2015.03.12
なぜアベノミクスで庶民の給料は上がらなかったのか?
アベノミクスはまず失業者に雇用の機会をもたらした
今はまだ、一般庶民の名目賃金が顕著に増加し始めるところまでは景気の波及効果が及んでおらず、多くの人がアベノミクスの景気回復効果を実感できていないのは確かであろう。しかし、「アベノミクスで喜んでいるのはお金持ちだけ」「アベノミクスは意味がなかった」というのは明確な誤りである。
アベノミクスによる金融緩和は、投資家の利益を増やす一方、景気回復効果を通して、デフレ時代に最も苦しい思いをしていた経済的弱者である失業者に、雇用の機会をもたらしているからである。
完全失業者数の推移をグラフ化した上の図21を見てほしい。アベノミクス以前で最も失業者数が多かったのは、2011年1月の319万人だった。そして、アベノミクスが始まった2012年11月以降、日本の失業者数は如実に減り続けているのである。
具体的には、最も失業者数が減ったのは2014年5月であるが、この時、日本の失業者数は、233万人にまで減っていたのである。これはすなわち、苦しんでいた86万人もの失業者が、仕事に就くことができたということである。また、民主党政権時代だった2012年7〜9月期と、第2次安倍政権発足後の2014年7〜9月期を比べると、役員を除く雇用者全体の数は、101万人も増えているのである。
賃金上昇のカギは「完全失業率の低下」
デフレに陥った1997年以降、日本人の平均給料は傾向として下がり続けてきた。そのため、アベノミクスの初期の頃、多くのマスコミや識者が、「アベノミクスで物価は上がったが、給料は上がっていないから、庶民の暮らしは苦しくなっている」と批判していた。みなさんも「アベノミクス効果で、今後は給料が安定的に上がり続ける」と言われても、(二十数年下がり続けてきたわけだから)なかなか信じられないだろう。
だがアベノミクスが成功すれば、日本人の給料はいずれ継続的に上がり始めるだろう。しかも、いつ、どのタイミングで給料が上がり始めるのかは、ある程度予測することができるのだ。
日本人の給料(の平均)がいつから上がり始めるかを知るために、上の図22を見てほしい。これは縦軸に日本の賃金(名目賃金上昇率)、横軸に日本の雇用環境(完全失業率)をとり、その関係をグラフ化したものである。
この図から多くの人が懸念している「日本人の給料(名目賃金)」は、「完全失業率が約4%(厳密には3.8%)を持続的に下回るようになった段階で“徐々に”上昇に転じる」ことがわかる。言い換えると日本の場合、雇用環境が改善していても、完全失業率が継続的に約4%を下回らなければ、給料(名目賃金)は上昇しないということである。そして、完全失業率がいったん約4%を下回ると、その後は完全失業率が低下するにしたがって、賃金の上昇率がだんだんと(ただし図からわかるように、本当に少しずつ)高まっていくのは、経験的事実である。
このように日本の名目賃金の上昇率と完全失業率との関係を見れば、完全失業率が3.5%前後で推移している現状(2014年12月現在)は、給料がようやく上がり始める4%の壁を少し超えただけなので、給料の上昇幅はまだわずかで、賃上げが実感できないのは当然のことなのだ。しかしながら他の雇用関連指標(有効求人倍率、新規求人数、所定外労働時間など)も改善し続けているため、間もなく、完全失業率が低下していくに従い、多くの人の給料が上昇過程に入ることは目に見えている。今はまだ我慢の時である。
給料の上昇が失業率の改善に遅れて生じる理由は、経営者の立場を想像してみればよくわかるだろう。経営者にとって、従業員の給料は、できれば最後に上げたいものだからだ。
たとえば業績の回復に伴って、経営者が従業員の給料を上げたとしよう。しかし、再度業績が悪化した場合、経営者は従業員の給料を安易に下げることはできない。なぜなら賃下げは、その額以上に従業員のモチベーションを下げ、ひいては離職をもたらしかねないからだ。だから景気回復の初期段階で、企業が業績の回復に伴って生産の拡大を図る場合、その手段は既存の社員の給料を上げることではなく、まずは従業員に残業を求めることであろう。そして従業員が残業しても、とても間に合わないくらいに忙しくなって(業績がよくなって)はじめて、「新規雇用を増やす」場合が多いのである。
実際、経営者が自社の生産を増やす場合、従来の(すでに雇用している)従業員の賃金を上げたところで、飛躍的に生産量を増やせるわけではない。しかし、(非正規であっても)新規に従業員を増やせば、(それだけ労働力が増えることになるわけだから)如実に自社製品やサービスの生産量・供給量が増えることになる。つまり、自社製品やサービスの供給量を単純に増やそうとする時、従業員の賃金を上げるよりも、新規採用を増やすほうが投資効率がよくなるのだ。
アベノミクスの発動以降、確かに景気が回復しながらも、庶民の給料はさほど上がっていないようなイメージが強いが、企業はようやく将来の業績について自信を取り戻しつつあり、そのため新規雇用を徐々に増やし始めた段階なのだ。したがって、このまま増税などの“邪魔”が入らなければ、次はいよいよ給料が上がる段階に入っていたと考えられる(その意味で2014年4月の消費税率の引き上げは、国民がアベノミクスの恩恵による賃上げを実感するせっかくのチャンスを摘んでしまったのかもしれない)。
そして、労働市場が本当に逼迫(ひっぱく)してくれば、企業も賃金を上げないと、必要な労働者を雇えなくなる。それが市場メカニズムを通じた自然な賃上げである。首相や大臣が経済界に賃上げの要請をして無理に上げるより効果があり、実際に必要なのは自然な賃上げのほうである。
ここまでをまとめると、次のようになる。
1.企業が新規雇用を増やすことで生産を拡大させたあと、さらに景気が回復すると、新たに雇える人の数(=失業者の数)がどんどん減っていく。
2.その過程で人手不足が生じるため、(新規に雇われる)非正規雇用の人たちの賃金が上がる。
3.その後(またはその動きと並行して)、企業がさらに生産量を伸ばすために、他社から人を引き抜くなど従業員の奪い合いが起きる。この場合、企業はより高い給料を提示しなければ、人を引き抜くことはできない。また、非正規社員を正規社員として雇用し直す動きも出始める。
4.新規に雇われる人の初任給が上昇するのと並行し、企業の業績も上がり続ける。かつ、他社に人を引き抜かれないようにするためにも、既存の従業員の給料も上がり始める。
給料はすでに上がり始めている
また実際に、庶民の給料が上がり始めていることは上の図23からわかる。賃金の統計として一般的に用いられる「毎月勤労統計」で給料を見ると、2013年半ば頃から給料は上がり始めているが、上昇は極めて緩やかで、これに多くの人は不満を持っているようだ。
だが、「GDP統計」のなかの「雇用者報酬(名目)」を見ると、賃金は「毎月勤労統計」よりも大きく増加しており、しかも安倍政権成立直後から、両者の差が拡大し続けていることがわかる。
私は、日本全体の賃金動向を見る際には、「毎月勤労統計」よりも「GDP統計」のなかの「雇用者報酬」のほうがよいと考えている。その理由は、「毎月勤労統計」はすでに雇用されている雇用者(正規も非正規も含まれる)の1人当たりの賃金(月給)の動きであるが、「雇用者報酬」は支払われた給料総額を示したものだからだ。
つまり、「毎月勤労統計」はあくまでも、すでに企業から雇用されていた人の1人当たりの賃金の動きを示したものであり、そこには雇用が増えたかどうか(新たに雇い入れた人数)は反映されていない。一方、「雇用者報酬」は、その時期に働いていた人がもらった給料の総額である。すなわち「毎月勤労統計」が1人当たり賃金の動きであるのに対し、「雇用者報酬」は「雇用者数×1人当たりの賃金」であらわされる。
このことから、「毎月勤労統計」と「GDP統計」の「雇用者報酬」に差が生じているのは、「雇用者報酬」には「毎月勤労統計」に反映されていない雇用者数の増加(失業者の減少)が反映されているからだということがわかる。どちらがより正確に、日本人全体の給料(名目賃金)の動きをとらえているかといえば、これまでの理由から「雇用者報酬」のほうであると考える。
これらが理解できると、2014年12月の衆議院総選挙の時に、野党がアベノミクスを批判する根拠として主張していた「アベノミクスの発動以降、非正規雇用は増えたものの、正規雇用は減っているため、アベノミクスは格差を拡大させている」という話のおかしさもわかるだろう。
アベノミクスは金持ち優遇ではない
「アベノミクスは株高を通して金持ちを潤わせるだけで、庶民を潤す効果はない」などと言う識者がいる。確かにアベノミクスは、株高を通して資産家を潤わせているが、同時に経済的弱者である失業者たちが新規に雇用されるという波及効果を持っている。アベノミクスはそういう意味で、資産家と経済的弱者の両方に恩恵がもたらされることで、中間にいる一般庶民にも、その効果が上下から及ぶ政策である。
「アベノミクスの効果は、我々庶民にまでは回ってこない」などと多くのメディアが吹聴するため、不安に思うのも無理はないが、心配する必要はない。このまま適切な経済政策が続けられ、完全失業率の低下が順調に続けば、徐々に一般の人の給料が増え始めることは間違いない。「非正規雇用者」の一部もやがて正社員として登用され始める時が訪れるのは、データからも明らかである。
アベノミクスの効果は、株高や円安をもたらしたと同時に、経済的に最も弱い人たちを失業から救い出すところから始まっている。そして、雇用できる人を雇用しつくし、「これ以上、雇用を増やすことによって生産を増加させることはできない」というところまで行きついた(完全雇用が達成された)その時こそ、給料(名目賃金)が増加し始める形で、一般庶民も実感できる本格的な景気回復が始まるのである。
■本論考は、『世界が日本経済をうらやむ日』(浜田宏一・安達誠司著、幻冬舎)の第5章「なぜこれほど金融緩和が効くのか」からの抜粋です(一部省略あり)。
アベノミクスにより、株価は約2倍、円安にもなり、景気は回復しつつある。とはいえ、いまだに「賃金が上がっていない」「生活はよくなっていない」など、アベノミクスに懐疑的な人もいる。そこで本書では、イェール大学名誉教授、兼、内閣官房参与である著者が、「経済の真実」について、経済が苦手な人にでも理解できるよう、わかりやすく伝授。
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プロフィール
浜田宏一
1936年東京都生まれ。内閣官房参与。イェール大学名誉教授。経済学博士。1954年東京大学法学部に入学、1957年司法試験第二次試験合格。1958年東京大学経済学部に入学。1965年経済学博士取得(イェール大学)。1969年東京大学経済学部助教授。1981年東京大学経済学部教授。1986年イェール大学経済学部教授。2001年からは内閣府経済社会総合研究所長を務める。法と経済学会の初代会長。著書には、『世界が日本経済をうらやむ日』(共著、幻冬舎)、ベストセラーになった『アメリカは日本経済の復活を知っている』『アベノミクスとTPPが創る日本』(講談社)など多数。
安達誠司
1965年生まれ。エコノミスト。東京大学経済学部卒業。大和総研経済調査部、富士投信投資顧問、クレディ・スイスファーストボストン証券会社経済調査部、ドイツ証券経済調査部シニアエコノミストを経て、丸三証券経済調査部長。著書に『世界が日本経済をうらやむ日』(共著、幻冬舎)、『昭和恐慌の研究』(共著、東洋経済新報社、2004年日経・経済図書文化賞受賞)、『脱デフレの歴史分析――「政策レジーム」転換でたどる近代日本』(藤原書店、2006年河上肇章受賞)、『恐慌脱出――危機克服は歴史に学べ』(東洋経済新報社、2009年政策分析ネットワーク章受賞)、『円高の正体』(光文社新書)、『ユーロの正体――通貨がわかれば、世界がみえる』(幻冬舎新書)などがある。