「地球惑星科学の哲学」ってどんな学問?

「地球惑星科学の哲学」という言葉を聞くと、唐突な組み合わせのように思われるかもしれない。地球惑星科学? それと哲学? そもそも、科学と哲学というのは水と油のような関係なんじゃないかと言われそうだ。しかし、我々の宇宙観と哲学という2つの間には、長い付き合いの歴史がある。それも、文明が始まって以来の付き合い、と言ってもいいくらいだ。

 

例えば、古代のエジプトやメソポタミア、古代中国、日本でも古墳時代などの墓には、生前の埋葬者の生活風景と共に当時の宇宙全体(ドーム状の閉じた空間や、星々の輝く夜空)を表した壁画が描かれているが、それは、宇宙全体と私たちの生との間に深い関係があったこと、当時の人々が理解した宇宙全体の中で自身の生の意味を解釈していたことに由来している。

 

現代の地球惑星科学においても、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1897)」が、研究全体のモチーフとして比喩的に引き合いに出されることが多いが、こうして宇宙全体を知ることと私たちの生との間には、切っても切れない関係があると考えられる。

 

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ポール・ゴーギャン

「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1897)」
画像:File:Paul Gauguin – D’ou venons-nous.jpg – Wikimedia Commons

 

 

冒頭に出てきた「地球惑星科学の哲学」というのは聞き慣れない言葉だと思うので、テクニカルタームを説明しよう。まず、「地球惑星科学」とは何なのだろうか。次に、「~の哲学」という言葉遣いは何なのか。

 

 

地球惑星科学とは

 

宇宙についての観察や推測は、古代文明から始まっていたが、宇宙における我々の位置が科学的に認識されるようになったのは16世紀あたりである。地球が球形であることがマゼランの世界一周航海によって実証され、望遠鏡の発達により月の表面の凹凸や木星の衛星が発見されるにつれ、地球が宇宙の中心ではなく太陽系の一惑星であることが現実的な認識として広まっていった。ここら辺は、天動説から地動説へ、ということで聞いたこともある読者も多いだろうと思う。

 

地球惑星がどのように太陽系の中で生まれたのかについては現代まで研究が続いているが、1980年代には太陽系がどのように形成されたのかについては、原理的に大方のことは分かった状態になった。こうした流れを受けて、1990年代初頭の日本では、地球を研究する分野が「地球惑星科学」という総合的な分野となった。

 

それまでの地球科学との大きな違いは、地球を一惑星として捉え、生命を育む「奇跡の惑星」地球がどのような歴史や現状、未来を持つのかを様々な科学を総動員して明らかにしよう、という立場がより鮮明になってきていることだ(注1)。

 

近年、太陽系以外の惑星系、いわゆる「系外惑星系」が発見されることで、このようなアプローチの重要性はますます高まってきている。私たちでも関心があるような、「宇宙には地球しか生命がいないのか?」、「宇宙には人間のような宇宙人がいるのか?」といった問いに、地球型惑星や生命の成立条件といった観点から、生物学者と惑星科学者が一緒に考える、といったことも当たり前のようになってきた(注2)。地球ってそれほど「奇跡の惑星」ではないんじゃないの? という認識が広まってきたのも、ここ10年ほどの新しい動向だ(この点については、後ほど再度触れよう)。

 

 

「~の哲学」とは:最近の科学哲学のトレンド

 

次は、「~の哲学」という言葉遣いを見てみよう。哲学というと、プラトンだとかカントといった名前が思いつくかもしれないが、そうした個人の哲学体系ではなく、学問だとか活動を対象とした「~の哲学(philosophy of ~)」というのが、現代でよく使われるようになっている言い回しである。それも、「成功の哲学」だとか「経営の哲学」といったようなハウツー的なものではなく、学問分野として成立したものだ。

 

有名なところだと、「心の哲学(philosophy of mind)」だとか、「言語哲学(philosophy of language)」といったものがある。心の本質とは何か、心と物体との違いは何か(詰まるところ同じものなのか)、であるとか、言葉が意味を持つのはどういうことか、哲学の問題は言語の問題に帰着するのか、などが代表的な問いである。

 

そうした中、ここ30年ほどで科学を対象とする哲学、つまり「科学哲学(philosophy of science)」が、個別科学を対象としたものへと変化してきている。科学といっても色々あって、例えば物理学や化学のような普遍的・法則的なものもあれば、進化学や地球科学のように法則を持たず歴史的データを積み上げて構築していくようなタイプのものもあるから、十把一絡げにできない、というのが根本的な理由である。

 

地球惑星科学は、こうした物理学・化学・生物学(進化学)・地球科学・惑星科学といったあらゆる自然科学のハイブリッドであるという性格や、自然をまるごと理解するというスケールの大きさに特徴がある。何て言ったって、地球全体や惑星すべてが対象なのだから。科学哲学の一分野としての「地球惑星科学の哲学」は、このような地球惑星科学という考えがどのように生まれたのか、その理論的・社会的背景とは何か、膨大な地球惑星科学のエリアの中でどのように学際融合的な研究が進んでいるのか、といった地球惑星科学に即した研究を行っていくのが眼目である。

 

と言っても、「地球惑星科学者」というものが存在せず、実際のところは地球物理学、惑星科学、惑星地質学、宇宙生物学のような各専門を持つ人びとが境界領域を埋めていくようにして緩やかな連合体である地球惑星科学が存立しているように、地球惑星科学そのものを対象とした科学哲学というのも実際上は存在しない。簡単に言うと、領域があまりにも広すぎて全体像を語るというのが極めて難しいということである。

 

さらに、地球惑星科学という総合学問が1990年代に誕生してまだ日が浅いため哲学分野からの研究が追い付いていない、という事情もある。現時点では、伝統的な地質、地球物理、地震学、惑星科学といった領域でのケーススタディを積み重ねているのが実情である(注3)。

 

 

もう1つの「地球惑星科学の哲学」:私たちは一体何者なのか?

 

「~の哲学」には、「~を対象とした哲学」というのよりも他に、「~が持つ深い意味」ぐらいの緩い仕方で使われることもある。そして私が注目したいのは、むしろこちらの意味での「地球惑星科学の哲学」である。近年の(小)惑星探査の成果によって、私たちは自分たち生命の起源や将来について、より深く広い展望が得られるようになってきている。そうしたときに、私たちは自身をどのように再定義し、存在意義を書き直していくのか。こうした論考がここ10年ほどで、特に英語圏を中心に活発化してきている(注4)。

 

この意味で地球惑星と生というのを考えるのであれば、難しそうな哲学書を読まなくとも、SF小説やSF映画を鑑賞するだけでも十分なインスピレーションが得られるだろうと思う。例えば、私が授業でよく使っているのが、手塚治虫の『火の鳥』である。この作品では、不死の象徴である火の鳥が、人類史の始まり(ヤマト朝廷の誕生)や、電子頭脳によって人類が支配された近未来、地球外惑星といった様々な場面で何度も登場する。これはおそらく、全宇宙を貫くあらゆる文明活動の源にあるのが、形を変えくり返される命の営みであるという、手塚の深い洞察に基づくものであろう。

 

そうした手塚の主張が最もストレートに現れるのが、未来編で明確なビジョンとして現れる「コスモゾーン(宇宙生命)」という概念だ。この未来編では、愛、命、死別、孤独、生命の意味といった私たちにとって最も重たいテーマが扱われているが(素晴らしい筆致であるので、未読の読者は是非ご覧頂きたい)、ここでの文脈において重要なのは、コスモゾーンという汎宇宙生命論(宇宙を構成する万物――素粒子、原子、細胞、人間、地球、太陽系、銀河――が、すべて火の鳥の一部であり生き物であるという考え)をもとに、過去・現在・未来の地球文明やそこに登場する個々人の生の<意味>というものが叙述されている点である。

 

マクロ的な視点から眺めて初めて、ミクロ世界での個々のイベントに彩が添えられる――言わば遠近法の消失点のような役割を、コスモゾーンという概念は担っているわけである。私たちの個々の生の存在意義や意味というものを理解するとき、宇宙全体についての理解が常に底流として流れているということを、手塚の『火の鳥』は教えてくれているように思える。

 

 

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手塚治虫『火の鳥』未来編(1967-68)

30世紀に電子頭脳によって戦争が起こり、超水爆によって全人類が滅亡する。そうした中、唯一残され永遠の命を与えられた山之辺マサトの意識が、火の鳥と宇宙を旅するシーン

 

 

科学(人類)の歴史を紐解いてみても、私たちは宇宙ないし世界全体についての新しい知見を得るたびに、自己の立ち位置ないし存在意義というものを書き直してきたことが分かる。ここでは西洋の伝統に則って見てみることにしよう。

 

古代から近代までは、私たちの住まう地球が世界の中心で、自分たちこそが宇宙の中でも唯一の知的存在であると長らく考えられていた。それが、地動説の登場によって世界の中心が太陽に移り、地球が太陽の周りを回っていることになると、地球上のすべてのものの意味が変わってくる。想像力たくましい学者の中には、宇宙には太陽系のような惑星系が無数に存在し、地球人のようなものが遍在するのではないか、とさえ主張する者が現れ始めた(注5)。しかしこれは荒唐無稽な想像であって、実際には地球型惑星が地球以外に発見されないわけだから、地球のみが生命を育む惑星であるという常識が根強く続いた。地球は文字通り「奇跡の惑星」とされてきたわけだ。

 

ところが、1995年の系外惑星の発見を境に、劇的に状況が変わった――というか、それまでの常識が崩れ、新たな可能性が拓けた。現在までプラネットハントの営みは続いてきているが、2017年2月現在、確認されてきた系外惑星の数は驚くことに3400にも上っている(注6)。これだけ惑星があれば、1つか2つぐらい、地球のような水の惑星があって、地球人のような存在があったとしても不思議ではなさそうだ。クラクラきてしまうような話ではあるけども。

 

さて、私たちは考える。これだけの数の惑星が、そして今後何万個、何百万個と確認されていくであろう惑星があることを前提としたとき、私たちの存在意義とは何なのだろうか、と。もしかすると、私たちは宇宙によくある知的生命体のタイプβ(あるいはタイプγ?)に属するのかもしれないし、あるいは本当に、「奇跡の惑星」に生まれた唯一無二の知的生命体なのかもしれない。ではそのとき、私たちはどのような運命をたどっていくべきなのか。

 

私たちは宇宙へと活動の場を広げ、生命というバトンを次の生命(人工的なものであれ)へとつないでいくのが務めであるのか。あるいは、手塚治虫の『火の鳥』が描くように、私たち宇宙生命(コスモゾーン)は永遠の円環の中で滅亡と再生とをくり返すものであるのか……。

 

私たちには、まだ、どれが正しいピクチャーであるのかは分からない。しかし、宇宙や地球惑星についての知見が拡大するにつれ、私たち自身の捉え方が変わっていくだろうことは確かだろう。それは逆に言えば、私たちが自身についての正しい理解を得るためには、宇宙の根本的な摂理を知ることが重要だ、ということである。【次ページにつづく】

 

 

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