2016.11.24

いまとここを説明する「歴史」――西ティモールの橋と首と兄弟

森田良成 文化人類学

文化 #西ティモール

私は、インドネシアの西ティモールで文化人類学の調査をしている。貧しい農村から町へ出稼ぎに来ている人々の仕事と生活を追い、彼らが異なる正しさをもつふたつの経済(売買の経済と贈与の経済)を行き来することで、「市場経済からの自由」を維持しながら生活するさまを明らかにしようとしてきた。

調査の過程で、彼らの村の歴史について情報を整理しようと思い、「あの人ならばすべての歴史を知っている」と友人に紹介された老人たちの元を訪ねたことがあった。彼らが幼いころには村で洋服を着る者がごく限られており、10代の子どもでも裸がふつうだったこと、現在ならば1時間ほどで行くことができる最も近い町に数日がかりで歩いて行ったこと、自動車が通行可能な道路が整備されて、町に出稼ぎに出る者が増えていったことなどを聞くことができた。

だがこうした機会には史実に照合しようのない神話めいた物語が語られて、しばしば戸惑うことがあった。本稿では、そのような歴史の物語の事例を紹介し、そのうえでなぜ彼らがそれを語ったのかを考察してみる。

橋の出現: インドネシア、西ティモールと開発援助

「あの橋の柱の根元には、首が埋まっているのだ。」

メヌの橋
メヌの橋

その橋は、ティモール島南岸のメヌという場所に架かっている。インドネシアに対する日本政府の無償資金協力によって建設されたものであり、10数本の鉄筋コンクリートの柱が整然と2列に並び、全長260メートルの橋を支えている。西ティモールにおいてはその規模、構造、建設費用のどれもが異例であり、2年以上の工期をかけて2008年3月に完成した姿は、きわめてインパクトの強いものだった。

インドネシアでは、広大な国土における地方の低開発の問題への対策として、海外資金によるインフラ整備事業が進められている。メヌの橋はそうしたひとつである。日本の外務省は、「西ティモールが位置している東ヌサ・トゥンガラ州はインドネシアでも最貧の地域のひとつである。西ティモールの道路は、雨季の河川の増水と頻繁に起こる土砂災害によってしばしば寸断されてしまう。メヌ橋の建設が円滑な渡河を可能にすることで、西ティモール全体の物流は改善し、住民の生活は向上する」としている。

西ティモールの住民の大半は、限られた都市部を除くと、丘陵地帯に点在する農村に暮らしている。現金収入を求める農民たちは、限られた農作物を市場に売りに行くほか、都市に出稼ぎに行ってさまざまな賃労働をこなしたり、国内の他の島やマレーシアのアブラヤシ農園で肉体労働に従事したりしている。メヌの橋は、人々のこうした生活と移動の改善を期待されて建設された。

メヌの橋から30kmほど離れた丘の上に、私の友人の多くが暮らしている村がある。橋の建設が進むちょうど同じ時期に、この村でもバイクと携帯電話が急速に普及した。しかし電力は依然として届いておらず、開発は西ティモールでもかなり遅れている。換金作物の栽培は厳しい環境のために難しく、男性の多くは生活に必要な現金を稼ぐために村と町とを頻繁に行き来して、村での畑仕事と町での廃品回収業などの賃労働をこなしている。

「すばらしいテクノロジーの国」であり「先進国」である日本が進める巨大な橋の建設工事は、この村でも話題となった。見慣れない車両が建設現場に向かって村の中を走り抜けて行く様子や、「黄色いヘルメットをいつも被っている」という日本人の姿、仮設の小屋が建ち並び物売りが集まってにぎわう建設現場の様子などが口々に語られた。それらとともに「首」のことが語られた。

「橋の柱の根元には、人間の首を埋める必要がある。首を使わずに建てられた橋や建物は、どんなに注意深く建てても頑丈にはならず、すぐに崩れてしまう。橋を建てるときには、必ず人間の首を使わなければならない。当然、あの橋にも首が使われている。」

メヌの橋にある記念プレート。色が落ちているが、日本とインドネシアの国旗が並ぶ。
メヌの橋にある記念プレート。色が落ちているが、日本とインドネシアの国旗が並ぶ。

西ティモールと首狩り

西ティモールにおける首狩りは、19世紀に内陸部で王国同士の激しい戦いがあった時期に盛んに行われたが、20世紀はじめにオランダ植民地政府によって禁じられ、やがて行われなくなったはずだ[McWilliam 1994, McWilliam 2002: 129-157]。しかし村人たちは、メヌの橋を建設するためにはやはり首を埋める必要があり、実際にそれが行われているという。これについてより詳しいことを語る者があった。

「ああいった大きな橋を建てるためには、必ず首が使われなければならない。ただし、完成した橋をもしその首の持ち主の親族が渡ろうとするならば、たちまち橋は崩れ落ちる。だから、親族が通る恐れのない者の首を使わなければならない。」

村の遠景
村の遠景

私は、そのような条件を満たす首をそもそもどこで手に入れるのかと尋ねた。かつては戦士たちが敵国に攻め入り首を狩ったのだろうが、現在の西ティモールの事情はだいぶ違う。道路網も当時に比べればずいぶん整備され、島内におけるバスやバイクでの長距離移動は特別なことではなく、人々の行動範囲はそれなりに広い。親族がこの橋を通る恐れのない首が必要だというなら、それをどこで手に入れるというのか。

「島の外から運ばれて来るのだ。」

これがその答えだった。広大な領土をもつインドネシアにおいて、遠く離れた島からこの西ティモールまで、さらにその僻地といえるこの地域までやってくる人間は今でもかなり限られる。だから、遠く離れた別の島で首を狩ればよいというのだ。「ありえない」と、私と同じくこの話に納得できずに聞いていた者が言った。

「メヌの橋にいったい何本の柱があるか、考えてみろ。柱のすべてに首を使うとすれば、20近くも必要だ。大きな騒ぎも起こさずに、それだけの首を狩ってここまで運んで来ることが、いったい誰にできるのか。」

しかし、彼の異議は直ちに否定された。

「これはインドネシア政府がやっているプロジェクトなのだ。政府ならば、そのくらいのことはできる。政府から特別な許可を得た人間がやっているのだ。だから彼らは、秘密のうちに必要な数の首を狩って、運んで来ることができるのだ。」

留まった兄と、帰ってきた弟

リプスは40代の男性で、村の色々なことをよく知っており、4人の子どもたちの教育にも非常に熱心である。町に出稼ぎに出ていた経験もあり、茅葺きの木造家屋が今も大半を占めているこの村において、いち早くトタンの屋根とセメント製の壁と床を備えた大きな家を建てたひとりである。

村には電気が来ていないので、月の出ない夜は真っ暗である。その晩、リプスの家の客間には数人の男性が集まっていた。客間のテーブルの上には、空き缶に灯油を入れて芯を差しただけの簡素な作りのランプが置かれ、小さな炎が隙間風に揺れていた。ひとつのグラスで酒を回し飲みしながら話していたとき、リプスが言った。

「年寄りたちはみんな知っている。ティモール人と日本人とは兄弟なのだと。」

私は村で、それまでにも何人かからこの話を聞いたことがあった。「ティモール人と日本人は兄弟なのだ」という言葉の次には、「これは『歴史』の話だ」と続くことが多かった。初めて会ったばかりの私に、村の老人がおだやかな笑みを浮かべてさも親しげに語りかけてきたり、記憶に残る日本語の単語や歌を披露しつつ日本兵の思い出を語ったりすることがあった。太平洋戦争当時、日本軍の部隊は村のそばに駐屯していた。

当時の日本軍のプロパガンダは、日本を長兄の立場に据えたうえで、日本と東南アジアを兄弟の関係で語っていた[PPPKD 1978: 112-114]。私は初めてこの話を聞かされたとき、当時のティモール人と日本人のこうした関係を思い浮かべた。

村で。夜の室内
村で。夜の室内

しかし、「ティモール人と日本人は兄弟なのだ」「これは歴史の話だ」といった言葉にはしばしば次のような言葉が継げられて、私は戸惑った。

「このことは聖書にはっきりと書かれている。」

村人たちは敬虔なプロテスタントであり、リプスはこの村の教会の委員を長年務めている。私は彼に、それが聖書のどこに書いてあるのか尋ねてみた。彼は隣の部屋から聖書を持ってきて、メガネをかけると、ランプの灯かりを頼りに時々覗き込むようにしてページをめくり、「ここだ」と指差した。それは旧約聖書にあるイサクの息子、エサウとヤコブの物語だった。

エサウとヤコブという兄弟がいた。ふたりの父親は年老いて、死期が近づいていた。そこで父親は、兄のエサウに言った。狩りに出てシカを捕まえて、料理してくれ、祝福をお前に授けてやるからと。エサウは言われたとおり、シカを探しに出た。 

 

弟ヤコブはエサウの留守を見計らって、繋いであったヤギを料理し、兄のふりをして父親の前に現れた。父親は目を悪くしていて、それがヤコブだとは気付かなかった。父親は腕に触れて、毛深いエサウの腕かどうかを確かめようとしたが、ヤコブはその腕にヤギの皮をはりつけていた。だから父親は、それをエサウの腕だと思ってしまった。 

 

こうして父親は、ヤコブをエサウだと思い込んで、彼に祝福を授けてしまった。父親が神から授かった祝福は、本来は兄であるエサウが引き継ぐはずだった。しかしヤコブは、父をだましてそれを引き継いだのだ。

『創世記』二七章の記述を、リプスは要約しながら読み上げた。祝福を受けた弟ヤコブは、故郷を離れて、その一族は繁栄した。一方兄のエサウは故郷に留まり、兄でありながら弟に後れを取り、一族は貧しい生活を続けることになった。

「弟ヤコブが日本人となり、兄エサウがティモール人となったのだ。つまりティモールと日本は兄弟であり、ティモールが兄、日本が弟なのだ。」

リプスの話はここで太平洋戦争へ移った。

「かつてここには多くの日本人が来ていた。インドネシアは日本と戦い、その次にオランダと戦った。スカルノは1945年にインドネシアの独立を宣言して、オランダとの戦いを指揮した。インドネシアはこれらの戦いに勝ち、独立した。今、インドネシアと日本は仲良くやっている。だが、もしインドネシアが戦いに勝っていなかったら、俺たちも今ごろ日本人だったかもしれない。」

酒が回ったせいもあり、リプスの声は大きくなっていった。周りの男たちが、相槌を打ちながらところどころにはさむ言葉も、次第に熱を帯びていくようだった。私は、聖書と太平洋戦争の間を埋める歴史の説明をリプスに求めた。だがリプスは、エサウとヤコブのやり取りをいっそう力を込めて繰り返した。私はリプスたちに尋ねた。

「日本人の始まりもここなのか?」「そうとも!」

「僕の祖先もここで生まれたのか?」「そうだ!ここからだ!」

暗闇の中で、ランプの炎がリプスの顔を浮かび上がらせた。

「自分が父親からの祝福を受けられないとわかったとき、彼がどれほど泣いたことか!どれほど悲しかったことか!」

リプスの目に涙がたまっているのがわかった。彼は語気を強めてさらに続けた。

「ヤコブはらくな仕事をするだけだ。ちょっと話をしたり、机に座ったまま紙に何か書いたりするだけで、簡単に多くのものを手に入れる。だがエサウは、汗を流して働く。畑の土を掘り返し、草を刈って、血が出るまで働く。それだけやって、ようやくちょっとだけを得る。」

うなずきながら聞いていた周りの男たちから、合いの手が入る。

「それが俺たちだ!」

「お前も日本の年寄りたちに話してみろ。きっと彼らは熱心に聞き入るだろう。そしてお前に言うはずだ。『そのとおりだ!』と。メヌで橋が建てられたのは、この歴史のためなのだ。日本人は橋を建てるために、はるばるメヌまでやってきた。それはなぜか?ここが日本人のふるさとだからだ!始まりの場所だからだ!」

「これは歴史の話なのだ。聖書にも……」こうして、ヤコブとエサウの物語がまた繰り返された。そこから日本軍の話へと移り、英雄スカルノ、オランダとの戦いとインドネシアの独立、そしてまた聖書へと、物語はループした。そのとき、その場にいた小学生の少年が口をはさんだ。

「違うよ。日本がここからいなくなったのは、ヒロシマとナガサキに爆弾を落とされて、戦争に負けたからだよ!」

しかし、リプスたちは反応しなかった。

豊かな暮らしを約束されていたはずの兄は、「汗を流して働いて、ようやく食べていけるわれわれティモール人」となり、弟は、「座ったままでらくな暮らしができるお前たち白人(日本人もここに含まれる)」となった。日本が開発プロジェクトで巨大な橋を建造したり、援助のための食料を村々に配ったりするのはなぜか。それは故郷に留まった兄のために、富を得た弟がそれらを運んで「帰ってきた」からなのだ。

「今、インドネシアと日本はひとつに戻っている。お前は帰ってきたのだ、弟として。町で店に並んでいる色んな品物は、どこから来ている?お前たちの場所からだ。開発プロジェクトはどこから来ている?日本からだ。約束で、そういうことになっているのだ。それに対して、俺たちの側からそっちに送っているものなんて、何がある?せいぜい、白檀ぐらいさ。」

町に出稼ぎに行き、廃品回収業に従事する村人
町に出稼ぎに行き、廃品回収業に従事する村人

いまとここを物語る歴史

歴史家のハゲルダルは、膨大な記録資料と口頭伝承を検討し、17世紀から19世紀までのティモール島の歴史を500頁の大著にまとめた[HÄGERDAL 2012]。ここでハゲルダルは、「ティモールの人々の思考には『神話』という言葉はない。なぜなら、『神話』に相当するものは彼らに真実とみなされており、それは歴史と同じものだからだ」と説明している [HÄGERDAL 2012: 74]。

リプスたち村人が語った歴史は、聖書の記述、太平洋戦争の記憶、英雄スカルノとインドネシア独立という国史、現在の彼らの村での日常といった、時代と次元の異なる複数の世界を結びつけてひとつの物語を成していた。それは、神話的で不確かな要素を排し、記録資料によって裏付けることが可能な情報のみで構成され、普遍的で客観的な史実として整理された編年体の歴史ではなかった。

彼らの歴史は、聖書や国史を参照しつつも、その場に居合わせた者たちの心情を織り込みながら、聖書の世界における兄弟の対立をわがことのように語り、インドネシアという国家の周辺で営まれる彼らの現在の暮らしと、豊かな人々の暮らしとの間にある隔たりとつながりとを語っていた。さらに、「世界には持つ者と持たざる者がおり、自分たちがいまとここに、その持たざる者の側として存在しているのはなぜなのか」という問いに対して答えを示していたのだった。村人たちがいう「すべての歴史を知っている」人物とは、こうしたいわば存在論的な問いに対する答えをよく知っており、それを物語として語ることのできる人物のことだった。

事実のみを整理した編年体の歴史は、それが普遍的で客観的なものであるために、それぞれの現在を生きる人間の個人的で具体的な心情や利害に直接結びつけがたいものでもある。それに対して村人たちが語った歴史は、彼らの過去の記憶、現在の経験、未来への期待といったものをすべて合わせたものだった。それは、その場に居合わせた者たちがそれぞれの気持ちを表現しながらコミュニケーションをはかり、「いまとここ」に自分たちがいることの理由を語り合うための歴史だった。

「メヌで、日本政府によって橋が建てられたのはなぜか」、「広大な領土をもつインドネシアにおいて、なぜメヌが選ばれたのか」、「なぜ日本政府がそれをやるのか」、「日本から来たひとりの男性が生活や歴史について知りたがり、毎年わざわざ村にやってくるのはなぜか」といった一連の問いに対する答えが、単なる偶然によるのではない必然性の物語として語られていた。

首狩りの物語で、ひとりの男性が「秘密裏に多くの首を手に入れて運んでくることは、政府にならばできる」と語った。ここでは、スハルト大統領による独裁の時代が既に終わったとはいえ、ひとたび必要だということになれば、周辺にあるこの村にすら及ぶほどのおそろしい暴力を依然として振るいうる存在としての国家が語られていたのかもしれない。

聖書の物語を説明してくれたリプスは、やはり断言した。

「橋に首が使われているのは本当のことだ。首は必ず使われなければならない。」

関連書籍

春日直樹編(2008年)『人類学で世界をみる』、ミネルヴァ書房。

鏡味治也編(2012年)『民族大国インドネシア――文化継承とアイデンティティ』、木犀社。

参考文献

HÄGERDAL, Hans (2012) Loads of the Land, Loads of the Sea: Conflict and Adaptation in Early Colonial Timor, 1600-1800, KITLV Press.

McWilliam, Andrew (1994) “Case Studies in Dual Classification as Process: Childbirth, Headhunting and Circumcision in West Timor”, Oceania, 65-1 September:59-74.

McWilliam, Andrew (2002) Path of Origin, Gates of Life: A Study of Place and Precedence in Southwest Timor, KITLV Press.

Proyek Penelitian dan Pencatatan Kebudayaan Daerah (PPPKD) (1978) Sejarah daerah Nusa Tenggara Timur, Pusat Penelitian Sejarah dan Budaya, Departemen Pendidikan dan Kebudayaan.

プロフィール

森田良成文化人類学

大阪大学大学院人間科学研究科・特任研究員。大阪大学、摂南大学ほか非常勤講師。博士(人間科学、大阪大学)。専門は文化人類学。インドネシア共和国の西ティモールの都市と農村で調査を行い、現在は西ティモールと東ティモール民主共和国との国境地帯でも調査を行っている。最近の著作として「『ねずみの道』の正当性――ティモール島国境地帯の密輸に見る国家と周辺社会の関係」(2016年、『白山人類学』第19号)、「映画の物語をめぐる人類学的実践と考察」(2016年、『南方文化』第42号)、映像作品として『アナ・ボトル――西ティモールの町と村で生きる』(2012年、43分、編集:森田良成・市岡康子、構成協力:市岡康子)がある。

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