2014.10.22

特別永住資格は「在日特権」か?

金明秀 計量社会学

政治 #在日特権#特別永住資格

否定された「在日特権」デマと特別永住資格

「在日特権」というデマがある。《在日コリアンは日本人にはない特権を享受している》と誣告するもので、例えば「申請するだけで生活保護を受給できる」「税金は納めなくてよい」「医療、水道、いろいろ無料」といったたぐいの流言群のことである。

この種のデマは、その原型を1990年代末ごろに右派メディアが報じるようになり、山野車輪『マンガ嫌韓流』(普遊社、2005年)などの影響もあって2000年代半ばごろからネットで尾ひれを付けながら普及したものだ。

その間15年余りに渡って一貫して勢力を拡大し、《在日コリアンは弱者を装いながら不当に利益をむさぼる悪徳民族だ》といった差別的な認識を増幅させることに一役買ってきた。加えて、真実に誠実であろうとする人にも、「そんなバカげた話はないと思うけど、でも『ない』と言い切るほど知識があるわけじゃないから……」と差別への反論を沈黙させる効果を生み出してきた[*1]。

[*1] 明戸隆浩「””在日特権””のデマに乗せられないために」- Togetterまとめ

このデマは今も収束してはいない。例えば、今年8月、藤岡信勝は「在日特権」デマをまとめたウェブサイトを引用しながら、「在日特権について、大変わかりやすい解説に出合いました。ありがとうございました」とFacebookに投稿し、529人から賛同を受けている[*2]。

[*2] https://www.facebook.com/nobukatsu.fujioka/posts/691304340955343

その一方で、近年になって安田浩一『ネットと愛国』(講談社、2012年)、野間易通『「在日特権」の虚構』(河出書房、2013年)など地道にこれらデマの非現実性を指摘する試みが奏功し、ようやく「在日特権」デマの勢力拡大に歯止めがかかるようになってきたようにも思われる。

「在日特権」反対の旗を振ってきた人々が「在日特権」をデマだと主張しはじめたのは、その趨勢を敏感に察知してのことだろう。例えば、『ザ・在日特権』(宝島社文庫)でこの言葉を創り出したともいわれる野村旗守は、2013年に入ってから、「まるで在日はすべての公共料金を免除されているかのような流言飛語がネット上に飛び交ったが、これらは憶測に基づくただのデマ情報であった」と述べるようになっている[*3]。また、「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)の広報局長ですら、2013年10月末には「在日特権リストってありましたよね? ……これ全部デマです」と断言せざるをえなくなっている[*4]。

[*3] ヘイトスピーチ考① 「在特会の何に危惧するのか?」 – 野村旗守ブログ  なお、2013年5月7日に開かれた「差別主義・排外主義に反対する院内集会」でも同種の発言をしている。[ご本人としては「在日特権という言葉の生みの親」と称されるのを迷惑に感じているとのこと。事実、野村氏としては「在日特権リスト」のようなデマを流してはいない。-2015.3.4追記]

[*4] 在特会広報部が「在日特権リストはすべてデマ」と表明 – NAVER まとめ

表1はGoogleにてツイッターに限定して””在日特権””と””デマ””を期間ごとにアンド検索した結果である。この種の統計は必ずしも実態を正確に反映しているとはかぎらないが[*5]、それでも、ツイートの内容にも注目しながら読んでいくと、「在日特権」をデマだと断定する主張は2013年後半から漸増し、2014年以降は急速に増えていることは否定できない傾向だといってよさそうである。

[*5] Googleのデータベース作成プロトコルはしばしば変更されるため、検索語のヒット件数が必ずしも時期的な変化をそのまま表しているとはかぎらない。また、ツイッターのユーザー数自体が増加を続けている以上、この種の統計が必ずしも関心の増加を意味するとはいえない。また、この両検索語が含まれるツイートの中には「在日特権を否定する在日のデマ」のようなものも存在するため、あくまで一つの参考資料にとどまる。

とはいえ、在特会が自らの組織名に冠した「在日特権」の存在を完全に否定したということではない。彼らが「デマです」と断定したのは、事実でないことが暴露され、在日コリアンの《悪徳》を印象付けるためのツールとして効力が低下したものに限られる。逆にいえば、事実であることが間違いない特別永住資格(詳しくは後述)については、不当な「特権」であるとの主張を強めてすらいる。

在特会らの特別永住資格に対する攻勢は一定の訴求力を持っているらしく、例えば、橋下徹大阪市長は今年9月25日の会見で次のように述べている[*6]。市長は必ずしも特別永住資格が「特権」だとの主張を全面的に支持しているわけではないが、在特会に一定の共感を示した格好である[*7]。

確かに特別、僕、特別永住者制度っていうのは、もうそろそろやっぱり終息に向かわなきゃいけないと思ってる……どういう場合に一般永住の資格は取り消しになるかとか、きちっと定められている中でね、特別永住者制度っていうもので別物を設けてるからいろいろ問題があるっていうのは確かにそのとおり

[*6] http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/page/0000280392.html

[*7] 橋下徹大阪市長は、10月20日の会見で「特別扱いというのは、逆に差別を生むんです」と述べ、特別永住資格を同和対策事業にたとえてみせた。長年にわたって差別と格差を放置し続けた行政の不作為を清算するための政策のことを優遇措置と表現するのはおかしいが、そもそも「特別永住資格」は同対事業のようなアファーマティブ・アクションですらないということは強調しておくべき点である。同対事業では、地区環境の整備、社会福祉施設の設置、公営住宅の設置などのいわゆる「箱物」行政が実施されたが、特別永住資格を持つ在日コリアンは被差別部落に混住していてもそれらのサービスの対象外とされた。特別永住資格に、その種の「優遇措置」は一切与えられなかったのである。http://blogos.com/article/96895/

加えて、「特別永住資格」は「アファーマティブ・アクション」ですらないということは強調しておくべき点である。同和対策事業では、地区環境の整備、社会福祉施設の設置、公営住宅の設置などのいわゆる「箱物」行政が実施されたが、特別永住資格を持つ在日コリアンは被差別部落に混住していてもそれらのサービスの対象外とされた。特別永住資格に、その種の「優遇措置」は一切与えられなかったのである。

さらに今年9月28日には、池田信夫がブログ記事の中で「在特会が在日の特別永住資格を『在日特権』と呼ぶのは、それなりに理由がある」などと記述した[*8]。この記事はあまりにも虚偽記載が多いということで批判が起こったが[*9]、池田氏は虚偽記載を改めることもせず、翌9月29日にはわざわざ在特会とは別のロジックを仕立てあげて「戦後しばらくの経過措置として彼らの事実上の権利を認めたのはしょうがないが、そういう特別扱いはもうやめるべき」だとの主張を繰り返した[*10]。

[*8] 在日はなぜ帰化しないのか – 池田信夫 blog

[*9] 池田信夫さんのブログ:在日はなぜ帰化しないのか の嘘 – Togetterまとめ

[*10] 在日って何? — 池田 信夫(アゴラ) – Y!ニュース

以上の状況を整理すると、一部の荒唐無稽な「在日特権」デマは収束に向かいつつあるようだが、特別永住資格が「在日特権」であるという在特会の主張は、逆に、一部の政治家とメディアのお墨付きを受けて[*11]、一定の支持を得はじめているようにも見えるのである。

[*11] これに関連して、埼玉新聞が今年9月24日、在特会のデモの様子を報じた記事を紹介したい。「「入管特例法廃止を」 在特会が大宮で会合、主張に反対の声も」と題した記事は、「私たちの最終目的は入管特例法の廃止。さまざまな在日特権を認めるべきではない。反日の韓国とは付き合うべきでない」など在特会の主張をそのまま掲載し、かつ、見出しにも利用したことで、あたかも在特会の主張が「価値のある、何らかの正当性をもったものと読者に捉えられてしまう」との危惧が寄せられた(明戸隆浩 前掲URL)。事実、この記事は【サヨク悲報】と題して、ネット右翼系のメディアで好意的に紹介された。

特別永住資格は「特権」なのか

在特会会長は、京都朝鮮学校への人種差別的行為を問われた民事訴訟で、「一番許せないのは、入管特例法によって在日朝鮮人は殺人、強姦しても国外退去されないこと。他の外国人ならば万引きしただけで国外退去だ」「入管特例法を廃止して一般の外国人と同じにして、温かい祖国に帰してあげる」と陳述したそうだ[*12]。

[*12] 「万引きしただけで国外退去」というのはまったく事実に反することで、実際の退去強制事由は、刑法犯でいえば「無期又は1年を超える懲役若しくは禁錮に処せられた者」である。

しかし、旧植民地出身者に与えられた特別永住資格とは、はたして《日本人にはない特権》というべきものなのだろうか。そのことを考えるため、少々長くなるが、在日コリアンの国籍と特別永住資格について、できるだけ細かい法理論に立ち入ることなく、歴史的経緯を解説しておきたい。

なお、戦後の在日コリアンの歴史を正確に理解するには、(1)日本政府、(2)在日コリアンの代表組織、(3)GHQ、(4)朝鮮半島の政体の少なくとも4者をプレイヤーとして視野に入れなければならないが、そのことがこの問題を分かりにくくしている原因でもあるため、本稿では議論を単純化するため日本政府の政策に論点を集約する。

(1)在日コリアン一世は不法入国者か?

ネット右翼の中で流通しているデマの一つに、在日コリアン一世はそのほとんどが密航してきた不法入国者だ、というものがある。だがこれほど荒唐無稽な話はないだろう。なぜなら、一世が日本本土に渡来した植民地時代、朝鮮人は日本臣民だったからである。たとえるなら、政府が推奨する就職先を選ばずに自力で九州から東京の企業に就職した日本人大学生を「密航してきた不法入国者」と呼ぶようなものだ。

なるほど、三一独立運動後の治安対策や内地の雇用過剰感等から、大正14年(1925年)から昭和19年(1944年)まで、植民地朝鮮から内地へ渡航しようとする者には許可制による制限が加えられた[*13]。そして、行政上は許可を得ずに渡航する者を「密航者」と呼んだようである[*14]。しかし、同じ国民の地域移動を法で規制できるわけもなく、あくまで「朝鮮人を保護するため」を名目としたものにすぎなかった。制限外での渡航が「密航」と呼ばれようとも、それは決して「不法入国」などではなかったのである。

[*13] むしろ、この渡航制限に関しては、それをかいくぐって渡航した「密航」を非難するよりも、日本人には適用されない明らかな民族差別的制度が存在したことをこそ批判されるべきであろう。

[*14] 昭和2年(1927年)時点の統計によると、許可を得ずに本土に「密航」した者の比率はわずか0.7%にすぎず(南滿洲鐵道株式會社經濟調査會著『朝鮮人勞働者一般事情』南滿洲鐵道、昭和8年、42頁)、大多数は適切に許可を得て移動していた。

むしろ、植民地期の渡航制限に関して留意すべきことは、それが朝鮮人を《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》した差別処遇であったということだ。

(2)在日コリアンはいつまで日本国籍を保持していたのか

上述の渡航制限のほか、植民地時代にはさまざまな差別政策があったものの、少なくとも国籍という点では朝鮮人も同じ日本国民であった。では、日本に居住するコリアンはいつまで日本国民だったのか。

一般には、「終戦(ポツダム宣言受諾)」(1945年9月2日)によって日本国籍を失ったと考える人が多いようだが、そうではない。ポツダム宣言の受諾によって日本の朝鮮支配は終結したが、それによって実質的に日本国籍が意味を失ったのは朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失うのは、もっと先の話である。

では、「朝鮮民主主義人民共和国や大韓民国の樹立」(1948年8~9月)かというと、それも違う。国家の樹立により、国際法的効果を持つ国籍を手に入れたのは、やはり朝鮮半島に居住するコリアンだけであった。

日本本土に居住していたコリアンが日本国籍を失ったのは、「朝鮮の独立を承認して……朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と定めたサンフランシスコ講和条約が発効した瞬間(1952年4月28日)である――というのが日本の政府および裁判所の見解である。

ただし、法理論上、在日コリアンが1952年時点までは日本国籍を保持していたといっても、実質的には日本国籍に伴う諸権利の行使を制限されていった。

(3)アクロバティックな参政権の停止

日本政府は敗戦直後から民主化に向けて選挙法の改正について協議を重ねた。1945年10月23日に閣議で決定された「改正要綱」に「内地在住の朝鮮人および台湾人も選挙権および被選挙権を有す」[*15]という規定がある。ようするに、日本に在住する朝鮮人・台湾人については、選挙権・被選挙権を保持すると決められていたのである。

[*15] 仮名遣いは現代語風に改めた。

しかし、この内閣案に対して、衆議院議員清瀬一郎が「次の選挙において天皇制の廃絶を叫ぶ者は恐らくは国籍を朝鮮に有し内地に住所を有する候補者ならん」[*16]などと政治的観点から強硬な反対論を展開した。結果、成立した改正選挙法では、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権を当分の内停止し選挙人名簿に登録することをえざるものとする」[*17]という条項が付加され、植民地戸籍に記載された朝鮮人、台湾人の参政権を《当分の間》停止するということになった。

[*16] 仮名遣いは現代語風に改めた。

[*17] 仮名遣いは現代語風に改めた。

ここで重要なことは、在日コリアンは講和条約が発効するまで日本国籍を有するとの立場を日本政府は取っていたにもかかわらず、(i)戸籍法を媒介するアクロバティックなアイディアを導入することで参政権が停止されたこと、(ii)参政権の停止にあたっては、法理論よりもゼノフォビア(異民族恐怖症)による政治的判断が優先されたこと、(iii)結果として、《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という差別処遇はここでも引き継がれたこと、である。

(4)最後の勅令「外国人登録令」

日本国憲法施行の前日1947年5月2日、旧憲法に依拠した外国人登録令が公布・施行された。ここでいう「外国人」とは、日本に居住する旧植民地出身者、とりわけコリアンのことである。これにより、日本に在住する朝鮮人は、法的には日本国籍を持つとされていたにもかかわらず、国籍等の欄に出身地である「朝鮮」という記載がなされるようになった[*18]。

[*18] 「朝鮮」とは朝鮮民主主義人民共和国のことではなく、朝鮮半島をあらわす地域名あるいは「記号」である。1950年以降は本人からの変更手続きがあれば「韓国」に変更することも可能になった。

日本国籍を持つ在日コリアンを「外国人」として取り締まるというのはじつに矛盾に満ちた話ではある。しかし、「朝鮮人は……当分の間、これを外国人とみなす」というあいまいな規定を設けることで、その矛盾を強引に突破しようとしたのがこの勅令である。

繰り返しになるが、ここでも重要なことは、やはり《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇が採用されたということである。

(5)サンフランシスコ講和条約

1952年にサンフランシスコ講和条約が発効するや、日本政府は旧植民地出身者の日本国籍の喪失を宣告した。その際、国際慣習にのっとった手続きはとられなかった。国際慣習というのは、植民地の独立など領土変更にともなって住民の国籍変更が生じる場合、住民に旧宗主国と新独立国の国籍選択権を与えるというものである[*19]。

[*19] 例えば、1875年に日本がロシアとの間で締結した樺太千島交換条約では、住民が従来の国籍を保有しうることが定められているし、同条約の附録条款にはアイヌの国籍選択権が明記されている。戦後の日本政府もこれが国際慣習だとの認識を持っており、1945年12月5日の衆議院議員選挙法改正委員会にて、堀切善次郎大臣は「日本の国籍を選択しうるということになるのがこれまでの例」と述べている。1947年に外務省条約局が作成した「平和条約における国籍問題」と題する調書でも、日本が主張すべきこととして「日本国籍を希望するものに対しては選択権を与えること」が挙げられている。そして、1949年12月21日国会衆議院外務委員会でも、「国籍につきましては、平和條約が具体化しなければ決定をなしかねると思いますが、大体において本人の希望次第決定されるということになるのではないか」と川村政府委員が答弁している。

国籍選択権が与えられなかった件について、前述のブログで池田信夫は韓国のせいだと主張していた。右派の中にしばしば見られる見解だが、日本国籍の離脱というのは日本の政策である。日本の政策について、韓国に責任があったかのように主張するのはナンセンスである。そのことは、講和条約発効と同じ日、外国人登録法が制定されたが、国籍欄には韓国ではなく「朝鮮」と記載され続けたことからも明らかである。

あるいは、在日コリアン側から国籍選択の要求がなされなかったではないかという主張もあるが、それに対しては田中宏による簡潔なコメントを紹介しておきたい[*20]。

在日コリアンの要求云々についても、日本側が在日の要求に耳を傾けて政策決定をしたことがあったろうか。例えば、外国人登録法に初めて指紋押捺義務が登場するが、もちろん在日コリアンからの要求があったわけではない。

この「宣告」後に待っていたのは、外国人登録法での指紋押捺義務の登場であり、二日後に制定された戦傷病者戦没者遺族等援護法に国籍・戸籍条項が付され、国家補償から排除されたのである。以後のさまざまな制度的排除・差別は、ことごとく「国籍」を口実にすべて正当化された。

[*20] 田中宏編『在日コリアン権利宣言』(岩波ブックレット)p.5

植民地時代から一貫して《形式的には日本国民、しかし実質的には外国人扱い》という行政上の差別処遇を採用してきた経緯からいっても、日本政府が国籍選択権を与えなかったことは、法理に基づくものというより、さまざまな政治的排除を目的としたものだと考えるのが自然である。

(6)特別永住資格

1952年に在日コリアンは日本国籍を名実ともに失った。しかし、大韓民国も朝鮮民主主義人民共和国もサンフランシスコ講和条約の当事国ではなく、したがって日本は両国とも国交を回復していなかった。それは、日本国籍の代わりになる外国籍がない、という状態を意味する。日本政府としては国際人権法の手前もあり、事実上の無国籍のまま旧植民地出身者を放り出すという形にすることは避けたかったのだろう。しかも、技術的な問題として、日本国籍を喪失した旧植民地出身者は、パスポートもビザも持たず、一般の外国人のいずれの在留資格にも当てはまらなかった。

そこで、日本政府がどういう選択をしたかといえば、問題を「先送り」した。すなわち、旧植民地出身者については、「別に法律で定めるところによりその者の在留資格及び在留期間が決定されるまでの間、引き続き在留資格を有することなく本邦に在留することができる」としたのである。

最終的に「別の法律」の定めができたのがいつかといえば、様々な紆余曲折があったが、最終的には1991年の「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」(通称、入管特例法)を待つことになった。サンフランシスコ講和条約から、じつに約40年もたってのことである。これによって在日コリアンら旧植民地出身者に与えられたのが、「特別永住」という滞在資格である。

「特別永住」というと何か「特権」であるかのような響きも感じられるが、じつのところ退去強制(場合によっては一度も足を踏み入れたこともなく、言葉も分からない「祖国」へ)の対象になりうるなど、「権利」とは程遠い、単なる滞在資格の一つにすぎない。しかも、ひとたび日本を出国すれば、自宅のある日本へと入国するために「再入国許可」を得なければならないなど、けっして安定的な地位ではない。

1998年11月、国連自由権規約委員会が出した対日勧告の中に次のようなくだりがある[*21]。特別永住資格がこの要請にこたえられるものでないことは、自明であろう。

出入国管理及び難民認定法第26条……に基づき、第2世代、第3世代の日本への永住者、日本に生活基盤のある外国人は、出国及び再入国の権利を剥奪される可能性がある。……委員会は、締約国に対し、「自国」という文言は、「自らの国籍国」とは同義ではないということを注意喚起する。委員会は、従って、締約国に対し、日本で出生した韓国・朝鮮出身の人々のような永住者に関して、出国前に再入国の許可を得る必要性をその法律から除去することを強く要請する。

[*21] http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kiyaku/2c2_001.html

在特会は入管特例法の存在を「在日特権」だと主張している。同会の桜井誠会長は、在日コリアンのライターである李信恵さんに向かって、「入管特例法は特権だ。漢字で特別法と書く。特別法とは特権のこと」などと述べたらしい[*22]。しかし、特別法とは、一般法ではとらえきれない例外的な問題を扱う法律を指す言葉であり、「特権」とは何の関係もない[*23]。ましてや、《日本人にはない特権》でなどあろうはずもない。あくまで「外国人」の中では比較的安定的な地位であるということにすぎない。

[*22] 「差別排外デモ」密着ルポ 在特会・桜井誠会長への突撃取材(下)

[*23] 現行法の中で「特例」の文言を名称に含む法令は686件にものぼる。そのいずれも「特権」とは何の関係もない。

また、橋下市長は「特別永住者制度っていうのは、もうそろそろやっぱり終息に向かわなきゃいけないと思ってる」というが、むしろ特別永住資格の創出そのものがまだ最近のことであり、その間ずっと不安定な状況に据え置かれてきたという経緯が完全に無視されている。

そもそも、欧州各国では、居住国生まれの三世以降が外国籍のまま参政権を所持しないことを人権侵害だとみなし、重国籍や地方参政権付与などによって問題を解消する傾向にある。それに比して、かりに、日本では民族浄化を目的とした極右排外主義団体のデマや誣告に乗せられる形で、滞在資格を「特権」として議論しようとしているとすれば、民主主義を標榜する法治国家としてあまりにも情けないことではないだろうか。

サムネイル「Reflective Distortions 3D」Michael Gil

http://www.flickr.com/photos/msvg/5505031142

プロフィール

金明秀計量社会学

関西学院大学社会学部教授。専門は計量社会学。テーマはナショナリズム、エスニシティ、階層など。1968年生まれ。九州大学文学部哲学科(社会学専攻)卒業。大阪大学人間科学研究科博士課程修了。京都光華女子大学准教授を経て現職。著書に『在日韓国人青年の生活と意識』(東京大学出版会)、他がある。在日コリアンについてのウェブサイト「ハン・ワールド」を主催。

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