2011.06.20

正当性と正統性

大屋雄裕 法哲学

政治 #正当性#正統性

たとえば典型的な事例として、敗訴判決を受けて行政訴訟の原告側弁護団が「不当判決」という垂れ幕を掲げて出てくるような場面を想像してほしい。もちろん彼らは当該判決に不服であり、それが「正しくない」ものだと思っているのだが、しかしなおそこで否定されている「正しさ」と否定されていない「正しさ」の差異を、われわれは考えることができる。

ふたつの「正しさ」と「せいとうせい」

前者は、この事例において納得のいく結論を与えているかどうかという問題である。仮に彼らの満足行くような判決が出されていたとしたら、「正当な判断だった」とうなずくことになるだろう。このように、特定の判断が「正しい」か「正しくない」かを問題にするのが「正当性」(justness)である(なお、《正当であると証明できること》=「正当化可能性」justifiability、あるいはその証明=「正当化」justificationは、本当に最終的に区別できるのかは別として、さしあたり「正当性」それ自体とは別の概念である)。

一方、彼らがいかに裁判所の具体的な判断に不満であるとしても、その裁判所が事件に対して判断を下す適法な権限をもち、またその判断が社会で通用する権威をもっていることを認めているからこそ、彼らは訴訟提起という行為を選んだのだということができる。仮に裁判制度自体を、あるいはその裁判所を設置した国家自体の存在を不当なものだと考えているとか、それは茶番劇にすぎず得られた判決にもまったく実効性は期待できないと考えるなら、そもそも訴訟という手段に訴えようとは思わないだろう。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際のセルビア人勢力指導者であったラドヴァン・カラジッチの事例をみてみよう。イスラム系ボスニア人などに対する民族浄化を指示した疑いで2008年に逮捕された彼は、国連の設置した旧ユーゴスラビア戦犯法廷に起訴されたが、裁判の冒頭に行われる罪状認否に対して答弁自体を拒否している。当該法廷は国際社会を代表していないNATOの組織にすぎず、自分を裁く権限をもっていないというのである。

このように裁判所自体を受け入れない態度と比較したとき、冒頭の行政訴訟の事例は、今回の判断には不服であるとしても裁判所自体の存在と権威は認めている態度だということになろう。このように、具体的な決定が「正しい」権限に由来しているのか、「正しい」手続きによって形成されたかといった点を問題にするのが「正統性」(legitimacy)である。

このようにわれわれはレベルの異なるふたつの「正しさ」を分けて議論するのだが、困ったことに日本語ではどちらも「せいとうせい」と発音されるので、前者を「当たるせいとうせい」、後者を「統べるせいとうせい」と説明したり、もう面倒になってjustnessとlegitimacyと横文字のままで喋っていたりする。「研究者は小難しい英語を使って格好をつけている」などと批判されることがあるが、ときにはこのような事情があるのだと、これは余談。

民主政と正統性の課題

ところでこのように分析の道具を準備するのは何故かというと、民主政の抱える課題をこの《正統性の根拠》という面から考えることができるからである。つまり、民主政とは基本的に多数による少数の支配であり、多数による決定に対して敗れた少数派はつねに不満を抱えることになる。多数派の支える政府の決定を「正当」だと思わない彼らが、しかし政府の命令にしたがう根拠があるとすれば、それは「しかしそれでもこれが政府の合法的な命令には違いない」という正統性だと考えられる。

逆にいえば、正統性を支える根拠が失われたとき、少数派はそれでも政府にしたがう義務があるとは考えず、穏やかにはサボタージュや市民的不服従、激しくは反乱・革命・独立運動といった実力行動に訴えて自ら「正当」だと信じるところを実現しようとするだろう。それが正しいかどうかは別にして少数派が正統性を疑う理由のありそうな社会、たとえば法的な人種差別が維持されていた時代のアメリカを考えれば、そこで黒人たちが政府の決定にしたがうべき義務があると考えるかどうかは疑問だということになる。そもそも、「代表なくして課税なし」とはアメリカ独立運動それ自体のスローガンだったはずだ。その意味するところは、つまり代表を選ぶ権利こそが政府の正統性の根拠であり、それが欠けている場合には服従の義務がないということである。

これ以外にも正統性の根拠としてはさまざまな候補をあげることができる。たとえば、同胞愛や民族意識(同じ◯◯人として政府にはしたがおう)、逆転可能性(次に自分たちが政権を取ったら相手にも言うことを聞かせたい)、あるいは首尾一貫性(統治が首尾一貫しており、結論は違うとしても一定の意見として尊重できる)。気づかれた方もいるだろう通り、つまりこれは「法にしたがう義務」、遵法責務を支える根拠の議論に等しい。法が政治によってつくられることを考えれば当然のことではある。だが重要なのは、いずれにせよ《内容的な正しさ》はここに入ってこないということだ。

不信任・問責と正統性

正当性が満たされていないことと正統性の問題とは、直結していない。統治者が被治者に対して服従を要求する根拠を欠いているという、つまり不信任決議・問責決議の根拠は、したがって正統性の問題でなくてはならない。正当性の欠如のみを根拠にできるのなら野党は(つまり彼らの視点からはほぼつねに政府の政策は不当だということになるであろうから)たちまちに不信任決議を提出するだろうということでもあるし、そもそも不満があっても決まったことは守るというのが民主政の前提として組み込まれていたはずだからという説明の仕方もある。

不信任決議案の否決を受けて、西岡武夫・参議院議長が「所感」を発表したそうである。通読したが基本的にはすべて現在の菅政権のしていること、あるいは同決議案採決前後の対応が正しくないとか、それが首相個人の能力不足に起因しているということであって、つまり正当性の問題である。そんなことを理由にしていいのであれば野党には最初から菅総理は無能だという評価を持っていた人も多いだろうから、何もいままで待つこともなかったということになってしまうだろう。参議院において議事運営のルールを破ったとか、つまり正当性をめぐる議論から中立な・正統性に関わる問題があったのなら議長として批判することも正当だろうが、これでは特定の正当性にコミットしていると批判されてもやむを得まい。

一方、北沢俊美・防衛相は「所感」に対して、同じ民主党なのだから問題があれば首相に是正を要求すべきだと批判したという。これについても、会派から離脱していることに象徴的に示されているように《対立する諸党派からの中立性》ということが議院における議長の権威を支える正統性の根拠であることを考えれば、やはり正当とは思われない。要するにふたつの正しさと「せいとうせい」の違いに鈍感な人々というのが政治内部のあちらこちらにもいるものだ、ということなのではあろう。

だが、では菅政権の現状には正統性の観点からの問題はないのだろうか。ここからはまた少し別の話になる。

推薦図書

民主政が合意にもとづく統治だというのはじつは「便利な嘘」にすぎない、多数派による少数派支配の制度化であるということを正面から認めた上で、人民の欲求の忠実な実現をその目的とする「反映的民主主義」と、悪政に対する批判可能性を担保することを重視する「批判的民主主義」の対比によってさまざまな民主政のあり方を分析しようとする。コンセンサス社会日本の変革について論じる部分はとくに、その後の局面に立つ現在のわれわれにとって示唆的である。

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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