2015.01.30
「賢い有権者」だけで政治はよくなるのか?
有権者が合理的に政策を選択するだけで、政治は本当によくなるのか? 合理性に基づいた従来の政治学では捉えきれない政治と人びとの関係を、感情をキーワードに探っていく『感情の政治学』(講談社)。賢い有権者を前提とした「マニフェスト政治」の限界を説き、いま政治に必要なのは共感する有権者ではないかと語る著者・吉田徹氏に、インタビューを行った。(聞き手・構成/金子昂)
「賢い有権者」ではない政治のあり方
―― 本書は、これまでの合理性に基づいた政治学の限界を説き、選挙やデモなど、さまざまな「政治」の場で、感情がどのような役割を持っているのか、そしてその可能性を述べた刺激的な一冊となっています。そもそもなぜ本書で取り上げているような感情や信頼、共同体に注目して、政治を取りあげようと考えられたのでしょうか?
理由はいろいろです。まずポスト55年体制に入って、政治にお任せをする有権者ではなく、賢い有権者になろうというかたちで政治像が捉えなおされてきた状況があります。「あるべき民主主義とは、政治家や政党に白紙委任するのではなくて有権者が自ら主体的に政策を選択して作るべきものだ」――そんな「べき論」から始まって、そこからいわゆる「マニフェスト政治」もでてきた。あらかじめお約束を記したメニューを提示して、賢い有権者は、自主的にそれらを選択する。政党間の競争を激しくして、政権交代していこう、という政治が作り上げられていったわけです。そのまま、有権者が合理性を発揮すれば、政治はよくなる、という何の根拠もない神話が語られはじめた。
それ自体が間違っているというつもりはありません。でも、本で説明したように、政策に基づく政党政治が成り立つためには、実際にはさまざまな前提条件を満たさなくてはならない政治学上のモデルに過ぎません。とうぜん現実はモデル通りにはなりませんから、結局、政治に対する失望感を高めることにしかなりませんでした。
2009年に民主党が与党になったときは、民主党が支持されたというよりは、小泉を支持していた無党派層が民主党に流れただけだった。あるいは2012年も民主党支持者が離反したというよりは、強い失望を覚えた有権者が民主党の手元からスッとぬけおちて、その結果、安倍・自民がひとり勝ちしたという構図でした。
―― 競争は激しくなった。そして政権交代が実際に起きてはいる。
ええ、だからといって政治への満足度は高まったわけではない、という現実を重く受け止めないといけない。2012年に民主党が下野したのも、人びとの期待値を高めておきながらそれを裏切って信頼を完全に失ったからです。他方で、今では憎悪や怨念、執着が、澱が溜まるように社会に満ち満ちてきている時にあります。それらは、ヘイトスピーチの問題であったり、脱原発デモであったり、つまり選挙とは違った、街頭の民主主義が徐々に盛り上がっていることにみてとれます。実際、NHK放送文化研究所の意識調査をみると、70年代以降にはじめて投票以外の政治参加が大事だと考える人が少し増えているんですよね。
本の中ではもっと色々な理論やモデル、政治思想の話までを動員して説明をしていますが、既存の、公式的な「政治」に回収されないものが生まれてきているような現状をどのように捉えたらいいのか、いままで語られてきた、合理性に基づく政治とは違う、政治と人びととの関係がどう再解釈できるのか、それがこの本を書いたベースにあります。
だからこの本は、政治を駆動させている様々な感情や非合理を捉えて上でいかに新しい政治の形をイメージできるかについての問題提起でもあるんです。
政治とは実践である
―― 吉田さんは、いまの政治や民主主義をどのように評価しているのでしょうか?
よく「どういう民主主義がいいと思いますか?」と聞かれますが、民主主義が優れた政治制度なのは、なにが正しいのかが常に空欄になっているからだとぼくは思う。これは、クロード・ルフォールという政治哲学者の物言いですが、民主主義というのは空虚な中心しか持ちえない。その中心は常に空欄でしかなく、そこを埋める権力も暫定的なものでしかない。だから、何が正しくてなにが間違っているのかはペンディングにしておきましょう、そのこと自体を大事にしましょう、というシステムです。空欄としての民主主義こそ、民主主義の核心なんです。こうした立場からすれば、政治学者としてぼくにできるのは、いまの民主主義が正しいか間違っているかを判断することではなく、状況を診断することでしかありません。
今日ここに来るまでにマンハイムの『イデオロギーとユートピア』を読み返していました。マンハイムを読み返しながら改めて思ったのですが、ぼくは結局マンハイムがやろうとしていたことをなぞっているに過ぎないのかも、と思い当りました。差し出がましいかもしれないですけど(笑)。
マンハイムは『イデオロギーとユートピア』で大概こういう風にいっているんです。「人間が絶対的な価値を持ち得ない現代では、手段と目的の連関しか精査できない。だからなぜその目的に対してその手段が用いられなければならないのか、究極的に答えることはできない」、と。簡単にいうと、マンハイムは現代社会ではポジション・トークしか成り立たない、といっているんです。もちろんそれを相対化する方法はあるのですが、そうした意味で政治とは常に流動的なもの、言い換えると実践的(プラクシス)なもの足らざるを得ない、と彼は見切った。僕がこの本でフレーミングしなおしたかった政治像というのも、そういう政治像です。
合理性と感情の両輪
―― では、吉田さんは、いまの政治状況をどのように診断されているのでしょうか?
日本のリベラルは、例えば自民党政治を、地縁でずるずるべったりだとか、前近代的な結びつきで成り立っている政治を「非合理的だ!」と断罪をしてきたわけですよね。あるいは共産党はイデオロギーだし、公明党は宗教だといって、既存の政治と人とのつながりをどんどん排除しようとしてきた。そこで「民主主義とは、合理性に基づき、市民が納得して政治に参加すること」と定義を上書きしていこうとしている。でも、その処方箋ははたして本当に有効なのか。ぼくはそうではないと思うんです。
繰り返しになりますが、マニフェスト政治というのは「政党がメニューを提示するので、それから何を選ぶのかは有権者が主体的に選んでくださいね」ということですよね。でも少なくとも政治はそんな単純に成り立っていない。例えばアベノミクス。専門家ですら論争になっている政策なのに、有権者がしっかりと理解をして選択することなんて無理でしょう。必然的に専門家がブリッジすることや、政策を掲げた政治家が責任をとるといったことが必要になってくる。
簡単にいうと「合理的に自分の利益を計算して、政策を比べて投票先を選ぶような有権者になれば、政治はうまくいく」というのはフィクションに過ぎません。しかも、人間は自分の利益だけを考えて投票するわけではない。地縁や血縁、イデオロギー、慣習、人間関係などの共同体を構成している要素の延長線に政治があって、その上で人ははじめて共同体に関わる営み――公共性と言い換えてもいいかもしれません――が出てくるからです。政治参加という集合行為を合理的な個人の次元だけで論じるのには無理があるんです。
そもそも合理性だけで考えると、投票すること自体が非合理的な行為になってしまう。アメリカの政治学者ダウンズの「合理的投票者のパラドクス」が有名ですが、投票に行くコストと、選挙から得られる利益や選挙が自らの一票で決まる可能性を鑑みると、絶対的にコストの方が大きいんです。しかもいまは世論調査が発達していますから、投票にいかなくても選挙結果は前もってだいたいわかるようになっている。それでもなぜ人びとは選挙に行くのか、その気持ちはどこから出てくるのか。合理性だけでは説明できません。ということは、人びとの政治への参加も、合理性だけに依存するわけにはいかないということになります。だから、政治を考えるときに必要なのは、政策をどう選ぶかではなく、なぜ人は政治に参加したいと思うのか、という風に問題を転換することなのです。
―― 本書で取り上げられていますが、スイスでは、投票コストを下げたらむしろ投票率が下がってしまった事例があるそうですね。
ええ、合理性で説明するなら、投票コストを下げれば、投票率が上がるはずです。日本でも若者の投票率を上げようという意見の中で必ず指摘される方法のひとつです。でも郵便による投票を認め、インターネット投票を認めたスイスのいくつかのカントン(州)では、むしろ投票率が低くなったという事例が多く見られた。しかも、投票コストの高い過疎地域、投票率の高かった地域であればあるほど、です。
これは、郵便やネット投票が可能になって投票の義務から解放されたことで、結果的にコミュニティの中で社会的尊敬が失われて、投票にいく魅力がなくなったのだと考えられています。端的にいうと、社会的な関係が土壌にあって、人は自らの共同体にコミットしようという、内発性が出てくる。このスイスの事例からいえるのは、投票は、たんに票を投じるという行為に留まらない、社会におけるさまざまな関係性が写りこんでいる行為である、ということなんですね。
イーストンというアメリカの社会学者は、民主主義が上手に機能するにはふたつの側面が必要だと説いています。ひとつは民主主義をいかに操舵できるのか、という賢い有権者が担う側面。もうひとつは、自分の共同体に対する愛着があるか。この本でも詳しく説明していますが、前者だけに基づいて、あるいは自分の利益だけを基準とした政治参加は、結果的に民主主義をあらぬ方向にドリフトさせていくことになります。
―― 扇動者が現れて、危うい方向に向かってしまう可能性がある?
どうでしょう、それも考えられるかもしれません。この本では「感情を爆発させれば政治がよくなりますよ」と言っているのではなくて(笑)、民主主義がうまく機能するためには、ただ賢い有権者という理知的な側面だけではなく、パブリックなものに参加するという感情的な側面も含めて考えていかないといけない、という主張をしています。
左翼に必要なものは「シンボル」
政治に参加すること、つまり共同体に関わる営みというのは自分の利益だけからは演繹できません。これは合理的に考えても、理論的に考えてもそうです。
いま日本の社会でとりわけ問題となっているのは、自分の利益を考えて行動すればするほど、つまりパブリックなものからデタッチすればするほど、得な構造になっているということです。このままではパブリックなものがどんどんやせ細っていってしまう。政治の機能のひとつに公共財の提供というのがありますが、そうすると、結局公共財を個人で用意しなければならないから、様々な資本の多寡が個人の有利、不利を決めて行ってします。それは社会という観念の崩壊、社会そのものの崩壊を意味します。
これも本の中で実例として出していますが、1万円のくじを1枚買うのと、100万円で100枚買うのならば、後者の方が当たる確率は高い。ということは、ひとりでくじを買うとしたら、お金持ちがよりお金持ちになる可能性が高い。一方で、100人が1万円ずつ出し合って、100枚のくじを買い、当選した額を分配するという方法もありますよね。ぼくは、政治のあり方としては、あとのほうが正しいと思うし、それを模索するべきだと思うし、政治学が発するべきメッセージだと思うんですよ。感情や共同体を意識した形で政治を分析するツールを発明しなくてはいけないし、そこに網をかけることのできるような政治的な言説を、社会的な価値を大事にする左翼の政治が作っていかないといけないと思っています。
左翼が「サヨク」と語られるようになったいま、左翼はリベラルに吸収されつつあります。保守との対立軸を作るのは、左翼ではなくリベラルの役割になってしまった。では、左翼とリベラルの違いはどこにあるのか。簡単にいえば、左翼と違ってリベラルは個人を世界観の参照点に置いている。それが政治という、どうしても個人の枠を超えて行動しなければならない場面ではむしろ弱点になっている。だからリベラルは訴求力を持たないんですよ。それ以上に、そこから生まれたのが、小泉純一郎による新自由主義ですらありました。前近代を嫌うリベラルの人間は小泉を支持した。共同体ではなく個人化を志向するリベラルは、ネオリベと表裏一体だから、共犯関係が出来上がったんです。
―― では左翼にとって、いま政治に必要なものはなんだとお考えなのでしょうか?
ひとつは新しい政治的シンボルでしょう。
安倍政権が強い理由のひとつはシンボル操作に長けているから。民族とか、国とか、歴史とか、伝統とかね。これは日本人なら誰しもが平等に共有しているシンボルで、これを上手に操作している。戦後長らく、日本では生活の豊かさや消費水準、安定した雇用とそこからくる一戸建てといった物質的なものがシンボルとして共有されていた。ところが、現代ではそれらは当たり前のものとして政治は供給できなくなってしまっている。個人化が進んでいく中で、そうすると人を動員していくわかりやすいシンボルは、勢いナショナルなものにならざるを得ないんです。これは自民党が農村政党から都市型政党への変化、低成長時代への突入とともに利益の分配ではなく、右バネを効かした価値観の分配へと舵を切ったこととも符号しています。
ナショナルなものがシンボルであっていけないというわけではない。日本ほどナショナルなものが否定的な意味合いを付与されている国はむしろレアケースです。憲法九条が未だに強い訴求力を持つのも、それが戦後の豊かさのシンボルでもあるから。問題は、左翼の側が普遍的に共有できるようなシンボルがいまは供給できていないことです。人権や平和、女性解放、安全、保護される権利、環境権……いろいろとあげられるじゃないかという人もいるかもしれないけど、今の日本ではそれらは決して平等に配分されるどころか、経済的な豊かさや出自によってライフチャンスが左右されるようになって、みんなが平等に共有できるようなものになっていない。だからこそ、いまは左翼が供給し、共有されるようなシンボルを新たに作ることが大事になっているんです。
―― シンボルになりうるものはなにがあるとお考えですか?
うーん、日本には歴史的な条件もあって、なかなか難しいんですよね。脱原発とかフェミニズムとか環境問題とか重要なテーマはもちろんあるんだけど、どこまで共有されているかというと心許ない。はたして日本に、左翼の誰もが共有できるシンボルがあるのかというと、ぼくもいまのところこれといったおススメがあるわけではありません。ただね、シンボルって一から作り出されるものではなくて、手元にあるものを再度フィーチャーしていくものですから、これから何があるか、点検していけばいいと思います。
本の最終章でその条件を探っていますが、中でも手がかりになるのはこれからの福祉国家の在り方です。今ではちょっと意外かもしれませんが、福祉国家って80年代まではフーコーの議論もあって、知識人からは批判の対象に過ぎなった。生権力という言葉もそこから生まれてきた。それが社会保障にまつわるリソースが細ってきてしまったことを背景に、福祉国家が守るべきものになっている。日本で不況になると途端にライフチャンスの縮減が起きてしまうのも、雇用と社会保障がリンクしているから。これをいかにユニバーサルなものにしていくのか、というのは有力なシンボルになりうるかもしれません。
問題になるのはこれまで左翼が「大きな政府は駄目だ」って言ってきたことです。敗戦国で、左翼の反国家主義は「大きな政府」への批判につながるから、その経緯は理解できる。ただ、そのせいで左翼の知的・動員リソースは枯渇してしまっている。政治不信の高さも含めて、これは冠たる福祉国家を作ってきた北欧の国々と比べても、日本の負の特徴のひとつですね。
リーダーシップではなく、フォロワーシップを
―― 日本の政治への信頼が低いことは本書でも指摘されています。
不信の前には裏切られるという経験がないといけない。政治不信ではまず政治を信じて、裏切られるという経験が必要なんです。でも日本は政治をそもそも信じていない。
では相手が信じられる存在かどうかをどう判断できるのか。本ではルーマンの議論を借りて、相手の行動を待って判断することを「信用」ではなく、「決断の契機」としての「信頼」が政治にとっては不可欠だと提言しています。
しかも政治不信が高いのであれば、つまり政治が信じられないのであれば、自分たちで政治に参加することで糺していくしかない。でも政治参加の程度も日本は低いんです。2000年の数字ですが、投票以外の、政治集会であったり、政治家に手紙を書くことだったり、テレビ局に文句を言うことであったり、何らかの形で政治参加をした経験があるかを調べた調査では、イギリスがおよそ25%、アメリカがおよそ40%、フランスがおよそ50%だったのに比べて、日本は14%しかなかった。
―― それは先ほどお話になっていた、自分の利益を考えて行動すればするほどパブリックなものからデタッチするほうが得な構造になっているから、ということでしょうか。インセンティブがないなら参加しない、というのは仕方ないことだと思うのですが……。
インセンティブがないことも問題なのかもしれません。でもインセンティブが提供されないということが共同体にコミットしない理由に本当になるのかどうか。コミットしないと、信頼も生まれず、自分の利益も漸減していくという民主主義のシステムを前提とした場合、どう行動したらいいのか、という話なんです。インセンティブだけで共同体が維持できればいいんですけど、民主政というのは共同体の自己決定を前提として機能する共同体であって、構成員はそのメカニズムから抜け出せません。だからコミットしなくては最終的には損してしまう。好むと好まざるに関係なく、民主主義はそういう構造になっている。
大切なのはインセンティブではなく、内発性なんだと思います。パブリックなものに参加したいと思う気持ちです。最近、宮台真司さんが自発性ではなく内発性が大事だと繰り返して強調しています。自発性はインセンティブによって行動する誘引から出てきます。宮台さんは恋愛だとか宗教だとかアジア主義だとか、あるいは沖縄などを持ち出して、内発性がどこから調達されるのか、それがどのように世界を拡張するのかを示唆しています。ぼくは本書で、集合意識やデモ、感情や贈与を持ち出して、自発性ではなく内発性に基づく政治がいかに成り立つか、成り立ちうるのかを書いたつもりです。
―― 政治への信頼感を持つために、あるいは政治に参加したいという内発性を喚起するために、とりわけ左翼にとって必要なのはどんなことでしょうか?
方法として考えられるのはリーダーを作ること。ただ、もともと左翼と強いリーダーというのは政治文化として相性が悪いんです。政治的リーダーを否定するところから始まってしまうから。でもリーダーの肯定は民主主義を否定することとは限らない。グラムシ流の西欧マルクス主義はリーダーを否定しないし、西ドイツのブラント、フランスのミッテラン、イギリスのブレア、好き嫌いはあっても、左派で成功したのは強烈なリーダーがいたからこそ、です。
いま「若者は投票に行こう!」と言っている人がたくさんいますよね。啓蒙するのは悪いことではないけれども、政治に関心を持って投票に行くことだけで世の中がよくなるわけではない。若者の利益を本当に政治で実現したいなら、自分たちのリーダーを作ったほうが近道です。それこそ市議会議員レベルだったら、数百人を動員できれば、当選させることができる。あとはリーダーがスピンアウトしないように、枠を設けていくフォロワーになればいい。リーダーシップというのはリーダーありきではなくて、フォロワーシップによって作り上げられるものなんです。民主党政権にはリーダーシップもなかったけれど、それを作ろうとするフォロワーシップもなかったのが致命的でした。
何にしても政治不信の問題を考える場合、「お前は信頼できない」と言い募るのではなくて、「信頼できないなら、自分はどうするのか」という地点に立ってから考えないといけない。そうでないと、何も変わらないと思いますよ。「政治はショッピングじゃなくて結婚生活のようなもの」という至言をシャットシュナイダーという政治学者が残しています。民主政治は家族のようなもんだと考えてみてください。自分の奥さんとか子供に「お前は信用できない」と非難していても相手は思うようにはならない。セックスしたり、遊んだりして、一緒に行動する中で信頼関係は出来上がっていくものでしょう。
大事なのは賢い有権者で作る政治ではなくて、共感する有権者でもってどういう政治が作れるのかだと思います。政治は仲間作りだという側面を取り入れていくことが重要なんです。そういう意味じゃ、三宅洋平さんの政治運動のあり方なんかは、いろいろ批判があるにせよ、参考にできるところはあるかもしれないですね。
空欄の民主主義に人間の希望が隠されている
―― 最後に、出版後どのような反応があったのか、そして読者にどのように読んで欲しいとお考えかお聞かせください。
沢山映画のエピソードも入れたので、映画評論の話がこないかなあと思っているんですけど来ないですねえ……それはともかく(笑)、これまで非合理性だとか感情だとかを真正面からすえて政治学を論じるものはそれほどありませんでしたから、政治学者の中でも評価はいろいろだろうと思います。政治学はもちろん、哲学や社会学の話も盛り込んでいますから、専門家からみても、脇が甘いかもしれない。
この本は、デモの話もあれば選挙の話もある。歴史的な話もあれば、福祉の話もあると、おもちゃ箱をひっくり返したような本です。ただ総じていえば、とにかく違和感がこもった本だと言えると思うんですよね。政治学者として、いまの政治学に対する違和感があり、あるいは政治学というプリズムからみえる、今の政治の捉え方に対する違和感、そしてそこから成り立っている社会への違和感。そうした違和感が詰まっている。違和感って言語化しにくいものなんですけど、それらを一生懸命引っ張ってきて、問題提起したつもりです。
でも、手前味噌になりますが、大学のゼミで輪読していますという声もあったし、他にも実際の政党の文書に引用されたり、学会のペーパーでも引用されたり、教育、実践、研究の場で参照されているというのは嬉しいですね。違和感が少なからず共有されている、ということでもありますから。
本書には正解は書いてありません。世界をわかりやすく見せるものさしを書いたわけでもない。読み終えて納得できるようなものでもない。むしろ世界がより複雑に見えてしまうかもしれない。ただ、その複雑さが、目にうつる単純に見えるさまざまなものが、いかに複雑なものに成り立っているかを読み取ってもらえたら、と思っています。
政治というのは、正しさというものがつねに揺らぐものです。ある処方箋を出したら、それへの反対を必ず伴う。正解そのものが問題を生み出すという、どうしようもない行為なんです。でも、個人的な言い方をすれば、でも、それこそが人間に対する希望だと思うんですね。人間が反省することで、未来を切り開くという可能性が政治には隠されている。それを強調することが、いまの政治学の役割のひとつだと、ぼくは思っています。
プロフィール
吉田徹
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学博士課程修了、博士(学術)。現在、同志社大学政策学部教授。主著として、『居場所なき革命』(みすず書房・2022年)、『くじ引き民主主義』(光文社新書・2021年)、『アフター・リベラル』(講談社現代新書・2020)など。