2015.07.21
うりずんの月桃と賛歌――沖縄戦「慰霊の日」に何を継承するか
はじめに
2015年6月20日、那覇市南風原の県立公文書館において、沖縄戦の記録映像「1フィートフィルム」の上映会が行われた。1フィート運動の会は、1983年12月8日の発足以来2013年3月の解散まで、市民からの募金を元に米軍が撮影した記録映像を購入し沖縄戦の実態を伝えてきた。
上映後、理事を務めた石原絹子さんはNHKの取材に応え「70年というのは、60年とも80年とも違う。沖縄には三十三年忌があるが、それを2回過ごしたね、と思う」と語った。
そして、日本兵が自分たちを守ってくれると信じたけれど、いざ戦争が始まったら、日本兵は直接間接に島の人達を殺した。人間の心というのは教育によって天使にも悪魔にもなる。何とか知恵を出して、英知を出して、同じことを二度と起こさないようにしてほしい、と続けた。
石原さんは7歳の時、避難先の壕を日本兵に殺すと脅されて追われ、艦砲射撃や爆撃の中で一緒に逃げていた家族全員を亡くし孤児となった。夏の真昼に遺骨を探してまわり、現在「魂魄の塔」のある糸満市米須の辺りで母と兄を、摩文仁で幼い妹二人を見つけた。辺りは戦争で亡くなった人の骨でいっぱいで、雪が降ったような光景だったという(注1)。
(注1)「沖縄戦7歳一人ぼっち:戦災孤児の戦後70年」『沖縄タイムス』2015年5月18日。
石原さんにとって1フィート運動のフィルムは沖縄の大事な資産であり、青少年の教育に活用されるよう望んでいる。例えばナチスの残酷さが世界によく知られているのに比べ、「一番醜い戦争」ともいわれる沖縄戦の実態への理解はまだ広がっていない、と結んだ。(注2)
(注2)ニューヨークタイムスの従軍記者ハンソン・ボールドウィンの表現が念頭にある。ハンソン・W・ボールドウィン『勝利と敗北:第二次大戦の記録』朝日新聞社、昭和42年、435頁。
ナチスの残酷さ――ホロコースト――と比肩される沖縄戦。この認識を重く受け止めなくてはならない。「あらゆる地獄を詰め込んだ」地上戦の実相を、どのようにして、誰の目から伝えていくのか。そして、誰に伝えるべきなのか。
1フィート運動は30年間をかけ、この問いに一つの視角から応えるべく多くの記録映像を公にしてきた。ただ、米軍のカメラが入らなかった場所、日本兵や住民しかいなかった場所の映像はない。そこでの出来事、映像に残らなかった一半は牧港篤三・豊平良顕らの『鉄の暴風』(1950年)をはじめとする文章の記録、証言が支えている。「県民総遺族」の沖縄にとって、映像だけでなく文章もまた重要な「記録遺産」だと同会は位置付けてきた。
記録映像や証言文書とあわせ、語り部による証言、壕やガマの戦跡、遺品を集めた史料館、慰霊の碑や塔、唄が沖縄戦の記憶を伝えている。しかし70年が経過し、生存者として何が起きたのかを語れる人は少なくなりつつある。戦争中に4-5歳の幼児であった場合、当時の状況を順序立てて話すのは難しい。一定程度の年齢に達していた人でなければ証言することができず、それだけ時間の猶予は失われつつある。
かつて牧港は「沖縄戦は敵であるアメリカ軍との闘いであり、日本軍との確執であり、飢えとの闘いであり、老人の戦争であり、幼児にとっての戦争であり、沖縄の土着思想・文化にとっての戦いですらあった」とし、「その姿は一様ではなく、さまざまな形によるひろがりと深さを持つ」とした。
そうした「点と線にまたがる膨大な戦争の形態を抱えこんだ人間災厄、つまりはどんなに委曲をつくしても全くの姿がとらえにくい悲惨という事実を軸とする戦争」であるだけに、果たして沖縄戦がなんであったかという問いに日本国民は何らかの方途を探し出し答えなくてはならないと訴えた(注3)。
(注3)牧港篤三『沖縄の悲哭』集英社、1982年、110-111頁。
あれから三十余年が経過したが、どれほどの認識の深まりがあっただろうか。どのようなアプローチが必要なのか、その先にある何を伝えるべきなのか、ここで改めて考えたい。
『うりずんの雨』の空白 2015/6/21
6月20日から21日にかけ、沖縄は断続的な豪雨に見舞われた。名護は特に降り方が激しく、大雨と雷のために辺野古沖のボーリング調査が一時中断した程であった。
この日、那覇の桜坂劇場においてジャン・ユンカーマン監督の映画『沖縄うりずんの雨』が公開された。沖縄の「終わらない戦後」を問う本作の舞台挨拶に立ったユンカーマン監督は、歌人小嶺基子の「うりずんの 雨は血の雨 涙雨 礎の魂 呼び起こす雨」を引いた。
うりずんは草木が芽吹く3月頃から梅雨に入る5月くらいまでを指し、4月1日から始まった沖縄陸上戦にこの季節が重なることからタイトルに用いたという。毎年この時期になると戦争の記憶がよみがえり体調を崩す人が多いというが、激しい地上戦は優位に戦闘を進めたはずの米軍からも一万数千人を奪い、精神を病む兵が少なくなかった。
『鉄の暴風』に代表される証言記録の多くは、住民や現地召集され軍の指揮下に入った県出身者の証言で構成されている。これに対し『うりずんの雨』は、元学徒隊だけでなく、元日本兵、さらに元米陸軍兵の証言を同じ比重で扱い、そこへ監督の日本語ナレーションを交えて地上戦の様子を再構成する。
その上で戦争に続く占領と抵抗(1970年のコザ暴動)、凌辱(95年の米兵3人による12歳の少女暴行レイプ事件)、基地をめぐる現状と今後、と全四部の時系列を構成し、それぞれの出来事の当事者となった人々が語る。音声の背景には記録映像を多く用い、1フィートフィルムの会が収集した映像を元兵士が公文書館を訪れ確認する場面もある。
沖縄戦がホロコーストにも匹敵する重みを持つといわれた理由は、局地戦で使用された弾薬の総量の多さ、破壊の凄まじさだけではない。
誰にも保護されないばかりか「友軍」にスパイ視され艦砲の下を彷徨した避難民、現地召集された少年兵や高齢者、「本土」出身の日本兵、朝鮮から連行された1万数千人の「軍夫」、「慰安婦」、それに米兵士が入り混じり、攻撃、援護、加害、放棄、救助といったあらゆる関係のベクトルが、時に日照りに乾き、時に梅雨型の豪雨に泥田と化す島の中で多方向に入り乱れ入れ替わった点にある。
一口に避難民、日本兵、と分けると細部が見えないが、避難することもできず病院にとどまったハンセン病患者たちや、本土や台湾への疎開の途中で亡くなった人、戦闘終結後に収容所で亡くなった人、マラリアや飢えで亡くなった人を「沖縄戦」の戦没者に含めると、直接の暴力行為、武力行使だけが問題ではなくなる。
戦況全体に鑑みるなら、沖縄地上戦は本土防衛の時間を稼ぐための「捨て石」と位置付けられていた(注4)。そして「本土」出身の戦死者の内訳では、最多数は北海道から送られた兵士であり、その中にはアイヌ兵士が含まれる。この戦いは北方における日本の植民地政策とも無縁ではなかった(注5)。
(注4)沖縄戦の組織的戦闘が終わったことを受け1945年6月26日付『北海道新聞』の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛体制を強化せしめ」たとしており、「本土決戦」までの時間稼ぎに沖縄が使われたことは同時代にも認識されていた。阿部岳「大弦小弦」『沖縄タイムス』2015年6月22日。
(注5)橋本進『沖縄戦とアイヌ』草の根出版会、1994年。
帝国の支配と差別の構造が凝縮して表れたともいえる沖縄戦の全体像に対し、ユンカーマン監督がとったアプローチは、一見すると多角的だがかなり抑制のきいたものである。「なぜ今基地の問題が起きているのか」、その「歴史的起源としての沖縄戦」という視点から説明することに特化し、慎重に選んだ関係に絞って提示している。
例えば第一部で主な語り手となる元日本兵は、住民との関わりについて「異なる文化を持つ人々を差別してしまった」のは誤りであったと告白する。しかし、日本兵が壕から住民を追い出したことはあっただろうと証言するものの、自身の部隊は住民とは行動を別にしていたと述べる。そして彼の証言の大部分は、米軍との戦闘の細部に費やされる。
対する元米陸軍兵士の証言で印象的なのは、戦場から救出されようとしているのに「自分の頭部を撃て」と頑なに要求してきたある住民とのやりとりである。元陸軍兵士は「もちろん撃たなかった」が、投降し生きることを禁じる「思想教育の徹底」に戦慄したと回想する。
こうして住民と日本軍との関係を語り直す「行為者」の証言は空白のまま、時系列は占領期へと移る。第二部においては、4月1日に米軍の上陸地点となった読谷村における「集団自決」(集団強制死)を知花昌一さんが語る。この出来事は次節で詳述する。
読谷では米軍上陸の翌日、140名31世帯の住民が避難していたチビチリガマにおいて集団強制死が起き、85名が亡くなった。チビチリガマに日本兵はおらず女子供と老人だけであった。読谷で起きたことに焦点を合わせると、個々の日本兵の行動は捨象され、加害の構造として沖縄における皇民化教育そのものが強く浮かび上がる。
ユンカーマン監督は今回の作品を、沖縄の人はもちろんだが、まず本土の人に見てもらいたいという。それは、普天間基地や辺野古への新たな基地建設をめぐる地元の反応に対し、本土が問題の起源を忘却していることに警鐘を鳴らすのが作品の趣旨であるからだろう。
どれほどの負荷を沖縄が強いられてきて今があるのか、知らせる架け橋の役割をこの作品は担おうとしている。また、米軍内部でも性的被害を受けた女性兵士が声を上げ始めた実態を提示し、基地問題を捉えるための視野を広げている。
米国出身の監督が日本語によってナレーションし、基地の運命に寄り添いながら時系列を進行させることで、どの立場の語り手ともぎりぎりのところで接点を保つ。彼自身が日米の境界を行き来する人間であり、かつ個々の事件のアクターではないがゆえに証言の聞き手となり得るという、微妙な距離感の上にこのドキュメンタリーは成り立っている。
ここで「沖縄戦」に立ち戻るなら、ユンカーマン監督のアプローチが語らずに残した出来事が多いだけ、米軍に撮影されなかった映像が多いだけ、埋めるべき空白の奥行きを感じさせずにはいない。そこに「礎の魂」が呼び起こされるなら、基地の起源としての沖縄戦を伝えるのみで十分といえるだろうか。作中、「沖縄戦」と「占領」期の二つを結ぶ語り手であった知花さんを読谷に訪ねた。
読谷村 2015/6/22
戦前の区画がそのまま残る読谷村波平は所々道路が複雑で、来訪者はGPSがあっても迷う。急カーブに行き止まりと上り下り、対向車が来れば進めない。込み入ってますね、と言うと、運転席の知花さんは「人生とおんなじだ!」と笑った。
真宗大谷派僧侶の知花昌一さんは1948年生まれ、波平の出身である。子供時代には米軍のパラシュート降下訓練や演習が日常的に行われ、不発弾もそこここに残っていた。軍のテントから缶詰をさらっては「戦利品」にしガマ(鍾乳洞)で遊んだという。
読谷高校を卒業後、技術で身を立てようと溶接工の仕事をし、1969年に沖縄大学へ進学するが大学紛争で校舎がロックアウトされ勉強にならない。当時沖大は自主管理闘争の只中で、学生は学費を納めずに教学維持費を集め、頭割りして教職員に配り大学を運営していた。自治会長に選ばれた知花さんは、沖縄返還の前夜、運動にのめり込んでいった。
自主管理闘争は成功したが、今度は1972年4月、沖縄復帰に伴う大学再編構想により沖大の学生募集停止の方針が閣議決定される。学生・教員・職員はこの決定に一体となって反対し、世論の後押しを受けて大学存続を勝ち取った。沖大存続闘争の中心となった知花さんは、この間に3回は拘置されている。
少年時代、米軍占領下の祖国復帰運動では日の丸を掲げ、日本国憲法と共に平和主義を実現した日本を本当に素晴らしい国だと思っていた。復帰すれば沖縄もまた軍隊のない基地のない島になるはずと考えた。軍国主義を捨て、日本が生まれ変わったと信じていた。
しかし、復帰政策の権力づくのやり方に「復帰とは一方的な本土の尺度で大学まで潰してしまうものなのか」と憤り、日の丸は本土による「裏切り」のシンボルに変わっていく。
その後、地域の共同売店を引き継ぐ形で「はんざスーパー」の経営を始め、順調に業績を伸ばしていた1983年、もう一つの転機があった。読谷村のチビチリガマにおける集団強制死の調査活動に関わったのだ。
地域の人達は長く、チビチリガマの出来事を隠してきた。自分の子供を死なせてしまったお母さんたちがまだ地域で暮らしている。話に出すのはあまりにも悲しいから触れることはなく、ガマの周辺は年月が経つにつれ草が生い茂り、ハブが出ることもあって近づく人はなかった。知花さんもガマの存在を知らなかったという。
そこへ東京から作家の下嶋哲朗氏が訪れる。下嶋氏は移民の足跡を辿っており、事実上「棄民」としてマラリアが蔓延する地域に送られた人々のことを調べていた。その際に読谷出身のおばあと知り合い、断片的な話を手掛かりに、チビチリガマの事件を追ってきたのだった。しかし遺族の口は重く、家を訪ねても誰も何も言わない。公民館に何人かに集まってもらい、ようやく一人が話し出し、それから次々に当時の状況が語られたという。(注6)
(注6)調査の経緯は以下に詳しい。下嶋哲朗『南風の吹く日』童心社、1984年。同『生き残る:沖縄・チビチリガマの戦争』晶文社、1991年。読谷村は1980年代になっても村面積の47%がアメリカ軍用地であった。基地建設のため農地を接収された農民は、軍・政府当局の方針で八重山群島の石垣島や西表島、ボリビアへの移民を余儀なくされた。下嶋氏にチビチリガマの話をした当山ウト氏は、読谷から移住した八重山開拓者の一人であった。
遺族の証言をもとにガマの内部の調査を行うと、集団強制死の状況が次第に明らかになった。ガマの地面のあちこちに黒い大きな影の様なものがあり、横たわった人間の形になっていた。人型に判別できない影は、幾人もの人が折り重なり亡くなった跡であった。人々の遺体を虫が食べ、やがて羽化して飛び去った後に残った殻が、人影をなしていたのだった。
1987年4月、事件から42年が経過して初めて慰霊祭が持たれ、金城実さんの彫刻「世代を結ぶ平和の像」がガマの入口に捧げられた。沈黙を破って話をした遺族は、苦しかった胸の内をあかして「重荷を下ろせた」と言ってくれたが、以降、知花さん自身がチビチリガマの出来事に深くとらわれるようになる。
チビチリガマでは、生後3か月の赤ちゃんを含む85名が亡くなった。「自決」という言い方もされるが、ここで亡くなった人の年齢は、0-9歳が27名、10-12歳が15名、13-15歳が6名、つまり乳幼児から中学生までの「子ども」が犠牲者の半数近くを占めた。乳幼児が自ら死のうと決意して「自決」したと考えるのは無理がある。最愛の子を親が死なせたのだ。
男性が戦場へ行った後、残ったのは女性と子供、老人だけだった。その中に元兵士の老人が二人、中国へ従軍看護婦として同行した経験のある女性一人がおり、大陸での日本の侵略や南京虐殺の実態を知っていた。そのために「日本軍が中国で捕虜を殺したように、アメリカーの捕虜になればひどい殺されようをする」と考えた。
沖縄から従軍した人が中国大陸では日本帝国の侵略の一端を担わされ、日本軍としての「加害」のあり方が、同じ尺度で自らにかえってくると考えたのだった。また、村の人々は普段から、鬼畜米英でヒージャーミー(ヤギの目)の米兵につかまれば、女性は皆強姦され殺される、と教えられていた。
そうした教育を受けていたために、敵に殺されるよりはサイパンでの「玉砕」に倣おうという考えに追い込まれ、母親が娘を手にかけ、狭いガマの中でランプに入っていた石油を撒き、家族同士で殺し合うことになった。なぜそうならざるを得なかったのか。生き残った人達は長く悔やみ苦しんだ。
ここからわずか1キロほど離れた場所にはシムクガマというずっと大きな鍾乳洞があり、そちらには約1000人の村人が隠れていた。チビチリガマでは半数以上の人が集団強制死したのと対照的に、シムクガマでは一人の死者も出していない。なぜか。
シムクガマにはハワイ帰りの人が2人いた。1000人のうちのたった2人でも、アメリカを自分の目で見たことがあり、英語を話すことのできる人がいた。日本軍の支配下では敵性言語が話せるために「非国民」と罵られたこの人達が、上陸してきた米兵士と話し、竹やりでの抵抗や「自決」をやめさせて人々の命を救ったのだった。
皇民化教育とは、日の丸とは何か。チビチリガマは、教育によってなされた強制的な死の現場であった。「日の丸を先頭に、君が代を歌い、天皇の赤子として総動員され死んでいった」。知花さんは調査活動を通じて沖縄戦、とくに集団強制死という出来事を追体験したと言う。沖縄の歴史的体験と戦争の悲惨さが、今日進行している日本の戦争への道に危惧を抱かせた。
知花さんの考えには、必ず行動が伴う。行動に裏打ちされずに言葉だけを並べることがない。慰霊祭から半年後の1987年10月、沖縄国体のソフトボール競技開会式においてセンターポールに掲げられた日の丸の旗を引き下ろし、ライターで燃やした。村民や村議会の意向に反して掲げられた旗であった。この事件により「日の丸裁判」の被告となり、全国で初めて「日の丸は国旗なのか」を法廷の場で問うことになった(注7)。
(注7)裁判の経緯について、知花昌一『焼きすてられた日の丸:基地の島・沖縄読谷から』社会批評社、1988年。下嶋哲朗『沖縄「旗めいわく」裁判記』社会評論社、1994年。
裁判が続く間にスーパーは右翼に放火され、近隣の電柱にビラを貼られ、命を狙うと脅迫された。11月8日にはチビチリガマ慰霊のための「世代を結ぶ平和の像」が完全に破壊された。遺族の気持ちに整理がつき、やっと慰霊祭が行えるようになったばかりである。
傍には「国旗燃ヤス村ニ平和ワ早スギル天誅下ス」と書かれたビラがあり、日の丸の付いた二メートル余りのモリが地面につきたてられていた。壊された像は、ガマで亡くなった母親たち、子供たち、兄弟の一人一人を、金城さんが村民の協力を得て再現したものだった。だから像の破壊は、犠牲者が「二度殺された」に等しかった。
日の丸裁判は8年がかりで1995年に判決が確定し、知花さんは3500円(旗の代金)の器物損壊で有罪となった。その後は「ゾウのオリ」と呼ばれる米軍のアンテナ基地内の土地使用を巡って大騒ぎになる。
これらが一段落し、村議会選挙に出馬。当選した際に、日の丸裁判の時から応援してくれていたある男性が、元ハンセン病患者の人権回復裁判の原告であると知った。それまでにも障害をもつ子供に対する差別や、部落問題、在日外国人への差別に触れてきたが、ハンセン病のことは知らなかった。回復者の支援に携わる中で社会問題に取り組む多くの僧侶がいることを知り、自分の生きる道と定めた。
こうして僧侶となった知花さんは、チビチリガマの出来事を訪れる子供達に伝えながら、新基地建設に反対する運動に参加している。
週に一度のペースで辺野古沖へ出る船に乗る。カヌー40艘、船3隻で、ブイを越えれば海保に押さえられることもある。抵抗しなければそんなに殴られたりはしない、上からどんどん押さえこまれれば、はねのけようとするのが人というものだけどねー、苦しいから、と穏やかに語った。
明日6月23日の「慰霊の日」は、チビチリガマ「世代を結ぶ平和の像」の彫刻家、金城実さんと共に摩文仁へ行くという。金城さんは浜比嘉島生まれで大阪に長く暮らし、10年前から読谷にアトリエを構えている。
2002年には沖縄靖国訴訟の原告となり、首相の靖国参拝をめぐる政教分離の問題や「沖縄戦の実相」の解明を訴えた。皇軍として国家に命を捧げた父親の戦死は「犬死」であった。「お父さんも靖国に祀られて感謝されていることでしょう」という靖国神社側の主張に激怒し、なぜあなた方が勝手に決めるのか、父は靖国の英霊ではない、と憤った。(注8)
(注8)三上智恵「英霊か犬死か:沖縄靖国裁判の行方」琉球朝日放送、2010年。
知花さんの親類にも沖縄戦で亡くなった方達がいる。母方の二名は南部のどこかで亡くなり、靖国に祀られている。また父方の伯父は糸満のあたりで亡くなったと考えられるが、詳しいことは分からない。いずれも遺骨はなく、南部の石を拾ってきて墓に納めたという。また、読谷村に上陸した米軍兵士から娘を守ろうと竹やりで向かっていき殺されたおじいさんもいた。
では知花さんは「平和の礎」へは行かれますか、との問いに、一瞬表情が険しくなった。「平和の礎」ができ、親類の名前を確認しに行ったことはあるが、自分から出かけることはないという。身元の分からない遺骨は「魂魄の塔」に多く納められており、毎年そちらへお参りしているし、読谷での集まりもある。
それならなぜ明日は摩文仁へ行くのか。今年の沖縄は「慰霊の日」を前に、どのようにこの日を迎えるか、例年とやや異なる様子になっていた。戦後70年の節目に当たることよりも、普天間基地移転の問題や辺野古沖の新基地建設問題、オスプレイ配備、憲法9条の改変、これらをめぐる現政権の一連の対応が、静かに、しかし非常に深いところから波動を呼んでいた。
平和祈念公園の式典には首相が参列する。首相が来るのを嫌って「平和の礎」を避け、いつもと別の会場へ行くという人もいる。迷って直前まで予定が二転三転する人もいた。知花さん達は明日、辺野古の基地建設に反対する意思表示をする。抗議の意味であえて出向くのだ。金城さんの作業場に着くと準備が始まっていた。オカヤドカリがゴト、ゴト、と幾つも足下を動き、西の空をオスプレイが通り過ぎていった。
秩序ある視界に割り込む:土と牛 2015/6/23
「慰霊の日」は早い朝を迎え、金城さんの大型彫刻を載せたトラックとバン数台に分かれ摩文仁へ向かう。高さ2メートルはある立像二体が荷台に乗せられると、道路から見て3メートル以上になる。
力強く歩み出そうとする男性像と、肩をいからせ天に向かい両手を振り上げる女性の像。険しいが修羅の表情ではない。人として地に踏み留まろうとする者の誇り高い顔だ。固定するために巻いたロープが、辺野古の民に絡みつく軛のようでもある。
首相は必ず平和祈念公園の追悼式会場に入る、そのタイミングにぶつけてこの像を見せる。さとうきび畑の一面の緑を背景にそびえる赤土の立像には異様な迫力があった。公道に出ればなおさらである。暴力行為に及ぶ者はいない。拡声器もない。しかし、権力の視線を前にして、もはや沖縄の風景が従順に沈黙しえないことを知らしめようというのだった。
読谷飛行場跡の長い直線を走る間にも日差しは次第に強くなる。道路沿いに警察官が一定間隔で立ち始めた。巨像が通り過ぎるたび目を引いている。不意にカーブから現れた立像に出くわした水色の制服の二人は「なんじゃありゃあー」と驚きに目を輝かせて見送った。
人目を引くのにはもう一つ理由があった。金城作品の後ろを、黒牛を載せた福島ナンバーの車両がついてくる。双葉郡浪江町「希望の牧場」のベコトラである。運転する吉澤正巳さんは闘牛の様な心と骨格を持つ人だ。
もとからそうだったわけではない。朴訥に地面ばかり見ていた牛飼いが、3.11を境に変わった。原発事故の混乱の中、柵内の牛を放す余裕もなく避難した酪農家では、並んで繋がれたまま息絶えた牛の骸があった。警戒区域内で生き残った牛も、国の方針により全頭殺処分されることになった。虚空を仰ぐ黒ベコは殺されていった牛達の悲しみだ。
吉澤さんたち8件の農家が処分に抗議し、被曝した牛500頭の世話を続けている。だからといって出荷はできない。ただ寿命を全うさせる。こんなことをして「狂っているのかもしれない」。それでも「命を何だと思っているのか」という一念で5年間世話を続けてきた。だからあと5年はやれる、と言う。
辺野古の新基地建設反対はともかく、福島と沖縄戦「慰霊の日」と何か関係があるのだろうか。ある、と金城実さんは断言する。権力と闘っている者は皆同志であるという感覚を、なぜ持ち切れないのか。
沖縄は「捨て石」にされ、銃剣とブルドーザーで土地を奪われた。自ら望んだことではない。では福島は原発を誘致したから米軍基地と別問題だと言えるか。国家権力から見れば一緒ではないか。構造的に考えよう、違いを強調し分断するのは権力を持つ者の思考ではないか。その意味で、金城さんは沖縄のたたかいは沖縄だけではできないとの立場をとる。
知花さんもまた、うちなーとヤマトとを分ける見方が排外性を帯びると敏感に反応する。基地を置いている罪悪感を解消するためにヤマトンチュが沖縄へ来て平和運動をやっている、という批判はある。
しかし「ヤマトンチュは出て行け」という議論の危うさは、それが血統でメンバーシップを決める方向へ行きかねないところにある。何十年も島に住んでいる本土出身者はどうなるのか。ナショナリズムは昂じれば排外主義に行きつく。本土から差別されてきた沖縄が、同じ論理で人を差別することになってはいけない、と言う。
金城さんも知花さんも長い法廷闘争を経てきた人である。単独でできることではない。かつて知花さんは「私も正直に言えば右翼は恐い。ひとりで彼らの暴力にたちむかえといわれても無理だろう」と述べた。日の丸裁判の頃の話だ。
「だが、そこでたたかうことをあきらめるのではなく、ある意味ではひとりでも頑張ろうと踏みとどまるとき、多くの仲間があらわれ、すべての反動を撃ち返す力が生まれてくる」。
辺野古に各地から集う人達は、地元にも何らかの課題を抱えている。
福島の原発だけではない。神戸では震災後の復興住宅の一部が今年9月で「20年」の退去期限を迎える。60歳で入居した被災者が80歳になっている。行政に立ち退きを求められて引越す先や体力があるか。東北の被災地域も時間差で同じ問題に見舞われるだろうと、兵庫県被災者連絡会の河村宋治郎会長は指摘する。
だからこそ、別々の問題だといって分断しあうのではなく、構造を捉えなくてはならない。そこに必ず突破口はある、と金城さんは言うのだ。
おわりに
魂魄の塔に次々到着する平和行進の親子連れが、線香や花を手に黙祷していく。この一帯は沖縄戦の中でも一番の激戦地であり、日本兵も住民も逃げ場を失って艦砲や爆撃に倒れた。散乱していた3万5千柱余りの遺骨を拾い集め祀った場所である。
規制線が張られる刻限、警備に引き止められた金城トラックは平和祈念公園を遠巻きにして魂魄の塔で正午を迎えた。ここで荷台から広場に彫刻を下ろしていく。立像2体の他に、小さな10人の胸像がある。辺野古闘争の道半ばで亡くなった漁夫、農民達の像である。
辺野古に海上基地建設が取りざたされて以来の8年に及ぶ反対運動に加え、浜のテントの座り込み活動は4080日を超えた。およそ20年間、地元の人達は基地建設に反対してきたことになる。その間に亡くなっていった人達も今日ここで偲ぶ。漁夫、農民像の一人一人に話しかけるようにお参りしているのは、辺野古沖へ出て海上監視を続けている女性だ。
広場では平和運動センターの山城博治さんが挨拶に立ち、「今日摩文仁では安倍に対する『帰れコール』も湧きあがったようでありますから」と報せると拍手が起こった。山城さんは病気療養のため一旦辺野古を離れているけれど「必ず戻ってきます」と約束した。
海勢頭豊さんが「月桃」を歌う。一家全滅した屋敷跡で風に揺れている月桃の花を見て作られた鎮魂歌だ。今年の平和祈念公園の式典では子供たちが「月桃」を合唱した。これまでは大切な歌が政治に利用されるのが嫌で断ってきたが、今年は戦後70年目であり、翁長知事も沖縄の言葉を伝えてくれるだろうから、と話した。
「“艦砲ぬ喰い残し”として生き残ったのは、なにも人間ばかりではない。沖縄の花も、生き物も、みんながんばって生きのびたんだ」と語る海勢頭さんの「琉球賛歌」にのせて、もうすぐ喜寿を迎える金城実さんが舞う。誰にも真似できない。土と共にある人だけがもつ力と躍動を見る。何万人もが倒れた地面の上で祈り、御霊に平和を誓い、歌い、弁当を広げる。生きたいと願う心の方が強いのだ。
沖縄の心とは何か。命どぅ宝よ。24万人が殺されて、そうしていきついた答えだ。知花さんは最後までこの答えを手放さないだろう。生活と生き様がかかっている。ガマの出来事にとらわれ、その意味を突き詰めて自らの行動につなげてきた人の言葉である。
沖縄戦の記憶の継承は、単に出来事の詳細を知るだけでは完結しない。このまま新基地が建設されれば、沖縄は今度こそ軍事のための島から抜けられなくなる。だから「沖縄戦の慰霊とは辺野古に基地を造らせないことだ」。翁長知事は8月にも埋め立て許可取り消しの判断を迫られる。
国はまた行政不服審査の請求を、申立先を次々に変えてやっていくだろう。東村高江の様なスラップ訴訟の増加も予想される。しかしその先に既定事実があるだろうか。
「勝つまでは、負けるんだ!」
どうしようもない暑さと日差しの下に、鬱屈した疲弊感はない。菩提樹の陰に休み、溢れ落ちるのも気にせず水を飲む。緩やかな沖縄のペースになじんでいく。状況の中心にいるのは、ここに座り込んでいる人達であって、権力ではない。
<参考文献>
・安仁屋政昭・牧港篤三・田港朝昭ほか『沖縄と天皇』あけぼの出版、1988年。
・行田稔彦編『生と死・いのちの証言沖縄戦』新日本出版社、2008年。
・大田昌秀『死者たちは、いまだ眠れず:「慰霊」の意味を問う』新泉社、2006年。
・太田良博『戦争への反省』ボーダーインク、2005年。
・沖縄タイムス社編『鉄の暴風:沖縄戦記』沖縄タイムス社、2001年。
・沖縄タイムス「尖閣」取材班編『波よ鎮まれ:尖閣への視座』旬報社、2014年。
・沖縄タイムス社編『2014沖縄県知事選ドキュメント』沖縄タイムス社、2014年。
・宜保栄治郎『軍国少年がみたやんばるの沖縄戦:イクサの記憶』榕樹書林、2015年。
・金城実「靖国裁判結審です」『大獅子通信』第7号、金城実事務所、2010年。
・下嶋哲朗『生き残る:沖縄・チビチリガマの戦争』晶文社、1991年。
・下嶋哲朗『沖縄「旗めいわく」裁判記』社会評論社、1994年。
・知花昌一『焼き捨てられた日の丸:基地の島・沖縄読谷から』社会批評社、1988年。
・知花昌一・池宮城紀夫・徐勝・安里英子・金城実・牧田清『我肝沖縄』解放出版社、1996年。
・広島大学沖縄教育研究会編『沖縄の本土復帰と教育』葵書房、1971年。
・辺見庸「国策を問う:徹底的な破滅から光」『沖縄タイムス』2012年5月14日。
・琉球新報「日米廻り舞台」取材班『普天間移設:日米の深層』青灯社、2014年。
・牧港篤三ほか『1フィート運動10周年記念誌』子どもたちにフィルムを通して沖縄戦を伝える会(通称:沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会)、1993年。
・牧港篤三・儀間比呂志『沖縄の悲哭』集英社、1982年。
プロフィール
宮崎悠
北海道教育大学国際地域学科准教授。北海道大学法学部卒業、同大学院法学研究科後期博士課程修了。北海道大学法学研究科助教、成蹊大学法学部助教などを経て、2019年より現職。著書に『ポーランド問題とドモフスキ』(北海道大学出版会)、「戦間期ポーランドにおける自治と同化」(赤尾光春・向井直己編著『ユダヤ人と自治:東中欧・ロシアにおけるディアスポラ共同体の興亡』岩波書店所収)ほか。https://www.iwanami.co.jp/book/b281689.html