自粛反対論と「戦士」の黄昏

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2019年3月、音楽グループ・電気グルーヴのメンバーで俳優でもあるピエール瀧(敬称略。以下同様)が麻薬取締法違反容疑で逮捕された。同年4月に起訴され、その後保釈が認められたが、所属事務所であるソニー・ミュージックアーティスツとのマネジメント契約を解除されたほか、ライブ活動の中止、出演番組の打ち切りや代役への差し替え、過去出演作の回収や販売停止など、関連業界に多大な影響が出た。

 

ここまでは、近年さほど珍しくない流れだ。しかしその後の展開はこれまでと少しちがっていた。この問題については既に多くの論考が出されているが、少し時間もたったので、ここでは一歩引いたより大きな視点から考えてみたい。

 

毎度長い長いといわれるので、要旨を先に書いておく。

 

要旨:

 

◆ピエール瀧の逮捕に伴う作品回収や配信停止に対して噴出した反対論は、当該問題だけではなく、近年さまざまなところで目立つ、頭ごなしに上から目線でルールや考え方を押し付ける人々への反発という、より大きな問題の一部とみるべきである。

 

◆こうした反発が近年増えているのは、社会の進歩や変化に伴い、社会の中で尊重すべきルールや配慮されるべき「弱者」像が多様化・相対化し、これまで通用してきた「善意」や「良識」が必ずしも一概にはあてはまらないことが多くの人々に意識されるようになった結果である。

 

◆自らが正しいと信じる以外のルールや考え方を認めず、「戦士」となってそうした主張を罵倒したり揶揄したりするだけでは、社会を変えることはできない。一面的な正義の剣で相手を斬って捨てるのではなく、相手の立場や考えに耳を傾け、対話を通じて柔軟に接点を探る努力を続けることが必要である。

 

 

噴出した反対の声

 

今回のケースでこれまでと違っていたのは、冒頭に書いたようなお決まりの流れに対してかつてないほど大規模に反対の声が上がったことだ。電気グルーヴの作品が回収となったことに対して、6万4千人分の反対署名がソニー・ミュージックレーベルズに対して提出されたほか、公開を間近に控えていた出演映画『麻雀放浪記2020』については、公開中止や代役による撮り直しなどを行わず予定通り公開されることになった。

 

電気グルーヴの音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を撤回してください

 

電気グルーヴ作品回収への反対署名を提出 ソニー・ミュージック「たくさんの方に愛されていることを改めて認識した」 ハフポスト 2019年4月15日

 

ピエール瀧容疑者出演映画の公開決定「作品に罪はない」 朝日新聞 2019年3月20日

 

こうした流れを、メディアは「賛否の声」と報じた。しかし、「賛否」という割には、自粛賛成の意見は実際には少ないように思われる。多くの記事では、自粛賛成の声はツイッターなどから引用したのか、巷にはこんな意見もあるといった体でいくつかの意見を紹介しているだけで、しっかりと自粛を支持する主張を展開したような言説はあまりみられなかった。これに対し、反対の声は芸能関係者だけでなく法律の専門家を含む各界から上がっており、数多くの反対署名と併せ考えると、賛否のバランスは大きく「否」に傾いている。

 

「品行方正に魅力ない」ピエール瀧擁護の舛添要一氏に賛否 女性自身2019/03/15

 

ピエール瀧容疑者の作品「自粛」を巡る賛否 専門家はどう見る ORICON NEWS 2019-03-30

 

ピエール瀧被告 出演作相次ぐ自粛に波紋 産経新聞2019.4.2

 

「いだてん」ピエール瀧容疑者“カット”で再放送 ネットは賛否「当然」「作品への冒涜」 スポニチ 2019年3月16日

 

瀧被告出演分を変更せず…賛否両論のまま映画5日公開 白石監督が心境 デイリースポーツオンライン2019.04.05.

 

賛否両論というより、今回の件をきっかけに反対論が堰を切ったようにあふれ出た、といった方が近いだろう。あたかも、今まで言えなかった意見を言える状況になって皆が声を上げ始めたような印象を受ける。これまでも上掲のようなお決まりの流れに反対する声はあったが、これほど大きなものになったことはなかった。なぜ今回はちがったのだろうか。おそらく「ピエール瀧だから」といった個別の理由もあるにはあったのだろうが、どうもそれだけとは思えない。この特定の問題を超えた、より広い視点からみてみる必要があるように思われる。

 

 

自粛小史

 

本論に入る前に、今回のような不祥事への対応のしかたがどれほど一般的なものなのか、過去の例をみてみることにしよう。

 

芸能人が犯罪やその他の不祥事を起こして芸能界から姿を消すことは、それほど珍しいことではない。近いところでは2018年7月、俳優の新井浩文が、自宅で派遣型マッサージ店の30代女性従業員に乱暴したとして逮捕されたが、これを受けて、2019年に公開予定だった映画2本が公開中止または延期となり、また新井の出演していた数多くのドラマや映画が配信中止となるなど大きな影響が出た。このほかにも報道などで見かけた限りでいくつか挙げると以下の通りで(まだ他にもあるだろうが)、少なくとも数年に一度はこうした事態が生じていることがわかる。

 

・2018年4月、俳優の青木玄徳が強制わいせつ致傷で逮捕され、出演が決まっていた舞台を降板、公開予定だった主演映画も一週間限定公開となった。

 

・2017年、写真週刊誌に女子高生との未成年飲酒と淫行を報じられた俳優の小出恵介が無期限活動休止を発表、配信を1ヶ月後に控えたドラマも配信延期となった。

 

・2016年、ホテル女性従業員に性的暴行を加えたとして俳優の高畑裕太が逮捕され、その出演作品は配信停止となった。

 

・2016年、タレントのベッキーとバンド「indigo la End」および「ゲスの極み乙女。」のメンバー川谷絵音が週刊誌の不倫報道をきっかけに強い批判を浴び活動を一時自粛した。

 

・2014年、その前年から話題に上っていた覚せい剤取締法違反の容疑で歌手のASKAが逮捕され音楽活動から引退、ライブの中止や関連商品の出荷停止・回収、配信停止などの影響が出た。

 

・2011年、お笑いタレントの島田紳助が、暴力団関係者との「黒い交際」が報じられたことをきっかけとして引退した。

 

・2009年、愛人と共に合成麻薬MDMAを服用し、容態が急変したホステスを放置して死に至らしめたとして俳優の押尾学が逮捕され、出演作品が配信停止となった。

 

・2009年、覚せい剤取締法違反容疑でタレントの酒井法子が逮捕され、懲役1年6ヶ月執行猶予3年の判決を受けた。所属事務所やレコード会社との契約は解除となった。

 

・2006年、漫才コンビ「極楽とんぼ」の山本圭壱が10代の少女に対して飲酒行為と性的暴行に及んだとして所属事務所との契約を解除された。

 

・2001年、タレントの田代まさしが覗きと覚せい剤使用により逮捕され、所属事務所との契約を解除された。

 

いうまでもないが、不祥事によって公的活動の場から追われることがあるのは芸能人だけではない。たとえば政治家は、職務の性格上やむを得ない面もあるが、この種の問題ではいわば「常連」だ。

 

2019年4月に桜田義孝五輪相が失言により更迭された件は記憶に新しいが(議員は辞めていない)、国会議員の辞職・失職レベルだけに限っても、2016年に衆議院議員の宮崎謙介が週刊誌報道をきっかけに辞職、2010年には同じく衆議院議員の鈴木宗男が受託収賄などで最高裁判決を受け失職、衆議院議員の小林千代美と後藤英友が公職選挙法違反の連座で辞職、参議院議員の若林正俊が本会議で隣席のボタンを押して懲罰動議を出され辞職、といったペースで、地方自治体の首長や議員まで含めればとても挙げきれないほどだ。

 

官僚、企業人、スポーツ選手、大学教員などでも、類似の例は少なからずある。すべて合わせれば、不祥事から自粛へという流れを私たちはほぼ日常茶飯事として目撃している。

 

しかし一方で、一度は公的活動の場から離れても、その後復帰する例も多い。芸能人の場合だけ挙げると、ベッキーと川谷絵音はいずれも3、4か月後に復帰、ASKAは2016年ごろから活動を再開、酒井法子は逮捕後も地上波テレビへの出演は限られているものの芸能活動を継続、山本圭壱は2015年にフリーとして復帰し2016年にふたたび元の事務所と契約を結んだ。

 

島田紳助は2004年にも暴力事件を起こして罰金刑を受けて芸能活動を無期限に自粛していたが2か月後に復帰し、引退する2011年まで芸能活動を続けていた。田代まさしも2000年に盗撮で罰金刑を受け芸能活動を自粛していたが翌2001年に復帰、その後違法薬物の所持などにより数度にわたり逮捕されたが、服役後は薬物中毒者向けの講演などを行いながらネットなどでの芸能活動を行っている。

 

もっと前の例を挙げれば、1986年に暴力事件を起こしたビートたけしは逮捕後7日目でテレビに復帰した。1987年に覚せい剤取締法違反で逮捕されたシンガーソングライターの尾崎豊はその半年後に新曲をリリースして大ヒット、先日死去した俳優の萩原健一は生前4回の逮捕、1回の書類送検を受けながら、謹慎を挟みつつ死去直前まで芸能活動を続けた。

 

過去作品の販売や配信はどうかとアマゾンをみてみると、少なくとも現時点で、青木玄徳、小出恵介、高畑裕太等の出演作品は販売、配信されている(主演作品でないからでもあろうが)。CHAGE and ASKAや酒井法子の楽曲も同様だ。企業の側とて自粛したくてしているわけではないので、しばらく自粛してほとぼりが冷めるのを待つのは合理的な選択といえる。そう考えれば、ピエール瀧のケースも、しばらく活動を控えていれば、遠くないうちに芸能活動や出演作品配信の再開チャンスが訪れることになるだろうと予想するのが常識的な考え方だ。

 

ピエール瀧出演作品に関する自粛を批判した人たちがみな、こうした状況を知らなかったとは思えない。そう考えてくると、今回のケースで突然、これまでになく多くの批判が発せられたのは、何か別の要素があると考えるのが自然のように思われる。

 

 

押し付けへの反発

 

自粛を批判する意見をみると、さまざまな理由が挙げられている。

 

①逮捕されただけで有罪とは決まっていない段階での自粛はおかしい

②どんな不祥事でも自粛にするかのような動きはやりすぎだ

③薬物依存は被害者がいない

④出演者の1人の不祥事で作品全体をお蔵入りにするのはおかしい

⑤過去の作品まで自粛するのはやりすぎだ

⑥見る側の選択に任せるべきだ

⑦アートを道徳で縛るべきではない

⑧民間企業による自粛は事実上の検閲である

⑨薬物依存症への偏見や差別を助長し患者の社会復帰を妨げる

⑩そもそも自粛判断の基準がなく場当たり的である

⑪何か起きれば一斉に世の中から排除する不寛容な社会の風潮に違和感がある

 

ピエール瀧出演作の「自粛」は過剰すぎるのか。佐々木俊尚さんは「ガイドラインを作るべき」と提言 ハフポスト 2019年03月16日

 

ピエール瀧さんの作品自粛等の件で要望書を提出 アゴラ 2019年03月26日

 

電気グルーヴ自粛は、本当に正義なのか?日本の音楽業界と民意の温度差を考える block.fm 2019年3月14日

 

作品に罪はない? ピエール瀧作品 相次ぐ“自粛”の波紋 NHK NEWS WEB 2019年3月25日

 

それぞれ賛否はともあれ言いたいことはわかる。主張の方向性はさまざまだが、全体に共通するものがあるとすれば、これはさすがにやりすぎだ、もうこの手のものはうんざりだ、といったニュアンスだろうか。私たちは「この手のもの」をここしばらくの間、さんざん見せられてきたということだろう。だからこそあれほどの反対の声が一気に上がったわけだ。つまりこの問題は、たんにピエール瀧をめぐる問題というだけのものではなく、より大きな問題の一部として受け止められたとみた方がよい。

 

では多くの批判の声の主がうんざりしている「この手のもの」とは何か。直接的には、「出演者と作品を同一視するな」ということだろう。私たちが日常消費する商品やサービスはほとんどの場合、多くの人の手によって作られ提供されている。その中の誰か1人がなんらかの不祥事を起こしたとして、それが直接その商品やサービスの品質などに影響するものでない場合にもそれらをすべて否定していったら、私たちの生活は成り立たなくなる。

 

2018年11月以降、金融商品取引法及び会社法違反の容疑で二度にわたり日産自動車代表取締役会長だったカルロス・ゴーンが逮捕されているが、日産自動車が製造や販売を自粛しているわけではない。2018年に受託収賄や収賄で文部科学省の科学技術・学術政策局長佐野太と国際統括官川端和明が逮捕され事務次官戸谷一夫と初等中等教育局長高橋道和が辞任したが文部科学省を解体せよという話にはならない。「それはそれ、これはこれ」ということだ。

 

たしかに音楽や映像の作品において出演者はその印象を決める重要なファクターであり、たとえば被害者やその他の人々がそれらを目や耳にしたときに傷ついたり不快感を覚えたりすることに対して配慮せよという主張は理解できる。社会的に望ましくない行為をした者が制裁を受けなければ社会秩序がゆらぐという意見もわかる。しかしそれにも程度というものがあるだろう。脇役の不祥事で作品全体をお蔵入りにしたり、仮に主役であったとしても過去の作品までお蔵入りにしたりするのはあまりにやりすぎだ、という主張には、それなりのスジがあるように思われる。

 

しかし、それだけだとも思えない。批判を見ると、ピエール瀧の件だけでなく、それまでにあった事件に言及しているものが少なくない。どうもこの反発の中には、当該人、作品だけの話というより、「この手のもの」一般、抽象的にいえば、必ずしもつねにあてはまるわけではないルールや考え方を(やたらと上から目線で)他人に押し付け、「断罪」したがる人たちやそうした風潮への反発があるように思われるのだ。

 

多くのネット炎上ケースにおいて、実際にクレームをつける人たちは比較的少数であることが知られている。多くは正義感や自己実現欲求などに動機づけられた彼らの強い批判がマスメディアに取り上げられるなどして世間一般に広がることを恐れて企業は対応を迫られることとなるが、そうした状況を一般の人々は必ずしも望んではいない。それが不満の種となり、きっかけを得て反発として表面化したのだろう。

 

・山口 真一(2015)「実証分析による炎上の実態と炎上加担者属性の検証」『情報通信学会誌』33巻2号p. 53-65.

 

ネット炎上、仕掛け人「0.5%」の正体 日経ビジネスオンライン 2016年12月13日

 

これは実際にはさまざまなかたちをとってあらわれる。たとえば、近年話題になることが少なくない、いわゆる「不謹慎狩り」ということばを取り上げてみよう。「不謹慎」ということばは、2011年3月の東日本大震災を境に使用頻度が少なくともネットにおいて増えていることがGoogleトレンドの検索数動向にあらわれている(震災前後の変化をわかりやすくするため震災時がはみ出すように作図している。点線は6か月移動平均)。

 

 

 

 

災害のたび増える「自粛」 検索ワードが語る不謹慎狩り 朝日新聞 2017年3月9日

 

この「不謹慎」は、震災発生後に何か楽しいこと、ばかばかしいことなどを発信している企業や人たちに対して発せられた批判のことばだ。震災や原発事故などで苦しんでいる人、悲しんでいる人が数多くいるときに何事だ、というわけだが、こうした風潮に対して、やがてそれを「不謹慎狩り」と揶揄する表現が現れた。

 

同じくGoogleトレンドでみると、このことばは東日本大震災のときにも出ていたが、最大のピークは2016年4月の熊本地震の時であり、やはりそれ以降は以前と比べ高い水準が続いている(「不謹慎」よりも検索数がはるかに少ないので別グラフとした。また、グラフは出さないが「自粛」も同じような動向を示している)。東日本大震災以降氾濫した「不謹慎」批判に対する嫌悪が熊本地震を機に表面化した、という印象を受ける(上のグラフと同様、震災時がはみ出すように作図している。点線は6か月移動平均)。

 

 

 

 

もう1つ例を挙げる。「まなざし」ということばは、慣用句として「熱いまなざしを送る」といった表現があるように、一般的には「視線」「目つき」ぐらいの意味で使われる。一方、以前から人文系の学問領域では、たとえばサイードの『オリエンタリズム』(1978)における言説のように、見る側の価値観や評価を見られる対象に押し付けるといったニュアンスを含む若干特殊な意味で使われてきた。

 

この用法の応用なのであろう、2010年ごろから、ネットにおいて男性が女性を性的な存在として見る、といったさらに限定的な意味での用例が、「まなざす」という動詞形とともに急速に増えていく。検索してみた限り、twitterにおける「まなざす」の初出は2009年3月25日のものだが、おそらくこの意味だろう。

 

「まなざす」という言葉が今どの程度用いられているのか、今後どの程度広まる見込みか、ちょっと気になる 

 

このような(男性の女性に対する性的な)「まなざし」への批判はその後なぜか(本当に不思議なのだが)、性暴力や性的虐待などを起こす男性やそれを見逃す社会に向かうのではなく、社会において女性を差別しその活躍を阻害する組織や制度に向かうわけでもなく、現実の女性とは何の関係もない(その中には女性クリエータによって作られたものも少なくない)、マンガやアニメなどの創作物における表現の規制を求める声を中心とするものとなっていった。

 

やがてこうした動きに対する批判が「まなざし村」ということばとなってあらわれた。「まなざし」をこの意味で使う人々を揶揄する表現である。「まなざし」がふたたび大きな関心を集めた2016年ごろ、この「まなざし村」がネットにあふれ出た。「まなざし」の検索数は「まなざし村」よりけた違いに大きいので、ほぼ同じ動向を示す動詞形の「まなざす」と比較すると下図のようになる。ここでもふたたび、先行した「まなざし」批判が「まなざし村」という反発のことばを生んだことがうかがえる。

 

 

 

 

このような動きは、日本だけのものではない。同じ時期、すなわち2010年代前半以降、英語圏において「social justice warrior」ということばがしばしば使われるようになっている。頭文字をとって「SJW」とも表記されるこのことばは、直訳すれば「社会正義戦士」であり、社会正義の実現や推進を支持しそのためになんらかの活動を行う人々を揶揄する意図を持つ。「社会正義」は以前からごく一般的に使われてきたことばだが、この時期にこのことばを得て反発が表面化したわけだ。

 

 

 

 

きっかけとなったのは、この時期に表面化したいわゆるゲーマーゲート問題であるようだ。ゲーマーゲート問題自体についての解説は省略するが、以下の記事をみると、フェミニズム的視点からゲーム表現の女性差別を取り上げる動きに対して、反発する人々が「SJW」と呼んだであろうことがうかがえる。とはいえGoogleトレンドの関連キーワードをみると「political correctness」なども挙がっているので、もう少し広い文脈があるのだろう。

 

こうした揶揄はソーシャルメディアだけではなく、マスメディアにも広がっている。たとえば英国の子供向けアニメ『Amazing World Of Gumball』は2017年、「SJW」を批判的に扱ったエピソードを放映した(「Gumball The Social Justice Warrior」などのキーワードで検索すると動画を見ることができる)。ここでは貧困、肥満、ジェンダーステレオタイプといった問題が取り上げられており、これらが「SJW」の人々が社会正義の剣を振り上げる際の典型的なネタであることがわかる。

 

Access Accepted第440回:北米ゲーム業界を揺るがす“ゲーマーゲート”問題 4Gamer.net 2014/11/10

 

いうまでもないが、これらの例を取り上げたのは、「不謹慎狩り」や「まなざし村」、あるいは「SJW」といったことばで形容される行動や人々を揶揄する意図ではない。こうしたことばは、他の領域、逆方向の主張をする人々に対してもしばしば使われるのだ。たとえば「SJW」における蔑称としての「戦士」という呼び方は、日本では逆に、マンガやアニメにおける女性に対する性的な「まなざし」を批判する人々が、それに対して表現の自由を重んじる立場から反論する人々を「表現の自由戦士」などと揶揄する表現に使われている。

 

福島原発事故に関しては、放射性物質の拡散やその危険性について意見を異にする人々が互いに「放射脳」「エア御用」などと罵倒しあっていた。何らかの問題に関して法規制を訴える者に対する「規制厨」のような「○○厨」という呼び方、細かいマナーで他人の行動を批判する人に対する「マナー警察」のような「○○警察」という呼び方などは、いずれも似たような図式で説明することができる。「○○教」「信者」といった表現もほぼ同様の意味で使われる。「ポリコレ疲れ」「ポリコレ棒」というのもあったか。古いことばでは「出羽守」というのもある。

 

社会正義とは異なるが近い領域では、服装などのマナーや掛け算の順序など、一般的な日常行為に関するルールをネット上で説く言説に対して反発の声が上がるのも似た構図だろう。主張の内容や方向性とはあまり関係なく、自らが正しいと考えるルールや考え方を頭ごなしに押し付け、他者を罵倒したりバカにしたりするような言説が反発を呼んでいるとみるべきだ。

 

米国民に「ポリコレ疲れ」 52%が一段の「是正」反対、トランプ時代映す AFP 2018年12月20日

 

風刺画で物議を醸した豪紙と「ポリコレ棒」について考察 NEWSポストセブン 2018年9月15日

 

 

「戦士」の黄昏

 

ここでポイントとなるのは、こうした反発の声をたんなる不見識や、あるべき進歩に対する反動的な逆行としてだけとらえるのは必ずしも適切ではない、ということだ。正しいものを正しいと言って何が悪い、相手がまちがっているのだから批判されて当然だ、などと主張する向きもあるかもしれないが、ここで問われているのは、そもそも正しいものは他にもあるのではないのか、正しければ何を言ってもいいのか、といった点だ。【次ページにつづく】

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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