問うてきたが、最近は人物重視の採用だから…」などと考えがちですが、「人物重視」の採用は、じつは今から100年近く前にすでに多くの企業が掲げていた方針だったわけです。こうした歴史を知っていれば、「人物」を「新しい時代に対応した新しい能力」とする主張には、とても簡単に同意する気持ちにはならないというわけです。

――とはいえ、「現状の高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜は、知識の暗記・再生に偏りがち」であり、「真の「学力」が十分に育成・評価されていない」と言われると、素直にうなずいてしまう自分がいます。なぜそう思ってしまうのでしょうか?

おっしゃるとおり、そのように思ってしまう方はたいへん多いと思います。わたしが大学入試の研究を始めた20年ほど前に、最初に驚いたことが、日本では予想以上に推薦入学制度が普及しているという事実でした。具体的には、その当時の私立大学の三分の一程度の入学者が推薦経由でした。わたし自身も研究開始前は、「知識の暗記・再生に支配された大学入試」のようなイメージしか持てていなかったのです。

ちなみに、現在ではおよそ私立大学入学者の半分程度が推薦・AO入試経由となっており、さらに拡大しています。また残りの半分も、一般入試をしているといっても、1科目しか課していないとか小論文のみとか、そうした軽量化した入試もかなり広く行われています。高校入試でも、内申書重視の選抜が強調されたのは50年も前のことです。

こうした諸事実を踏まえれば、「知識の暗記・再生」とか「試験地獄」のような見方は、日本の入試や教育選抜の現状を的確にとらえていないといえるでしょう。

――現実を反映したものではなく、思い込みのようなものなのですね。

はい。では、なぜ多くの人々が、「知識の暗記・再生に偏った日本教育」という見方に頷きがちであるのか? 

まず考えられるのは、かつてわたし自身がそうであったように、多くの方々はそうした実態をあまりご存じないのではないかということです。それはある程度やむをえない部分があります。しかし、問題なのは、審議会などに列席する有識者と呼ばれる人々や、改革論議を先導する知識人・政治家などにもしばしば同じことがあてはまるということです。

もうひとつ考えられる理由は、「不安」です。何がこれからの時代に必要な教育なのか、非常に見通しが立ちにくい時代のなかで、「でも今のままでいいはずがない、何かを変えなければ」という不安な心理が湧き上がってくることもあろうと思います。そうしたときにわたしたちは、しばしば簡単に批判できる部分をとりあえず探してきて批判をするということをやりがちです。それが「知識の暗記・再生」ではないかと。

――藁人形なんですね。

ほとんどの日本人は少なくとも1~2回は受験経験がありますので、テストのために知識の丸暗記を嫌々やった記憶を、必ずみんな持っています。その点で非常にわかりやすい。そうしたわたしたちの負の記憶に訴えかけることができる明快な批判点が、「知識の暗記・再生」だったと考えることができるのです。

ただ、ここでよく思い出していただきたいのは、わたしたちが受験生だった頃、本当に知識の暗記・再生だけでやっていけたのかどうかということです。よく思い出していただければ、知識の丸暗記だけではない勉強もそれなりにやってきたはずです。日本の教育システムには問題も多々あるのですが、批判する論者たちがいうほど単純で愚かなシステムだったら、ここまで持続できなかったとわたしは思います。

――とはいえ、「新しい能力」論は国際的な潮流でもあります。OECDの国際学力調査PISAのコンセプトである「キー・コンピテンシー」の核心は「考える力」で、「異質な集団で交流する」「相互作用的に道具を用いる」「自立的に活動する」というまさに「新しい能力」といわれるものです。

OECDのキー・コンピテンシーは、能力の評価が社会的文脈によって変わってくるという、ごく当たり前のことを前提として考えると、とても問題のある議論です。なぜなら、これは、そもそもの発想が真逆で、世界中のどこの誰にでも共通するような基礎的能力を括りだそうとするものだからです。

もちろん、そうした能力がまったくないわけではありません。しかし、そうした「みんなに必要になるような新しい能力」を取り出そうとする試みはたくさんありますが、それらはたいていの場合、失敗していると思います。社会は多様であり、そのなかにいる人々もじつに多様な環境に置かれています。そのようななかで、みんなに共通するものを取り出そうとすると、それはもうみんなが知っている当たり前の能力ぐらいしか残らないからです。

たとえば、人とコミュケーションすることは大事だよね、とか、最低限の読み書き算はできたほうがいいよね、とか、自分から学ぶ姿勢が大事だよね、といった陳腐なお題目を並べざるをえないのです。ところが、そのままそれを言ってしまうと「新しい能力」を唱えたことになりませんので、キャッチコピーのように「〇〇力」などと言い換えて宣伝をし始める。だいたいそんなパターンになっています。

――OECDも同じだと?

はい。キー・コンピテンシーも、わたしには同じように見えます。たとえば、最初の「異質な集団で交流する」というのも、中身を分解すると「他者とうまく関わること」「協力すること」「紛争を処理し、解決すること」だとされていますが、どう思われますか? 従来から言われていた、ごく常識的なことが書かれているだけではないでしょうか。わたしに言わせれば、昔から言われていることをさも「新しい」かのように位置づける不思議な議論です。

もしOECDという権威ある機関が言っているのでなかったら、これほどまでに参照されることはなかったのではないか。こんな議論にお付き合いするのはほどほどにすべきではないか。そんな気さえするのです。

――職場ではどのような人が能力ある人だと思われているかを示す調査データがあるとのことですね。

はい。2013年にわたしが代表者となって全国調査(教育・社会階層・社会移動全国調査、ESSM2013)を実施しました。その調査で、30才から64才までの有職者の方々に、「今の職場で、あなたは、どのような人が「能力のある人」だと思いますか」と尋ね、こちらで用意した11の選択肢について複数回答で○をつけてもらいました。

具体的には、「専門的な知識がある」「頭が良い」「体力・運動神経がある」「手先が器用だ」「芸術的感性が豊かだ」「うまくコミュニケーションできる」…等々といった項目を用意しました。

この調査項目を入れた意図のひとつは、人々が「能力がある」と考える基準が職業によって多様に分かれていることを確認し、それがどのような分布を示すのかを検討することでした。実際に結果を集計してみますと、たしかに能力の基準は職業によって多様です。また、あたりまえのことなのですが、頭脳労働的な職では「頭が良い」などの反応率が高く、アートの要素のある仕事では「手先が器用」とか「芸術的感性」の項目の反応率が高くなることが確認できました。

しかし、それ以上に重要な発見は、どんな職業でも多くの人が反応してしまうような項目があることでした。その代表例が「うまくコミュニケーションできる」という項目だったのです。この項目には全有職者のじつに72.3%が自分の職場であてはまると答えたのです。

新しい職種でも、伝統的な職種でも、コミュニケーション能力が評価されるのだとすれば、これは新しい能力なのではなくて、もともとほとんどの職業に必要な基礎的・汎用的な能力、悪い言い方をすれば陳腐な能力にすぎないのではないか。そんなことがこのデータから推察されました。

――となると、そもそもなぜ「新しい能力」などという発想が出てくるのか? ここで重要になるのが、冒頭で出てきた「メリトクラシーの再帰性」というコンセプトですね。

わたしたちはしばしば能力を簡単に測れるものと考えて、「これからは能力主義の時代だ」とか「能力主義管理の徹底を」などといったりするわけですが、能力というものは実際には簡単には測れないものです。ですので、能力主義といっても、「学歴」の場合のように、わたしたちはとりあえず暫定的に能力の有無を判断する仕組みを作って、なんとか社会を回していっている面があります。

それゆえに、まさに学歴主義が戦後日本社会においてしばしば批判されてきたように、あらゆる能力主義体制は、「ほんとうにそれでよいのか?」と、つねに反省的に問い直される性質を持つことになります。言い方を変えると、メリトクラシーにはもともとそれ自身を問い直してしまうような性質が初めからビルトインされている、そのようにいうことができるかと思います。

この性質のことをわたしは「メリトクラシーの再帰性」と呼んでいます。これは、従来のメリトクラシーないし能力主義の議論においては、まったく概念化されていませんし、そうした指摘自体を見たこともありません。

――「能力」という目に見えないものを測定しているために、その正当性がつねに疑問に付されるわけですね。

はい。このことを踏まえて、わたしたちの社会のなかでの能力をめぐる議論のあり方を見てみると、わたしには次のようにみえてきます。

わたしたちの社会が徐々に能力主義社会を完成させつつあるとか、新しい能力主義の時代に向かいつつあるというよりは、むしろ、能力主義を標榜しつつもつねに完成しない状態である能力主義に対して、ある種の不安といら立ちのようなものを恒常的に抱え込んでいるのではないか、と。

いろいろなご意見はあるとは思いますが、わたしは後者のような理解の仕方のほうが、現代社会が突き当たっている難しい状況をうまく表現できているのではないかと考えています。なお、この議論は、イギリスの理論社会学者、アンソニー・ギデンズの理論を下敷きにしています。ギデンズの理論と拙著の関係は第4章で述べていますが、やや専門的になりますので、そこは興味のある方だけ読んでいただければよいかもしれません。

――そう言われると、現在は「新しい能力」を強迫的に追い求めているように思えます。

「新しい能力」を求め続けようとする心理は、「メリトクラシーの再帰性」が非常に高まった状態だと考えることができます。つまり、ある種の能力主義的な社会体制が、自らを激しく問いなおし続けてしまう状態です。

ではなぜ、現代社会において「メリトクラシーの再帰性」が高まってしまうのでしょうか。そのことを理解するには、過去においてなぜ「メリトクラシーの再帰性」が今よりも抑えられていたのかを考える必要があります。なぜなら、「メリトクラシーの再帰性」は、原理的にいつの時代にもあるはずのものだからです。

じつは、前近代社会では、能力主義はないわけでありませんでしたが、それを強固に抑制している要因がありました。伝統や身分制度です。たとえば、江戸時代では、藩主の息子に能力がなかったとしても、藩主の座を父親から譲り受けるということもあったことでしょう。しかし、それは伝統や身分制度によって当然視されているため、能力主義の観点からの批判はかなり抑制されていたと考えることができます。

近代化して以降は、能力主義が地位配分原理の前面に出てくるので、前近代ほど再帰性を抑制することは難しくなりますが、そこで大きな役割を果たしたのが、さきほど述べた「学歴」でした。まだ教育の普及度も低く、また教育以外に近代的な知識・技術を習得するルートが希少だった時代には、高学歴者を「能力のあるもの」として処遇することに、現代ほど批判的な視線が送られるわけではなかったといえます。

――なるほど。となると、学歴が大衆化してしまうと、抑制が効かなくなってしまいますね。

そう。教育機会が拡大して高学歴社会となり、また情報通信技術の発達に伴って学校以外のルートからもさまざまな情報が得られるようになるにしたがって、高学歴者の威光は低下していくことになります。「あいつは大学を出ているけど、たいしたことはないね」などと、多くの人がいえる環境ができ上がっていきます。1960年代以降に学歴社会批判が日本で目立って出てくるようになるといわれているのは、そうした事態を指しているわけです。

このような状況のなかで、わたしたち現代人は、何が正しい能力評価のあり方なのかをめぐって煩悶し、自分自身に対しても、また社会にとっても〈能力不安〉を感じるようになります。こうした不安から、わたしたちは藁をもすがる思いで、未来に対応した「新しい能力」を次々と唱え続けることになっていくのです。

これは、ある種の中毒のようなもので、そうしていないと不安なのですが、それを繰り返したところで当の不安心理は根治しないという点で、アルコールや薬物の中毒にも似てやっかいなものです。わたしは、こうした「新しい能力」を求め続けざるをえないことそのものが、わたしたちの現代社会が抱える一種の慢性疾患なのだと思うのです。

プロフィール

中村高康教育社会学

1967年生まれ。東京大学大学院教育学研究科教授。戦後社会と教育選抜システムの変容をテーマとして研究。第2回社会調査協会賞(優秀研究活動賞)受賞。主な著書に、『暴走する能力主義』(ちくま新書)、『大衆化とメリトクラシー』(東京大学出版会)、『教育と社会階層』(共編著、東京大学出版会)、『進路選択の過程と構造』(編著、ミネルヴァ書房)、『学歴・競争・人生』(共著、日本図書センター)などがある。

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