2015.02.23

尊厳死の合法化は社会的弱者にとって脅威か

有馬斉 倫理学

福祉 #尊厳死#安楽死

1.日本の尊厳死法案をめぐる論争

要約:現在国内でいわゆる尊厳死を合法化しようとする動きがある。終末期患者の延命措置の一部を中止・差し控えできるようすることが狙いである。しかしこれには、重度機能障害者など、周囲の十分な支援を期待しにくい人々のうちから、批判が多く提出されてきている。合法化は、支援不足や周囲の圧力のために患者が延命を諦めるという結果を導きかねないと懸念されているのである。

2012年、尊厳死の法制化を考える議員連盟が「終末期の医療における患者の意思の尊重に関する法律案(以下、連盟の名称にちなみ尊厳死法案と略す)」を公にした(国会未提出)。2014年4月に再び第186回国会での提出が検討されるなど[*1]、その後もたびたび話題に上がっている。

[*1] 朝日新聞、「尊厳死法案 人生の最後をどう生きるか」、2014年4月16日、 朝刊 14面.

法案の内容は、「回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」(第五条)な患者の延命措置を差し控えるか中止するかした医師について、その法的責任が問われないようにする、というものである。ただしその際「患者の意思を十分に尊重」(第二条)していることが条件になる[*2]。

[*2] 法案の全文は、立岩真也・有馬斉編『生死の語り行い①: 尊厳死法案・抵抗・生命倫理学』, 生活書院、2012年、45-51頁に収録。

この法案にはいくつか批判がある。本稿ではその中でもとくに重要と思われる批判の一つに注目したい。これは、主として病人や障害者等、法が実現すればそのルールに則って自分の延命措置の差し控えや中止を要求することが予想される人々のうちから、寄せられてきた。文書で批判を公にした組織や団体には、日本ALS協会、日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」、人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)、全国委脊髄損傷者連合会、DPI(障害者インターナショナル)日本会議などがある[*3]。

[*3] 他に全国「精神病」者集団、全国遷延性意識障害者・家族の会、NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会などが発表した文書を立岩・有馬編 前掲書(2012)、II章に収録。

これらの団体が懸念しているのは、次のような状況である。

延命のために医療措置を要する人は、介護が必要だったり治療費がかさんだりするため、周囲には心理的また金銭上の負担がかかりがちである。加えて、その状態で生き続けることを、本人の意向とは別で、周囲が、本人にとってためにならないと感じることもある。こうした状況では、仮に延命措置の差し控えや中止が合法化された場合、延命措置を要する人にたいして、周囲が、延命を諦めるよう働きかける可能性がある。とくに患者にもともと障害があったり経済的に余裕がなかったりすれば、その可能性は小さくないかもしれない。周囲としてはおそらく多くの場合はっきりと言葉にするわけでなく、また自覚的でさえないかもしれないが、それでも患者に大きい圧力が加わりうる。

こうした働きかけのもとで人が自分の延命措置の差し控えや中止を要求する場合、それでも本人の意思を尊重するべきだといえるだろうか。尊厳死法が成立した場合、家族や社会の支援さえあれば、あるいは周囲の圧力さえなければ延命を希望するはずの人まで、支援の不足や圧力のため延命を諦めかねない。法案に反対する人々の多くはこのことを懸念してきた。この懸念を理由に尊厳死や安楽死の合法化に反対する見解を、ここでは「社会的弱者へのリスクに訴える批判」と呼ぶことにしよう。

じつは社会的弱者へのリスクに訴える批判は、国内外で尊厳死や安楽死の合法化の動きがあるたび繰りかえし提出されてきた。米国では、個人の死ぬ権利について否定的な判決を下した連邦最高裁判所の見解に組み込まれるなど、政策にも比較的大きなインパクトを与えてきた。そのため、尊厳死や安楽死の合法化を支持する側からもすでにさまざまな反論が提出されてきている。以下ではそれら反論にも一通り目を通しつつ、社会的弱者へのリスクに訴える批判がどこまで有効か少し丁寧に検討してみたい。やや長い論述になるが、尊厳死合法化の是非を議論するにあたって是非とも揃えておきたい材料の一部を整理できればと思う。

なお、いま日本で合法化が検討されている延命処置の差し控えや中止と、オランダ等でいちはやく合法化された致死薬の投与や処方とは、それぞれ別の呼称を宛てて区別するのが一般的である。前者は「消極的安楽死」と呼ばれることも多いが、安楽死という言葉にある否定的な響きをきらう人々は代わりに「尊厳死」の語を用いる。また後者については、致死薬の投与までする行為を「積極的安楽死」、処方するだけであとは患者に任せることを「医師による自殺幇助」と呼んでさらに区別することが多い。

たとえば、つい先日(2014年10月)、脳に悪性腫瘍が見つかり余命半年と診断された20代の米国人女性が、自宅で自死することを事前にインターネット上で予告し、注目を集めた。この女性は後日、医師から致死薬を処方してもらい、これを飲んで予告通り死亡した[*4]。この例における医師の行為は、ここでの区別に従うなら「医師による自殺幇助」である。

[*4] 朝日新聞、「米女性、予告通り安楽死」、2014年11月4日、朝刊31面.

2000年頃から米国内のいくつかの州で医師による自殺幇助が、ベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)では積極的安楽死と医師による自殺幇助の両方が相次いで合法化された。こうした動きに応えて、社会的弱者へのリスクに訴える批判は、海外では延命治療の差し控えや中止の合法化だけでなく、致死薬の処方や投与の合法化にたいする反対論としても多く用いられてきた。本論では、批判がこれまで政策上に与えてきたインパクトの大きさを理解するため、このことにも少し触れる。

2.合法化が社会的弱者に強いるリスク

要約:安楽死や尊厳死の合法化は、社会的弱者に特別大きなリスクを強いると考えられている。これは、たんに社会的弱者が他の人々より支援を多く必要とするから、というだけの話でない。たとえば重度機能障害を持ちながら支援を受けて生きることの価値について、周囲の人々や社会は極めて否定的な評価を下しがちである。リスクの背景にあるのは、社会的弱者の生活のありようにたいするこうした社会の差別的偏見であると考えうる。

消極的安楽死や積極的安楽死の合法化が社会的弱者にリスクを強いることは、ずっと以前から国内外で事あるごとに繰りかえし指摘されてきた。そこでの重要な論点の一つは、もともと周囲の支援を得にくい人々が、支援を得られないために延命を諦めることを合法化が後押しすることになるのではないかということだった。

1978年、日本安楽死協会が「末期医療の特別措置法案」を公表した。「不治かつ末期」の患者について本人の望まない「過剰な延命措置」は中止できるとするもので、結局法制化には至らなかった。同じ年、作家の野間宏や水上勉ら5人でつくる「安楽死法制化を阻止する会」が反対声明を発表している。

生きたい、という人間の意志と願いを、気がねなく全うできる社会体制が不備のまま「安楽死」を肯定することは、事実上、病人や老人に「死ね」と圧力をかけることにならない[*5]。

[*5] 安楽死法制化を阻止する会、「「安楽死法制化を阻止する会」の声明」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、41-2頁: 41頁.

すでに述べた通りその後2012年に尊厳死法案が公にされたときも同様の反応があった。例えばALS患者とその家族でつくられたNPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会の橋本操が法案を批判している。ALSは、Amyotrophic lateral sclerosisの略で、筋委縮性側索硬化症と訳される病気の名称である。発病すると運動ニューロンが少しずつ壊されていき、たいてい数年で自力歩行できなくなるとされる。とくに口まわりや胸の筋肉を動かせなくなると、食べたり話したり呼吸したりすることに介助や器械が必要になる。橋本によれば

重度の身体障害を併せ持つ難病患者が[…]事前に治療を断って死ぬ覚悟を患者自らが表明してしまうと家族も医師も安心し、呼吸器の長期装着を勧めてくれなくなります。もし、治療を断るための事前指示書やリビングウィルの作成が法的に効力を持つようなことになれば、ますますこれらの患者たちは事前指示書の作成を強いられ、のちに治療を望む気持ちになっても書き換えはことごとく阻止され、生存を断念する方向に向けた無言の指導(圧力)を受け続けることが予想されます[*6]。

[*6] 橋本操、「尊厳死法制化を考える議員連盟の件で」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、52-4頁: 53頁.

「人工呼吸器をつけた子の親の会(バクバクの会)」も尊厳死法案を同様に批判している。

法律ができてしまえば、人工呼吸器や経管栄養の助けを借りて生きている人たちに対して『「自己決定」のもと「尊厳死」を選択している人たちがいるのに、なぜそうしてまで生きているのか、なぜ死なないのか』という社会の無言の圧力がかかることは必至です[*7]。

[*7] 人工呼吸器をつけた子の親の会、「改めて尊厳死の法制化に強く反対します」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、75-7: 77頁.

さてしかし、尊厳死の合法化が社会的弱者にリスクを強いると考えられている理由は、たんに社会的弱者が周囲の支援を他よりも多く必要とするから(あるいは支援を他と比べてより少なくしか期待できないから)というだけではない。もうひとつの重要な論点は、たとえば機能障害をもって周囲の支援を必要としながら生きることや、社会的また経済的に不遇な生活のありようにたいする差別的な偏見の影響のていどである。

たとえば、日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」は、尊厳死法案の前提に「人間の命を尊厳のある状態と尊厳のない状態に分けて考える」見方があるという。青い芝の会によればこの見方は「障害者差別」である[*8]。

[*8] 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」、「全国青い芝の会は「尊厳死法案提出」に反対し強く抗議します」、立岩・有馬編 前掲書(2012) 、55-7: 56頁.

米国や英国には、機能障害者の延命措置を中止してよいとした有名な裁判所判決がいくつか存在する。じつはこれらの判決にたいする批判の中でも、今述べたのと同様の指摘がなされている。経管栄養補給を拒んで米カリフォルニア州の裁判所に訴えたエリザベス・ブーヴィア(Elizabeth Bouvia)は、脳性まひの患者で電動式の車椅子の使用者だった。死ぬために自分の呼吸器を停止してもらうことについてネヴァダ州の裁判所に許可を求めたケネス・バーグステット(Kenneth Bergstedt)は、子どもの頃の水泳中の事故で四肢にまひがあった。ジョージア州のラリー・マカフィ(Larry McAfee)もバイク事故で四肢まひとなり、やはり自分の呼吸器を停止してもらうことの許可を裁判所に求めた。裁判所はどの事例でも、障害者の延命措置の中止を許可した[*9]。

[*9] Cf. Gregory Pence, Medical Ethic: Accounts of Ground-Breaking Cases, McGraw-Hill, 2010: Ch.3.(邦訳 グレゴリー・ペンス著、宮坂道夫・長岡成夫訳、『医療倫理学(1): よりよい決定のための事例分析』、みすず書房、2000年).

批判されてきたのは裁判所がそのように判断した理由である。ブーヴィア事件の判決文にはこうある。

ブーヴィアの見解では、絶望的で、役に立たず、楽しむこともできず、不満ばかりになるほど、彼女の生命の質が落ちていた。無力でベッドに横たわり、自分の面倒をみることもできない患者として、彼女は自分の存在を無意味だと考えたのかもしれない。そのように結論する彼女がまちがっているとはいえない[*10]。

[*10] Vickie Michel, “Suicide by Persons with Disabilities Disguised as the Refusal of Life-Sustaining Treatment,” in Mappes and DeGrazia eds. Biomedical Ethics: Sixth Edition, McGraw-Hill, 2006: 335-40. p.336から孫引.

死にたいというブーヴィアの選択を裁判所は合理的と見なしたわけだ。ヴィッキ・ミッチェル(Vicki Michel)は、この判決文の中には障害者が生きることの価値を低く評価する差別的な考えかたがはっきり表れているという。

ミッチェルの主張の意図を理解するためには、これらのケースと、健常者が死にたいという場合とを比べてみるのがよいだろう。以前から障害のあったブーヴィアが26才で初めて死のうと思ったきっかけは、直前の離婚とその前に経験した流産だった。バーグステットは31才のときそれまで介護してくれていた父親が危篤に陥り、他に頼れる人がいないので死のうと考えた。しかし、仮にブーヴィアとバーグステットに障害がなかったとしたらどうだろうか。

障害のない人でも死にたいと思うことは決して稀でない。しかしその場合、例えば流産や離別が辛いからという理由で死のうとする人の決意について、周囲が「まちがっているとはいえない」などと評価するとは考えにくい。そのような人は通常「臨床的うつがあり、心療内科の治療にふさわしい対象だとまずみなされる」[*11]だろう。

[*11] 同上、p.338.

ところが障害者の場合、死にたいと考えることは理に叶っていると見なされる。米国の事例では、四肢に不自由がある場合、きっかけは流産や離別だとしても、本人が死にたいというなら死んだほうが本人のためだと思われていた。これは障害者の生の価値だけが低く評価されている、ということに他ならない。

判決文の前提にあるこうした見方は不当である。ミッチェルは「障害のない人なら自殺防止事業に紹介されることになるのにたいして、障害のある人が死にたいというとそれは理にかなった(reasonable)選択だと思い込むのはとんでもなく差別的だ(outrageously discriminatory)」[*12]と強い調子で非難している。

[*12] 同上.

3.合法化は差別的な意図がなくてもリスクを生じうる

要約:安楽死や尊厳死の合法化は、必ずしも社会的弱者の生活のありようにたいする差別的偏見を前提とするものとはかぎらない。しかし、たとえ法律がこのような前提で作られていなくても、法律を運用する医療者や患者家族に同様の偏見があれば、結果として社会的弱者が大きなリスクを被りうる。

さてしかし、5節の論点を先回りしてひとこと補足しておくと、社会的弱者へのリスクに訴える批判の要点は、必ずしも、合法化の前提に差別的な見方があるという青い芝の会やミッチェルのしたような主張である必要はない。あとで紹介する批判への反論にうまく応えられるようにするためにもこの点は精確に理解しておきたい。

死にたいという人の希望はときとして真に合理的と思われる場合があるかもしれない。たとえば車椅子の使用者について、車椅子なしで外出できないなら死にたくなって当然だと周囲がみなすとすれば、それはたしかに差別的である。しかし、たとえばがんの末期で、耐えがたいほどの身体的苦痛を緩和医療でも抑えられない状態が、亡くなるまでしばらく続くと分かっている。そうした患者が十分な支援にもかかわらず、輸液や呼吸器の中止を希望するとしたらどうか。具体的にこうして想像した場合、死にたいという希望が常に合理的でないとは思われないかもしれない。

また、そうだとすると、一部の人についてだけ死にたいという希望を聞き入れることは、必ずしも差別的なことではないと考える余地が出てくる。「車椅子で外出するのが苦で死にたい」という人の希望は素直に聞き入れるべきでないけれども、「からだの痛みが耐えがたいから死にたい」という人の希望は場合によって叶えてもよい。このような考えを差別的だとまでいうことは難しいかもしれない。

消極的安楽死等を合法化しようとする人の意図は、からだの痛みなど、あくまでいま述べたような具体的にイメージされるいくつかのケースでのみ病人を苦しみから解放することにある可能性がある。だとすると、合法化について、差別的な見方を前提しているという批判は必ずしも当たらない。

ただしそれでも四肢にまひのある障害者の自殺を例にとったミッチェルの具体的な論述(2節)は、合法化に伴う社会的弱者へのリスクの内容をよく理解するために非常に有益である。公正を謳う裁判所でさえああなのである。患者の担当医や家族が同様のあきらかに差別的な考えを決してもたないとは考えにくい。だから、仮に合法化のもともとの意図に差別的なところがまったくなかったとしても、いったん消極的安楽死等が合法化されてしまえば、死の間近に迫った状況でだれもが十分な支援のもと真に自律的な決定ができるとはかぎらない。あるいは、決して死ななければならないほどではない状態の患者についても、死のうとするのをだれも止めなかったり、むしろ延命を諦めるよう周囲から圧力がかかったりするかもしれない。そのような可能性があることは想像に難くない。社会的弱者へのリスクに訴える批判に含まれる主張のうちでさまざまな反論を凌ぎうるもっとも強力な主張はおそらくここにある。

なお、同じ趣旨の批判は、消極的安楽死(延命措置の中止・差し控え)だけでなく、積極的安楽死(致死薬の投与・処方)を合法化することにかんしても繰りかえしなされてきた。致死薬で一息に亡くなることを希望する患者でも、しばしば周囲に負担がかかったり、死んだほうが本人のためだとみなされたりしうるためである。実際この批判は、後者の合法化が議論される文脈でより大きな注目を集めてきたといえる。

とくに政策上大きなインパクトを与えた例としては、まず、米国の障害者団体ノット・デッド・イェットらが1997年に裁判所へ提出した第三者意見書がある。意見書の主張は上述のミッチェルの議論と同様である。意見書によれば、障害者の人生は「依存と屈辱と無力(dependency, indignity and helplessness)の人生」だとみなされがちである。医療者や法曹関係者も、障害者にとっての困難の真の原因が「うつや、ヘルスケアその他の支援の不足、徹底した差別に立ち向かうことからくる消耗」にあることを理解していない。そのため、死にたいという障害者の希望をすぐ「自然で理にかなっている」と考える[*13]。

[*13] Not Dead Yet et al., “Amici Curiae Brief of Not Dead Yet and American Disabled for Attendant Programs Today in Support of Petitioners, Vacco v. Quill, 521 U.S. 793,” 1997, http://kwing.christiansonnet.org/sourcebook/_reports/euthanasia_rep_USsupreme.htm (2014年6月6日閲覧) , ARGUMENT I.B.

積極的安楽死や自殺幇助の合法化が障害者への大きなリスクを伴うのはこのためである。通常は死にたいという人があればその原因を取り除こうとしたり、うつの可能性を疑ったりするはずだ。ところが障害者の場合「鎮痛剤を出さない、診断や予後評価や治療計画にまちがいがないことを確認しない、インフォームド・コンセントをしっかり得ない、といった医療ミス」が起きる。また「障害のない人にたいしては決して使用されない致死的な手段[=致死薬の処方]が使用される」[*14]。

[*14] 同上、ARGUMENT II.A.

もうひとつ、やはり米国でニューヨーク州の生命と法に関する特別委員会が1994年に公表した報告書『死が求められるとき―医学的文脈における自殺幇助と安楽死(When Death is Sought: Assisted Suicide and Euthanasia in Medical Context)』がある。こちらはより広範な論点を扱っており、社会的弱者へのリスクについての言及はややあっさりしている。ただし重要な点として、「貧しい人々、高齢者、社会的少数派に属する人々、または良質の医療ケアに手が届かない人々」等、リスクにさらされうる社会的弱者の範囲を広く捉えている点が注目に値する[*15]。紙幅の都合で詳しく紹介できないが、他の文献の中には人種的マイノリティや女性が同様のリスクにさらされると指摘するものもある[*16]。

[*15] New York State Task Force on Life and the Law, When Death is Sought: Assisted Suicide and Euthanasia in Medical Context, New York, The New York State Task Force on Life and the Law, 1994. p.xiii

[*16] Cf. Margaret Battin, Rosamond Rhods and Anita Silvers eds., Physician Assisted Suicide: Expanding the Debate, Routledge, 1998, Part II; Foley Kathleen and Herbert Hendin, eds., The Case Against Assisted Suicide: For the Right to End-of-Care, The Johns Hopkins University Press, 2002, Part III.

前者の意見書の文章は、医師による自殺幇助を禁止する州法について、違憲といえないと結論した連邦最高裁判所の判決(Vacco v. Quill)の中で引用された。後者の報告書は、知事の命で組織された委員会作の州政府公文書であり、積極的安楽死の法的妥当性を否定する内容となっている。どちらも、批判の主旨が政府側の意見に取り入れられた例であり、のちの政策への影響力の大きさからいって特別に重要な例である。たとえばディヴィッド・マヨ(David Mayo)とマーティン・ガンダーソン(Martin Gunderson)は、これらふたつの文書に代表される議論が「自殺幇助の合法化にかんする社会的論争において突出した役割(a prominent role)」を果たしてきたと述べている[*17]。

[*17] David Mayo and Martin Gunderson, “Vitalism Revitalized: Vulnerable Populations, Prejudice, and Physician-Assisted Death,” Hastings Center Report, 32, no.4, 2002, 14-21. p.15.

4.社会的弱者の被るリスクは合法化を否定するほど大きいか

要約:社会的弱者へのリスクに訴える批判についてはすでに多くの反論がある。反論のいくつかは、比較的かんたんにあやまりを指摘できるだろう。他の主な反論は、リスクとは別に、合法化がもたらす利益を強調する。最終的にはリスクと利益をバランスさせて考える必要があるが、そのためにもリスクの大きさをしっかりと確認する必要がある。

社会的弱者へのリスクに訴える批判は、あるていど成功し注目されてきた議論である。しかしまたそれだけに、この批判にたいしては従来から多くの反論も提出されてきた。以下では考えうる反論を以下の5つに分けて列挙する。反論を見ておくことは、批判の内容をより良く理解することに役立つだろう。

反論1:社会的弱者へのリスクに訴える批判は、合法化の主旨や意図を誤解している

反論2:社会的弱者へのリスクは、対策を打つことで現実化を防ぐことができる

反論3:合法化に伴う社会的弱者へのリスクよりも、合法化のメリットや現状のデメリットのほうが大きい

反論4:社会的弱者のリスクに訴える批判の前提にある「重度機能障害はそれ自体で人を不幸にはしない」という考えがあやまっている

反論5:批判の前提にある「周囲に負担を強いたくないからという理由で病人が死のうとするべきではない」という考えがあやまっている

■反論1:批判者は合法化の主旨・意図を誤解している

ひとつめは、社会的弱者へのリスクに訴える批判が、合法化の主旨や意図を誤解しているという反論だ[*18]。

[*18] Cf. 井形昭弘、「法律案に反対する団体の意見に対する(社)日本尊厳死協会の見解」、立岩・有馬編 前掲書(2012)、66-70頁: 66頁.

この反論によれば、批判は、まるで死にたいと思えばだれでも消極的安楽死や積極的安楽死の対象になりえるかのようにいうところにまちがいがある。実際のところたいていの法律や法案は、消極的安楽死や積極的安楽死が許されるための条件として、不治かつ末期であること、あるいは耐えがたい苦痛のあることなどを明記している。したがってこの条件に合わない病人や障害者の延命措置が合法的に差し控えられるといったことは、かりに消極的安楽死や積極的安楽死が合法化されたとしても生じえない。このように反論されうる。

次の節ではこの反論1の妥当性を検討する。検討してみると、むしろ反論1のほうにこそ社会的弱者へのリスクに訴える批判の主旨にかんする誤解があるらしいということが分かるはずである。詳しくは次節で述べるとして、そのまえに他にどのような反論がありえるかひと通り見ておこう。

■反論2:対策によって、リスクの現実化は防げる

■反論3:合法化のメリットと現状維持のデメリットがある

反論2は、消極的安楽死や積極的安楽死の合法化が社会的弱者にリスクを強いうる仕組があることを認めつつ、しかし、予め対策しておくことでリスクの現実化は防ぐことができると主張する。そのため反論2によれば、たんに社会的弱者にリスクを強いる可能性が想像できることは、それだけでは合法化するべきでないと結論する理由にならないとされる[*19]。

[*19] とくに積極的安楽死の合法化にかんしてこの種の反論は多い。たとえばP. J. van der Maas, et al. , “Euthanasia, Physician Assisted Suicide, and Other Medical Practices Involving the End of Life in the Netherlands, 1990-1995,” New England Journal of Medicine, 1996, 335 (22); Margaret Battin et al., “Legal physician-assisted dying in Oregon and the Netherlands: evidence concerning the impact on patients in “vulnerable” groups,” Journal of Medical Ethics, 2007, 33, 591-7; Robert Young, Medically Assisted Death, Cambridge University Press, 2007. Ch.10等.

これにたいして反論3は、さらに合法化のリスクが時々現実化することまで認めたうえで、しかし合法化のメリットや、合法化しないままでいる場合のデメリットを強調する。リスクが合法化のメリットや現状のデメリットを上まわるほどでないとすれば合法化は正当化できると主張される[*20]。

[*20] やはり積極的安楽死にかんしてR.G. Frey, “The Fear of a Slippery Slope,” in Dworkin, Frey, and Bok eds., Euthanasia and Physician-assisted Suicide: For and Against, Cambridge University Press, 1998, 43-63: pp.56-7; Gerald Dworkin, “Public Policy and Physician Assisted Suicide,” in Dworkin, Frey, and Bok eds. 前掲書(1998), 64-80: pp.77-80; L.W. Sumnar, Assisted Death: A Study in Ethics & Law, Oxford University Press, 2011: Ch.7等。

ここでいう合法化に伴うメリットとは、いうまでもなく、死ぬまぎわの苦痛から多くの患者が解放されることである。あるいは、人が自分の望まない死にかたを強いられずに済むこと、といってもよいかもしれない。

消極的安楽死や積極的安楽死が合法でないまま、あるいは仮に違法とされた場合のデメリットについては、まず、今述べたメリットを得にくいということが考えられる。とくに、全面的に違法とする場合では、たとえ延命を拒否する患者が真に自律的で、どれほど耐えがたい苦痛に苛まれているとしても、技術的に可能なかぎり延命しなければならない。前述(3節)のマヨとガンダーソンは、これについて生命維持至上主義(vitalism)とでも呼ぶべき時代に逆行した考えを患者に押しつけるものであり、受け入れがたいと主張している[*21]。

[*21] Mayo and Gunderson, 前掲論文(2002).

加えて、たんに法的ルールが存在しない状態のままでいる場合については、臨床におけるあきらかに不適切な判断がむしろ増えうるという指摘もある。ルールがないか、あるいはルールが指針等のかたちで存在していてもよく知られていない場合、延命措置の差し控えや中止は、全く起きないというわけではなく、ただ施設ごとに独自の判断でなされている可能性がある。そのためたとえば終末期でないとか本人の意向を確認していないなど、あきらかに許されるべきでない状況で延命措置が中止されたり差し控えられたりすることも予想できる。つまり、合法化に反対する人々が社会的弱者に降りかかることを懸念してきたのと同様のリスクが、合法化しなくてもすでに存在しているというのである。合法化を支持する人々によれば、むしろ許される範囲を明確に限って合法化することで、この類のリスクはルールのない現状より小さくすることが可能だという[*22]。

[*22] Frey, 前掲論文(1998). pp.56-7.

反論3の基にあるのは、合法化した場合のデメリットだけでなく、その場合のメリットやまた反対に合法化しない場合のデメリットも考慮するべきだとする主張である。この主張だけみればその正しさはおそらく否定できない。そこで社会的弱者へのリスクに訴える尊厳死合法化批判の強さを評価するためには、最終的にはこれらさまざまのメリットとデメリットを比較衡量する(バランスさせる)必要があるだろう。

本稿では各要素を詳しくあきらかにしたうえで比較し答えまで導くことは紙幅の都合からいっても望めない[*23]。しかし天秤のいっぽうの皿に載る社会的弱者へのリスクについて、少なくともそれが現実のリスクであると思われることや、決して軽微なリスクであるとは思われないことなど、衡量に役立つ材料をいくつかできるだけ確実なかたちで提示したい。次節以下、反論の1と2について少し丁寧に検討するのはこの目的のためである。

[*23] 比較衡量のうえで合法化を否定的に評価している文献にJerome Bickenbach, “Disability and Life-Ending Decisions,” in Battin, Rhodes and Silbers eds., Physician Assisted Suicide: Expanding the Debate, Routledge, 1998: 123-32; John Arras, “On the Slippery Slope in the Empire State: The New York State Task Force on Physician-Assisted Death,” in Mappes and DeGrazia eds. Biomedical Ethics: Sixth Edition, McGraw-Hill, 2006: 431-7; David Velleman, “Against the Right to Die,” Journal of Medicine and Philosophy , 1992, 17: 665-82; Yale Kamisar, “Euthanasia Legislation: Some Nonreligious Objections,” in Downing ed., Euthanasia and the Right to Death: The Case for Voluntary Euthanasia, Peter Owen, 1969: 85-133等。

なお、たとえ周囲にかかる負担や支援不足が理由だとしても、判断力のある成人が延命措置の中止・差し控えに同意しているのであるかぎり、すべて自律的選択として尊重されなくてはならないと主張されることがある[*24]。しかし、仮にこの主張が最終的に正しいとしても、それは今いったような比較衡量がまったく不必要だということを意味するものではない。

[*24] Cf. 井形、前掲論文(2012)、67頁.

これは、周囲にかかる負担や支援不足を理由に人が延命を諦めることについて、全く問題がないとはおそらく誰も考えないからである。もちろん、そうした理由で人が延命を拒否することはそれ自体として好ましくない事態だが、一方で、判断力ある個人の選択が尊重されることにはこのような事態の好ましくなさを上まわるだけの良さがあると考えることは、論理的にいって可能である。しかし、この考えは、個人が自律的にふるまうこと自体の価値と、社会的弱者へのリスクを回避することの価値とを比較したうえで、前者を優先した判断の結果に他ならない。この判断の正しさは自明ではない。判断が正しいかどうかは、社会的弱者へのリスクがどれだけ大きいかによる。

一般に患者の自律が医療でこれだけ重視されているなか、こと死にかたと死にどきにかんしてだけ患者の自律を否定するのはおかしいと主張されることもある[*25]。トム・シェイクスピア(Tom Shakespear)は、生活のあらゆる場面で選択の自由とそのための支援を要求してきた障害者団体が、この問題についてだけ障害者の死にたいという選択を許容しない様子を「理解しがたく一貫性に欠くようだ」と批判している[*26]。これらの批判が正しいかどうかは、他の文脈で個人の自律を重視するべきと考えられているときの理由が、今の文脈でも同じように通用するかどうかによる。また、より大切なこととして、安楽死の合法化にかかわって本稿に指摘してきた類のリスクが他の文脈でどれだけ存在するかにもよる。いずれにしても合法化の利点と問題点とを比較衡量しなくてよいということではありえない。

[*25] Frey 前掲論文(1998), p.56.

[*26] Tom Shakespear,  2006. p.126.

■反論4:重度の機能障害を有する生は生き続けるに値しない

■反論5:周囲に大きな負担を強いる病人には死ぬ義務がある

他にも反論がありえる。2節でみたミッチェルのように、社会的弱者へのリスクを指摘する研究者らは、とくに障害者の生命についてそれが低い価値しかもたないという見方を否定してきた。反論4は、これに反対する意見である。つまり、重度の機能障害はそれ自体で生の価値を生きるに値しないほど低くしうるという意見である[*27]。

[*27] こうした意見は選択的中絶を擁護する文脈等でときおり見られる。たとえばDan Brock, “Preventing Genetically Transmitted Disabilities while Respecting Persons with Disabilities,” in Wasserman, Bickenbach and Wachbroit eds. Quality of Life and Human Difference, Cambridge University Press, 2005: 67-100.

仮にこの意見が正しいとすると、障害者の死にたいという意向は、機能障害の程度によって、真に「理にかなう」場合が出てくる。その場合、障害者の意向が素直に受け入れられるという事態は、そもそも望ましくないことではない、ということになるだろう。合法化のリスクあるいはデメリットともみなせない。

また、社会的弱者へのリスクに訴える批判の基礎にある主張のひとつは、人が周囲や社会にかかる負担を苦にして死のうとするのをそのまま認めるべきでないということだった。最後の反論5はこの主張を否定する。たとえばジョン・ハードウィッグ(John Hardwig)は、家族等の近しい人に大きな負担を強いる病人は死ぬ義務があると論じた[*28]。仮にハードウィッグの主張が正しいとすると、周囲の圧力のために人が延命を拒むことは必ずしも望ましくないことでなく、そこでやはり合法化のデメリットとみなせない。

[*28] John Hardwig, “Is There Duty to Die?” in Hardwig, Is There a Duty to Die? and Other Essays in Bioethics, Routledge, 2000: 119-36.

反論4と5は、どのような生になぜ価値があるのかや、個人の生きる権利を守るために周囲はどこまで負担を負うべきか等、生と死にまつわるごく基本的な問題と通じている。機能障害があるのは常に不幸なことだとか、家族を介護等で疲弊させる病人は責められてしかるべきだといった考えは、こうして率直に表明されるのをきくと心の底で否定しがたい気持になる人もじつは少なくないかもしれない。

だから消極的安楽死や積極的安楽死の合法化の是非を十分に検討したといえるようするためにはおそらく今いった最後ふたつの反論もしっかりと吟味する必要がある。しかし日本で尊厳死法案を支持する人々が反論の4や5のようなことを声高に主張するといったことは今のところ見られないようだ。そこでここではこれらの反論は措いておくことにしたい。

5.滑りやすい坂の議論:政策の意図と効果

要約:社会的弱者へのリスクに訴える批判にたいする反論のひとつは、社会的弱者を死へ追い立てることは合法化の意図するところでないと主張する。この反論を退けるためには、社会的弱者が害を被りうるかどうかは、厳密にいうと、合法化の意図とは無関係である、という前述の論点を繰りかえすことで足りるだろう。社会的弱者へのリスクに訴える議論はいわゆる滑りやすい坂の議論のかたちをしている。

そこでまず反論1「批判者は合法化の主旨・意図を誤解している」について検討する。

たとえば尊厳死法案を支持する日本尊厳死協会の理事である井形昭弘氏は、本稿1節に紹介した各団体からの法案にたいする批判に応えて次の通り述べている。

各団体から法案に対して反対意見が出ていますが、法案の主旨が曲解され、論点がかみ合わずにいることは遺憾に思います。協会は豊かな生の延長線上に尊厳ある死が続いていると考えており、障害者ないし弱者の生命を疎かにする意図は全くありません[*29]。

[*29] 井形、前掲論文(2012)、66頁.

法案にも第十三条「適用上の注意等」の中に「この法律の適用に当たっては、生命を維持する措置を必要とする障害者等の尊厳を害することのないように留意しなければならない」とする文章がある。

事実、消極的安楽死や積極的安楽死の合法化は、合法化された手段を利用することの許される対象を限定するためにルールを設けるのが常である。ルールを見れば、多くの機能障害者は、ただその機能障害があるというだけでは対象に含まれないことが一見してあきらかである。

日本の尊厳死法案はすでに述べたとおり「終末期」の患者だけを対象としている。「終末期」は、第五条で「全ての適切な医療上の措置(栄養補給の処置その他の生命を維持するための措置を含む[…])」を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」の状態と定義されている。

この条件に照らすと、たとえばミッチェルが引用していた消極的安楽死(尊厳死)の事例は、一見するかぎりどれも合法化の対象にならないように思われる。ブーヴィアは脳性まひ、バーグステットとマカフィは四肢まひがあった。いずれも本人に生きるつもりさえあれば何年でも生きていけたはずである。実際、ブーヴィアとマカフィは死にたいという考えをのちに改めて長く生き続けた。こうした人が、離別や貧困に悩んでいるとか、介護をえられないといった理由で死ぬことはルールからいって法案の許すところでない。

国内で法案を批判した組織はそれぞれALS、脳性まひ、脊椎損傷、遷延性意識障害などの患者が死ぬことを危惧していた。しかしこれらはどれも栄養補給や呼吸器さえあればたいていの場合「死期が間近」とはいえない病気や障害ばかりである。

だとすると、合法化でこれらの患者がリスクを負うことになるというのは杞憂にすぎないということになるだろうか。

社会的弱者へのリスクに訴える批判は、多くの場合、いわゆる「滑りやすい坂の議論」と呼ばれるタイプの議論のかたちをしている。あるいは少なくともそのようなかたちの議論として理解できる場合があり、そう理解される場合にいちばん強い批判となる。

滑りやすい坂の議論は、政策批判の場面でよく用いられるものだ。たとえば平和維持活動のための自衛隊の海外派遣にたいする批判がある。かつてこの政策を批判した人々は、必ずしも平和維持活動のための派遣そのものを問題視していたわけではなかった。しかしたとえそのような仕方であっても海外派遣の前例を作ると、いずれ戦闘のための海外派遣まで許されることになりかねない。ここに大きな懸念があった。戦闘のための派遣が許されるべきでないとすると、初めから平和維持活動のための自衛隊派遣も許すべきでない。これは典型的な滑りやすい坂の議論である。

社会的弱者へのリスクに訴える批判も、これと同様の議論として捉えることのできる場合がある。消極的安楽死の合法化を支持する人々は、消極的安楽死が許されてしかるべき状況について、たとえば本稿の3節にみた激しいからだの痛みに苦しむ末期がん患者のような、なんらか具体的イメージをもっているはずである。また、合法化に反対する人々も、なんらかそうして具体的なケースを単独で提示されれば、そのケースで消極的安楽死が決して許容できないとは考えない可能性がある。

もちろん法律の意図がいくつかそうした具体的ケースで消極的安楽死を許すことにあるのだとすれば、法律の規定もその意図を可能なかぎり精確に表現する仕方でつくられるべきだろう。仮に本稿3節のがん患者のイメージに即して法案をつくるとすれば、(a)不治で、(b)末期で、(c)緩和の手段をつくしても耐えがたいほどのからだの痛みがなくならない、これらのことをいえる患者が、(d)十分に支援を受けたうえでなお、(e)状況をよく理解しよく考えて、(f)自発的に延命措置の差し控えや中止を希望する[*30]。消極的安楽死が認められるための条件について、このように(現実の日本の尊厳死法案と比べて)もう少し慎重に条件を設けることがおそらく望ましい。日本の尊厳死法案では、いま述べた条件のうち(a)と(b)と(f)は明記されている(第五条)が、(c)の苦痛があることは要件になっておらず、(d)は言及されていない。このことがそれ自体ですでに望ましくないと思われるかもしれない。

[*30] Cf. Kamisar, 前掲論文 (1969), p.87.

さてしかし、たとえ法律の意図と規定がここに述べたようなものであっても、なお社会的弱者へのリスクに訴えた批判の対象でありうる。たとえ今述べたような意図と慎重さでもってつくられた案でも、いったん法として実現すれば、法の規定にある表現で捉えることを意図されている対象に含まれない人々が死ぬことになる可能性がある。社会的弱者へのリスクを指摘する人々の大きな懸念のひとつはここにある。

たとえば、四肢まひや呼吸障害といった機能障害のある人が、死期の近いと考えうる状況になったとしよう。これは当の機能障害のもとにある疾患が悪化・進行したためかもしれないし、またはもともとの機能障害とは別で感染症や慢性疾患を起こした結果であるかもしれない。そのとき差別的偏見や周囲にかかる経済的負担のため、さまざまな支援の可能性を十分に検討してもらえない。今すぐ死にたいという希望がよく考えたすえの決心ではない可能性を疑われない。あるいはほんとうに末期かきちんと確認されない。こういったことが起こるかもしれないと心配されているのである。もちろんそうすると次の問題は、このような心配がどれほど現実的といえるかである。次の節でこの問題を少し検討したい。

6.ルールのあいまいさがもたらすリスク

要約:社会的弱者が合法化によってリスクを被ることは避けがたいと思われる主な理由は、法律の規定があいまいであらざるをえない点にある。とくに周囲にかかる負担を知りながら延命措置を拒否する患者の選択は、どこまで「任意」とみなすべきか。社会的弱者による延命拒否を当然とみなしがちな社会的偏見があるかぎり、こうした概念のあいまいさが社会的弱者にリスクを強いることは避けがたいだろう。

しかしでは、そのような心配はどれほど現実的だろうか。法はもともと意図していたものとちがう帰結を引き起こしうるという懸念があることをまず認めたうえで、反論2は、対策によって、そうしたリスクの現実化を防ぐことができると主張する。

仮に合法化したとして、将来の確実な予測は不可能だが、いくつか予測をより確かにするための手がかりはある。第一に、法案に意図された条件に合わない人が延命措置を差し控えられたり中止されたりして死ぬことになると考えられているそもそもの理由は何か。もういちどその理由を詳しく確認するとともに、どれほどもっともらしいかを検討することがまず有益なはずである。また第二に、すでに合法化された他の国や地域のこれまでの実績が参照できれば、それも日本の場合を予測するのに役立つかもしれない。

これらの二点にかんしては実はすでに膨大な数の文献がある。以下およそ十分とはいえないがそのうちのごく一部とくに代表的なものをいくつか参照したい。

さきにひとこと断っておくと、とくに英語で書かれた文献の多くは、致死薬の投与と処方(積極的安楽死)の是非を主題としている。日本でいま問題になっている延命治療の差し控えや中止(消極的安楽死、尊厳死)の是非を直接に論じたものはあまりない[*31]。以下に参照する意見も、もともとは消極的安楽死でなく積極的安楽死の是非を検討する文脈で提出されたものが多い。このことは注意しておく必要がある。しかし、本稿の3節でも触れたように、社会的弱者が強いられると指摘されてきたリスクの内容は、合法化されるのが消極的安楽死であっても積極的安楽死であっても本質的にちがわないと考えうる。

[*31] この理由はいくつか考えうるが、ひとつは生命倫理学のとくに盛んな米国の事情である。米国では消極的安楽死の是非にかんして少なくとも法律上の議論はおおかた決着したものとする見方があるからだ。1997年の連邦最高裁判決(Cruzan v. Director, Missouri Dept. of Health, 497 U.S. 261, 110 S.Ct. 2481, 111 L.Ed.2d 224 (1990))が患者の望まない治療を拒んで死ぬ権利を認めている。

そこで第一に、法律の意図した条件を満たさない人が死ぬことになると考えられているそもそもの理由はどこにあるか。ダグラス・ワォルトン(Douglas Walton)によれば、一般に、政策がもともと意図していたのとはちがう帰結を生じるかもしれないと思われる場合、理由として三つの要因が考えうるという。ひとつは、ある行為や政策を許容したことが「前例(precedent)」として理解されることで、それと似た別の行為や政策を許容しない理由がなくなるように思われること。もうひとつは、許容したい行為や政策が「あいまい(vague, arbitrary)」な言葉でしか表現できないこと。三つ目は、意図して発生することを認めた事態が、それと別の好ましくない事態を引き起こすことである[*32]。またディヴィッド・ラム(David Lamb)は、やはり政策のキータームが「あいまいであらざるをえない(inherently arbitrary)」ことに加えて、運用の場面で法律の規定が順守されない可能性を挙げている[*33]。

[*32] Douglas Walton, Slippery Slope Arguments, Oxford University Press, 1992: Ch.1.

[*33] David Lamb, Down the Slippery Slope: Arguing in Applied Ethics, Routledge, 1988. pp.5-7.

安楽死の合法化にかんしてはこれらすべての要因との関連を指摘しうる[*34]。しかし社会的弱者へのリスクの大きさを測るという今の目的にとってもっとも重要な問題は、このうちキータームのあいまいさだといってよいだろう(ちなみに5節の自衛隊海外派遣の例は、ワォルトンのいう「前例」として機能することが問題視される場合に該当するといえるだろう)。

[*34] Cf. Young 前掲書(2007), Ch.10; Walton 前掲書(1992), p.160-7.

しばしば指摘されてきた通り、安楽死の合法化に伴う規則にかんしては、どうしてもあいまいな表現を用いざるをえない部分があるように思われる。このことが、一方では、法律の本来の意図に反する結果が生じるというリスクを生む。また他方で、リスクの現実化を防ぐために対策を立てることを困難にする。

ラムはそうしたあいまいな概念の例を4つ具体的に挙げている。「任意の(voluntary)」、「痛みに悩まされている(pain-racked)」、「治癒が望めない(hopelessly incurable)」、「合理的な欲求(rational desire)」である[*35]。日本の尊厳死法案にも「患者の意思決定は、任意にされたものでなければならない」(第二条2)や、「傷病について行い得る全ての適切な処置[…]を受けた場合であっても、回復の可能性がなく、かつ、死期が間近」(第五条)など、ラムの例と同様の表現が見られる。

[*35] Lamb, 前掲書(1988), p.60. ここでもラムの念頭にあるのは積極的安楽死の合法化である。

前節(5節)では、6つの条件(a~f)で対象を制限するより慎重な法律の可能性を検討した。しかし、この6つの条件も、「不治」「末期」「耐えがたい」「十分な支援」「よく考えて」「自発的」など、すべてあいまいな表現を含む。

これらの概念のあいまいさによって生じるリスクの内容はさまざまである。たとえば、患者の容体は「治癒の見込」があるか。これは医師によって評価が異なりうる。他の医師であれば有効とみなす治療が、担当医の裁量で差し控えられたり、中止されたりするかもしれない。これが法律の本来の意図に即した事態であるとは考えにくい(日本の尊厳死法案は第六条で「終末期に係る判定」が「二人以上の医師」による「判断の一致」に基づかなければならないとしている。これはそのリスクをできるだけ小さくするための規定である)。

だれがみても「終末期」であることのあきらかなケースもある、と反論されるかもしれない[*36]。しかしこれは十分な反論とはいえない。そうしたケースもあるということが意味するのは、ただ、本来の意図に即した仕方でルールを難なく適用できる場合もある、ということでしかない。適用の難しい場合も同時に存在することや、そこでリスクが生じることを否定するものではない。

[*36] Cf. 井形、前掲論文(2012)、67頁.

社会的弱者に降りかかると予想されるリスクとの関連でとくに重要なのは、「任意性」の概念である。ここまで論じてきた問題の主な所在は、周囲の支援にもかかわらずあくまで病状の耐えがたさのために延命を拒否する患者と、周囲の支援を希望しながらそれを得られないということのために延命を拒否する患者とのあいだの区別にあった。「患者の決定は任意でなければならない」というルールの本来の意図は、延命措置の中止・差し控えが許される対象をこのうちの前者に限定することであるはずだ。しかし、現実には両者は見分けにくい場合がある。そこで、後者の決定も臨床では「任意」とみなされる可能性がある[*37]。

[*37] Cf. Kamisar, 前掲論文(1969), p.87; Lamb, 前掲書(1988), p.65.

この「任意性」のあいまいさがもたらすリスクについてよく理解するためには、選択の「合理性」や支援の「十分さ」といった他の概念のあいまいさとの繋がりに注目することが有効だろう。患者が周囲の支援を必要としつつ得られていない状態で延命措置を拒否する場合、その選択をどこまで「任意」とみなすべきか。支援がどれほど必要とされ、またどれほど容易に提供できるとしても、本人の選択であるなら常に任意とみなすというのでないかぎり、この問題は結局のところ、支援はどれだけあれば「十分」で、どのような状況であれば死にたいと思うのが「合理的」なのかということを評価しなければ答えられない問題である。

延命措置の中止や差し控えが許される場合もあると考えるのであれば、だれかがどこかでこれらの点について評価せざるをえない。しかし、合理的な選択や十分な支援の内容を、最初から完全にあいまいさを排した仕方で法律の規定に盛り込むことはおそらく不可能である。つまり、どうしても部分的にこれは臨床の判断に委ねざるをえない。問題は、この臨床判断が差別的偏見に大きく左右されうると考えられることである。

たとえば、死にたいという患者の希望は、「合理的」か。「状況をよく理解しよく考えた」うえでの判断といえるか。「合理性」はもともと極めてあいまいな概念である。加えて、とくに本稿2節では、障害者が死にたいというと、周囲はそれを合理的で仕方のないことだとみなしがちであることを述べた。死にたいというなんてほんとうに状況をよく理解しよく考えたうえでの決心だろうか、といった疑いは持たれにくい。だから、たとえ合法化の本来の意図はそこになくても、たとえば自分の病態や治療の選択肢をよく理解していない患者の延命措置が差し控えられたり中止されたりするかもしれない。

また、何をもって「十分な支援」とするか。たとえば、もう少し周囲の支援があれば延命を望むはずの患者にもともと機能障害があるとしよう。機能障害がなければ周囲は今以上の支援の可能性をいろいろ探ろうとするかもしれない。しかし機能障害があると、患者の生きようとする意欲を高めるのに有効な支援はこれ以上ないとかんたんに諦める可能性がある。たとえば機能障害者にたいする差別的偏見は、このようにして、どこまで支援すれば十分かにかんする周囲の判断を左右しうる。たとえ非常に慎重に作られた法律でも、用いる概念がこうしてあいまいであるかぎり、社会的弱者にリスクを強いることは避けえないと思われる。

7.死亡者のうちに占める社会的弱者の割合は問題か

要約:過去すでに積極的安楽死を合法化した国や地域の実績にかんしては、むしろそれらの法律が社会的弱者にリスクを強いてきたとみなすに足りる証拠はまったく見当たらないとする主張も存在する。代表的な議論のひとつは、これまで積極的安楽死によって死亡した患者全体の中で社会的弱者の占める割合が大きくないと指摘する。しかし、本節の検討があきらかにするとおり、割合の大小はじつは重要な問題ではない。

仮に合法化がおきた場合、社会的弱者へのリスクはどれほど現実的か。この問題を検討するには、また、過去すでに合法化がなされた国や地域の実績を参照することが役立つかもしれない。この点については、マーガレット・バッティン(Margaret Battin)ら米国ユタ大学のグループによる重要な調査研究がある。

バッティンらのグループは、社会的弱者へのリスクに焦点を絞りながら過去の統計をあらためて分析し、その結果、リスクがあると考える根拠はまったく見つからなかったと報告している。本稿の残りでは、バッティンらの報告の内容を紹介するとともに、その主張の妥当性についてかんたんに批判的なコメントを加えておきたい。

バッティンらが分析したのは、積極的安楽死や医師による自殺幇助が合法化されてからすでにあるていど年月の経過したオランダと米国オレゴン州の統計である。オランダは実施状況について政府主導で全国調査をこれまでに複数回実施している。米オレゴン州も同様の政府統計を毎年公開している。

バッティンらは、これらの二地域で積極的安楽死あるいは自殺幇助によって死亡した者の中に「社会的弱者集団(persons in vulnerable groups)」が含まれる割合を調べた。ここでいう「社会的弱者集団」とは、高齢者、女性、高等学校(high school)を卒業していない者、低所得者、人種的少数者、身体障害者(ただし終末期の患者は除く)、未成年者、精神疾患患者等である。するとこの割合は、全人口を母集団とした場合の社会的弱者集団の割合や、積極的安楽死あるいは自殺幇助以外の仕方で死亡した者のうちに含まれる社会弱者集団の割合と比べて、とくに高いということがなかった。そこでバッティンらは「死の幇助の合法化のリスクにかんするいわゆる滑りやすい坂の懸念、すなわち、社会的弱者集団の人々がより頻繁にそのような死にかたをするという懸念を裏づける事実は、今のところ存在しない」と結論している[*38]。

[*38] Margaret Battin, et al., “Legal physician-assisted dying in Oregon and the Netherlands: evidence concerning the impact on patients in “vulnerable” groups,” Journal of Medical Ethics, 2007, 33, 591-7: p.597.

バッティンらのこの結論は妥当だろうか。

安楽死の合法化について反対派は社会的弱者へのリスクを危惧してきた。バッティンらはこれを死亡者に占める社会的弱者の割合の大小の問題として理解している。しかし正確にいえば、危惧されているのは、合法化された手段の利用者の中に社会的弱者が特別多く含まれるという状況では必ずしもない。

たしかに、合法化された手段による死亡者の全体に占める社会的弱者の割合が大きければ、周囲の支援不足で死亡した人の数もそれだけ多くなる可能性があるといえるだろう。したがって、割合が大きいとすれば、そのこと自体は憂慮されてしかるべきである。しかしたとえ割合が大きくないとしても、心配の種が消えてなくなるわけではない。

たとえばいま仮に全人口における障害者の割合が10%の社会で消極的安楽死が合法化されたとしよう。しばらく後に調べたところ、消極的安楽死で死亡した人のうち障害者の割合が10%以下(たとえば5%)だったとしよう。第一に、当然のことだがこれはその5%に当たる人々がすべて周囲の圧力とかかわりなく、いわば真に任意で消極的安楽死を択んだということを意味しない。じつは延命を希望しており、合法化さえなければ死を択ばずに済んだはずの障害者も相当数含まれる可能性がある。このことがまずそれ自体で憂慮に値する。

また第二に、割合は、障害者以外で消極的安楽死を択ぶ人々の数が大きければ、それだけ小さくなる。これらの人々がどのような理由でそうするか確かなことは不明だが、疼痛の他でも、たとえば体力や能力の衰えを特別強く否定的に捉える感覚、死にかたをコントロールしたいという強い意欲、あるいは育った環境の中にそういった感覚や意欲を強める要素があったことなど、多くの理由が考えうる。何かこうした理由で選択される消極的安楽死が、障害者にたいして周囲から圧力がかかることと比較してもなおより頻繁だとしたらどうか。この場合、圧力のもとで死んだ障害者の数が少ないということは全くいえない。つまりやはり割合はそれ自体あまり重要でないのである。

結語

終末期の患者はそれだけでも延命のためにたいてい周囲の大きなサポートを必要とする。とくに患者が重度機能障害を有していたり、低所得だったりすれば、十分な支援の得られる可能性は低くなるだろう。これはたんにそうした患者が他より多く支援を必要としうるから、ということに加えて、そうした患者が少しでも長く生きることについて周囲が差別的偏見をもっていて価値を見いだしにくいためでもありえる。延命措置の中止と差し控えを合法化することは、そのような患者が延命したくても諦めざるを得ない状況を作ることを後押しする危険がある。

合法化を検討するのであれば、これらの懸念があることは留意しておかなければならない。一方では、合法化のそもそもの前提に、重度機能障害者の延命の意義を否定する差別的偏見があるのではないかという疑義が提出されてきた。差別的偏見を前提とするものではないのであれば、そのことが分かるよう、法律の規定は対象をできるだけ正確に限定するものとする必要がある。

また他方で、どれだけ慎重に要件を定めても、規定のあいまいさをかんぜんに排除することは不可能だろう。とくに周囲の大きい支援を必要とする患者が延命を拒否する様子が「任意」であるかどうかの臨床判断は、「これだけ支援しても死にたいというのだからしかたがない」、「こんな状態になったら死にたいというのも当然だろう」といった類の判断を要するものであり、ここに改めて判断する個人のがわの差別的偏見が影響しうる。結果として、患者が十分な支援を得られなかったり、延命しないほうがよいと思われていることのために圧力を感じたりする可能性が生じる。

合法化するかどうかの判断は、メリットだけでなく、こうしたデメリットにも十分に留意して行う必要がある。以上のような危惧のあることを人々が広く理解し、対策しうる部分について議論するべきだろう。少なくともそうした理解や議論なしに合法化するべきとは思われない。

プロフィール

有馬斉倫理学

横浜市立大学 国際教養学部准教授。1978年生まれ。国際基督教大学教養学部卒。米国ニューヨーク州立大学でPhD(哲学)を取得。東京大学生命医療倫理教育研究センター特任助教等を経て、2012年より現職。また、現在、横浜労災病院倫理委員会、慶應義塾大学医学部倫理委員会で外部委員。専門は倫理学、生命倫理。日本生命倫理学会若手論文奨励賞、日本倫理学会和辻賞を受賞。近著に『死ぬ権利はあるか―安楽死、尊厳死、自殺幇助の是非と命の価値』(春風社、2019年)。

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