2014.09.09

経営が隠しているエグゼンプション導入の本音

海老原嗣生 株式会社ニッチモ代表取締役、『HRmics』編集長

経済 #エグゼンプション#残業代ゼロ法案

ホワイトカラーから残業代がなくなる

どうやら、日本もだんだんとホワイトカラーの会社員に残業代を払わない社会になっていきそうだ。

2014年はそんな流れが決定的になりつつある時期でもある。直近の政治的な流れを振り返ってみよう。

まず、安倍首相率いる産業競争力会議において、武田薬品工業社長の長谷川閑史氏が今までの議論をふまえ、4月22日に以下のような2つタイプの人たちを、残業代の支払い対象から外す(=エグゼンプション)案をまとめた。

1) 年収1千万円以上で高度な職業能力を持つ人。賃金は労働時間ではなく仕事の成果に応じて支払う成果主義とする。金融やIT分野の専門職種などを想定。

2) 職務内容が明確で「労働時間を自己裁量で管理できる人」。国が範囲の目安を定めた上で具体的には企業ごとに労使合意で決める方式。賃金も基本的に成果主義で、国は年間労働時間の上限について一定の基準を示すとしている。主に介護や子育てで働き方に制約がある人を想定している。年収に関係なく幅広い層が対象になり得る。

この当初案に対して、風当たりが強かったことから、5月末の発表段階では1)を基軸に起き、2を外す代わりに、「管理職候補」を加える形で修正して、会議案をまとめている。

この産業競争力会議の指針に対して、厚生労働省は、当初の1)案のみに限定し、管理職候補は加えるべきではない、という意見を示している。

ともあれ、ここまでで、政府諮問機・関と行政ともに、ある領域に関しては残業代の不支給を認める考え方が示された。これを受けた形で、6月16日の衆院決算行政監視委員会において、安倍首相は以下の要件を表明する。

■導入に際し、以下の3条件を厳守する。

〈1〉希望しない人には適用しない

〈2〉職務の範囲が明確で高い職業能力を持つ人材に対象を絞り込む

〈3〉賃金が減ることがないよう適正な処遇を確保する

この適用要件には年収規定が入っていない。そこをつく民主党の山井和則代議士から質問が続く中で、安倍首相は勇み足気味に以下のような答弁をしてしまう。

安倍氏「経済というのは生き物ですから、これは将来の全体の賃金水準とか物価水準はわからないわけですよ。ただ、現在の賃金水準では800万、600万といった人が入らないということは明確です。3原則は今後ともしっかり守っていきます。」

この下線部が言質を取られた形となって、「将来的には年収要件を下げる可能性あり」という拡大解釈が、ネットや一部マスコミに盛んに流されるようになった。これが、夏前のできこと。そして、今後は労働政策審議会に舞台を移し、次期通常国会での法案化を目指す。

ん?「残業代分も支給する」?ならなんで?

さて、この流れを見ていて、正直「やばいなあ」と強く感じている。残業代の不支給と、その対象となる年収のみが議論の的となっているからだ。その件に関しては、それほど労働者は痛手を被るわけではない。

たとえば、前年度年収600万円の人が、エグゼンプション対象となったとしよう。首相は構成要件の中で、「賃金が減らない」ことを掲げている。つまり、適用前の標準的な残業代も含んだ年収がキープされるのだから、600万円が維持されることになる。この額ならば、当面、働く人は損などしない。もう少しうがった見方をすれば、「前年以上に長時間の残業を課せば、年収は目減りしたことと同じ」という反論がなされるだろう。そこから、また過労死促進法だという批判がなされることになる。

だがしかし、こうした意見に対しては、導入賛成論者から、「さっさと早く家に帰っても年収は維持される」「不況で残業が減った場合は逆に得をする」といった再反論も出てくる。こうして、どっちが得か、損か、という水掛け論に持ち込まれ、ここでドローになってしまうだろう。その結果、経営側の本音がうまく隠し通せることになっていく。私が「やばいなぁ」と言ったのはそのことなのだ。

この意味がお分かりだろうか? ヒントは既に出している。私は先ほど「当面、損はしない」と”当面”という言葉を使った。そこがポイント。

仮に、残業は増えず年収は維持されて、600万円のままだったとしよう。エグゼンプション型の給与は、労働時間ではなく、「職務相当の給与」となる。もし、職務が変わらず、昇進も昇格もしないままなら、当然、その給料から上がりも下がりもしなくなる。これは、働く人にとって、大きな変化になると、気づかないか? 今、世の中では管理職になれずにヒラのママ、企業人生活を終える人が少しずつ増えている。そうした人たちも、現在の仕組みなら、年収は伸びる。

なぜか? 日本型の報酬システムは、同一職務同一賃金ではない。同じポストで同じ仕事を続けていても、定期昇給や昇格などでベース給与が上がる。さらに、そうして上昇したベース給に割増残業代が付加されることで、増加割合が増幅される。こうした構造だから、ヒラで同じ職務を続けていても年収は年齢とともに増えるのだ。結果、最終年収は、同一役職のままでも200万円近く普通に伸びたりする。

エグゼンプション論議には、常にいくつかの修飾語が付加されている。「欧米的な人事慣行」や「職務に応じた給与」「成果相応の報酬」といった言葉だ。それは、こうした日本の人事慣行(専門用語的には「職能主義」)を打破することを意味する。残業代の有無はそのいくつかの変化の中の一部に過ぎないのだ。

エグゼンプションは両刃の剣

どうひいき目に見ても、日本型雇用は今のままでは、継続不可能な状態になっている。だから、やや大きめの変革を起こすこと自体は仕方のないことだとも思う。問題は、そうした変化の結果、企業人のキャリアや家庭生活がどう変わるかまでしっかり設計していないことの方だ。大きめの変化であればこそ、そこまでの絵図を示し、社会に問いかけねばならない。

今回のエグゼンプション論議は、「定期昇給・昇級・残業代」という経営都合での日本型変更のみが、念頭に置かれている。もう一つの日本型の問題、働く人のキャリアや家庭生活の面にもマイナス寄与している部分をも取り除く。そうしていくならば、この変革は悪いことではない。そこを付け加えて実りある変革を起こすべきだ。

労働側の識者やマスコミに、この点をモノ申しておきたい。

残業代を払い続け、しかも、定期昇給をする分、何歳になっても無理難題を押し付けられて疲弊していくような、日本型悪労働環境は本当に良いのだろうか? 労働側のご意見番が本当にそれでいいのか?

脱日本型とは経営にとって諸刃の剣である。今は、そのボールが経営側から投げられているから、彼らの側に向くはずの刃がなまくらで、一方的に労働者側を斬るだけの都合の良いものになっている

それではいけない。

残業代維持よりも、もう一方の刃、すなわち、労働者側から経営側を斬りつける刃をきちんと研ぎ澄ませるのが大事だ。そうすれば、働く人の得るものも非常に大きくなる。もちろん、両者ともに刃が食い込み、今までの既得権を互いに捨てねばならなくなる。そこもしっかり考えておくこと。この構造が理解されない。それは一重にマスコミの努力不足だとしかいいようがない。

実は、小泉政権から第一次安倍政権下で買わされたエグゼンプション論議は、そこにつながる研究会・審議会で、「経営側の都合」に対して、「労働側の刃」を研ぐ作業に相当力が入れられていた。とりわけ、会の重要メンバーである労働法研究者たちは、欧米の事例をもとに、エグゼンプションの本質に迫り、経営側が窮するような条件を多々、突きつけていたのだ。それらが、本当にごく軽くしかマスコミでは取り上げられず、いつのまにか、論点は残業代のみに絞られていった。

さらにいえば、産業競争力会議と並ぶ内閣の諮問機関である、規制改革会議からは、前回の論議の流れを真摯に受け止め、残業代不支給とセットで、働き過ぎを禁じ、しっかり休ませる三位一体改革の試案が同時期に提出されてもいた。こちらが内閣の指針には全く盛り込まれていない。つまり、都合の悪いところの切り捨てがおきている。そのことに、やはりマスコミは全く気づかず、ただ千年一日のごとく、残業代論争ばかり……。

法律ではどうにも変えられない「日本型の仕組み」

「日本型雇用」批判のやり玉に挙げられる事象は、実に広く現在の日本社会に存在する。たとえば、年功序列だの、新卒一括採用だの、転勤・配転の多さだの、総合職制だの……。ところがこうしたものをいくら批判しようが、それらはすべて、企業の内部人事に委ねられている。行政や立法が外からどうこうできるような問題ではない。解雇規制一つとっても、法律ではどうしようもないのだ(日本の法律自体は解雇の規制など、むしろ緩い。ただ総合職という日本独特の人事慣行が、それを困難にしている)。だから時の為政者が声高に改革を叫んでも、それは一向に進みはしない。

ところが。本来ならこうした行政の手が届かないところにある「私企業の運営ルール」が、ことエグゼンプションとなると、かなり外から立ち入ることができる。しっかり法律でその趣旨を固め、加えて、運用のガイドラインを作り、通達や指針で、新たな人事管理の方向性として示していけば、企業の内部慣行まで変えることが可能なのだ。つまり、かなりの確率で、日本型を変えるエポックとなりうる、まさに千載一遇のチャンスと言えるだろう。

だからこそ、両側の刃を均等に磨くこと。そして、その刃で切り開く明日の絵図と、一方で、刃が労使双方に食い込む痛みも、つまびらかにしなければならない。現在の社会情勢は、新たな労働モデルを危急している。

これからは少子高齢化で、労働の担い手として高齢者の社会参加も望まれる。女性の高学歴化と社会進出が進み、かつてのような男性主体の企業労働で、家事育児は主婦に、という分業もままならない。さらにいえば、熟年世代ではこれに、老親の介護まで加わる。こうした中では、滅私奉公、常在戦場の日本型雇用は、もはや成り立たない。「日本型」の後始末をつけなければならない時に、恰好の題材となるのが、エグゼンプションなのだ。今回ばかりは、このチャンスを逃すわけにはいかないだろう。

「成果主義」では経営側に技あり一本

図らずも「今回ばかりは」と書いてしまった。

なぜそんなことを言うのかといえば、今までにもそんなチャンスはあったのだが、そのたびにいつも、本質的な変革は行われず、対症療法の連続でここまで来たからだ。新しいところでは、成果主義の導入で大騒ぎしたことなどが記憶に残る。この仕組みは、管理職を対象にした企業が多く、若年層やヒラ社員には適用しないのが通例となっている。成果主義が騒がれたころ、マスコミは全く見当違いの批判を繰り広げていた。

「内勤職の場合、成果なんて見えるのか」

「長期プロジェクトに携わっている場合、半期ごとに成果など出せるのか」

「成果が見えやすいという営業だって、顧客の顔ぶれや商品の良し悪しといった実力以外の運不運があるだろう」

こんな手垢のついた文句ばかりが言われたのだ。つまり、「成果とは何か」論争だ。

それは、あたかも、フーテンの寅さんのように、車一台売ったら給与がいくら、といった歩合給の世界を想起させるような話だ。もちろん、現実の世界に、そんな報酬制度を持ち込んだ会社などなかった。

成果主義導入後の査定といってもその中身は、業績だけでなく、行動や能力形成、周囲への影響などの項目も今まで通りに存在している。いや、そもそも成果主義以前の旧来の査定にだって業績は同じような割合でしっかり評価項目化されていた。では、その業績項目が細かくデジタルに変わったのかというと、そこもそれほど変わってもいない。「一台売ったらいくら」などというものではなく、あくまでも、「ABCD」とか「優良可不可」といった印象評価でしかない。

つまり大騒ぎした割に、中身はほとんど変わっていなかった。

こうした大騒ぎの裏で、実は大きく変わったことがある。それは、定期昇給がなくなったこと。そう、成果主義導入以降、管理職は「職務と業績」が賃金を決めるのであり、年功は給与の決定要素から外された。管理職はもともと残業代を支給していないから、「労働時間」は報酬に関与していなかった。加えて、年功まで外されることになり、つまり管理職の報酬については、仕組み自体はかなり欧米に近づいたのだ。

今度こそ、トータルな脱日本型を

企業「成果論争」の大騒ぎを隠れ蓑にして、いつの間にか、管理職を日本型雇用の不都合さから外すことに成功したのだ。

ただし、それはキャリアや家庭生活などを含めたトータルな脱日本型ではなく、給与構造のみの変革にとどまる。だから、日本型の労働環境は何も変わらず、いまだに日本の管理職は配転を余儀なくされ、過去にも増して、長時間労働にいそしむ。もちろん、企業側はそのトレードオフとして、整理解雇も能力解雇もままならない。高年収の成熟社員である管理職でさえ、そんな、なれ合いの非自律的労働を続けているのだ。

そう、全体設計を考えず、対症療法を続けてきた様がよくわかるだろう。

もう、こんな、経営都合の対象療法を続けてはいけない。エグゼンプションを残業論議にとどめず、日本型雇用変革の一大エポックに育てるべきなのだ。しっかり休み、むやみに想定外の指令は出されず、意に沿わない異動もなくなる。その分、定期昇給も残業代もなくなる。このトレードオフが成り立つ「欧米型就労」へ、一皮むける方向に、エグゼンプション論議が熟すのを心待ちにする。

改革の詳細は、近著「いっしょうけんめい『働かない』社会をつくる」(PHP新書)をご覧頂ければ幸いに存じている。

サムネイル「I Don’t Like Mondays – London Office Life (The Blue Fin Building)」Simon & His Camera

https://flic.kr/p/eiL5Jx

プロフィール

海老原嗣生株式会社ニッチモ代表取締役、『HRmics』編集長

株式会社ニッチモ代表取締役、『HRmics』編集長。リクルート人材センター(現・リクルートエージェント)にて新規事業企画や人事制度設計等に関わった 後、リクルートワークス研究所へ出向、『Works』編集長に就任。2008年リクルートを退 職後、㈱ ニッ チモを設立。企業のHRコンサルティングに携わるとともに、㈱リクルートキャリア発行の人事・経営誌『HRmics』の編集長を務め る。 経済産業研究所プロジェクトメンバー、中央大学大学院戦略経営研究科客員教授。

この執筆者の記事