2019.05.27

自粛反対論と「戦士」の黄昏

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会

2019年3月、音楽グループ・電気グルーヴのメンバーで俳優でもあるピエール瀧(敬称略。以下同様)が麻薬取締法違反容疑で逮捕された。同年4月に起訴され、その後保釈が認められたが、所属事務所であるソニー・ミュージックアーティスツとのマネジメント契約を解除されたほか、ライブ活動の中止、出演番組の打ち切りや代役への差し替え、過去出演作の回収や販売停止など、関連業界に多大な影響が出た。

ここまでは、近年さほど珍しくない流れだ。しかしその後の展開はこれまでと少しちがっていた。この問題については既に多くの論考が出されているが、少し時間もたったので、ここでは一歩引いたより大きな視点から考えてみたい。

毎度長い長いといわれるので、要旨を先に書いておく。

要旨:

◆ピエール瀧の逮捕に伴う作品回収や配信停止に対して噴出した反対論は、当該問題だけではなく、近年さまざまなところで目立つ、頭ごなしに上から目線でルールや考え方を押し付ける人々への反発という、より大きな問題の一部とみるべきである。

◆こうした反発が近年増えているのは、社会の進歩や変化に伴い、社会の中で尊重すべきルールや配慮されるべき「弱者」像が多様化・相対化し、これまで通用してきた「善意」や「良識」が必ずしも一概にはあてはまらないことが多くの人々に意識されるようになった結果である。

◆自らが正しいと信じる以外のルールや考え方を認めず、「戦士」となってそうした主張を罵倒したり揶揄したりするだけでは、社会を変えることはできない。一面的な正義の剣で相手を斬って捨てるのではなく、相手の立場や考えに耳を傾け、対話を通じて柔軟に接点を探る努力を続けることが必要である。

噴出した反対の声

今回のケースでこれまでと違っていたのは、冒頭に書いたようなお決まりの流れに対してかつてないほど大規模に反対の声が上がったことだ。電気グルーヴの作品が回収となったことに対して、6万4千人分の反対署名がソニー・ミュージックレーベルズに対して提出されたほか、公開を間近に控えていた出演映画『麻雀放浪記2020』については、公開中止や代役による撮り直しなどを行わず予定通り公開されることになった。

電気グルーヴの音源・映像の出荷停止、在庫回収、配信停止を撤回してください

電気グルーヴ作品回収への反対署名を提出 ソニー・ミュージック「たくさんの方に愛されていることを改めて認識した」 ハフポスト 2019年4月15日

ピエール瀧容疑者出演映画の公開決定「作品に罪はない」 朝日新聞 2019年3月20日

こうした流れを、メディアは「賛否の声」と報じた。しかし、「賛否」という割には、自粛賛成の意見は実際には少ないように思われる。多くの記事では、自粛賛成の声はツイッターなどから引用したのか、巷にはこんな意見もあるといった体でいくつかの意見を紹介しているだけで、しっかりと自粛を支持する主張を展開したような言説はあまりみられなかった。これに対し、反対の声は芸能関係者だけでなく法律の専門家を含む各界から上がっており、数多くの反対署名と併せ考えると、賛否のバランスは大きく「否」に傾いている。

「品行方正に魅力ない」ピエール瀧擁護の舛添要一氏に賛否 女性自身2019/03/15

ピエール瀧容疑者の作品「自粛」を巡る賛否 専門家はどう見る ORICON NEWS 2019-03-30

ピエール瀧被告 出演作相次ぐ自粛に波紋 産経新聞2019.4.2

「いだてん」ピエール瀧容疑者“カット”で再放送 ネットは賛否「当然」「作品への冒涜」 スポニチ 2019年3月16日

瀧被告出演分を変更せず…賛否両論のまま映画5日公開 白石監督が心境 デイリースポーツオンライン2019.04.05.

賛否両論というより、今回の件をきっかけに反対論が堰を切ったようにあふれ出た、といった方が近いだろう。あたかも、今まで言えなかった意見を言える状況になって皆が声を上げ始めたような印象を受ける。これまでも上掲のようなお決まりの流れに反対する声はあったが、これほど大きなものになったことはなかった。なぜ今回はちがったのだろうか。おそらく「ピエール瀧だから」といった個別の理由もあるにはあったのだろうが、どうもそれだけとは思えない。この特定の問題を超えた、より広い視点からみてみる必要があるように思われる。

自粛小史

本論に入る前に、今回のような不祥事への対応のしかたがどれほど一般的なものなのか、過去の例をみてみることにしよう。

芸能人が犯罪やその他の不祥事を起こして芸能界から姿を消すことは、それほど珍しいことではない。近いところでは2018年7月、俳優の新井浩文が、自宅で派遣型マッサージ店の30代女性従業員に乱暴したとして逮捕されたが、これを受けて、2019年に公開予定だった映画2本が公開中止または延期となり、また新井の出演していた数多くのドラマや映画が配信中止となるなど大きな影響が出た。このほかにも報道などで見かけた限りでいくつか挙げると以下の通りで(まだ他にもあるだろうが)、少なくとも数年に一度はこうした事態が生じていることがわかる。

・2018年4月、俳優の青木玄徳が強制わいせつ致傷で逮捕され、出演が決まっていた舞台を降板、公開予定だった主演映画も一週間限定公開となった。

・2017年、写真週刊誌に女子高生との未成年飲酒と淫行を報じられた俳優の小出恵介が無期限活動休止を発表、配信を1ヶ月後に控えたドラマも配信延期となった。

・2016年、ホテル女性従業員に性的暴行を加えたとして俳優の高畑裕太が逮捕され、その出演作品は配信停止となった。

・2016年、タレントのベッキーとバンド「indigo la End」および「ゲスの極み乙女。」のメンバー川谷絵音が週刊誌の不倫報道をきっかけに強い批判を浴び活動を一時自粛した。

・2014年、その前年から話題に上っていた覚せい剤取締法違反の容疑で歌手のASKAが逮捕され音楽活動から引退、ライブの中止や関連商品の出荷停止・回収、配信停止などの影響が出た。

・2011年、お笑いタレントの島田紳助が、暴力団関係者との「黒い交際」が報じられたことをきっかけとして引退した。

・2009年、愛人と共に合成麻薬MDMAを服用し、容態が急変したホステスを放置して死に至らしめたとして俳優の押尾学が逮捕され、出演作品が配信停止となった。

・2009年、覚せい剤取締法違反容疑でタレントの酒井法子が逮捕され、懲役1年6ヶ月執行猶予3年の判決を受けた。所属事務所やレコード会社との契約は解除となった。

・2006年、漫才コンビ「極楽とんぼ」の山本圭壱が10代の少女に対して飲酒行為と性的暴行に及んだとして所属事務所との契約を解除された。

・2001年、タレントの田代まさしが覗きと覚せい剤使用により逮捕され、所属事務所との契約を解除された。

いうまでもないが、不祥事によって公的活動の場から追われることがあるのは芸能人だけではない。たとえば政治家は、職務の性格上やむを得ない面もあるが、この種の問題ではいわば「常連」だ。

2019年4月に桜田義孝五輪相が失言により更迭された件は記憶に新しいが(議員は辞めていない)、国会議員の辞職・失職レベルだけに限っても、2016年に衆議院議員の宮崎謙介が週刊誌報道をきっかけに辞職、2010年には同じく衆議院議員の鈴木宗男が受託収賄などで最高裁判決を受け失職、衆議院議員の小林千代美と後藤英友が公職選挙法違反の連座で辞職、参議院議員の若林正俊が本会議で隣席のボタンを押して懲罰動議を出され辞職、といったペースで、地方自治体の首長や議員まで含めればとても挙げきれないほどだ。

官僚、企業人、スポーツ選手、大学教員などでも、類似の例は少なからずある。すべて合わせれば、不祥事から自粛へという流れを私たちはほぼ日常茶飯事として目撃している。

しかし一方で、一度は公的活動の場から離れても、その後復帰する例も多い。芸能人の場合だけ挙げると、ベッキーと川谷絵音はいずれも3、4か月後に復帰、ASKAは2016年ごろから活動を再開、酒井法子は逮捕後も地上波テレビへの出演は限られているものの芸能活動を継続、山本圭壱は2015年にフリーとして復帰し2016年にふたたび元の事務所と契約を結んだ。

島田紳助は2004年にも暴力事件を起こして罰金刑を受けて芸能活動を無期限に自粛していたが2か月後に復帰し、引退する2011年まで芸能活動を続けていた。田代まさしも2000年に盗撮で罰金刑を受け芸能活動を自粛していたが翌2001年に復帰、その後違法薬物の所持などにより数度にわたり逮捕されたが、服役後は薬物中毒者向けの講演などを行いながらネットなどでの芸能活動を行っている。

もっと前の例を挙げれば、1986年に暴力事件を起こしたビートたけしは逮捕後7日目でテレビに復帰した。1987年に覚せい剤取締法違反で逮捕されたシンガーソングライターの尾崎豊はその半年後に新曲をリリースして大ヒット、先日死去した俳優の萩原健一は生前4回の逮捕、1回の書類送検を受けながら、謹慎を挟みつつ死去直前まで芸能活動を続けた。

過去作品の販売や配信はどうかとアマゾンをみてみると、少なくとも現時点で、青木玄徳、小出恵介、高畑裕太等の出演作品は販売、配信されている(主演作品でないからでもあろうが)。CHAGE and ASKAや酒井法子の楽曲も同様だ。企業の側とて自粛したくてしているわけではないので、しばらく自粛してほとぼりが冷めるのを待つのは合理的な選択といえる。そう考えれば、ピエール瀧のケースも、しばらく活動を控えていれば、遠くないうちに芸能活動や出演作品配信の再開チャンスが訪れることになるだろうと予想するのが常識的な考え方だ。

ピエール瀧出演作品に関する自粛を批判した人たちがみな、こうした状況を知らなかったとは思えない。そう考えてくると、今回のケースで突然、これまでになく多くの批判が発せられたのは、何か別の要素があると考えるのが自然のように思われる。

押し付けへの反発

自粛を批判する意見をみると、さまざまな理由が挙げられている。

①逮捕されただけで有罪とは決まっていない段階での自粛はおかしい

②どんな不祥事でも自粛にするかのような動きはやりすぎだ

③薬物依存は被害者がいない

④出演者の1人の不祥事で作品全体をお蔵入りにするのはおかしい

⑤過去の作品まで自粛するのはやりすぎだ

⑥見る側の選択に任せるべきだ

⑦アートを道徳で縛るべきではない

⑧民間企業による自粛は事実上の検閲である

⑨薬物依存症への偏見や差別を助長し患者の社会復帰を妨げる

⑩そもそも自粛判断の基準がなく場当たり的である

⑪何か起きれば一斉に世の中から排除する不寛容な社会の風潮に違和感がある

ピエール瀧出演作の「自粛」は過剰すぎるのか。佐々木俊尚さんは「ガイドラインを作るべき」と提言 ハフポスト 2019年03月16日

ピエール瀧さんの作品自粛等の件で要望書を提出 アゴラ 2019年03月26日

電気グルーヴ自粛は、本当に正義なのか?日本の音楽業界と民意の温度差を考える block.fm 2019年3月14日

作品に罪はない? ピエール瀧作品 相次ぐ“自粛”の波紋 NHK NEWS WEB 2019年3月25日

それぞれ賛否はともあれ言いたいことはわかる。主張の方向性はさまざまだが、全体に共通するものがあるとすれば、これはさすがにやりすぎだ、もうこの手のものはうんざりだ、といったニュアンスだろうか。私たちは「この手のもの」をここしばらくの間、さんざん見せられてきたということだろう。だからこそあれほどの反対の声が一気に上がったわけだ。つまりこの問題は、たんにピエール瀧をめぐる問題というだけのものではなく、より大きな問題の一部として受け止められたとみた方がよい。

では多くの批判の声の主がうんざりしている「この手のもの」とは何か。直接的には、「出演者と作品を同一視するな」ということだろう。私たちが日常消費する商品やサービスはほとんどの場合、多くの人の手によって作られ提供されている。その中の誰か1人がなんらかの不祥事を起こしたとして、それが直接その商品やサービスの品質などに影響するものでない場合にもそれらをすべて否定していったら、私たちの生活は成り立たなくなる。

2018年11月以降、金融商品取引法及び会社法違反の容疑で二度にわたり日産自動車代表取締役会長だったカルロス・ゴーンが逮捕されているが、日産自動車が製造や販売を自粛しているわけではない。2018年に受託収賄や収賄で文部科学省の科学技術・学術政策局長佐野太と国際統括官川端和明が逮捕され事務次官戸谷一夫と初等中等教育局長高橋道和が辞任したが文部科学省を解体せよという話にはならない。「それはそれ、これはこれ」ということだ。

たしかに音楽や映像の作品において出演者はその印象を決める重要なファクターであり、たとえば被害者やその他の人々がそれらを目や耳にしたときに傷ついたり不快感を覚えたりすることに対して配慮せよという主張は理解できる。社会的に望ましくない行為をした者が制裁を受けなければ社会秩序がゆらぐという意見もわかる。しかしそれにも程度というものがあるだろう。脇役の不祥事で作品全体をお蔵入りにしたり、仮に主役であったとしても過去の作品までお蔵入りにしたりするのはあまりにやりすぎだ、という主張には、それなりのスジがあるように思われる。

しかし、それだけだとも思えない。批判を見ると、ピエール瀧の件だけでなく、それまでにあった事件に言及しているものが少なくない。どうもこの反発の中には、当該人、作品だけの話というより、「この手のもの」一般、抽象的にいえば、必ずしもつねにあてはまるわけではないルールや考え方を(やたらと上から目線で)他人に押し付け、「断罪」したがる人たちやそうした風潮への反発があるように思われるのだ。

多くのネット炎上ケースにおいて、実際にクレームをつける人たちは比較的少数であることが知られている。多くは正義感や自己実現欲求などに動機づけられた彼らの強い批判がマスメディアに取り上げられるなどして世間一般に広がることを恐れて企業は対応を迫られることとなるが、そうした状況を一般の人々は必ずしも望んではいない。それが不満の種となり、きっかけを得て反発として表面化したのだろう。

・山口 真一(2015)「実証分析による炎上の実態と炎上加担者属性の検証」『情報通信学会誌』33巻2号p. 53-65.

ネット炎上、仕掛け人「0.5%」の正体 日経ビジネスオンライン 2016年12月13日

これは実際にはさまざまなかたちをとってあらわれる。たとえば、近年話題になることが少なくない、いわゆる「不謹慎狩り」ということばを取り上げてみよう。「不謹慎」ということばは、2011年3月の東日本大震災を境に使用頻度が少なくともネットにおいて増えていることがGoogleトレンドの検索数動向にあらわれている(震災前後の変化をわかりやすくするため震災時がはみ出すように作図している。点線は6か月移動平均)。

災害のたび増える「自粛」 検索ワードが語る不謹慎狩り 朝日新聞 2017年3月9日

この「不謹慎」は、震災発生後に何か楽しいこと、ばかばかしいことなどを発信している企業や人たちに対して発せられた批判のことばだ。震災や原発事故などで苦しんでいる人、悲しんでいる人が数多くいるときに何事だ、というわけだが、こうした風潮に対して、やがてそれを「不謹慎狩り」と揶揄する表現が現れた。

同じくGoogleトレンドでみると、このことばは東日本大震災のときにも出ていたが、最大のピークは2016年4月の熊本地震の時であり、やはりそれ以降は以前と比べ高い水準が続いている(「不謹慎」よりも検索数がはるかに少ないので別グラフとした。また、グラフは出さないが「自粛」も同じような動向を示している)。東日本大震災以降氾濫した「不謹慎」批判に対する嫌悪が熊本地震を機に表面化した、という印象を受ける(上のグラフと同様、震災時がはみ出すように作図している。点線は6か月移動平均)。

もう1つ例を挙げる。「まなざし」ということばは、慣用句として「熱いまなざしを送る」といった表現があるように、一般的には「視線」「目つき」ぐらいの意味で使われる。一方、以前から人文系の学問領域では、たとえばサイードの『オリエンタリズム』(1978)における言説のように、見る側の価値観や評価を見られる対象に押し付けるといったニュアンスを含む若干特殊な意味で使われてきた。

この用法の応用なのであろう、2010年ごろから、ネットにおいて男性が女性を性的な存在として見る、といったさらに限定的な意味での用例が、「まなざす」という動詞形とともに急速に増えていく。検索してみた限り、twitterにおける「まなざす」の初出は2009年3月25日のものだが、おそらくこの意味だろう。

「まなざす」という言葉が今どの程度用いられているのか、今後どの程度広まる見込みか、ちょっと気になる 

このような(男性の女性に対する性的な)「まなざし」への批判はその後なぜか(本当に不思議なのだが)、性暴力や性的虐待などを起こす男性やそれを見逃す社会に向かうのではなく、社会において女性を差別しその活躍を阻害する組織や制度に向かうわけでもなく、現実の女性とは何の関係もない(その中には女性クリエータによって作られたものも少なくない)、マンガやアニメなどの創作物における表現の規制を求める声を中心とするものとなっていった。

やがてこうした動きに対する批判が「まなざし村」ということばとなってあらわれた。「まなざし」をこの意味で使う人々を揶揄する表現である。「まなざし」がふたたび大きな関心を集めた2016年ごろ、この「まなざし村」がネットにあふれ出た。「まなざし」の検索数は「まなざし村」よりけた違いに大きいので、ほぼ同じ動向を示す動詞形の「まなざす」と比較すると下図のようになる。ここでもふたたび、先行した「まなざし」批判が「まなざし村」という反発のことばを生んだことがうかがえる。

このような動きは、日本だけのものではない。同じ時期、すなわち2010年代前半以降、英語圏において「social justice warrior」ということばがしばしば使われるようになっている。頭文字をとって「SJW」とも表記されるこのことばは、直訳すれば「社会正義戦士」であり、社会正義の実現や推進を支持しそのためになんらかの活動を行う人々を揶揄する意図を持つ。「社会正義」は以前からごく一般的に使われてきたことばだが、この時期にこのことばを得て反発が表面化したわけだ。

きっかけとなったのは、この時期に表面化したいわゆるゲーマーゲート問題であるようだ。ゲーマーゲート問題自体についての解説は省略するが、以下の記事をみると、フェミニズム的視点からゲーム表現の女性差別を取り上げる動きに対して、反発する人々が「SJW」と呼んだであろうことがうかがえる。とはいえGoogleトレンドの関連キーワードをみると「political correctness」なども挙がっているので、もう少し広い文脈があるのだろう。

こうした揶揄はソーシャルメディアだけではなく、マスメディアにも広がっている。たとえば英国の子供向けアニメ『Amazing World Of Gumball』は2017年、「SJW」を批判的に扱ったエピソードを放映した(「Gumball The Social Justice Warrior」などのキーワードで検索すると動画を見ることができる)。ここでは貧困、肥満、ジェンダーステレオタイプといった問題が取り上げられており、これらが「SJW」の人々が社会正義の剣を振り上げる際の典型的なネタであることがわかる。

Access Accepted第440回:北米ゲーム業界を揺るがす“ゲーマーゲート”問題 4Gamer.net 2014/11/10

いうまでもないが、これらの例を取り上げたのは、「不謹慎狩り」や「まなざし村」、あるいは「SJW」といったことばで形容される行動や人々を揶揄する意図ではない。こうしたことばは、他の領域、逆方向の主張をする人々に対してもしばしば使われるのだ。たとえば「SJW」における蔑称としての「戦士」という呼び方は、日本では逆に、マンガやアニメにおける女性に対する性的な「まなざし」を批判する人々が、それに対して表現の自由を重んじる立場から反論する人々を「表現の自由戦士」などと揶揄する表現に使われている。

福島原発事故に関しては、放射性物質の拡散やその危険性について意見を異にする人々が互いに「放射脳」「エア御用」などと罵倒しあっていた。何らかの問題に関して法規制を訴える者に対する「規制厨」のような「○○厨」という呼び方、細かいマナーで他人の行動を批判する人に対する「マナー警察」のような「○○警察」という呼び方などは、いずれも似たような図式で説明することができる。「○○教」「信者」といった表現もほぼ同様の意味で使われる。「ポリコレ疲れ」「ポリコレ棒」というのもあったか。古いことばでは「出羽守」というのもある。

社会正義とは異なるが近い領域では、服装などのマナーや掛け算の順序など、一般的な日常行為に関するルールをネット上で説く言説に対して反発の声が上がるのも似た構図だろう。主張の内容や方向性とはあまり関係なく、自らが正しいと考えるルールや考え方を頭ごなしに押し付け、他者を罵倒したりバカにしたりするような言説が反発を呼んでいるとみるべきだ。

米国民に「ポリコレ疲れ」 52%が一段の「是正」反対、トランプ時代映す AFP 2018年12月20日

風刺画で物議を醸した豪紙と「ポリコレ棒」について考察 NEWSポストセブン 2018年9月15日

「戦士」の黄昏

ここでポイントとなるのは、こうした反発の声をたんなる不見識や、あるべき進歩に対する反動的な逆行としてだけとらえるのは必ずしも適切ではない、ということだ。正しいものを正しいと言って何が悪い、相手がまちがっているのだから批判されて当然だ、などと主張する向きもあるかもしれないが、ここで問われているのは、そもそも正しいものは他にもあるのではないのか、正しければ何を言ってもいいのか、といった点だ。

現代社会では、「弱者」に配慮することを正しいとする考え方が幅広く、そして深く浸透している。「社会正義」の中でも上位に位置づけられるものであろう。とくに力ある者、心ある者は「弱者」の立場に立ち、代わりにその権利のために戦う、すなわち社会正義のために戦う「戦士」となることで、仲間内から高く評価される。

実際に起きている論争をみると、「弱者」自身より、こうした「弱者」の気持ちや意見を代弁するかたちで他の人が行う主張が多くを占めることに気づく。これはジャーナリスト佐々木俊尚が指摘した「マイノリティ憑依」とかなりの部分重なるものだ。専門外なのであてずっぽうだが、社会心理学の専門家であれば、内集団構成員に対する不公平・不公正な取り扱いへの共感的怒りに動機づけられた非当事者攻撃というかもしれない。

・佐々木俊尚(2012)『「当事者」の時代』光文社 

・熊谷智博(2013)「集団間不公正に対する報復と しての非当事者攻撃の検討」『社会心理学研究』第29巻第2号p.86- 93.

しかし、そこでいう「弱者」とはいったい誰か。「戦士」が仲間とみなすのは、たとえばフェミニストであれば女性、エスニックマイノリティであれば当該民族ということになろうが、人は通常、複数のグループに属しているから、つねにある1つのグループだけを仲間と感じているわけではないだろう。

たとえば米国において白人女性は「女性」グループと「白人」グループの双方に属している。米国社会において前者は「弱者」とされ後者は「強者」とされる。したがって白人女性が自らをどう位置付けるかは、たとえば白人女性が白人至上主義をどう評価するかに影響するだろう。「弱者」に配慮しようとする企業経営者は白人女性と黒人男性のどちらを雇うか迷うことがあるかもしれない。前者については米国の歴史学者エリザベス・ギレスピー・マクレーの研究が示した「不都合な真実」が社会に衝撃を与えた(黒人女性にとっては驚きでも何でもなかったが、とマクレーはいう)。

・Elizabeth Gillespie McRae (2018). Mothers of Massive Resistance: White Women and the Politics of White Supremacy. Oxford University Press.

The Women Behind White Power New York Times 2018年2月2日

こうしたことはいうまでもなく、他の領域にもある。同じ米国でいえば、上掲「Gumball」に出てきたような収入や体形による差別の他、性的指向や嗜好による差別、ゲームやアニメなどオタク趣味に対する差別、人種マイノリティ間の人種差別など、さまざまな差別の要因があり、その中の1つ、あるいはいくつかを備えた人同士でどちらがより配慮すべき「弱者」なのかはいちがいにはいえない。

日本においても同様だ。たとえば福島第一原発事故のため避難を余儀なくされた人々はまぎれもなく被害者という「弱者」に属するが、彼ら(そしてその立場に「憑依」した人々)が拡散した放射性物質の危険性を過大に評価して当該地域の農産物などへの風評被害を引き起こしている点では加害者の側に立つ。

また、女性は全体として女性の権利保護や社会的地位の向上といった大きな命題では合意できても、より具体的な、たとえば専業主婦に対する配偶者控除や国民年金の3号被保険者の保険料をどうすべきか、性自認はMtFだが性別適合手術は受けていない人々を公共のトイレや浴場においてどう扱うか、伝統的性別役割分担を肯定的に描く表現をどう考えるか、といった問題に関しては、必ずしも一致した意見があるわけではない。オタク趣味を持つ女性の中には、オタク男性を「性的搾取」と批判する女性活動家の声を居心地悪く聞く人もいるだろう。

DISCRIMINATION AGAINST FAT PEOPLE IS SO ENDEMIC, MOST OF US DON’T EVEN REALISE IT’S HAPPENING Independent 2018年5月21日

人種差別はここにも存在する-米国ヒスパニックによるアフリカ系アメリカ人差別の実態 Global Voices 2017年11月7日 72/

働く女性の声を受け「無職の専業主婦」の年金半額案も検討される マネーポスト 2019年5月5日

実態を知らない批判 トランスジェンダー女性が攻撃される日本 ライブドアニュース 2019年4月27日

「弱者」同士手を結んで共闘すればよい、という意見は、その「弱者」同士で利害が対立することがありうること、そもそも誰が配慮すべき「弱者」なのかについての意見が社会の中で必ずしも一致していないという点を無視あるいは軽視している。

英語圏では近年、いわゆるintersectionality(交差性)という概念で複数の「弱者」属性を兼ね備えた人々がより深刻な差別を受けるといった議論がさかんになされているが、その中でももっとも「弱者」性が高い人々の問題にフォーカスするあまりか、上掲マクレーの指摘するような「弱者」間の関係に対する視点はまだそう多くはみられないようにみえる(日本ではほとんどみたことがない)。結果として起きているのは、さまざまな「弱者」に「憑依」した強者たちがどちらがより「弱者」なのかを競い合うという、まさに現代社会の言論空間の重要な一部であるソーシャルメディア上で日々展開されている状況だ。

・徐阿貴(2018)「Intersectionality(交差性)の概念をひもとく」『国際人権ひろば No.137(2018年01月発行号) 』

・Intersectionality 101: Why “we’re focusing on women” doesn’t work for Diversity & Inclusion Jennifer Kim – Awaken 2018年4月11日

White Women, If Your Feminism Isn’t Intersectional, GTFO Scary Mommy

冒頭のピエール瀧のケースで起きた反発も、「犯罪者がメディアで“のさばって”いることに傷つく弱者」と「犯罪を犯した表現者の表現物に触れられなくなって悲しむ弱者」、あるいは「犯罪者が“のさばる”ことで社会秩序が乱れることを懸念する弱者」と「犯罪を犯してしまったが立ち直ろうとする弱者」、および彼らのいずれかに「憑依」して自ら代弁者となる強者たちの戦いにおいて、後者が前者に対して放った反撃であったとみることができる。

具体的な被害者がいる犯罪であれば、被害者側に「憑依」した方が加害者側に「憑依」するより強いのだろうが、違法薬物の場合はそうではない、と考える人が数多くいたということなのだろう。近年になって、違法薬物の問題を犯罪ととらえる見方に加え、依存症の問題ととらえる見方が出てきたことも影響していよう。

もちろん、被害者がいる場合でも、加害者に「弱者」の属性があれば、どちらが「有利」かはわかりにくくなる。2018年1月、母親が3つ子の次男(生後11か月)を床に叩きつけて死亡させた事件では、母親を殺人犯として非難する声と、育児疲れを考慮して擁護する声が交錯した。1989年に東京・埼玉、2014年に佐世保でそれぞれ起きた猟奇的な殺人事件には類似点があることが指摘されているが、加害者がいわゆる「オタク」の若年男性か女子高校生かという違いのせいか、加害者への評価には大きな差があった。

一方どちらのケースも、加害者の親に厳しい非難が寄せられたが、いずれの場合も加害者の親であることの苦しみは彼らの自殺という悲惨な結果のあとでしか理解されなかったのはなんとも哀しい一致だ。最近話題に上ることの多い高齢者による交通事故も、2019年4月に起きた池袋の事故では、被害者が若い母親と幼い子どもであり、加害者が社会的地位を得た高齢男性であったことがその評価に大きく影響したことは否定できない。同じような事故が別にあったとして、もし加害者と被害者が逆のパターンであったとしたら、世論の動きはまったく違っていただろう。

3つ子の育児に疲れ果て次男殺害、母に寄せられた「同情の声」と「厳しい批判」 週刊女性PRIME 2019年4月3日

一部メディアが、加害者家族を苦しめている 加害者家族のプライバシーも保護されるべき ミセス・パンプキン – 東洋経済ONLINE 2015年7月7日

佐世保女子高生殺害事件の遺体解剖と父親自殺は、あの事件とそっくりだ 篠田博之 – Yahoo!ニュース個人 2014年10月7日

池袋事故で加熱する”上級国民”叩きの深層 鬱積する「不公平感」のマグマ プレジデントオンライン 2019年4月29日

高齢ドライバーの事故は20代より少ない 意外と知らないデータの真実 市川衛 – Yahoo!ニュース個人 2016年11月20日

人間には感情があるので、ある属性を持つ人々に共感したり、別の属性を持つ人々に反感を抱いたりすることは自然で、誰も否定はできない。しかし、現代社会は充分に複雑化しており、さまざまな意味での「弱者」が社会のさまざまなところにいる。総じてみれば強者のグループにいるようにみえても、別の目でみれば「弱者」、ということがあたりまえに存在するのだ。

そうした複雑な要素を捨象し、自分が正しいと判断したもののみを社会正義とし、立場や価値観を異にする者への共感を失い、彼らを頭ごなしに否定し罵倒していくようなことをしていたらどうなるか。そうして否定された人々、切り捨てられた人々は反撃を始めるだろう。それは世界各地ですでに現実のものとなっている。いわゆるトランプ現象も、欧州における移民排斥の動きもイエローベスト運動も、こうした反発にドライブされている部分が少なからずあるだろう。少なくともそれらの一部は、社会の「進歩」によって相対的に取り残されたと感じる「忘れられた人々」の不安や不満を背景にしている。

トランプを支持する“忘れられた人たち” NHK NEWSWEB 2016年7月25日

【寄稿】移民問題、依然デリケートな理由 Walter Russell Mead – Wall Street Journal 2018年1月24日

「イエローベスト」の暴徒化に揺れるフランス、その不穏な正体 六辻彰二 – NEWSWEEK日本版 2018年12月03日

女性もこれまで、日本を含む多くの社会において、「忘れられた人々」の側面をもっていた。おもに20世紀以降進んだ女性の権利や社会的地位の向上は、そうした状況に反発し、社会を変えていこうという動きが徐々に実を結んでいった経過でもあったわけだ。

しかし、それが少なくともある程度は進み、女性の中にも「強者」が少なからず出始めたことで相対的に男性の中にいた「弱者」の存在が浮き彫りになり、また同時に女性の中の「強者」「弱者」の差や、トランスジェンダーという新たに「発見」された「弱者」の存在もはっきりと認識されるようになった。

「弱者」と位置付けられる人物像が多様化し、相対化したのだ。そうなると、これまで当然のように通用した「善意」や「良識」に基づく社会正義の剣も、他の種類の「善意」や「良識」に基づく社会正義の剣とその強さを競ったり、ときには直接戦わなければならない状況が出てくる。それを無視してこれまでのようにふるまえば、「価値観の押し付け」「差別者」などと反発されるリスクを負うことになる。

繰り返すが、これまで「弱者」とされてきた人たちを否定することが本稿の目的ではない。主張の方向性ではなく、社会のある状態や人々、ルールや考え方を「いい」「悪い」の二分法で評価し一方的に断罪しようとすることが問題なのだ。社会は複雑化し、人々の考え方は多様化している。それをあらっぽい二分法でくくり、自分と異なる属性の人々を「悪」として、「正義」の剣で斬って捨てようとすれば、現代社会において批判を浴びることになるのはむしろ当然のことといえよう。

サボテンに学ぶ

もちろん、ピエール瀧のケース自体は、こうした大きな社会的影響のある話とまではいえない。しかしその構図はこれまでに挙げてきた大きな問題とそう変わらない。私たちはあの手の、上から目線の「善意」や「配慮」の押し付けに対してうんざりしており、何かきっかけがあればそれを爆発させてしまう状況にあることが、この件で改めて明らかになった。

日本においても、外国人労働者受け入れ、地方振興、沖縄、皇室、同性婚といったさまざまな、国論を分かつような重要課題が山積している。意見の相違があること自体はむしろ健全なことだが、今のように「弱者」に「憑依」した「戦士」たちが社会のあちこちで「正義」の剣を振り回す状況を放置しておくと、社会の中での分断はいっそう深刻な対立を生み、社会全体が停滞してしまうこととなろう。

意見の対立が解消されないのはストレスフルな状況だ。そのためか、政府など権力による規制で相手を叩きのめそうとする主張もしばしば見かけるが、あまりいい考えだとは思わない。自分たちと立場や考え方を異にする人々を縛るために自らの自由を権力にゆだねれば、その力はやがて、自分たちを縛るためにも使われる。

上掲記事において佐々木俊尚は、ピエール瀧のようなケースに対応するためのガイドラインの制定を提案している。政府による規制よりはましだろうが、すべての場合に対応できるようなルールを作り、安定的に運用していくことは相当の困難を伴うだろう。自分たちと、自分たちと立場や考え方を異にする人たちとの双方に同じルールが適用されることに賛成できる人は現実にはそう多くないからだ。「正義」が自分たちの側にだけあるのではないという「不都合な真実」を、多くの人々はなかなか受け入れることができずにいる。

上掲のアニメ『Amazing World Of Gumball』のエピソードでは、Gumball(ちなみに男の子の猫だ)がクラスメートのCarmen(こちらはサボテンの女の子)の何気ない発言をSJWの典型的なやり方で非難し、正義の剣を振るおうとするが、それに対してCarmenが反撃ではなく、以下のように「許す」と答えたことで逆に大きな打撃を受ける。

Carmen:

“But Gumball, exploiting those powers to win some petty argument will just hurt the cause of the people who really need our help.”

“Instead of fighting, why don’t we just hug it out?”

“I forgive you.”

これもまた「戦士」の攻撃法の1つであることはアニメが描く通りであり、また「許す」ということば自体かなり上から目線ではあるが、剣で戦うよりいくぶんかはましといえるだろう。私たちの社会が、(たいへんありがたいことに)ほとんどの場合、立場や考え方を異にする相手に自分たちの考え方を無条件に押し付けたり、彼らを社会から強制的に排除したりできるようなしくみにはなっていない以上、頭ごなしに罵倒したり揶揄したりするようなやり方で問題が解決することはない。自らの主張を通したければ、必要なのは敵をやっつけることではなく、仲間を増やすことなのだ。

とはいえ「許す」だけで問題が解決するわけではない。もとより「銀の弾丸」は存在せず、アニメではなく現実世界の私たちは、番組が終わっても生き続けなければならない。「弱者」への「憑依」を鎧としてまとい、正義の剣で相手を叩きのめそうとするのではなく、立場や考えの違う人々の意見に耳を傾け、話し合いを通じて接点を探っていく努力が必要となろう。

仲間ととらえた「弱者」に「憑依」するだけではなく、自分とは異なる立場や考え方をとる人たちの中にもいるはずの「弱者」にも「憑依」してみるとよいかもしれない。ピエール瀧のケースであれば、薬物中毒に苦しむ人やその近親者、あるいはピエール瀧の出演した番組や電気グルーヴの音楽に救われたファンがどのように感じているか、配信を停止して何が得られ何が失われるのかを想像してみるのだ。配信を停止するか否か、といった二分法以外のアプローチもきっとあるだろう。

手間も時間もかかり、おそらく誰にとっても100%満足のいく結果は得られない。しかし少なくともこれが、これまでに人類の文明が獲得したさまざまな手法の中で「もっともまし」なやり方ではないかと考える。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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