私は、あの写真をコントロールできる自由を、手にしました――「ナパーム弾の少女」と児童ポルノ

どうしてFacebookがそんなバカな判断を?

 

Facebookがベトナム戦争の報道写真である「ナパーム弾の少女」を削除したことが話題となった。

 

この削除問題に接した多くの人々は、私を含めて、おそらくはほぼ直感的に、そしてあまり躊躇いなく、この写真の削除が間違っていると判断した。ノルウェーの首相をはじめ、多くの人がこの削除の判断に異議を唱え、Facebookは写真の削除を撤回した。Facebookが削除の判断を考え直してくれたこと自体については、私も良かったと思う。

 

ところで、「今回の問題の焦点は何なのか?」という問いかけに、一言で回答するのが難しいのは(あるいは説明しようとすればするほど、退屈極まりない文章になってしまうのは)、これが価値判断における対立の問題ではないからである。

 

普通、この手の表現規制問題では、ある種の表現について絶対に許せないと批判する善意溢れる人々が苦情を申し立て、表現の自由を擁護しようとする私のような屁理屈屋がそのような検閲行為は絶対に許せないと反論し、論争に巻き込まれたプラットフォーム企業は、頭を悩ませながら、何とかバランスのとれた規範を提示しようとする。

 

だが、今回は、「ナパーム弾の少女」をFacebookから削除させようというキャンペーンが張られたわけではない。

 

もちろん、この世界はとても広く、人間の意見は驚くほどに多様なので、そういう主張を展開している個人や団体も探せばきっと存在するのではあろうけど、少なくとも一定の影響力がある主要なプレイヤーでそのような主張をしているところは見当たらない。

 

Facebookがこの写真の削除を行ったとき、SNS等のいわゆる「プラットフォーム企業」の内情に詳しい人々は、これが上層部の判断ではないだろうと推測した。大量に待ちこまれる様々な苦情の申し立てを処理する中で、現場が誤って処理してしまっただけの、いわば「エラー」の事例であろうと考えたのだ。

 

だが、程なくして、この削除の判断は現場だけで行われたものではなく、Facebook社内の一定のレベルにまで上げられて検討されて意思決定されたものであるとの話が漏れ伝わってくると、どうしてFacebookがそんなバカな判断をしでかしたのかと、訝しむ声が上がり始めた。

 

 

Facebookにおけるヌード禁止のルール

 

Facebook側の当初の言い分はこうであった。

 

「われわれはこの写真が歴史的なものであることは認識しているが、ヌードが写っている1枚の写真の掲載を許可し、別の写真は許可しないという判断基準を作るのは難しい」(注1)(注2)

 

(注1)https://www.theguardian.com/technology/2016/sep/09/facebook-reinstates-napalm-girl-photo

(注2)http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1609/11/news014.html

 

Facebookには「コミュニティ規定」というものが存在して、ヌードの投稿は原則としてできないことになっている。(注3)

 

(注3)https://www.facebook.com/communitystandards/

 

簡単に言ってしまえば、Facebook自身の決めたルールに、Facebook自身も従わなくてはならない、というわけだ。

 

Facebookにおけるヌード禁止のルールは、「意識向上キャンペーンやアートプロジェクトなどのために、ヌードを含むコンテンツがシェアされる場合があります。弊社ではヌードの表示を制限しています」という書き出しで始まる。

 

禁止対象のヌードが、芸術や社会的啓発活動といった真面目で意義深い目的であったとしても、Facebookでは制限しますよと宣言しているわけである。(と、同時に、運営サイドとして、制限された表現を、必ずしも猥褻でくだらないものと見下しているわけではないとエクスキューズしているようにも解釈できる)

 

ヌードを制限する理由は、「世界中のさまざまな人が利用する場である以上、人によっては――特に出身文化や年齢によっては配慮を要するコンテンツだから」で、どのようなコンテンツが表示制限されるかについては、「判断基準は、世界中どこでも使えて判断のしやすいものであることが必要です。そのため柔軟な対応が難しい」との説明がなされている。

 

その一方で、Facebookは柔軟姿勢を見せることにも腐心しているようだ。

 

「コンテンツの評価や処遇にあたって、基準をより弾力的に運用できるよう取り組みを続けています。」

 

「女性が自発的に授乳している写真や乳房切除手術を受けた痕を見せている写真については制限していません。」

 

「ヌードの人物を描いた絵画や彫刻などの芸術作品の写真の投稿も認めています」

 

「教育、ユーモア、風刺を目的に投稿される場合はこの限りではありません」

 

いったいFacebookは、フリーハンドの確保を望んでいるのでろうか、それとも規定によって画一的な判断ができることを望んでいるのだろうか。

 

どうやら、そこには相矛盾する志向が存在するようだ。

 

同時にその論点は、私たち社会が、SNSなどのインターネット・プラットフォーム企業に何を望むかという部分とも関わってくる。

 

 

性表現をめぐるクレームに心底うんざりして

 

ところで今回、Facebookは、どうして頑なにヌード禁止規定の形式的な順守に拘ったのだろうか。

 

思いつく理由が4つある。

 

(1) SNSにおける環境の保全

(2) プライバシーに関するトラブルの防止

(3) 性表現をめぐる泥沼のような論争の忌避

(4) 児童ポルノ問題

 

まず、最初の理由、環境の保全から考えてみよう。

 

Facebookが合法的なものまで含めてヌードの投稿を制限する最大の理由は、おそらく端的に言ってしまえば、ネット上の「社交場」としての環境を維持するためである。

 

見たくもない裸体画像が目に飛び込んでくるようなSNSでは、アクセスする気が失せるという人は多いだろうし、そういう画像が飛び交うSNSというイメージが付きまとえば、公共機関や大企業はFacebookに公式ページを設けることを避けるようになるだろう。

 

だが、「ナパーム弾の少女」が投稿されることによって、Facebookの社交場としての雰囲気が損なわれるだろうか。おそらくFacebook側が想定しているであろう、雰囲気をぶち壊すような類のヌード画像と、この写真との峻別が、それほど困難とも思えない。

 

次の理由、プライバシーに関するトラブルの防止はどうだろう。

 

Facebookの特徴は、人々が実名でアカウントを開設し、本人の顔写真をアップして、現実社会での人間関係を背景とした社交空間をインターネット上で展開することであり、その性質上、必然的にプライバシーとの兼ね合いが問題となってくる。

 

アカウントの公開範囲の設定や、他人の写真をアップロードしたり、タグ付けしたりする際の仕様など、Facebookにとって、プライバシーに関わるルールや仕様をどう設計するかは常に緊張の連続であった。

 

プライバシーの中でも、裸体や性行為を写した画像は、特に厄介な存在だ。人々の好奇心や冒険心をいたずらに掻き立て、勢いよく拡散する傾向がある一方、被写体となる人の中には、その流出を致命的な出来事と思う人も多いだろう。私自身、自分の裸の写真や、性行為をしている動画が、世界中に拡散するようなことは、起こって欲しくない。

 

Facebookが、このような深刻なプライバシーの問題を事前に避けるために、裸体画像の投稿を原則禁止とすることにも、一定の合理性があると言えるかもしれない。

 

だが、世界的に有名な報道写真である「ナパーム弾の少女」の投稿に、いったいどんなプライバシーのリスクがあるのか、という反論もあり得るだろう。

 

また、Facebookが想定しているケースは、例えば調子にのった大学生が、彼氏彼女とのベッドでの思い出の一枚をうっかり掲載してトラブルになるようなケースだろうが、そういうものとの区別が困難だともちょっと思えない。

 

三番目の理由、性表現をめぐる泥沼のような論争の忌避はどうだろうか。

 

映画「ソーシャル・ネットワーク」にも登場するエピソードだが、Facebook創業者のザッカーバーグは、ハーバード大学在学中の2003年に、Facemashというサイトを立ち上げて、騒ぎを起こしている。Facemashは、ハーバードの各寮の学生名簿から写真を無断転載して、どの学生がより「ホット」かを、ネット投票で競わせるという悪趣味なサイトで、学内の女性団体からの猛抗議を受けることになった。この事件で、ザッカーバーグは大学の規律委員会に呼び出されて処分を受けている。

 

Facebookでは、前述の通り、性表現やヌードについては他のSNS以上の厳しい制限を設けており、この種のトラブルは回避できそうに見えたが、今度は逆に、女性の裸体の投稿を差別的に制限しているとの理由で、フェミニストグループから厳しく批判されることになった。

 

 

FEMENのキャンペーンより

FEMENのキャンペーンより

 

 

これは何の根拠もない憶測だけど、Facebookの某有力者は、何をやってもどこかからは必ず声が上がる性表現をめぐるクレームに心底うんざりして、報道写真だろうが、意識啓発キャンペーンだろうが、フェミニストアートだろうが、とにかく面倒くさいものは、一切合切全部ダメだと切り捨ててしまえという心境になってしまっているんじゃないだろうか。

 

「ナパーム弾の少女」まで削除してしまうという、やや常軌を逸した態度からは、そんなことも勘繰りたくなってしまう。

 

 

「児童ポルノ」の問題

 

話を元に戻そう。

 

コミュニティ規定のヌード制限に形式的に該当することを理由にFacebookが「ナパーム弾の少女」を削除したことに、多くの人々は納得できなかった。

 

人々は、Facebookのようなプラットフォーム企業には、例え介入したくても介入してはいけない領域の表現があるのではないかと考えた。

 

今回の写真のような「戦争報道」や「歴史的記録」は、その最たるものだというのが、人々の主張だった。そのような公共的価値の高い情報の流通について、Facebookのような既にインフラ的存在となったインターネット事業者が、削除や改変することの危険性を、多くの人々は懸念した。

 

今回の議論の発端となった投稿者が所属するノルウェーの新聞の編集長は、ザッカーバーグ氏を「世界でもっとも権力のある編集者」と呼び、「その権力を濫用している」と批判した。(注4)

 

(注4)http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK11H06_R10C16A9000000/

 

これに対抗して、というわけでもないだろうが、Facebook側も「ナパーム弾の少女」を削除しなければならなかった、より強力な四つ目の理由を持ち出してきた。「児童ポルノ」の問題である。【次ページにつづく】

 

 

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vol.218+219 特集:表現の自由とポリティカル・コレクトネス

<ポリコレのジレンマ―政治・芸術・憲法から見た政治的正しさと葛藤>

・第一部 テラケイ×荻野稔(大田区議会議員)

・第二部 テラケイ×柴田英里(アーティスト/フェミニスト)

・第三部 テラケイ×志田陽子(憲法学者)

<『裸足で逃げる』刊行記念トーク>

上間陽子×岸政彦「裸足で、いっしょに逃げる」

<連載エッセイ>

齋藤直子×岸政彦「Yeah! めっちゃ平日」

○シン・編集後記(山本ぽてと)