2010.08.19

8月17日付の朝刊各紙には奈良先端科学技術大学院大・中島欽一教授らの記事が掲載された。その内容は、人為的に脊髄に損傷を与えたマウスに、神経幹細胞(神経細胞をつくるもととなる細胞)を移植し、てんかんの治療薬として知られる「バルプロ酸ナトリウム」(以下バルプロ酸)を投与することで、運動機能を回復させることができたというものだ。

バルプロ酸ナトリウム投与の効果

脊髄にある神経細胞は、脳と身体各所を結んでおり、いわば糸電話の糸のような役割を果たしている。これが損傷されれば手足が不自由になるし、つなぎ直すことができれば運動機能が回復できる。今回の研究では、バルプロ酸が神経幹細胞の分化を促進し、損傷部位を修復させたということだ。

今回の成果は間違いなく、科学的にも臨床的にも非常に意味のあるものだ。

バルプロ酸ナトリウムなしでは、移植した神経幹細胞が神経細胞へと分化した効率が1%程度にとどまる。投与した場合の20%に比べれば非常に低い。中島教授らはこれまでに、試験管上ではバルプロ酸ナトリウムが神経幹細胞を、ニューロンへと特異的に分化させることを報告しており、今後の臨床応用に十分期待することができるだろう。

脊髄損傷治療の先行研究

しかし、である。今回のマスメディアの報道には違和感をもたざるを得ない。朝日新聞では「神経が損なわれるけがや、脳卒中などの治療法開発につながる成果」、東京新聞では「治療は困難とされてきた脊髄損傷の治療に向け、大きな前進」とある。

では、脊髄損傷治療の先行研究は、いったいどうなっているのだろう。

発表に先行すること約2週間。海外では以下のような記事が出ている。見出しはこうだ。

『Geron given FDA go-ahead for stem cells trial(FDAがGeronの幹細胞治験にゴーサイン』(Financial times, 2010年7月30日)。

Geronというアメリカのバイオベンチャー企業が、幹細胞を用いた臨床治験を出願し、それが認可されたという内容。これはずばり脊髄損傷の治験であり、しかもヒトES細胞を用いたものだったのである。

あれ、その記事は何か見覚えがあるよ、という読者もいらっしゃるかもしれない。

じつはGeron社はすでに2009年1月23日、FDA(アメリカ食品医薬品局)に治験開始を認められたという発表をしており、このときは日本でも大々的に報道がなされた。だが、安全性の懸念から、FDAからものいいがつき、一旦認可された治験が保留になっていた。それが安全性確認試験を追加実施し、安全性の要件を満たしたということで、ふたたび認可されたのだ。今回が正真正銘、そのスタートとなる。

再生医療報道における日本メディアのいびつさ

この治験の開始を日本の新聞はどう伝えたか。

自らの狭い視野によるもので恐縮だが、8月5日に日刊工業新聞のごく小さな記事で登場するまでのあいだ、どの紙面でもみかけることはなかった。

間違いなく人類初の「多能性幹細胞」を用いた臨床治験の開始が、このような扱いであったのは、どういう理由によるものだろうか。Geronのリリースからの数日間、日本国内で発信された再生医療関係の記事が、新聞紙上に登場していたにもかかわらず、である。

「再生医療」とつけばそれなりの紙面を割いている新聞各社が、1度発表された内容なので新規性がないと判断して掲載しなかったとしたら、残念なことだ。しかも、今回は対象となった疾患が脊髄損傷治療であり、すでに国外では治験のステージへと移行したものがあるにもかかわらず、どの媒体でもそれに触れていない。

このいびつさが、筆者に違和感を抱かせるのだ。

翻って、日本で懸命に研究がなされているiPS細胞による再生医療研究にあっては、まだ乗り越えていかなければならない壁は多い。そもそも、ヒトで樹立されてから、まだ3年にも満たない存在なのである。ここまで研究が進展していることこそむしろ驚異的なのであって、生物学的に未知の部分なぞ、数え上げればキリがない。

仮にES細胞での脊損治験成績が良好であり、臨床応用が可能な状況が現出した場合、マスメディアは日本の研究現場や政策立案者に対してどのような視線を向けるのだろうか。再生医療、iPS細胞ともてはやしておきながら、マスメディア自身は海外の研究の現状把握が希薄すぎはしまいか。少なくとも、iPS細胞以外の再生医療領域へと向ける視線が、あまりにもアンバランスではなかろうか。

そんな乖離した意識で再生医療研究をもてはやす現状をみると、いざ海外からES細胞による治療法が輸入される段になって手のひらを返し、政府の無為無策、研究者の怠惰を批判することになるのではないか、と危惧を抱かずにはいられない。官が悪い、学が悪いと礫を投げるだけが、マスメディアの仕事ではないはずだ。

「両論併記」という題目でのマッチポンプ

先日、慶應義塾大学医学部・岡野栄之教授らが計画しているヒトiPS細胞を用いた生殖細胞作成研究が、倫理審査委員会へと付託された件。これについても、科学的な意義の説明はそこそこに、iPS細胞由来の精子・卵子を用いた「生殖医療」への応用の危惧を大きく煽る論調があった。「両論併記」といえば聞こえはよいが、マッチポンプとでもいうべき、マスメディアの無定見さを垣間見せた。

先ごろ改正された『ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針』(ヒト幹細胞指針)の報道についても、iPS細胞の臨床研究に道が開かれたことには言及しているが、ES細胞が相変わらず範疇外とされたことは、あまり大きく扱われなかった。

また、中島教授らの研究ではマウス神経幹細胞を用いているが、この細胞はマウス胎児の神経幹細胞を取り出して使っている。人間であれば、中絶胎児を用いなければ神経幹細胞を得ることは困難だが、ヒト幹細胞指針では中絶胎児由来の幹細胞は対象から除外されているし、今回の記事でもこれらのことに触れてはいない。

今回のような再生医療のアプローチを是として取り上げるのであれば、ヒト幹細胞指針の改定に際しても、批評的・建設的な提言を示すべきだろう。現状では、メディアがどのような社会を是とするのか、そのビジョンがまったくみえない。

バイオテクノロジーに関して筋の通った報道を

付言すれば、「再生医療」はiPS細胞研究のみで成立するアプローチではない。今回の神経幹細胞研究もそうであるが、体内にある種々の組織幹細胞研究にはじまり、材料工学、リハビリテーション工学などの複合的な分野だ。

もちろん、世界的なブレイクスルーを招来したiPS細胞研究を支援する論調は大変重要であり、そのことに異論はない。しかし、再生医療の発展や産業振興の面を考えるとき、さまざまなアプローチを紹介することも重要であるはずだ。研究の新しい断面を示すことで、窮地に立ちつつある日本の製薬産業や、精密部品加工で高い水準をもつ町工場の活用・活躍の間口を広げることに貢献できるのではないか。

インターネットの普及以来、その地位の低下が叫ばれるものの、社会への窓としてのマスメディアの力は依然として重要なものである。記事のなかで、ほんのひとことでも先行研究に触れる、他国の状況などを参照する工夫をするだけで、その科学記事がもつ意味はずいぶん違ったものとなり、読み手に与える印象も違うものとなるだろう。

政治経済については各社各々のポリシーもあることと思うが、バイオテクノロジーに関しても、ぜひ筋の通ったものがみえる報道を望みたい。

推薦図書

東大の「科学技術インタープリタ養成プログラム」の講義録。科学報道のウラをどう読むかといった話から、科学と社会の関わりについてコンパクトにまとまった一冊。

プロフィール

八代嘉美幹細胞生物学 / 科学技術社会論

1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。

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