2015.08.27

逃げることさえ許されなかった――ハンセン病患者の沖縄戦

吉川由紀 沖縄国際大学非常勤講師

社会 #沖縄戦#ハンセン病

はじめに

敗戦から70年を経た今日、沖縄戦のみならず戦争体験の継承は体験者の減少とともに難しい局面を迎えつつあります。

私たち非体験世代は、体験がないからこそ、体験者が遺して下さる言葉や資料を頼りに、それぞれの視点で戦争の教訓を見出し、今日化し、何をどのように継承するのか模索し続ける必要があります。

今回ご紹介する「ハンセン病患者の沖縄戦」は、沖縄戦記録の中でもあまり知られていません。しかし、圧倒的少数者であったハンセン病患者の沖縄戦を辿るとき、戦時体制が弱者の上にどのように構築され、どのように切り捨てられ殺されていくのか、凝縮された戦場の実態を見ることになります。また、ハンセン病をめぐる差別や偏見の歴史から、市民の加害責任を問われることにもなります。

戦争を単純化せず、戦争への想像力をはぐくむためにも、個別具体的な被害や加害の事象を地道に積み上げていかねばなりません。ハンセン病患者たちの沖縄戦被害を知ることは、その一助となるはずです。

ハンセン病を生き、沖縄戦を生き抜いた体験者の証言に、耳を傾けてください。

ハンセン病は「国辱病」

「隣近所から、『お前は国のために兵隊もできなかった。役立たずだ』と言って笑われて、とても苦しかったよ」

(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年 銘刈**さん(男性)証言)

ハンセン病は、らい菌によって末梢神経と皮膚が侵される病気で、戦前はらい病と呼ばれていました。らい菌は病原性がきわめて弱いために、感染しても抵抗力があれば菌との共生状態が続き、発症しません。何らかの原因で発症すると運動麻痺や知覚麻痺を起こし、特効薬のない時代は患者の身体に重い障害をもたらすことがありました。

日本はハンセン病患者の存在を国の恥ととらえ、患者を隔離する方針をとりました。1907年の法律「らい予防に関する件」に始まり、1931年にはそれを「癩予防法」と改めて、全ての患者を死ぬまで療養所に閉じ込める政策を推進したのです。

1938年に設置された厚生省(現在の厚生労働省)は、戦争遂行のために「健民健兵」政策を実施し、強い兵隊の確保に力を入れる一方で、ハンセン病と近視と花柳病(性感染症)を「三大国辱病」とし、これを「撲滅」するために多額の予算をつけ積極的に活動しました。

警戒されるハンセン病患者――沖縄戦前年

「昭和19年、あのときは兵隊さんが激しくなってね、友軍の兵隊が『兵隊のおるところに病者は置けない』と言った。『愛楽園まで行きなさい。急ぎなさい』されてね。怖かったよ、日本の兵隊よ。兵隊の靴の音聞いたらね、すぐ隠れた」

(前掲書、渡口忠榮さん(男性)証言)

1944年3月、沖縄に第32軍が創設されると、約10万人の将兵が続々と沖縄入りしました。兵舎不足を補うために、日本軍が地域の学校や公民館のほか民家までも接収して利用したため、将兵と住民が地域に混在するようになります。そのような中で、軍は在宅のハンセン病患者を警戒しはじめたのです。

当時の沖縄はハンセン病患者が多く、県内2か所の療養所(名護市の沖縄愛楽園(当時は国頭愛楽園)と宮古島市の宮古南静園(当時は宮古保養院))は常に定員オーバーの状態でした。そのため、沖縄本島では、600人を超える在宅患者が裏座や離れ、家畜小屋の屋根裏などで暮らしていました。軍はそれを知っていて、民間人との接触が増えた将兵にハンセン病がうつるのを恐れたのです。

一方、この年の7月になると沖縄県民の疎開事業が始まります。サイパン戦の教訓から、民間人が戦闘の邪魔になると判断した軍の要請を受けて、政府が沖縄・鹿児島両県知事に一般住民の疎開を指示したのです。当時の沖縄県の文書「県外転出実施要綱」には、疎開を認める範囲として「60歳以上15歳未満の者、婦女病者」があげられています。

しかし、ハンセン病患者はこの「病者」に数えられませんでした。疎開どころか、武力をちらつかせる将兵によって隔離施設に閉じ込められ、病気療養ではなく労働に就くことを強いられます。家族との戦場彷徨さえ許されず、飢えとマラリアに苦しみ、誰にもみとられず死に追いやられていくのです。

ハンセン病患者を警戒する日本軍の様子は、当時の陣中日誌や戦後の回想記などに記されています。読谷村では患者の家に赤い旗をたてて将兵が接近することを厳禁し、今帰仁村では軍が毎月患者数を調査・把握し、本島南部の村では駐屯部隊が「癩患者分布地図」を作りました。

地域の患者は軍によってその存在をあぶり出されていきます。第24師団の兵士は戦後、「一番先にぶつかった“敵”は、米軍ではなくて、沖縄のレプラ患者だった」(「北海タイムス」1964年5月3日)と語ったのです。

日本軍による患者の大収容と強制労働

「一番きついのはね、トラックに乗せられて地方を回るだろ、すると顔も知らん人たちが、何か恐ろしいものを見るようにトラックの周りに集まってきてね、鼻を押さえて。あれはきつかったな。こうしてまで生きていいかねと思うぐらいきつかったよ」

(前掲書、大城**さん(男性)証言)

1944年6月から8月にかけて、愛楽園には軍の要人が次々と訪れました。第32軍の初代司令官渡辺正夫や同陸軍病院長の広池文吉、9月の大収容で指揮をとる第9師団の軍医日戸修一も3度来園しています。

日戸はこのとき、ハンセン病患者が愛楽園に収容されることはつまり「祖国浄化の戦士」になることなのだと語り、入所者を持ち上げました。ハンセン病患者が当時「国のために生きる」とは、療養所に隔離されそこで死んでいくことしかなかったのです。

軍による患者の強制収容は、1944年5月の読谷村が最初といわれており、7月には伊江島でも行われました。これらの地域はいずれも、県内で先行して日本軍の飛行建設が始まっていた所です。

最も大規模な収容は1944年9月、中心となった軍医日戸修一の名を冠して「日戸収容」とか「軍収容」と呼ばれています。当時の陣中日誌には、第24師団の輜重隊が複数回にわたりトラックと将兵を患者の収容に動員したことや、今帰仁村で軍が村役場と協働して収容にあたったことが記録されています。

日本軍の大収容(早田皓「戦時と敗戦直後の沖縄のらい」1973年)
日本軍の大収容(早田皓「戦時と敗戦直後の沖縄のらい」1973年)

このとき12歳で収容されたYさん(女性)は、朝、突然やってきた巡査や軍医に、近所の人たちの目の前を軍のトラックまで歩かされました。畑仕事の最中、野良着のまま収容された者、日本兵に銃を向けられ「逃げたら撃つよ」と脅された人もいました。

それまでは深夜、人目をしのんで行われてきた患者収容が、白昼、軍によって人前に晒されることになったのです。こうして定員450人の愛楽園に913人もの患者が隔離されました。

このとき、軍に協力したのが愛楽園第2代園長の早田皓でした。早田は第32軍創設と同じ時期に宮城県のハンセン病療養所東北新生園から沖縄に赴任すると「本島だけでも無らいの島をつくってみたい」と意気揚々と患者隔離に臨んだのです。

早田は、入所者に「働かざる者食うべからず」の号令をかけます。食糧増産のほか、園内の小高い丘の下にいくつもの横穴防空壕を掘らせました。この丘には、化石化した数万年前の貝殻が堆積しており、地表に露出した貝殻は刃物のように患者の体を傷つけました。末梢神経が麻痺した患者にとって壕掘りは過酷な作業です。受傷に気づくのが遅れ、傷口が化膿して骨まで傷めたために、指や手足を早田によって切断される者もいました。

国からの予算措置もないままに入所者が倍増した愛楽園は、結果、一人当たりの配給食糧が半減され、入所者は慢性的な栄養失調状態に陥りました。

しかし壕掘り作業に出ると、少量ですがイモやお粥が配給されたため、それを目当てに無理をして24時間体制の作業に従事したのです。病気を理由に収容されたにもかかわらず、「療養所」で待っていたのは最低限生きていくための労働でした。

次々と死んでいく入所者

「泉川ハル子っていたのよ、二十歳ぐらいだったかな。壕の中で友達になった。この子はもう下痢がひどかったよ。着物敷いてそのままだった。『ハル子、元気だよ、やがて戦争も終わるよ』と言っていたけど、このまま死んでいるさ」

(前掲書、吉田順子さん(女性)証言)

日戸収容からひと月も経たない1944年10月10日、最初の空襲が愛楽園を襲いました。米軍機による南西諸島一帯の無差別爆撃で、沖縄では十・十空襲と呼ばれています。

飛行場や港湾など日本軍関連施設が集中砲火を浴びましたが、療養所であることを示す標識もない園は、米軍に「Barracks(兵舎)」と認識され(米軍作成の戦略地図より)、7時間余にわたって空襲されました。

園内の72棟の建物のうち、治療室や寮舎など44棟が全半壊し、壊滅状態となりました。増加した入所者のために中綿を抜こうと集めてあった布団類も焼け、備蓄していた米もほとんどが灰になりました。

初めて体験した猛爆撃。家族の安否が気になる入所者たちは、密かに園を抜け出して故郷へ向かいました。しかし軍や警察はいたる所で目を光らせています。患者を発見次第すぐに園へと連れ戻しました。

地元に帰ってきた患者の名簿を作成し、住民と協力して再収容にあたった部隊もありました。家族を心配して帰宅した息子に、日本兵や隣近所の目を気にして「早く園に帰ってちょうだい」と言った母親もいます。

1945年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍は南北に分かれて島を制圧していきます。愛楽園には4月21日に米軍が進攻し、園は占領され終戦を迎えました。それまでに計8回の空襲がありましたが、入所者は自ら掘った防空壕に避難できたため被弾死は一人に留まりました。

しかし不衛生な壕生活や栄養失調状態が長く続いたため、次々と入所者が死亡します。本病を悪化させ死んでいく者、アメーバ赤痢やマラリアにかかり衰弱死する者、食糧不足からくる餓死や中毒死。入所者自治会の調査によると、愛楽園では1944年10月から終戦翌年の1946年末までに315人が死亡しています。

その多くは前年の軍収容で入所した人々で、壕の壁にもたれて座ったまま死んでいても、名前さえ知らない病友だったといいます。

写真2
愛楽園内に残る防空壕。園長の名をとって「早田壕」と呼ばれている(2015年1月沖縄愛楽園自治会撮影)

入所者の証言に次のようなものがあります。

「(園長が言うには)ぼくは救ライに大きな功績を残した、なぜかというと、救ライということはライを撲滅させることだから、患者を一人でも多く殺すことは救ライにつながっているんだと。(中略)ぼくは任期中に百何名か殺したと。だからこれが戦後、金鵄勲章もんだといってですね、いばるんですよね。それを聞いた時には、われわれには人権はないのか、ということですよね」

「ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ(園長に)進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか、だからあんた方はこれで耐えておけと。爆弾をたくさん落とさせておけば、それで儲けものだと、それだけ軍隊のほうに落ちないからいいんじゃないかと」

(『沖縄県史』10巻、1974年)

沖縄戦において、避難民を壕から追い出したり住民の食糧を奪ったり、捕虜になるのを許さず住民を殺害する者がいたりと、日本軍の残虐な行為について言及されることがあります。それは追い詰められ、極限状態に陥った中での行為だったかもしれません。

しかし、ハンセン病患者について考えたとき、軍や政府・園当局は極限状態に陥るずっと前から、患者を守るつもりはなかったし、患者が飢えて死ぬことも構わなかった。自分たちが手をかけずに死んでくれればむしろ幸い、くらいの感覚でいたとしか思えないのです。

入所者たちは、自ら体を傷めて掘った壕の土の上で、湿りきった、カビの生えたムシロの冷たさを背中に負いながら、虫けらのようにひっそりと死んでいきました。

砲弾の下で――「死ねばいい」と言わせる極限

「戦争はひどくなり、もうあっちにもこっちにも逃げ場がなくて、どこにいけばいいのかって半年以上山に隠れていたよ。そのとき、別の場所にいた親戚のおばさんが「Sの上に爆弾が落ちればいい」と言っていたと人づてに聞いて。この病気だから私を憎んでいたらしい。私はこれだけはいつまでも忘れられない。だから戦争中、どこで死んでもいいという気持ちが私はあったわけ、この病気で。」

(Sさん(女性)証言 2006年12月 筆者聞き取り)

日本軍による強制収容を免れた離島の患者たちは、戦火に追われるだけでなく地域住民の剥き出しの差別にも対峙していました。地上戦の恐怖にさらされる極限状態の中で、人々のハンセン病者に向けられた憎悪感情は鋭さを増し、砲爆撃以上の威力で患者を傷つけたのです。Sさんは戦後、自分の病気が原因で息子にも差別が及ぶことを懸念し、病気ではない息子も連れて自ら愛楽園に入所しています。

当時18歳だった山城清子さんは、一緒に山中に避難しようと言う祖母に「私は行かない。死んでもいい」と答えました。「自分が病気しているから人にも嫌われるし、一緒に行こうって言われても行けないさ」と、一人、壕に身を隠したのです。

ときには、迫り来る米軍機に向かって「殺してくれ」と道の真ん中で大の字に寝転がってみたりしましたが、「やっぱり怖くて。近くに落ちていた枝切れを持って『偽装』したんだよ」と笑います。

一方で、沖縄戦被害の甚大さは、却って自分の存在を消すのに好都合だったと振り返る方もいます。自身の病気のために家族みんながいじめられ、学校も仕事も行けず、本土や南洋に逃げた。

「私たちにすればね、戦争があったほうがよかった。(皆、自分のことに精一杯で)なんにも音沙汰がなくなるさね、私のことも。それで終戦後はいじめられないようになって。戦争して負けたんだけど、自分たちの幸せは戦争があった方がいいって」

(『沖縄県ハンセン病証言集 沖縄愛楽園編』2007年、吉田順子さん(女性)証言)

沖縄戦の惨劇を二度と繰り返してはならない、と体験の継承に取り組む者にとってあまりに衝撃的な証言です。しかし、想像を絶する差別社会がそこに確かにありました。「戦争があったほうがいい」と言わせるほどの差別社会を営んでいたのは、まぎれもなく一人一人の市民だった(それは沖縄戦の被害者でもある)ことに、無自覚ではいられません。

幾重にも複雑に交差する被害の諸相と、また別の角度から見えてくる加害の実態を、単純化せずに伝える努力が私たちには求められます。

おわりに

最近、「THINK NOW ハンセン病」というプロジェクトに寄せられたマツコ・デラックスさんの言葉にはっとさせられました。

「もし、本当の意味でハンセン病への差別や偏見がなくなったら、この先本当に、差別や偏見をゼロにするきっかけになるんじゃないかと思っています。(中略)いまネットを開けば、本当は胸に秘めていなければいけない人に対する憎悪を、簡単に書きこめて世の中に見せることができてしまうことができる状況がある。これからそれが助長していくと、ますます差別や偏見が生まれやすい状況ができてしまう気がしていて。そんな中で今一度、ハンセン病について振り返る・知るという行為が、何か、光明になるんじゃないかっていう思いがしています。」

(マツコ・デラックス「THINK NOW ハンセン病Part2」

「ハンセン病問題を学ぶ」のではなく、ハンセン病問題に普遍性を見出し、日々の暮らしにどう活かしていけるのか。自分と社会と歴史とが常につながっていることを意識しながら、私たちが五感を研ぎ澄ませて想像しなければならない過去とはなにか。単純ではない今の社会のありようを思いながら、だからこそ、彼女の言葉に多くの可能性を感じます。

翻って、ハンセン病患者が辿らされた沖縄戦の実相を、私たちはどう受け止めることができるでしょうか。

今回紹介した多くの入所者証言は、「なぜ今さら、思い出したくもないことを語らせるのか。語っても差別はなくならんよ」と証言を拒む方たちに、「みなさんの語りがきっと社会を動かす。どうか記録させてください」と説得し、血を流すような思いで語っていただいたものばかりです。あとは、それを受け取る私たちの感性と責任にかかっています。

今年6月、沖縄県名護市にある国立療養所沖縄愛楽園に「交流会館」が開館しました。沖縄のハンセン病問題をめぐる資料・証言にぜひ一度ふれていただき、何か心がざわざわしたらきっとそこがスタートだと思います。

交流会館のすぐそばには、美しい屋我地島の海も広がっています。同じ景色を何百人何千人の入所者が見つめ、生きて、死んでいったか、思い描いてみて下さい。この土地に刻まれた歴史を、多くの方々と共有していきたいと、強く願っています。

※ 沖縄愛楽園自治会ホームページ

プロフィール

吉川由紀沖縄国際大学非常勤講師

沖縄愛楽園交流会館企画運営委員。1970年生まれ、長野県飯田市出身。98年から沖縄在住。戦争体験の聴き取りや戦争遺跡・戦時撃沈船舶・ハンセン病問題の調査・研究に携わる。論文・コラム等:「沖縄県民の疎開と対馬丸撃沈事件」(『季刊・戦争責任研究』60号、2008年)
「ハンセン病患者の沖縄戦」(屋嘉比収編『沖縄・問いを立てる4 友軍とガマ』2008年)
「軍隊とハンセン病患者たち」(『地域のなかの軍隊6 大陸・南方膨張の拠点 九州・沖縄』2014年)ほか

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