2015.11.06

ロヒンギャ問題はなぜ解決が難しいのか

根本敬 東南アジア近代史

国際 #ロヒンギャ#ミャンマー

国際社会は現在、日本も含め、ヨーロッパに流入するシリア難民の問題に関心を向けている。しかし、難民はシリアだけの問題ではない。本年(2015年)5月には東南アジアの海域で生じたロヒンギャ難民のボート・ピープルに注目が集まった。この問題は忘れ去られつつあるが、全く解決されていない。なぜ、解決が難しいのだろうか。

1 ロヒンギャ問題とは

(1)難民としてのロヒンギャ

ロヒンギャとは、ビルマ(ミャンマー連邦共和国)のラカイン州北西部に住むイスラム系少数民族のことである。ラカイン州はビルマ西岸部に位置し、その北西部はナーフ河をはさんで隣国バングラデシュと国境を接している。

ロヒンギャは1970年代末と90年代初めの2回にわたり、バングラデシュへ20万人規模の難民となって大量に流出し、そのことで国際的に知られるようになった。バングラデシュ最南部のテクナフからコックスバザール周辺には、現在もロヒンギャの難民キャンプが複数残っている。いまではキャンプ内で生まれ育ち、成人に達した者もかなりの数にのぼる。

ロヒンギャ

1990年代初頭に生じた2回目の大量難民流出後、バングラデシュとビルマ両国政府による国境警備が強化されたため、陸伝いでロヒンギャがバングラデシュ側へ脱出することは困難になった。そのため、彼らは陸上ルートをあきらめ、船でマレーシアやインドネシアを目指す海上ルートを選ぶようになる。

背景にはバングラデシュやインドのほか、タイやマレーシア、インドネシアを根城とする国際人身売買ビジネスの暗躍があった。これら悪質な難民ビジネスは、未来の希望が見えないロヒンギャからなけなしの金を集め、密かに木造船に乗せてタイ南部に向かわせ、上陸後は陸上ルートでマレーシアやインドネシアへ誘導して多大な利益をあげた。

ところが、2015年になってタイ政府による取り締まりが強化されると、組織は動けなくなり、上陸させたロヒンギャ難民が邪魔になったため、彼らを殺したり、森の中に置き去りにするようになった。必然的に海上の人身売買ルートは滞ることになり、同年5月には数千人にのぼるロヒンギャ難民が乗った複数の木造船が、どの国からも受け入れを拒否されたまま海上を漂流する事態が生じ、国際社会を驚かせた。

難民たちの上陸希望先であるタイ、マレーシア、インドネシアの3ケ国は当初、受け入れをかたくなに拒否し、問題は深刻化した。しかし、同年5月29日に17か国とオブザーバー2か国が参加する国際会議が開催されると、マレーシアとインドネシアは一年の時限つきで難民を保護することに同意した。EUや米国、日本も財政支援を約束した。

いうまでもなく、これで一件落着したわけではない。重要な課題はすべて先送りされた状況にあり、2016年5月になれば、再びこの問題は国際社会の重要イシューとなることはほぼ確実だといえる。

この問題については、関係するどの国も責任を負う意思を有していない。シリア難民の受け入れ問題を見ていてもわかるように、難民に「やって来られた」側の苦しい事情は容易に想像できる。しかし、それを考慮しても、ロヒンギャ難民の場合、人身売買組織による難民の大量殺害が起きたタイやマレーシアは、その責任の重さに比して、漂流する難民への対応が冷淡である。

無論、最大の責任を問われるべきはビルマ政府で、その無責任さは突出している。ビルマは前述の国際会議に当初は参加の意思すら示さず、「これは人身売買問題であり、我が国に関係はない」という態度をとった。

無関与では済まされないことを認識すると会議には参加したが、ロヒンギャという名称を参加国に使わせず、あくまでも「海上を漂流している難民はバングラデシュ人(ベンガル人)である」という主張を貫き、自らの責任を最後まで認めることがなかった。

難民側がロヒンギャという「名乗り」を用いているにもかかわらず、ビルマ政府はそれを無視し、彼らに「バングラデシュ人」「ベンガル人」という「名づけ」を強制している。いわば「私は田中です」と名乗っている人に対し、「いえ田中という人は存在しません、あなたは佐藤です」と名前の無理強いをしているようなものだといえよう。

(2)ビルマ側の排除の論理

こうしたビルマ政府のロヒンギャ排除の態度は、1960年代半ばから一貫している。

後述するように、独立後の一時期こそ政府がロヒンギャの存在を認めたこともあるが、その後50年以上はバングラデシュからの「不法移民」という認識を貫き、土着の民族として認めることなく、国籍も付与せず、「(不法移民の)ベンガル人」という呼称を用い続けている。

一方のバングラデシュ政府も、ロヒンギャを自国民とは認めず、ビルマに属する民族集団だと主張する。ロヒンギャはこうして両国から排除され、事実上の無国籍状態にある。

ビルマ政府のロヒンギャ排斥の態度は、単に政府の対応というよりも、国内世論に支えられた深刻な差別だといえる。

国民の反ロヒンギャ感情は三つの部分から成る。ひとつはビルマの土着民と比較して彼らの肌の色が黒く、顔の彫りが深いという人種差別的な感情である。次にビルマ語が上手にしゃべれないことへの言語的差別である。第三にムスリム(イスラム教徒)であること、それもとりわけ保守的なイスラムを信仰する集団であることへの嫌悪感である。これら三つが複合して、彼らを「不法移民」「ベンガル人」であるとみなしているといえる。

ビルマ国内のロヒンギャは現在、ラカイン州北部の町シットウェーにあるゲットーのような隔離空間に、その多くが閉じ込められている。2012年6月にラカイン人仏教徒によるロヒンギャ襲撃事件が発生した際、ロヒンギャの「保護」を名目に、ビルマ政府がそのような措置をとったのである。ロヒンギャが多く住むラカイン州北西部の町ブーディタウンやマウンドー一帯でも、外への移動が厳しく禁じられている。

この状況は2015年11月現在も続いており、ロヒンギャは未来への展望が切り開けないのみならず、栄養不足や不衛生な環境に苦しみ、子供たちは教育を受けられない厳しい現状に置かれている。

彼らはさらに、11月8日に実施される総選挙の有権者名簿への掲載を拒絶され、被選挙権もはく奪された。前年の2014年4月に31年ぶりに実施された全国人口調査(センサス)でも、ロヒンギャはカウント対象から外され、国際社会から批判を受けたが、これまで政府によって黙認されていたロヒンギャの選挙権と被選挙権までもが、今度の総選挙では剥奪されたのである。

2 ロヒンギャの歴史

ところで、ロヒンギャとはどのような民族で、いかなる歴史を有しているのであろうか。資料がきわめて少なく、謎の多い民族ではあるが、ここでは彼らの歴史について可能な範囲で考えてみたい。

(1)ラカインにおけるムスリムの出自

「名乗り」としてのロヒンギャは、文書史料の上では1950年までしか遡ることができない。1799年に、英国東インド会社に所属したスコットランド人医師のフランシス・ブキャナンが、ベンガル地方を経由して当時のビルマ王国(コンバウン朝)を訪問した際に、「ルーインガ(Rooinga)」なる人々がラカイン地方にいたことを書き残している。だが、この「ルーインガ」が現在のロヒンギャと同一の集団かどうかはわからない。

多才な医師だったブキャナンではあるが、専門は医学であり、言語学や民族学ではなかった。彼以外の西洋人が書いた文献に「ルーインガ」は登場しない。判断はなんとも難しいと言わざるを得ない。

海外に散るロヒンギャの知識人たちは、自分達の歴史を8世紀にまで遡って解説している。しかし、7世紀にアラビア半島で成立したイスラム教が、わずか100年ほどで遠いビルマ西海岸にまで伝播したと考えることは非現実的であろう。インドにイスラムが伝播したのですら9世紀のことである。

一方、この地で15世紀前半から18世紀後半まで栄えたアラカン王国(ムラウー朝、1430-1785)では、多数派の仏教徒と共に少数派のムスリムも居住していたことが知られている。

この王国は仏教王朝だったが、初代から11代目までの王は、ベンガル湾でムスリム商人と交易する際にイスラム名を名乗るほど、イスラムやムスリムに寛容だった。当時は南アジアから東南アジアにかけてイスラムが文明的に輝いており、このような対応をとることが恥とはみなされなかったものと想像される。

王宮内に役職を持ったムスリムがいたことも史料で跡づけられる。王国内のムスリムは、捕虜で連れてこられた者たちの子孫や、傭兵たちとその家族などから成った。この時代、仏教徒とムスリムとのあいだに宗教的対立は見られない。ちなみにアラカン王国の都はムロハウン(Mrohaung)といい、前述のロヒンギャ知識人たちは、ロヒンギャの語源「ロハン」(Rohang)はこの都の名前に由来すると主張する。

アラカン王国は1785年、ビルマ王国(コンバウン朝)の侵略によって滅亡する。その後、この地では40年ほどビルマ民族による統治がなされるが、それを嫌ったムスリムがベンガル側に逃げ、ラカイン人仏教徒も一部が避難している。

しかし、19世紀に入ると状況は一変する。1824年に第一次英緬戦争が起き、1826年にビルマ王国側の敗戦によってラカインは英国の植民地と化した。するとベンガル側から大量のムスリムがこの地に戻り、また新しく移住を開始する者も増え、彼らは数世代を経て定住するに至った。こうした急激な移民の流入は、とりわけ北部ラカインに住む仏教徒とムスリムとの共存関係を崩してしまうことになった。

(2)20世紀以降の宗教的対立の深刻化

20世紀に入ると両者の対立はさらに深まっていく。1886年に全土が英領となったビルマでは、首都ラングーン(ヤンゴン)にも多くのインド系移民が流入するようになった。彼らはヒンドゥー教徒やムスリムを問わず、下層労働者として移住する場合が多かった。その多くは3-4年ほどでインドに戻る短期移民だった。商工業経営や金融業、植民地軍将兵や下級公務員として移住するインド人も一定数いたが、こちらは長期に滞在し定住することが多かった。

一方、ラカイン北西部に移民したムスリムは、同じ下層労働者であっても定住移民となって土着化し、そのことゆえに土着の仏教徒との軋轢が強まっていった。

アジア・太平洋戦争期には、仏教徒とムスリムの対立がいっそう悪化する。イギリス勢力を追放しビルマを軍事占領した日本軍の力はラカインにも及んだ。このとき、ラカイン人仏教徒の一部は日本軍によって武装させられ、ラカイン奪還を目指す英軍と戦うことになった。

英軍もベンガルに避難したムスリムの一部を武装化するとラカインに侵入させ、日本軍を攻撃させた。しかし、現実の戦闘は日英の戦闘とは別の次元と化し、ムスリムと仏教徒が血で血を洗う宗教戦争の状態になった。こうしてラカインにおける両教徒の対立は取り返しのつかない地点にまで至ってしまう。

大戦が終わり2年半後の1948年1月、ビルマは共和制の連邦国家として英国から完全独立する。しかし、当時の東パキスタン(現バングラデシュ)と国境を接するラカイン州北西部は、1950年代初頭まで中央政府の力が充分に及ばない地域として残された。東パキスタンで食糧不足に苦しんだベンガル人(ムスリム)がラカインに流入し、そのことが仏教徒との対立をさらに強めた。

流入したムスリムのなかには、パキスタン人に率いられたムジャヒディンを名乗る武装反乱勢力も存在した(1960年代初頭にビルマ軍によって鎮圧)。まさにこの混乱期において、ラカイン北西部に住むムスリムの「総称」として「名乗り」を挙げたのがロヒンギャだった。

現在、ロヒンギャの名前を付した文書として最も古く遡れるものは、1950年に彼らがウー・ヌ首相に宛てた公式の手紙である。

同首相がラカイン北西部のマウンドーを訪問した際、「北アラカン(ラカイン)在住ロヒンギャ長老団」(the Rohingya Elders of North Arakan)の名前で、2頁から成る手紙を渡している。

これ以前にもロヒンギャ名が使われた可能性は否定できないが、いまのところ確実な史料はみつかっていない。ビルマの宗主国だった英国側の公文書(行政文書)には、チッタゴン人(Chittagonians)という表記が圧倒的に多く、ロヒンギャないしはそれに近い発音(スペル)の名称はいっさい登場しない。【次ページに続く】

(3)三層構造のなかのムスリム

こうしてアラカン王国期からのムスリム居住者を基盤に、英領期のベンガルからの流入移民がその上に重なり、さらにアジア・太平洋戦争後の旧東パキスタンからの新規流入移民の層が形成され、いわば「三重の層」から成るムスリムがこの地域に堆積したわけであるが、彼らが実際にどの程度混ざりあい、いかなる理由で「ロヒンギャ・アイデンティティ」を主張するようになったのかについては、いまだ明らかになっていない。

この「謎」が解明されていないことこそ、ビルマ国内の多数派世論は「ロヒンギャは存在せず、彼らはベンガルからの不法移民である」という言説を信じきっているのだといえよう。

国民の多くは、上述のムスリム移民の三重の層のうち、戦後すぐの3回目の「ムスリム移民の層」にだけ注目する。あたかも、それ以前にムスリム移民はいなかったかのような記憶をつくりあげているのである。

よって、もしラカイン州における「三重の層からなる堆積ムスリム」が、どのようにまざって「ロヒンギャ・アイデンティティ」が形成されたのかが説明できるようになれば、ある程度ビルマ国内の世論を排他的なものから包摂的なものへ変えることが可能となるかもしれない。

独立後のビルマ政府は興味深いことに、一時期ではあるが、ロヒンギャを自国の一民族として受け入れようとしていた事実がある。これは忘れられがちである(特に多数派仏教徒ビルマ人はほぼ忘れている)。

独立後のビルマ議会(下院)には、ラカイン北部のアキャブ北選挙区から当選した2名のムスリム議員が存在した。名前はスルタン・アフメドとアブドゥル・ガファールといい、独立後の与党である反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)の議員として活動した実績がある。

彼らは与党の議員だったため、政府は両名の主張に配慮し、ラカイン北西部のムスリムを保護すべく、ロヒンギャが多く住むブーティーダウン市やマウンドー市が含まれるマユ(Mayu)地方を中央政府の直轄支配地に変更して、仏教徒ラカイン人が干渉できないようにすることを考えた(ラカイン人には別途ラカイン州を付与しようとした)。

また、1950年代後半には、ロヒンギャ語(正確にはベンガル語チッタゴン方言の一部)による短波放送も時間限定で許可していた。

こうしたロヒンギャへの配慮は、1962年にビルマ国軍がクーデターでウー・ヌ首相から権力を奪うと、あっという間に姿を消してしまう。「ビルマ式社会主義」の名前で強引な中央集権化を推し進めた新政権は、ロヒンギャに対する排除の論理を強めた。上述のマユ地方を特別に保護する案は否定された。

国内多数派のビルマ人仏教徒は、英領期に台頭したこの国のナショナリズムの強い影響を受け、政府が推し進める「ビルマ化」に事実上協力した。英領期の1920年代から台頭したビルマ・ナショナリズムは、ビルマ民族の中間層に担われ、そこでは「ビルマ語」と「上座仏教」が強調され、それは独立後も政府によって受け継がれた。

そのため、「ビルマ語」や「上座仏教」と縁のない人々は、多数派のビルマ人仏教徒から軽視され、時に排除の対象とされる雰囲気が国内できあがった。とりわけ、移民のムスリムから成るロヒンギャに対する排斥感情は強まり、このことがロヒンギャ問題の解決をいっそう困難にしていった。

ミャンマー

写真:Foreign and Commonwealth Office「Displaced Rohingya people in Rakhine State」

3 解決への道

ビルマ国内のロヒンギャ排斥の世論は、英領植民地期の20世紀初頭から強まったインド人移民への歴史的な排斥感情を基に成り立っている。英領期の終わりである1939年後半には、ビルマ人仏教徒女性を保護するという名目で、彼女らが外国人と結婚する際にさまざまな制限を課す法律が、ビルマ人ナショナリストが多数を占める植民地議会を通過し、英人総督の承認を得て施行されている。これは実質的にビルマ人仏教徒女性とインド系ムスリム男性の結婚を国家が制限しようとしたものである。

ほぼ同時に、結婚によって仏教からムスリムに改宗した(させられた)ビルマ人女性が夫へ離婚申し出をおこなう権利を保持していることを認める法律も、植民地議会を通過し施行されている。

こうした反インド人(ムスリム)感情を基盤に、独立後はムスリムがビルマで人口を増やそうとしているのではないかとみなす仏教徒側の恐怖心が重なり、さらにロヒンギャの場合は前述のように肌の色や顔つきの異なりを理由とする人種差別的な感情も覆いかぶさったのである。

こうした恐れや感情を、ビルマ国内から短時日に消去することは不可能であろう。複雑に絡まった糸をていねいにほぐしていくような、時間のかかる地道な作業が必要とされる。

皮肉なことではあるが、ビルマの政治体制が2011年3月に軍政から民政に変化した後、この国では言論の自由が認められるようになり、それにつれ宗教的な言説も「自由化」され、一部の過激な仏教僧侶が宗教としてのイスラムと国内のムスリムを激しく攻撃する説法を行うようになった。それは典型的なヘイトスピーチである。

この種の説法は軍事政権期(1988-2011)には治安を乱すものとされ、たとえ僧侶であっても投獄された。しかし、いまはそのようなことはない。宗教の政治利用は憲法で禁じられているにもかかわらず、ヘイトスピーチ同然の反イスラム説法への取り締まりは殆どおこなわれていないのが現状である。

一般仏教徒の中には、悪意に満ちたこのような説法の影響を受け、ムスリムを襲うような行為に走る事態も国内で生じている。国内メディアもビルマ人の多数派世論を意識し、僧侶らの反イスラム説法の問題を批判的にとりあげることを躊躇している。

現実を知れば知るほど、ロヒンギャ問題の解決への道はみつからなくなる。この問題を人権問題として認識するUNHCRやいくつかの国際NGOが、彼らに対する物質的な支援を長期的におこなっているが、そのような援助行為すら、ビルマ国内の仏教徒から反発を受けているのが現実である。

一方で、この国では政党政治の活動とは異なる次元で、市民社会形成に向けた地道な動きも始まっている。それはまだ、暗闇にかすかな光をもたらすロウソクの炎のようなものにすぎないが、それでも民族間や宗教間の対話や、相互の対立の融和に向けた動きが、少しずつではあるが、市民の間で広がりをみせている。それはこの国を覆う閉鎖的な(排斥的な)ナショナリズムから、市民が中心となって国民を解放しようとする動きでもある。

たとえば、元学生運動指導者で政治囚として長期にわたる獄中生活を強いられたミンコーナインが展開する運動がある。彼は1988年に生じた全土的民主化運動の際、学生運動のカリスマ的指導者として活躍し、アウンサンスーチーに次ぐ国民的人気を誇った人物だった。それだけに軍事政権による封じ込めは徹底的で、通算20年も政治囚として投獄された。

しかし、2012年に刑務所から最終的に解放されると、彼は政党政治にいっさい関わることなく、市民活動家としてビルマの市民社会形成のために、多くの人々とゆるやかに連携し、国軍の権限を非常に強く認めた現行憲法の改正を求める国民運動の展開や、宗教間・民族間の対話の試み、幅広い文化的活動に力を入れ、現在に至っている。

少数民族カチンの女性であるラーパイ・センローが率いる活動も注目に値しよう。彼女はビルマ最大のNGO「ミッター開発財団」の創始者であり、軍事政権の時から国境地帯の少数民族を対象に、職業訓練や幼稚園の運営に尽力したほか、国内避難民(IDP)や難民の支援に積極的に関わってきた。2013年にはアジアのノーベル賞にあたるマグサイサイ賞を受賞している。彼女も政党政治から距離を置いてビルマにおける市民社会形成に地道に力を注いでいる活動家の一人である。

アウンサンスーチーが敢えて政党政治の世界に入って活動するなかで、ミンコーナインやラーパイ・センローのような人物がその外側で市民社会形成を目指し、市民の目線に基づく地道な努力を日々続けている姿は、現代ビルマの注目すべき「ひとこま」である。

私たちはそこにロヒンギャ問題の解決の糸口が、時間がかかるにせよ、いずれ見えてくることに期待したい。ビルマ国民が閉鎖的なナショナリズムから解放されない限り、ロヒンギャ問題は解決に向かわないからである。

プロフィール

根本敬東南アジア近代史

1957年生まれ。上智大学外国語学部教授。専門はビルマを中心とする東南アジア近現代史。国際基督教大学教養学部卒、同大学院比較文化研究科博士後期課程中退、文部省アジア諸国等派遣留学生としてビルマに留学(1985-87)、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所勤務を経て、2007年4月より現職。ロンドン大学東洋アフリカ研究院(SOAS)訪問研究員(1993-95)。主著に『アウンサンスーチー:変化するビルマの現状と課題』(田辺寿夫と共著、角川書店、2012年)、『ビルマ独立への道―バモオ博士とアウンサン将軍』(彩流社、2012年)、『抵抗と協力のはざま―近代ビルマ史のなかのイギリスと日本』(岩波書店、2010年)ほか。

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