冷戦後日本外交にリベラルの水脈を探る

「近い過去」にリベラルを探る

 

外交におけるリベラルとはいかなるものか。一般的には国際協調主義などが想定されるであろうが、日本では歴史認識問題なども重要な要素であろう。しかし定義を試みた結果が、現状を分析するに際して有用かといえば、そうとも限らない。日本の文脈ではリベラルとは見なされないであろう安倍晋三政権も「積極的平和主義」を掲げ、韓国政府と従軍慰安婦問題で解決に向けた合意に達している。

 

そこで本稿では、冷戦後における日本の主要政権の外交を特徴づけることで、リベラルと想定される要素が日本の文脈ではどのような形で可能であり、それが時にいかなる困難や課題に直面したのかを考察する。いわば近い過去の歴史的文脈の中にリベラルを見出す試みであり、そこから冷戦後の日本外交が本来持っていた議論の幅広さを想起することが可能になるであろう。

 

対象とする「近い過去」としては五五年体制が終わる一方で北朝鮮核危機が顕在化した細川護煕政権から始め、小泉純一郎政権成立までを取り上げることとする。小泉以降、粘り強い対話や合意形成よりも、「毅然とした外交」が一世を風靡するようになり、日本外交のスタイルが変質したように思われる。小泉以前と以後を対比させる形で、本稿末尾では近年における外交の変質について考えてみたい。

 

 

非自民連立政権と北朝鮮核危機

 

一九九三年八月、自民党と共産党を除く七党八会派による連立で成立した細川政権は、長きに及んだ自民党単独政権に終止符を打った清新さで発足当初、各種の世論調査で軒並み七〇%を越える高い支持率を得た。

 

外交面において細川首相は、就任当初から過去の戦争について「侵略行為」だと明言して「深いおわび」を表明した。それまでの自民党の首相は党内の異論もあってここまで踏みこむことを回避しており、非自民でこそ可能になったといえよう。

 

一〇月にはエリツィン露大統領が来日してシベリア抑留について謝罪した。エリツィンは「自民党政権なら自分は来なかったかもしれない」「細川首相の侵略発言があったから、自分も思いきったことが言えた」と述べた。対外強硬姿勢が相手国の強硬姿勢を呼び起こす「負の循環」が一般的な昨今だが、逆もあり得ることを示す冷戦後の一幕であった。

 

細川はまた、同じく一〇月の自衛隊観閲式で「急激に変わった国際環境の中で、世界のどの国にも率先して、わが国が平和を主導し、軍縮のイニシアチブをとっていかなければならない」と、軍縮を掲げる異例の訓辞を行った。現在は想像しづらいが、米ソ冷戦終結直後のこのとき、世界的に語られていたのは「平和の配当」であり、細川の訓辞も冷戦後の息吹を感じさせるものであった。

 

しかしその傍らで進行していたのが第一次北朝鮮核危機であった。それまで「友好価格」によるエネルギー供給などを受けていたソ連の消滅によって苦境に立たされた北朝鮮は核兵器の開発に体制の生き残りを賭けるようになる。一九九四年二月に細川が訪米した際、貿易摩擦をめぐる物別れが大きく報道されたが、実際には事態が軍事衝突にまで発展した場合、日本がいかなる対米協力ができるか、クリントン大統領から対応を求められていた。

 

帰国した細川は内々に検討を指示するが、当時の法制度ではほとんど何もできないことが明らかになる。結果としてこの時の危機はカーター元米大統領の訪朝によって回避されるが、朝鮮有事に際して日本が対米協力をできなれければ日米同盟は崩壊するという危機感が日米の当局者を駆り立て、ガイドライン関連法の整備へと繋がることになる。

 

「冷戦後」は日本にとって緊張緩和と平和の配当の時代なのか、それとも日本を取り巻く国際環境の不安定化を意味するのか。「冷戦後」の持つ二面性に翻弄された非自民連立政権であった。

 

 

自社さ連立政権の模索

 

小沢一郎との対立もあって非自民連立を離脱した社会党は、政権奪還を期す自民党との連立に応じ、新党さきがけも加えて社会党委員長の村山富市が首相に就いた。第一次北朝鮮核危機が収束したことで有事対応がひとまず棚上げされ、自社さ連立を可能にした側面も見逃せない。

 

突如首相に担ぎ上げられた形の村山は政権発足早々、自衛隊や日米安保の容認に潔く舵を切った。村山にしてみれば「社会党委員長よりも日本国首相の地位の方が重い」という苦悩の末の決断であったが、憲法9条や自衛隊といった社会党の根幹に関わる突然の方向転換だっただけに社会党は一種のアイデンティティ・クライシスに陥り、同党の急激な衰退に拍車をかけることになった。一方で村山は、それまでの社会党の安保政策全般が間違いであったと勢いづく保守系議員の国会での攻勢に対し、「社会党の運動の役割、成果というものは正当に評価されもいいのではないか」との見解を示した。確かに社会党の反対がなければ、ベトナム戦争など冷戦下におけるアメリカの軍事行動に対して、日本がどれほど距離をおくことが可能であったか、疑問であろう。

 

結果的に見れば、これに先立つ海部俊樹政権時の湾岸戦争(イラクのサダム・フセインが突如クウェートに侵攻したことに始まる)や、このときの村山首班など突発的な事態への対応を迫られる局面がつづいたことによって、「戦後平和主義」が冷戦後の新たな国際環境にあって、いかなる形で発展的変革を遂げることが可能なのか、その問いを十分に議論し、練り上げる時間的余裕が奪われる形となった。

 

一方で村山政権の外交面における最大の事跡は、戦後五〇年の八月一五日に発表した村山談話であろう。この内容に否定的であった自民党の閣僚も、自社さ連立の維持を優先して異議を唱えることを控えた。戦後五〇年の節目と、社会党委員長が首相の座にあることが交差する偶然によって可能になった談話であった。同談話に否定的な安倍晋三首相も、二〇一五年の戦後七〇年談話において事実上、村山談話を継承するなど、村山談話は歴史認識問題について日本政府の姿勢を示す基準軸を形成することになったといえる。

 

自社さ連立を受け継いだ次の橋本龍太郎首相は、外交安保では沖縄の米軍普天間基地の返還合意(一九九六年四月)で記憶に残るであろう。一九九五年九月に沖縄で発生した三人の米軍人による少女暴行事件によって、沖縄では本土復帰以前から蓄積してきた過重な米軍基地の負担に対する憤りが噴出していた。

 

九六年四月には来日するクリントン大統領との間で冷戦後の日米同盟の意義を高々と掲げる日米安保再定義が予定されていただけに、橋本としては、日米安保を足元で支える沖縄情勢の沈静化が喫緊の課題であった。そこで打ち出されたのが新聞へのリークを含め、劇的に演出された「普天間返還合意」であった。

 

この返還合意では県内の「代替施設」は、「ヘリポート」であったのだが、それが現行案では辺野古沿岸に滑走路二本、港湾設備まで備える新基地へと膨張・変貌した。冷戦後日本外交における最大の謎の一つといってよかろう。それに伴って「返還」は「新基地建設」に変質したと言わざるを得ない。長年蓄積された沖縄の憤りを鎮めるという当初の目的も、第二次安倍政権では歯止めなき強硬策による沖縄県側との全面対立という倒錯した事態に至っている。在日米軍専用施設の7割以上を占める沖縄の米軍基地は、その大半が日本本土復帰前に米軍によって強制的に接収されたものだが、仮に辺野古新基地がこのまま建設されれば、日本政府が強権的に建設する米軍基地ということになる。そのことは中長期的にみて沖縄の米軍基地を取り巻く環境、そして日米安保体制そのものを不安定化させかねない。

 

同問題については別項に譲るが(宮城大蔵・渡辺豪『普天間・辺野古 歪められた二〇年』(集英社))、橋本首相は普天間返還と並行して日米軍事協力の実効性を高めるガイドライン関連法案に取り組んでいた。橋本は周囲に「順番を間違えるな」と指示している。普天間返還が先で、次にガイドラインという「順番」だが、そこには耳目を引く普天間返還合意によって、ガイドライン関連法案に対する世論の警戒や批判をかわす狙いが濃厚であった。

 

自社さ連立は、社民党(社会党から改称)とさきがけが連立を解消することによって、終焉を迎える。特に社民にとっては、事実上、沖縄県知事から抵抗の手段を取り上げることを目的とした米軍用地特措法の改正など、沖縄の基地問題をめぐる自民党との溝が大きな要因であった。社民はその後、鳩山由紀夫政権でも「(普天間基地の)最低でも県外」の撤回に抗議して連立を離脱している。【次ページにつづく】

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シノドス国際社会動向研究所

vol.220 特集:スティグマと支援

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・内田良「児童虐待におけるスティグマ――『2分の1成人式』を手がかりに考える」

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