2017.02.15

誰のためのリハビリテーションなのか?――障害という経験を哲学する

稲垣諭 現象学、システム論、リハビリテーションの科学哲学

福祉 #リハビリテーションの科学哲学#現象学#臨床

障害という経験

「障害」とは、それを抱えて生きる本人にとって最も見通しがわるく、その実感を容易にもてないものである。それなのに、そうした人の多くは、自分が障害をもつということに、社会や他者からの対応や言葉によって無理やり気づかされてしまうところがある。

それによって彼らが生きる不自由のなかった世界に、半ば暴力的に気づきと否定と負荷とがもたらされる。障害という経験は、当人のあずかり知らぬところからいつでも遅れてやってくる。その意味では、一次障害がすっぽりと抜け落ちた二次障害としてでしか障害は成立しないのかもしれない。

重度脳性麻痺を患う小児患者の中には、言葉を発することはもちろん、首が座ることも、物を視線で追いかけることも困難な人たちがいる。それを外から見て、障害だというのは、健常の世界に安住する傍観者の粗野な物言いにすぎない。この人たちは、誰にとっての障害者だというのか。

そもそも彼らには、障害のない状態、障害をそれとして比較する基準がない。彼らは、彼らの世界の中でただひたすら一生懸命、生を継続している。そこには障害という経験も、言葉も、思考もない。しっかりと生を刻んでいることを示す、彼らの細やかで固有な生の多彩さがあるだけである(注1)。

何が障害であることを決めるのか?

たとえば私たち人類は、ビタミンCを体内で生成できない。そのせいで数世紀前の大航海時代には、ビタミンC欠乏症(壊血病)が起こり、多くの船乗りが航海中に死亡した(注2)。

犬も猫も自前でビタミンCを合成できるのに、人間はそのための遺伝子を欠損している。だからといって私たち現代人は、それを障害だとはいわないし、そういわれてもピンとこない。スーパーには大量の果物が並び、サプリメントがいつでも手に入るため、現代社会ではビタミンC欠乏症はほとんど起こらないからだ。

障害をもつということは、社会や環境の変化、そこで生きる人々の注意の向き先と切り離せない複合的な出来事である。客観的に認定可能な事実と決めつけられないものがそこには多分に含まれている。

ここで伝えられるべき、見過ごされてならないこととは、「障害をもっていると社会や他人から認定されることと、その人がどのような世界を生きているのかは、全く対応していない」ということだ。

本人には障害の実感がないのに、それを外部から明示的にであれ、非明示的にであれ、「障害だ」と伝えられることほど、本人を混乱させるものはない。この落差が、障害という経験に対する他者の、社会の、家族の、医療従事者のかかわりを極めて困難にしている。

リハビリテーションと生の深さ

私はこれまで、現代哲学のひとつである「現象学」というメソッドを用いながら、リハビリテーション医療の現場で働くセラピスト(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士)の人たちといっしょに、多くの患者さんが抱える問題にアプローチしてきた(注3)。

現象学というのは、ドイツの哲学者、E.フッサールが開発した、「気づいたときにはすでに成立し(変容し、解体し)ている主体と世界の間に広がる経験の層を解明する」ための哲学である。それは、自然科学や他の学問がいまだ特定できていない経験の発見を行うための技法でもある。

病院やリハビリテーションの訓練室で出会う人々は、脳に損傷を負った方、骨折した方、脳性麻痺の方、発達障害といわれる方というように、何らかの形で「障害」という経験に触れざるをえず、かつ、自分(身体)と世界との関係性をもう一度、あるいは最初から、立ち上げていかざるをえない状況にある。

たとえば、脳梗塞によって左半身に強い麻痺が出ている70代のお婆さんがいる。その方に目を閉じてもらい、自分の左手がどこにあるかを尋ねてみると、お婆さんは、「え、左手?」、「ああ、冷蔵庫に忘れてきた」とあっけらかんに言う。

麻痺のある身体は、いつでも自由に動いてくれる身体とはかけ離れた実感を伴っていることがしばしばある。

こうした場面で、セラピストが「お婆ちゃん、何いっているの。左手はここにあるでしょ」といって、左手をさすってあげるような対応が、ごく一般的な選択なのだと思われる。

しかしそうした対応は、お婆さんの発言を否定し、おかしな思考を修正しようとする強い意志を含むものでもある。

確かに、物体としての左手はそこにあるし、日常的判断としては正しいのかもしれない。とはいえ、そのような発言の中に、お婆さんの経験の深みが隠されている可能性も否定できないのだ。

そこで一体どのような身体の実感が、お婆さんにそのような発言をさせているのかを、注意深く自問するという別の選択肢が浮かんでくる。その場合、どこから、何から、考えればよいのか。

真夜中、自分の腕を枕にして寝ていて急に目覚める経験をしたことがあるだろうか。何かおかしなことが自分の身に起きていて、ぎょっとする経験である。左手に力が入らない。暗闇の中で自分の手に触れると、ぶよっとした脂肪状の塊が体にくっついていて、気持ちが悪い。このとき、目を閉じて左手がどこにあるかを探ってみると、全く分からないのである。手があるという感触がごそっと抜け落ちている。

この手の痺れ(しびれ)というありふれた経験を手がかりに、腕がないのに、その腕の冷たさだけがくっきりと残っている場面をイメージしてみる。「存在しない手の冷たさ」とはどのようなものか、どう体験すればいいのか。さらにその場合、自分の左手はどこにあるといえばいいのか。

もしかすると、あのお婆さんの発言は、自分の身体に伴う実感を、かなり正確に言い当てようとしていた可能性がある。

麻痺という経験をもっていない人が、そうした経験をもつ人に近づくためには、安易に理解した気になってはいけない。何度も問いを自分の中で繰り広げながら、その人の固有な経験が浮かび上がるポイントまで近づいていく、待つ姿勢が必要となる。

優れたセラピストの先生の臨床を見ていると、待つことがとてもうまいことが分かる。自分の言葉で患者さんの経験を埋めてしまうことがない。周囲の人には何をしているのかよく分からないのに、患者さんとときに笑い合いながら、ときに真剣に治療訓練が行われ、最終的に患者さんの表情も身体も生き生きとしてくる。そして現実に、身体の動きが、本人の発話が変わる。

だからこそ、あの先生じゃなければリハビリ訓練はもう受けたくないという指名争いまで生じてしまう。全く同じ治療訓練のメニューを行っていても、身体の変化に大きな差が出てしまうのが、今のリハビリテーション医療の現状のひとつである。

これだけはいえることがある。心身を回復するリハビリテーションは、今も誤解は絶えないが、根性や努力物語ではない。絶対にちがう。痛ければ、苦しければ、我慢をすれば、治療が進むということは、神経科学がここまで進んだ現代においてはありえないことである(注4)。

その代わりに一番難しい問題となるのは、治療者が、その患者さんが生きている身体を、その身体でかかわる世界の輪郭を浮き彫りにしながら、その人にとって最適な、場合によっては次善の選択肢が何であるのかを、患者さんとともに見つけ出していくことである。

先入観、価値観をどこまでもカッコに入れて進む

上述した現象学というアプローチには、「現象学的還元(エポケー)」と呼ばれる思考操作がある(注5)。これは、目の前に現れている事象をありのままに受け入れ、細部に目を向けることで、体験の深みを発見する最初の手続きである。

それは、私たちが知らずに用いている価値観や思い込みを徹底的に排除し、それらが自分の判断や行為の中に忍び込むことを回避することから始まる。

この世界に同じ人間はいない。その意味で、人間は一人一人が他者である。そして他者とは、私ではなく、理解できないからこそ他者である。私たちがコミュニケーションをやめないのは、他者が理解できないからに他ならない。

以心伝心のように、何もかもが共有されてしまえば、そこにはもはや他者はいないし、対話も、議論も必要がない。

本来の他者という理解できないものを、分かった気になって対処することがないよう、自分の価値観や思い込みを、くりかえしカッコに入れる必要がある。典型的には、「障害を抱えていてかわいそうだ」、「自分は障害者への差別はもっていない」、「この障害者はこうしてほしいはずだ」という善意による健常者的思考や判断こそが、一番注意し、警戒しなければならない価値観である。

今も綿々と続いている職人などの徒弟制度で、親方は弟子に何のアドヴァイスも与えないことがある。生活をともにしながら、とにかく自分が仕事をしている様子を、ただじっくりと眺めさせ、何度も同じ場所にとどまらせて、安易な判断や、言葉で表現することなく、とにかく経験を蓄積させる。そうした局面を潜り抜けることと、臨床において他者に近づく試みは少し似ているところがある。

現代はとかく、写メに取ったり、SNSに言葉を陳列することが容易な時代である。一度写メを取り、SNSにアップすれば、それで分かったこと、経験したこととして済まされ、素通りされてしまう。そうした経験の本来の深度は、そこにじっととどまり、佇んでみなければ、見えてこないものだ。

想像力のヴァージョンアップ

かつてフランスの精神分析家J.ラカンは、人間は、自分の中にある非人間的なものを知っているがゆえに、「自分は人間である」とあえて断言することで人間になると述べていた(注6)。

それは、自分が人間ではないことを、非人間的本質をもつものだということを暴露されないために、自分の外に人間ではないものを見出すことで安心する心理の裏返しである。「あの人は人間ではないと判定できるから、私は人間である」というように。これは、お互いの行動を監視し、非人間的ふるまいをするものを告発する管理社会的な不穏さにも通ずるところがある。

何が正常であるのかを特定するのはとても難しい。それなのに人は、異和的なもの、異常なものを見抜く抜群に優れたセンサーだけはもっている。偏見や差別が止むことがないことの背景には、こうした心の機制が関係している(注7)。

また認知科学の成果が示しているように、人間の脳は、進化と文化の歴史の中で、多くのバイアス(偏見)をかかえるようにそもそも組み立てられている。その方が生存戦略上、有利だったからでもあろう。

しかし人間は、それらバイアスですら自覚できる存在である。そして明示的に、あるいは無意識的に働いている偏見や差別を乗り越えていくほど自分の経験を高め、拡張する能力も同時に手にしている。

それはつまり、社会に貢献できたり、生きるべき価値があったりという健常者的判断のずっと手前で、ただ生命として生きるということを、生きているその有り様を、人は深く感じ取ることができ、そこから豊かな経験を汲み出せるということだ。

他者のもつ経験の深さに想像力をじわじわと染み込ませていけること、それは人間のもつ優れた特質である。だからといって、楽観できるものでもない。

すでに現代は、「相手に対する、他者に対する、想像力をもちなさい」というだけでは足りない局面に、しかも圧倒的に足りないところにきている。問われているのは、その先にある想像力の質であり、多方向性であり、深さである。

「地獄への道は善意で舗装されている」という格言があるように、差別や偏見は、全くの善意の中にも混入する。健常者や正常者、邦人といったカテゴリーに対置される障害者や病人、外国人といった人に対して、配慮をし、気を回し、どこかよそよそしくなるとき、すでにそこに偏見の芽が生まれている。

腫れ物扱いと配慮することとの間には広大な経験がある。にもかかわらず、「配慮しさえすればいい」と言葉で表現してしまうことほど簡単で暴力的なこともない。

だから自分では理解できない他者に出会うとき、実は、自分の想像力の底が見透かされている。そのとき私たちは、リハビリテーションという、自分の経験を拡張し、展開していくためのエクササイズが本当に必要なのは、障害を抱えているといわれる人なのか、健常者だと自認している人なのか、本当は誰なのかが、身に迫る問いとして突きつけられることになるのだ。

参考文献・脚注

(注1)人見眞理『発達とは何か―リハビリの臨床と現象学』(青土社、2012)。

(注2)太田博樹・長谷川眞理子『ヒトは病気とともに進化した』(勁草書房、2013)。

(注3)稲垣諭『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』(春風社、2012)。

(注4)EBM(根拠に基づいた医療)が、リハビリテーション医療の世界にも広がり始め、科学的に根拠がない治療法が取り除かれつつあるのは確かだ。しかし他方、複雑な人間の身体や心を扱うには、科学的データがまだ圧倒的に少なく、そのためリハビリテーション医療に非科学的なものが多分に含まれているのも事実である。

(注5)E.フッサール『イデーンI 純粋現象学と現象学的哲学のための諸構想(1-2)』(渡辺二郎訳、みすず書房、1984年)。

(注6)J.ラカン『エクリ I』(宮本忠雄、竹内迪也、高橋徹、佐々木孝次訳、弘文堂、1972年)。

(注7)稲垣諭『大丈夫、死ぬには及ばない―今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社、2015)。

プロフィール

稲垣諭現象学、システム論、リハビリテーションの科学哲学

東洋大学文学部哲学科准教授。専門は、現象学、システム論、リハビリテーションの科学哲学。著書に『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』(春風社、2012)、『大丈夫、死ぬには及ばない―今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社、2015)、『現象学のパースペクティヴ』(共編、晃洋書房、2017近刊)等がある。

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