2014.04.07

大きな慣性に逆らって――父親たちの語るPTA

川端裕人×木村草太

社会 #synodos#シノドス#違法PTA#PTA#ブラックPTA#結社しない自由#Think! PTA!

違法だと知りながら、どうして誰も止められないのか。10年近くPTAに関わる作家の川端氏と、憲法学者の木村氏がその問題点について語り合う「父親達の語るPTA」後編。(構成/山本菜々子)

入会なんて聞いてない ―― 父親たちの語るPTA(前編)

強制加入は違法だけど……

木村 ここからは、PTAの問題点についてより深くお話できればとおもいます。川端さんは「そもそもの問題は強制加入だ」とおっしゃっていますよね。知らない間に入れられて、様々な同調圧力が加えられていることが問題であると。

川端 そうですね。PTAって地域差がすごくあるんですが、その中でもほとんどの地域で行われているのが自動加入、強制加入です。全国共通の問題とだとおもって、強調してきました。

木村 強制加入はどう考えても違法だと私はおもっています。シノドスでのインタビューでも述べていますが、常識的に考えてもおかしいです。もし、「任意加入ですよ」と言った場合、保護者や学校の側はどういう反応になるんでしょうか。実はぼくも保育園の保護者会で役員になり、任意加入の団体にしたんですが、正直風当たりが強かったんです。PTAと戦ってきた川端さんの実体験としてはどうですか。

川端 まず、信じてもらえませんでした。10年前に「自動加入はおかしい」と当時の本部役員に言っても「なにいってんの?」という反応でした。PTAに入るのは当然で、なんで問題にするのかそれ自体がわからない。

木村 今は変わってきていますか。

川端 今は、新聞もテレビも取り扱うようになったし、ネットでの情報も充実してきましたから。任意加入であることを知識として知っている人達は増えています。執行部である本部役員と話せば個人として「本来は任意加入」と認めるところまではいくんですが、「それを公に言ってしまったら、会員が減る」「全員加入が前提だから、組織が崩れてしまう」「一生懸命やっている人に不公平」といった意見がでて、それを表ざたにするところまではなかなかいかないんです。仮に、アリバイ的に会長が入学式挨拶で「任意の団体」と言っても、規約では全員加入のままで、それを変えようという提案をしても門前払いだったり。

これは、先進的に見えるPTAでもそうなんです。ぼくが保護者向けに書いた「PTA再活用論」(中公新書ラクレ)では、PTAの役をやりたい人がやる「ボランティア制度」を取り入れた江戸川区のPTAを紹介しているんですが、そこも自動加入でした。今、江戸川区では似たしくみのPTAが増えているようで、中にはとても徹底したボランティア化を進めているところもあります。たまたま、最近、そういうPTAの会長さんと話す機会があって、「ここまでやったのなら、入退会自由を前面に出しても人は集まるのではないですか」と聞いたら、例によって「会員が減るのがこわい」と言われました。

木村 強制加入が違法だと知識ではわかっていても、そうしてしまうということですよね。

川端 「違法」については、なかなか取り扱いが難しくて。ぼくたちの社会には素人が法律論を振りかざすことに対して、ある種のタブーがあるとおもうんです。木村さんのような本物の専門家だったら違うのかもしれませんが、ぼくのような法律の素人が言っても、直接の判例があるわけでもないし、相手に響かないんですよね。ぼくは、むしろ、訴訟リスクの話として言いかえるようにしていました。「PTA会長をしているだけで、訴訟のリスクがあったら嫌でしょう」って。

木村 私は、法学部の准教授なので法律の観点から、憲法21条の保障する「結社しない自由」に反するので、「強制加入は違法だ」と朝日新聞の記事で書きました。それがいろんなところで切りぬかれて、様々な学校へ送られているという話を聞きました。やはり、法律家が「違法である」と明言する必要があるのかもしれませんね。

とはいえ、法律をよく知らない人たちは、「強制加入は駄目だとは書いていない」と反論してくるそうですね。また、強制加入は違法だと認めても、「強制しているわけではなく自動加入だ。嫌なら辞められる」などと、入会の意思も確認しなければ、退会制度も整備していないにもかかわらず、反論してくることも多いようですね。

そこで、法律に詳しくない人にも、「これは絶対に違法だ」とわかってもらうにはどうしたらいいか、どこが違法かなんだと具体的に指摘するかというのがポイントです。PTAに関する判例があれば、簡単なのですが、残念ながら判例はありません。

そこで私は、名簿に目をつけました。同意なしに個人情報を第三者に提供してはいないというのは判例があります。学校が勝手に子どもの名簿を流すのはいけないわけです。そうすると、本来は入会届を書いてもらって、それをもとにPTA名簿をつくらなければならないはずで、そもそも、自動加入というのを合法的にできるはずがないというのが出発点であると。そこをいろんな人に知ってもらう必要があるだろうと。

川端 それは賛成です。PTAの運営は、名簿を学校から提供してもらうのが当たり前になりすぎている。ただ、最近は多少用心深く、名簿自体はもらわずに、学校側がつくったクラス連絡網をPTAの連絡用に使っていいか事後承諾の確認をとるところもあるみたいですね。そこで、嫌だ、といったらどうなるのかわからないけれど、この場合も、学校がつくった連絡網から、実質的に会員名簿をつくっていると言えるわけです。

ところで、今までの突破口って、会計問題だったんですよ。本来公費で賄われるべきものを、PTAから学校側に流している場合。それが保護者にとって負担だと、昭和30年代に休止されることになりました。でも今も隠然と続いていて、最近では2012年、読売新聞が和歌山県の高校PTAの会費流用問題を皮切りにキャンペーンを張って、文科省も全都道府県を対象に調査をしています。また、最近では日Pの全国研究大会で、運営費が不正流用された疑いがあるとしてニュースにもなりました(※リンク切れ http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20130723-OYT8T00835.htm)。

お金の面ってすごい食いつきがいいんですよね。でも、ぼくはあんまりピンとこなくって。保護者から強制的に取り立てるというのはダメですけど、たまたまビル・ゲイツみたいなお金持ちがいて、情報教育室のコンピュータがあまりに古いから刷新したいと寄贈してはいけないのだろうか、と。

木村 大学だったら、研究費や施設費のための寄付って当たり前ですけどね。必要不可欠な部分は公費で賄うべきだとおもいますが、プラスアルファの部分をまったくやってはいけないというのはすごくおかしな話ですよね。

川端 木村さんは、どんな方法で自動加入の壁を破ったんですか。

木村 ははは、恥ずかしいですね。ほとんど強行突破でした。「今年から任意加入ですので書類を出してください」と保護者会の名で書類を配ったんです。まぁ、大混乱でしたし、「なんであんな紙配るんだ」と怒られました。でも、そこは自分が法律家だったことを活用して、「法律的にはこういう問題があるし、名簿をもらったら違法行為なんですよ」と説明しました。

確かに、いきなり配っちゃうというのは強引だったし、びっくりさせて悪かったなとはおもいます。ただ、法律論としては、当然やらなければいけないことをしたまでで、今までと違かろうとなんだろうと、違法は正さねばならないわけです。それで、なにがどう違法なのかをしっかりと説明したんですけど、名簿の問題というのは効いたなという印象があります。名簿を勝手につくれるわけがないですし、名簿なしで運営もできません。

ですから、任意加入で戦っている方は、まず学校側に「なんでPTAが名簿をもっているんですか」というのがいいのかもしれません。今個人情報の保護というのがどの学校もセンシティブになっているんで、細かいようで突破口になるのかなと。

とはいえ、川端さんのお話を聞くと、会の崩壊がこわくて踏み切れない人が多いようですね。

川端 ぼくも本部役員をやったことがあるのでよくわかるのですが、PTAの役目を引き受けるということは、その会を存続させる義務を負うことです。ですので、自分達の時に会が崩壊してしまってはこわいというのがあるのかもしれません。

もう一つは、何十年も歴史が積み重なっていくと、歴代のPTA会長が地域の有力者になっているんです。地元の議員や町会長、商店会長だったり。現役のPTA会長もその地域の伝統に取り込まれるような傾向がある。もしくはそういう人選がなされているのかもしれない。ですから、「私の代で変えるわけにはいかない」、という発想になりがちです。

誰がためのPTA

木村 そもそも、存続させることによって誰が得をしているのでしょうか。

川端 それが不思議なんですよ。ちょっと象徴的な体験があるので、聞いてください。ぼくが住んでいるのは世田谷区の烏山という地域なんですが、「烏山地区教育研修会」という近隣10校の小中学校の校区でつくっている組織があります。古くから住んでいる地元の方によると、「烏山は世田谷区のチベット」だと。まぁ、その言い方は、チベットに失礼なのかもしれませんが(笑)、区の中心から外れているので、教育予算があまりまわってこないと、地域の人がおもっていた歴史があって、奮起して教育熱心になったというか。

そこで、毎年箱根の温泉旅館で勉強会を開き、世田谷区教育委員会の方を招いて接待してきたんです。教育予算をきちんとつけてもらうためのパイプづくりのためだったと、地域有力者がはっきり言っていました。そして、それが50年以上続いているんですね。参加者は歴代の校長、副校長、同じく歴代のPTA会長と副会長、それも10校分ですから、下手すると100人以上になります。ホスト・ホステスをつとめるのは現役のPTA役員です。2校づつ組んで、つまり5年に一度、幹事が周ってきて、ぼく達の学校もあたることになりました。つまり、これ、地域の研修会という形をとりながら、現役保護者にとっては、PTA業務なんです。

木村 箱根ですか。それはすごいですね。

川端 小学生の親なので、夏休みに一泊旅行にいくなんて難しいですよね。母親であれば、夫や同居している両親の理解が得られなかったりもするでしょうし、そもそも子どもを見る人がいないとなると行くのは不可能です。でも、それに誰かが参加しなければならない。ぼくは比較的行きやすかったので行ってきたんですが、ちょっと歪んだ会だなというのが率直な感想でした。

世田谷区の教育委員会の課長クラスが講演をして、その後の宴会では教育長の前に副校長が列をつくって、ビールを注いだり。選挙の年には区長が来たこともありました。後々、あれはイケナイ接待なんじゃないかと議会でも指摘されるほどでした。ぼくとしては、余りにも現役の保護者の負担が重いので、PTA会長に相談したんですが、「これは、自分たちではどうにもならない」「地域の伝統だから」「地域のエライ人に怒られる」みたいな理由で取り合ってもらえませんでした。それで、ぼく、頃合いを見て、その時点での仮想ラスボスだった研修会の会長に直談判しにいったんです。

そうしたら「そうなんだよね。」と研修会長もわかっているんですよ。PTA会長・町会長経験者で70代のおじいさんです。「ぼくも、現役の時に箱根はあまりにも遠いと問題提起したんだけど、非難の嵐だったんだよ。でも、現役のPTAの人には大変だよねぇ。あれはよくないよねぇ」と。あっけにとられました。研修会のトップですら望んでいないのに、誰ともわからない非難を恐れて延延と続いてきたんです。

木村 得をしている人がいないのに、存続していると。

川端 本当に不思議です。たぶん巨大な慣性があって、その慣性にあらがうことが不利益なんです。みんな得していなくても、反対することにデメリットがあるから反対できない。さっきの話、研修会の会長はとても物わかりのよい方でしたけど、今も同じように続いているようですから(笑)。

木村 巨大な慣性の中にみんなが取り込まれてしまい、現役の人達ではなかなか変えられない。そこと戦わないと体制は変えていけないということですね。

これは、日本の社会のいろんなところでも見られる問題だとおもいます。現役で権限をもっている人達でさえも、これまでやってきたという理由で変えられない。だれも得しないのに続いてしまうんですね。

全員に網をかける

木村 PTA活動で誰が得をしているのかを考えましたが、誰が損をしているのかも重要ですよね。多分ソーシャルスキルが高い人はスル-できますし、PTAの側から見てめんどくさいタイプの人は、PTA側からしても追い出した方が楽なので、あまり仕事が回ってこない。

本当に損をする人は、義務感があって参加しないといけないとおもっているその一方で、現実にはとても忙しいというタイプでしょう。そういう人達がいることに想像力を持たなければいけないですよね。

kawabata

川端 ぼくの子が通っていたのは400世帯位の規模の小学校なんですが、それぐらいの世帯数だと毎年何人かの親が亡くなります。母親が亡くなった場合、PTA活動も同時にされている方が多いんです。それなりに負担のある役を引き受けたものの実は病気で、夏休みが終わったら亡くなっていたということもあります。でも、PTAは誰が病気かなんて感知できないので、「あの人なんで来ないの」と批判の対象になることもあります。

そして亡くなってはじめて、「病気なのになぜ引き受けたのか」という話になります。「そんなに大変なのに押しつけられたなら、PTAが殺したようなものだ」と言う人もいれば「亡くなる前に子どもになにかしてあげたかったのでは」という人もいます。

でも、そういう総括はズレているとおもうのですね。ここで、PTA側が噛みしめなきゃいけないのは、死に至る病を抱えていて年度内に亡くなるかもしれない人と、それ以外の人を外から見て区別するのはすごく難しいということです。だいたい、自己申告しても信じてもらえないこともあるんですから。全員に網をかけるということはそういうことなんだということを考えなきゃいけない。でも、そこのところはあんまり共有されないんです。みんながやるのが当たり前だから。

木村 みんながやるのが当たり前という道徳的な圧力から脱却しないと、事情があって特別にしんどい人の負担がなくなっていかないですよね。

私の専門の憲法学では国家全体を研究対象にしています。国家というのは大きな強制加入団体ですから、そこにいるしんどい人に特別に負担が生じないようにするのが立憲主義の思想なわけです。同じように、PTAの中にいる特別な痛みを追う人への想像力というものを、もっと当たり前に共有するしくみをつくっていかなければならないですよね。

川端 それが、想像力では処理できなくて、診断書をもって来て共有してもらおうとする人も出てくるのが現実です。過剰な自己開示ですね。そこまでやらないと信じてももらえない。いや、それでも信じてもらえなかったり、「大変なのはあなただけではない」と言われてしまうことも多い。

木村 一部の人に必要以上の負担をかけてしまいますよね。みんなでやるのが当たり前になると、そうならざるを得なくなってしまう。

川端 国家や自治体が、そこで生まれたり、住んでいるだけでメンバーになる強制加入団体で、それがひどい方へ転がらないように憲法があるというのは、本当にその通りだとおもいます。ぼくはよく「『都民のための東京都』を『東京都のための都民』と言い換えるとすごく嫌な感じでしょ、と言うんです。『国のための国民』とかいうとすごく物騒でしょう、とか。そもそも、PTAというのは会員にとってメリットがあるべきなのに、でも今のままだと「PTAのための会員」になっているよね、と。

木村 それでも響かない?

川端 あんまり響かないんですよね。

木村 どうしてでしょうね。団体と自分が同一化してしまっているのか。

川端 たぶん、「子どものため」というキーワードが間に挟まっていること、あと、適応できている人が中枢部に集まってくるってこともあります。一年間役割をこなすことをミッションにして、なおかつその能力がある人達です。しかし、その人達をもってしても、毎年やりたいとはおもわないのがPTAなので、相当な負担だとおもうんです。「一年無難にやりきろう」とおもっている人達に問題提起をしても、迷惑におもわれるだけなんですよね。

木村 それを変えるには多数派の方に全員加入の問題性を気づいてもらわなければいけません。

川端 そうですね。声を上げることが非常に重要だとおもいます。しかし、ぼくは不思議なんですよね。PTAって、子どもをもつとほとんどの人が人生のどこかで関わるんですよ。その中には、ぼくのような文筆業も、人権派ジャーナリストと呼ばれるような人もたくさんいたはずなんです。すごく非合理的なことや無茶なことがまかり通っている世界なんだけど、なぜかそれを継続的に、徹底的に考える人は多くなかった。

それは法律家にも言えるとおもうんです。今まで、数多くの法律家がPTAの無茶さを見てきたはずなのに、たとえば、人権意識の高いはずの弁護士さんたちもスルーしてきた。これはなんなのだろうとおもっています。

木村 私も同僚に「そんなにPTAって大変なの」と驚かれたんです。

川端 気づかなかった人ですとか、面倒だからスルーした人もいるとおもいます。そもそも男性だと、パートナーの女性のソーシャルスキルが高くてうまく泳ぎ切れる人だと、気がつかずにすますことも充分できます。キツいがどうかって、結局個々人の感じ方じゃないですか。

木村 あと本当に好きな人もいるんでしょうね。

川端 そうですね。自分自身もPTAの本を書き始めた当初は、まだ希望をもっていて、好きな部分を探してましたよ。どうにかPTAを軟着陸させたいとおもっていましたから。実際、うまく回ればいいところもたくさんありますから。

アンチPTAとおもわれることが多いぼくですらそうですから、PTAの論理を内面化して、こういうのが大好きになる人はいますよね。特に、地域社会の階段を上りたい人にとっては、いったんお役目をつとめあげれば、もうそれほどの負担を背負わなくてもいいので、「私もやってよかったから、あなたも」という発想になるかもしれません。

逃げ道はどこだ

川端 ぼくは、なにはともあれ、つらい人の緊急避難口の確保が必要だとおもっています。辞めたい人、つらい人が、さらに追い打ちをかけられるような被害を受けずにすむしくみが最低限必要ですよね。

木村 国家的スケールでもこれは大事なことで、昔は人権保障って議会が担えばいいという発想だったんですよ。やはり、議会では多数派の人権は守られるんですが、普通の人が気づきにくい少数派の利益にどうしても配慮がいきにくい。そのため、独立の避難口として裁判所に違憲立法審査権をもたせることになりました。

このように、PTAから離れて保護してくれるしくみがないと、今のような悲劇がずっと続いていくという状況があります。避難口ってどうやってつくればいいんですかね。

川端 PTAの問題に気づいた人たちが中心になった「Think! PTA!」というサイトがあります。ぼくも立ち上げに関わりました。そこは部分的に避難口の役割を担っているのかもしれません。掲示板等で相談もすることができます。

一方で、校長先生にも避難口の役割を担ってほしいとおもいます。ぼくの本を読んでPTAを変えようとおもった人にありがちな挫折は、校長の理解が得られないことなんです。校長に理解がないと、傷つき破れて行く人に対してさらに追い打ちをかけるような事態になってしまいます。だから、「校長先生のためのPTA入門」という連載を、校長先生が読むニッチな雑誌でやって、つい最近、それをまとめて無料の電子書籍にしました。

木村 緊急窓口がまず学校長であるというのは筋だとおもいますね。学校長が子どもを預かる以上は、PTAという独立の団体との関係において、子どもがいじめに合わないとか、保護者が多大な負担を追わないということに配慮をする義務というのはありますよね。専門用語では「安全配慮義務」と呼ぶのですが、校長先生をはじめ先生方には、安全配慮義務のことをもっと理解してもらわなければなりませんね。

川端 あまり気づかれていないですが、校長先生はPTAに関しても責任はあるんです。無償で貸しているPTA室の施設管理者は校長なんですよね。学校内に事務局をもって活動する団体として相応しいかどうかというのは気にするべきでしょう。それに、ほとんどのPTAで校長は顧問や理事、相談役などの肩書きで、PTAに助言ができる立場です。

木村 監督者をどう選ぶのかは難しい問題です。ある国会議員の方が、「最近の最高裁の判断はおかしいので、我々政治家が憲法裁判所をつくって、我々政治家のOBがそこの裁判官になるような組織をつくるべきだ」と言っていているんです。それは自分達がつくったものを自分達で監督するということで、それはまずいなとおもうわけです。

これに近いようなことが校長とPTAの中に起きているのかもしれません。監督しなければいけない人が中の利益に取り込まれてしまっている。学校の直接の施設管理者は校長先生ですが、自治体が施設を貸しているわけですから、自治体にも施設管理の責任があるはずです。しかし、自治体にとっては、PTAが全保護者組織であるほうが便利なので、改善のために動いてくれません。利害関係の中に監督機関が利害の中に取り込まれてしまっている状況があるんでしょうね。

法律はPTAを救えるか

kimura

木村 仮に、公的な緊急避難所をつくろうとなった時に、どのような人をそこに配属するのがいいのでしょうか。

川端 困難な質問ですね。法律家が担えるのではとおもっていた時期もありました。自治体の人権相談にPTAの問題をもっていったこともあるし、法テラスにも行ってみたことがあるんですよ。5000円はらえば相談できるので。

ですが、所定の時間に問題の所在を説明することが難しいんです。説明だけで終わっちゃう。たまたま女性の弁護士にお話しした時があって、問題の構造は把握してらっしゃったんですが「難しい問題ですね」で終わってしまいました。

木村 法律の話って、気がついたら30分、1時間なんて簡単にたってしまうんですよね。私もマンション管理組合の理事会があって、難しい規約改定があったんですが、その規約の内容を一つ一つ説明して、質疑応答をしたんです。すごく時間がかかるんですよね。質問者に悪気があるわけじゃないんですが「どういう意味ですか」と聞かれたら、民法の基本から説明しないといけない。総会の時間では到底たりませんでした。

たぶん、PTAの問題もそうだとおもうんです。もし自分が弁護士だったとして、いきなり聞いても、なにをどう考えればいいのかわからないとおもいます。まず、学校とPTAの関係がどうなっているのか、普通の弁護士は考えたことがないでしょうし。

川端 以前、「部分社会の法理」だからアンタッチャブルだと言われたこともありますね。

木村 それはおそらく誤りです。「部分社会の法理」というのは、部分社会の中でしか意味がないことに関しては法律はタッチしないというものです。たとえば、宗教団体の内部などで「これが本当にキリストの遺骨なのかどうか」と争いになった時に、法律家はそこには介入しない。しかし、PTAの中で人権侵害が生じていた場合、それは部分社会の問題とはいえません。

実は、法律家にとっても、前例のない事案について、当事者が何に困っているのか、それがどの条文と関わるのか、条文をどう解釈すべきか、具体的にどんな結論を出すべきか、と一つ一つ考えていくのは結構大変なんです。誰かが、きちんと検討して、トレースできるようにしておかなければなりません。

川端 やっぱり、法律論から見た時に、PTAがどう見えるかって、素人ではわかりません。法律の勉強した方は法律で物事を解決する時に、どうしたらいいのか特別なトレーニングを受けているので、他の教育を受けている人とは別の発想をされますよね。だから、社会の問題を解決していく上で、法的な整備ってすごく大事なんだけど、素人ではできないし、今から自分が法学を正式に学ぶことも想定しがたいですからね。

木村 法科大学院で教えていてもおもうんですが、法学って外国語のようなものなんです。日本語ですが、普通の日本語とは全然ちがうし、普通の人の理解とは違うところにある。自分達はすごく、専門知識があるという自負の一方で、社会の人からは疎ましい存在だとおもわれているという卑屈な感情を感じることもあって。ですから、社会の場でも法律家を求めているんだよということは、法律家にとっても法律家を目指す人達にとっても、勉強するモチベーションになるとおもいますね。

川端 将来、親になるであろう学生さんも参入して、PTA研究学派のようなものをつくって欲しいですね(笑)。わたしたちの社会が抱える問題の典型的で極端な形が、そこにあるとおもうので。あと、文化人類学の人なんかがフィールドワークすると面白いかもしれないですよ。これ、本当にそう思ってます。

木村 そこを風穴にして、本当に困っている人を助けるという法律家の醍醐味に繋がっていけばとおもいます。

理想のPTAはあるのか

川端 よく、「理想のPTAを目指したい」という人がいたり、「どんなPTAが理想ですか」とか聞かれたりするんです。でも、ぼくはピンとこなくて、「PTAに理想なんてない」などと言ってしまいます。仮にあるとしても、それは個々人の頭の中で理想なだけであって、それがほかの人にとって理想なのかわからないですよ。だから、理想というのはなかなか想定し難い。しいていえば、極端につらい目にあう人がいない「マシなPTA」ならあるとおもうんですけどね。

一般社会でも、「ブラック企業」だとか、大学の研究室でパワハラを受けたりだとか、いろいろ酷いことが起こります。でも、PTAで起きる悲劇は、本来はもっと簡単に避けられることなのに、すごく基本的な部分で勘違いしているために起こっている気がしていています。その一つが全員加入だとおもうんです。無理やり網にかけることで、一部の人に過大な負担をかけてしまう構造になっています。

木村 誰にとって、「理想」なのか、ということは大事ですよね。最近の改憲論を見ていても「理想の国家」とか「良き国家のための国民の義務」ということが言われるわけです。誰にとっての「理想」なのかということは、どんな団体でも問われなければいけません。

私は、PTAを「違法PTA」、「グレーPTA」、「普通のPTA」と分類しています。違法PTAは、強制加入や非加入者へのイジメなどの違法行為をやっているPTA、グレーPTAは違法でないとしても、会員に過度のプレッシャーをかけているPTA、そして、そうではない普通のPTAです。

まず違法なことは辞めましょうというのは大前提だとおもうんです。ところが、「良いことをやっているんだから、原理原則では解決できない」という意見がある。でも、良いことをやっているから違法行為をやっていいなんてことはあり得ないですよね。

川端 「ゆい」や「もやい」を例に出して、昔の社会は全員参加でよかったとか、ある種ノスタルジックな理想でPTAを語る人って現実にいますよね。

木村 昔のみんなが義務を果たしていた時代は良かったという言い方ですが、それは抑圧の論理になりかねません。

仮に形式的に任意加入にしていたとしても、ノスタルジックな願望で、抑圧的な体制を敷く、それは違法すれすれのグレーPTAだとおもうんです。やはり、ひとりひとりの事情があるという本当に当たり前のことをまず意識するということですね。それだけでも、かなり良くなりますよね。

川端 我々が一般社会で慮っていることが、なぜかPTAでは通用しないんですよね。

木村 任意加入を明示すると潰れちゃうのではという心配をされる方がいるとおもうんですが、それで潰れるということは、入るとすごく嫌なことを押しつけてくる団体なんだとおもいます。

私の保育園の保護者会も任意加入ということにしました。最初の希望調査段階では、6割ぐらいの加入率だったんですが、加入率を高めるために「役員の押しつけはしません」と言ったら、入る人がググッと増えたんです。やりたい人にはやってもらうし、入っても強制はしませんよとなると、加入率は高まります。任意加入をすることによって、法律を守らせれば、ブラックな運用ってしなくなるとおもうんですよね。

川端 それは、素直に信じたいですよね。といいますか、信じています。強制のないところには、自発精神が発露する。もちろん全員がそうなるなんて想定しがたいし、そうなる必要もない。あと、入口も大事ですが、出口も大事なんですね。退会規定をつくることも忘れてはいけません。押しつけないと言われて入ったのに、嫌なことが沢山あったとしたら、その段階で辞められるようでないと。でも、児童・生徒の卒業や転出以外での退会規定があるPTAは少ないんですよね。

さらに、心配なのは、さきほどおっしゃったように、形式上は任意加入だけど、じつは抑圧的な力が働くケース。「おまえは自分の意志で入ったのに義務を果たしていない」みたいに言われたらしんどすぎます。入り口・出口の両方と、困った時に歯止めになってれるセーフティネットもちゃんと整備しとかなきゃとおもいますよ。

木村 そこは私も注意をしていて、入退会自由なのは当然の原則であり、また、入らない人をいじめたりした場合は、不法行為になって損害賠償ものですよ、と必ずセットで言うことを意識しています。

今、学校教育で法律教育をしなければいけないことに文科省も気がついていて、指導要領の中でも法律教育の充実が掲げられています。法律論のポイントというのは、「多数派の人は気づきにくいかもしれないけれど、ごく一部とはいえすごく困る人がいて、そういう人たちが数の暴力に合わないためにこそ、ルールが必要なんだ」ということです。その手の発想をもっと理解して欲しいですね。

ですから、自分達のすぐ近くにこんな大きな問題があるということを子ども達に知ってもらうというのは本当に大事なことだとおもいます。

川端 若い世代への教育はすごく大事です。PTAは本当に息が長い問題で、それこそ発足直後から問題にしている人がいるんですが、半世紀以上、温存されてしまっている。ぼく自身、本を書いたり発言してきたことで、ここ何年かの一つの流れをつくるのに少しは貢献できたのかもしれないけど、ぜんぜん楽観していません。本当に、こんなものを、自分の子どもの世代に残したくないんですけど、そろそろ「次の世代」に期待をせざるをえない。

木村 川端さんはこれからPTAはどうなっていくとおもいますか。

川端 それは正直、よくわからないですね。本当に巨大な慣性の力に動かされていて、それがいつ、ころりと方向転換するのか、あるいはこのままなのか予想もできない。今のままの運営では、遠からずもたなくなるとはおもっているんですが、これまでのしぶとさを考えると本当にわからないです。

ぼく自身としては、PTAがうまく軌道修正して生き残ろうが、なくなろうが、どっちでもいいとおもっています。どのみち、保護者の繋がりというのは大事だし、保護者の共同体自体はどんな形でも消えないと信じているので。学校には保護者会だってあるわけだし。むしろ、今のPTAは、保護者を分断しているようにもおもいます。とにかく、つらいおもいをしている人がいなくなって欲しいですね。その上で、お互いに認め合いやすいようなコミュニティであってほしいです。

木村 そうですね。地域コミュニティの崩壊が言われて、繋がりや絆といった言葉が重視されますが、だからといって参加を強いるというのは短絡的だとおもうんです。本来は、魅力的で開かれたコミュニティをつくり、自らの意思で積極的に参加したくなるような形でなければならない。強制されたら義務感ばかりが募って、逃げ出したくなるでしょう。強制こそが逆にコミュニティを破壊するというのを自覚して、そこからはじめていくことが大事だとおもいますね。

●本記事は「α-Synodos vol.129」からの転載です。α-synodosはこちらからご購読いただけます。 ⇒ https://synodos.jp/a-synodos

プロフィール

木村草太憲法学者

1980年生まれ。東京大学法学部卒。同助手を経て、現在、首都大学東京教授。助手論文を基に『平等なき平等条項論』(東京大学出版会)を上梓。法科大学院での講義をまとめた『憲法の急所』(羽鳥書店)は「東大生協で最も売れている本」と話題に。近刊に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)『憲法の創造力』(NHK出版新書)がある。

この執筆者の記事

川端裕人作家

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。少年たちの川をめぐる物語『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、天気を「よむ」不思議な能力をもつ一族をめぐる気象小説『雲の王』(集英社)など、小説作品は多数。『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)はNHKでアニメ化され、「銀河へキックオフ」として放送された。2008年、ノンフィクションとして『PTA再活用論──悩ましき現実を超えて』(中公新書クラレ)を上梓し、PTAについての問題提起を続けている。無料の電子書籍『PTA会長と校長先生ってどっちがエラいの?──校長先生のためのPTA入門』を公開中。紙の書籍の最新作は、「リョウ&ナオ」(光村図書出版・2013年9月)。

この執筆者の記事