2012.03.21

性の受け止め方、語り方

猪瀬優理

社会 #性#射精#セクシュアリティ#感じない男

「性」は身体や感情にかかわりの深い事象である。それゆえ、性にかかわる話題は、私的なものとみなされる。一方で、性・生殖関係を秩序立てるための制度として結婚があるなど、性は公的な問題でもある。

性は公的なものなので、何らかのかたちで性ある身体を持つ私たちは、つねに所属している集団から「あるべき性」をその身体、行動で実現することが求められている。そのように感じられる「空気」がある。だが、性は私的なものなので、それが具体的にどのようなものであるのかは、公的空間では正式に語られにくい。性に関する規範は明確なものではなく、暗黙のルールとして存在する。

「性」にまつわる事象は、このような曖昧で不安定な状況に置かれている。

ここでは「性」の置かれている曖昧で不安定な状況を考えるための一助として、男性の身体機能のひとつであり、とくに性的な要素を多く含む「射精」に注目してみたい。

中学生・高校生の性意識

射精に関わる論点を引き出すため、筆者が札幌医科大学の道信良子氏とともに北海道の二都市で実施した中学生・高校生の性意識、とくに月経観と射精観に関する調査結果を参照したい。男女高校生に対する調査票調査と男女中学生・高校生に対する面接調査である。

まず、調査票調査の結果から月経観と射精観についてみてみよう。

月経、射精ともに「汚らわしい」というイメージを抱くものは男女とも少ないが、月経よりも射精を「汚らわしい」と感じる割合が高いことが注目される(表1)。男性では1割ほどが射精に「汚らわしい」というイメージを持っている。

表1 月経・射精を汚らわしいと思うかどうか(男女別)
表1 月経・射精を汚らわしいと思うかどうか(男女別)

月経や射精を「恥ずかしい」と思う人も男女とも少ないが、男性は月経について「恥ずかしい」と思う割合が7.4%なのに対し、射精については17.8%が「恥ずかしい」というイメージを持っている(表2)。射精を恥ずかしいと思う人の方が多いのである。

表2 月経・射精を恥ずかしいと思うかどうか(男女別)

この調査票調査では、自由記述で「自分が射精をすることについてどう思うか」を尋ねている。この設問への回答は、「気持ちいい」が51名でもっとも多い(以下延べ人数)。ただし、この中には「気持ちいけど気分が悪い」「気持ちいいけど切ない」「気持ちいいけど終わったら嫌な気分になる」と相反する気分を併記している人が8名含まれている。

「誇りに思う」「楽しい」「うれしい」といった肯定的感情が3名、「どうでもいい」「何も思わない」「特になし」「普通のこと」が45名ほどいる。このほか、「つらい」「嫌だ」「むなしい」「憂鬱になる」といった否定的感情が10名、「恥ずかしい」が9人、「わからない」「不思議に思う」という人も8名ほどいる。「男に生まれた以上仕方がない」、「正常だということをかみしめるとき」と書いている人もいた。

男性中学生への面接調査では、射精に対して持つイメージとして、「おなかが痛くなる」「いやなイメージ」「エロいこと」「不安」といった意見が聞かれた。総じて、これから起こる予定の自身の身体の変化に不安を感じているように見受けられた。

それに対して、ある程度、身体的変化も落ち着いてきており、性的経験も持つようになっている男性高校生への面接調査では、射精する身体への肯定的な受け止め方も聞かれた。それでも、「初めのころは悪いイメージを持っていた」とか「自分でした後には何をやってるんだろう、とは思う」「自分でした時は嬉しくない」という自慰に対する否定的な感情も聞かれた。

以上の射精観に関する調査結果をある研究会で報告した際、参加者の成人男性から、自分が中学生だったときには精通や射精に対して「不安」というイメージはなく、面白おかしくネタとして仲間同士で話していたので、違和感を持ったという意見を頂いた。

そのときは、語る相手によって語る内容も変わるのではないかと返答したのだが、おそらくどの時代・地域の少年も自分の身体の変化に対しては、多かれ少なかれ恐れや不安を抱くのではないだろうか。男性の意見が示唆している状況は、仲間集団ではその「恐れ」や「不安」は否認されていたとも解釈できる。この点も重要な論点である。

また、上記の意見では、仲間集団では、射精にについて語られる場合があることも示唆されている。このときの面接調査は教員から協力を要請してもらい、本人と保護者の同意を書面で事前に得たうえで、学校内で行われたものである。いわば公的空間における発言である。仲間集団で語られる発言とは異なってくるだろう。考えてみるに、公的空間で射精について語る機会は多くはないのではないだろうか。学校やそれ以外の公共空間で射精がいかに語られているのか、いないのかも論点になりうる。

語られる月経と、語られない射精

月経観に関する研究では、中学生や高校生時の月経に対する考え方が、将来の出産意欲や育児態度、「女性としての自己形成」を大きく左右する、などの観点から、月経に肯定的なイメージを抱けるような月経教育の必要が提唱されていたりする。近年では、月経前後に随伴する不快な症状と対処に関する認知が高まりつつあり、この問題が語られることもあるだろう。いずれにしても月経は、女性の性を含む身体が女性にとっての日々の生活や今後の人生の見通しを考えるうえで、公的空間で語られ得る内容だということを示している。

それに対し、射精については公的な場で、将来の出産意欲や育児態度、「男性としての自己形成」や日々の生活の充実と関連づけて、公的に語られる機会は月経ほど多くない。月経に関する調査研究は、医療・保健のほか人文・社会科学の分野でも散見されるのに対し、射精や勃起など男性の性・生殖に関する調査研究は、射精障害等の治療に関する論文を除けば非常に乏しいのである。

性教協が出版している機関紙『セクシュアリティ』28号(2006年)では、「男子の性~危機からの回復へ」という特集が組まれている。この特集では、性教育において男性の性がきちんと扱われてこなかったことが指摘されている。

また、男性の育児の必要性が語られる場は増えているが、男性の出産・育児意欲・態度の育成を男性の生殖機能に結びつける動きはそれほど強くない。性と生殖の結びつきを強調しすぎることにも弊害があり、この結びつきを強くすべきと主張したいわけではないが、一般に女性の性が出産・育児などと結びつきやすいのに対して、男性の性があまり結びついていない点には留意が必要である。

先の面接調査や調査票調査では、女性には初経祝いの実施状況、男性には精通祝いの実施状況について尋ねている。初経祝いをした女性は134人中52名(38.8%)、精通祝いをした人は159人中2名(1.2%)であった。初経祝いの実施率は下がっているとみられるが、初経祝いには、出産可能な身体になったことを共同体に知らせる意味が根本にあり、その良し悪しは別として現代でもこの雰囲気は残っている。だが、生殖と関連づけられた精通に関する社会的・文化的な儀礼は見られないように思われる。

調査票調査から初経や精通を伝えた相手について尋ねた結果をみると、93.4%が初経を母親に報告している一方で、精通は84.3%が誰にも伝えていなかった。精通も月経も1割程度は友人に伝えられていたが、精通を家族に伝えているのは4名のみである。精通は少年の身体に孤独におとずれ、受容されることが多いと推測される。

このように精通が孤独に訪れる傾向が高そうなことと、射精について「汚らわしい」あるいは「恥ずかしい」と感じる人が一定の割合で存在することとは関係があるように思われる。月経研究においては、月経や出産をケガレと捉える文化があることが指摘されている。今回の調査結果から推測するに、射精にも一定の「ケガレ」意識が存在し、その「ケガレ」意識は月経に対するものよりも大きいか、少なくとも同程度のものである。射精に関する「ケガレ」観についても考察する必要がありそうである。

「性の常識」の学び方


では、性的あるいは生殖に関する事象に対する「ケガレ」意識を含めた、性意識が形成される源泉はどこにあるのだろうか。

セクシュアル・マイノリティの自覚を持つ方々による、自身の経験とその考察が公表されることなどによって、社会における「性の常識」の存在を教えられる機会が増えてきている。これらの指摘は、社会における「性の常識」とは異なる性のとらえ方・あり方を自認したり、公表したりすることに、数々の苦痛や困難や差別が伴うことを知らせている。その人個人の性のとらえ方・あり方は、たしかにそのようなものになっているのであり、他者を傷つけたり、権利を侵害したりしないかぎりは否定・制限される筋合いのないものである。

にもかかわらず、性役割、性意識、性行動など性に関わる人のあり様は、その社会の「性の常識」の範囲内に収まるように要求される。「性の常識」との大きなズレに対しては、異質なものとして排除・差別するか、なんとか「常識」内に押し込めようと抑圧しがちである。

「セクシュアル・マイノリティの問題」として特殊化されがちなこの現象は、程度の差こそあれ(それは重大な差であるけれども)、じつはすべての人に降りかかっている問題なのではないだろうか。一見、「性の常識」の範囲内に収まっているようにみえる人々の性のあり方も、じつは自分自身の経験や身体に生じたり感じたりした「ズレ」を抑え込んだり、ごまかしたりしてきた結果なのかもしれないのである。

ここで考えたいのは、「性の常識」の学び方である。

一例をあげると、性に関する情報源の問題がある。日本性教育協会が実施した「第6回 青少年の性行動全国調査」の結果によれば、性交に関する情報源は、高校生では第一位が友人、第二位がコミックス・雑誌、第三位がポルノ雑誌・AV(アダルトビデオ)であったのに対して、避妊方法については、第一が授業や教科書、第二位が教師、第三位が友人となっている。

性交までの手順はビデオや漫画などの情報媒体を通して学び、避妊方法については学校教育で学ぶということである。この結果はちぐはぐなものを感じさせる。実際の性行動の際に、それぞれの媒体を通して学んだ情報が実践としてうまく結びつくものだろうか。

現状として、AVや性を扱ったコミックスが描く性は、「性的欲望」の喚起を主目的としており、その喚起の仕方はいわゆる「男性中心主義的」な性の捉え方が基盤にあり、そこには男女の平等や人権、あるいは安全といった観点からみて、問題のある表現が多く含まれている可能性が高い。

一方、学習指導要領での性に関する指導では、「望ましい人間関係」、「健康で安全な生活態度」、「男女相互の理解」といったことが目標とされ、「性的欲望」は適切にコントロールするべきものとして扱われる。「性的欲望」を喚起することを主眼としたAVなどの「性」のとらえ方とは異なる。

異なる媒体から伝えられる「性」に対するとらえ方の違いをどのように解釈するべきか、子どもたちは悩むかもしれない。だが、学校教育では、このような問題を丁寧に伝える場面はなかなか設けられないのが現状のように思われる。けれども、「子ども」たちは、以上のような性を取り巻く複層的な環境から、現代社会における「性」のあり様を学び、そのなかから自覚的にも無自覚的にも「自分自身の性・セクシュアリティ」を形成していく。

「性」を扱う媒体は限られており、「子ども」たちに参照される性に関する情報を与えるテレビやビデオ、コミックスや雑誌などの媒体の多くは、いわばマッチポンプ的に性的欲望をつくり出すために性を取り扱う性産業領域の影響を強く受けている。

しかし、性に関して考えなければならない問題は、性的欲望だけではない。月経や射精など性に関わる現象が自分の身体に起こったり、起こらなかったりすること、性器を含めた自分自身の身体の受け止め方、それ自体も重要な性の一部分である。自分自身の身に生じる月経や射精などの性に関わる身体的な経験、性ある自分自身の身体への見方、受け止め方は、性的欲望とは直接的には関係がない問題であるはずだが、実際には、性といえば性的欲望といった図式が伴うために、見えにくくなっているように思われる。

揺れる性的身体の受容

森岡正博は『感じない男』(2005、ちくま新書)において、射精する自分自身の身体、「男の体」について、基本的に否定的な調子で描いている。「まだ自分に男性ホルモンも、筋肉も、体毛も、精液も満ちていなかった、あの少年のころの体へと戻りたい」という思い、自分の男としての身体が汚れているという思いがつづられ、その思いが反転して、清らかなイメージのある年若い女性への性的欲望につながっているという説明がなされている。

ササキバラ・ゴウによる、「美少女」や「二次元のキャラクター」への性的なものを含んだ欲望(萌え)について述べた『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』(2004、講談社現代新書)でも、基本的に男性が自分自身の「傷つきやすさ」を、これらの「美少女」等に投影するという構図で「萌え」が説明されている。

当然ながら、すべての男性が自分自身の身体を否定的にとらえるわけではないだろう。逆に、女性の人権を否定するかたちの「男らしさ」に自身の身体の正統性の根拠を求めたり、女性の美を否定して男性の美を強調する場合などもあるだろう。

いずれにせよ、男性にとっては、子どもから大人へと移行する段階、自分自身の男性としての性のある身体を受け入れていく段階で、性的欲望という問題に関わらないでいることが難しいことが推測される。

しかし、現代日本社会では、基本的に公的空間では子どもは性的な存在であることが否定されている。また、私的な性的欲望のあり様について他者が知ろうとしたり、他者に話したりすることは通常は奨励されない。語ることが禁じられているのである。

とくに男性の射精にはその人自身の私的な性的欲求の発露や快楽が付随するため、公的な場で話題にしにくい。そして、性産業が主として喚起しようとしているのは男性の勃起・射精である。そのため、男性の性的欲望、勃起・射精をターゲットにしている性産業は、完全な公的空間として見なされず、あたかも私的空間のような扱いを受ける(公的であるのに公的に見えないふりをする)。

「過激な性教育」批判を行っている山谷が、「快楽の性」を教えることを「自己を卑下させるような教育」と評しているのは非常に象徴的である(山谷 2003)。「快楽の肯定=自己卑下」という図式がここには見出される。快楽は、基本的には肯定的な感覚のように思われるが、ある種の価値観の中では(たとえば、山谷が思うところの「よりよき」国をつくるための思想では)、何か一段低いもの、汚れたものと見なされる。そして、性が公的空間で語られにくいということは、少なからぬ人が全面的にではなくとも部分的には、その感覚を共有しているのだろう。

男性に対する性教育が不足していることについて、女性に対しては身を守るという観点から性教育が不可欠だが、男性の場合はそれほど必要性が高くないという説明がなされることがある(これは男性への性的被害を否認する効果を持つ説明でもある)。だが、男性への性教育があまりなされない理由には、必要性の多寡だけでなく、男性の性を正面から取り扱うには快楽や性的欲望が避けて通れない「やりにくさ」もあるのではないか。

面接調査に応じてくれた中学生は男女とも、性に関する話は「大事なこと」と思いながらも、「エロい」「グロい」「恥ずかしい」ものとも考えていた。このような一見矛盾した受け止め方は、学校性教育で「性」を知るのは、自他の命や身体につながる大事なことと伝えられ、それを受け止めながらも、「快楽」=「汚れている」という価値観も受け止め、どう整合性をつけたらよいかで迷っている姿のようにも見える。

とくに、男性の性的身体の男性自身にとっての受容のプロセスには、快楽や性的欲望をどう受け止めるかが避けて通れない。それに対する社会的評価は肯定的でもあり、否定的でもある混在・混乱した状況である。

子どもから大人になる段階で、性的なものを含めた身体的変化をいかなるかたちで受容し、その受容の仕方が周囲にどのように受け入れられていくのか。これまでの多くの大人たちは、子どもであったとき、この問題についてあまり多くの人には語らずに、ひそかに手に入れた情報を繋ぎ合わせるかたちでなんとかやってきたのではないだろうか。そして、筆者を含めて少なくない人が、じつは整理をつけきれていないままでいるようにも思われる。

多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって

学校で性教育を受ける機会のなかった女性や男性にお話を伺うと、初経や精通のとき、男女とも自分の身に起こっていることが理解できず、病気で死ぬのではないかと恐れたり、訳が分からず下着を捨てたり隠したりした経験を持っている人が少なくない。事前に知識を得ている場合は、そこまでの衝撃を受けている人はおらず、学校性教育において、事前にそれぞれの身体に起こりうる可能性を知識として教える重要性が確認される。

しかし、それでも今回の調査に協力してくれた高校生の多くは、自分自身の身に初経や精通が生じたときには、「驚き」を持って迎えている。この「驚き」を伴った個々の身体の受け止め方をサポートしていくには、学校性教育を充実させるだけでは不十分であるし、限界もある。学校教育には個に対する教育機会もあるが、基本的には集団教育であり、また、政治的・社会的な要因も絡んで、学校の性教育で取り上げられる内容には制限が加えられてしまいがちである。

一方、性は性的欲望を喚起することを目的とした性産業の論理でのみ語られるものであってもならない。ただ、性産業といってもひとくくりにはできない。たとえば、「課題はマスターベーションの快楽の追及であって、セックスの模倣ではない」「性を表通りに、誰もが楽しめるものに変えていく」という自慰補助製品TENGAのコンセプトは、これまで他者の身体を利用するかたちで喚起されてきた「性的欲望」のあり方を、自分自身の身体の感覚に向き合うという方向、公的空間に正式に位置づける方向に転換する可能性を秘めている。

ある先生は「何をどう話すのかということ以上に、子どもたちに性について真面目に、真剣に話す大人がいるということを知ってもらうことが重要だ」と語った。重要なことは、その担い手が誰であれ、子どもたちを取り巻く多様な場で、多様な価値観のもとで、多様な人々によって、真面目に率直に性について語られる場が増えることである。

「性の常識」は長い間をかけて形成されてきた文化や制度のもとにあり、私たちはそれを参照して自分自身の性の捉え方をつくってきた。それゆえに、どれだけ大きな被害や問題があっても、性に関して他者の権利や身体を侵害するような価値観を持つ人々の考えや行動を、いきなり変えさせたりやめさせたりすることは不可能であるし、今すぐに性に悩むすべての人に適切なサポートが与えられるような環境をつくれるわけでもない。

また、一人ひとりが、「性の常識」に疑問を持ち、改めて考え直していくこと、自分自身の感じ方を語り合っていくことも、自分の弱さや見たくないところをさらけ出すようでなかなか簡単なことではなく、誰もが性について率直に語ることができるとも、語るべきだともいえない。だが、思想や立場が何であれ、「性」について真面目に率直に語る人が増えることは、性の置かれた曖昧で不安定な状況を明らかにし、たとえば孤独に精通を迎える少年のような、自身の「性」に人知れず悩む人の重荷を軽減するように思われる。

【文献】
猪瀬優理(2008)「性教育をめぐる政治と文化」『北海道大学文学研究科紀要』125,135-168
猪瀬優理(2010)「中学生・高校性の月経観・射精観とその文化的背景」『現代社会学研究』23,1-18
日本性教育協会編(2007)『「若者の性」白書―第6回青少年の性行動全国調査報告』小学館
山谷えり子(2003)「伝統・文化を破壊するジェンダーフリー教育」『日本文化』12,67-74

プロフィール

猪瀬優理

龍谷大学社会学部社会学科講師。日本学術振興会特別研究員を経て、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(行動科学)。北海道大学院文学研究科助教を経て現職。櫻井義秀編『カルトとスピリチュアリティ』ミネルヴァ書房(2007年)には、「脱会過程の諸相―エホバの証人と脱会カウンセリング」として、エホバの証人の脱会者への調査結果を報告している。

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