2017.01.30

「差別してしまう側の人」を踏みとどまらせるために――いつから同性愛は異常視されるようになったのか?

アメリカ文化史・兼子歩氏インタビュー

情報 #ジェンダー#教養入門#同性愛

「男らしくあるべき」「女らしくあるべき」……このような考えは、いつの時代も私たちの周囲に潜んでいます。しかしその「らしさ」は時代によりけりで、実は長い歴史のあるものだとは限らないのだそうです。

明治大学4年生の私、白石が今までずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載「高校生のための教養入門」特別編の第4弾。ジェンダー論が専門の兼子歩先生に、私たちが誰かを差別してしまわないためにどうすればいいのかをお聞きしました。

 

 

いつの間にか差別されるようになった同性愛

 

――まず、先生のご専門であるジェンダー論について教えてください。

ジェンダーという言葉は、もともとドイツ語やフランス語における文法上の性別のことを指していました。ドイツ語やフランス語には、男性名詞や女性名詞、中性名詞というものが存在しています。それに対し、生物学的な意味でのオスとメスの区別のことは「セックス」といいます。ですが、1960年代以降、いわゆるフェミニズムの思想と運動が社会のなかで力を持ってくると、性別に関して新しい考え方が現れてきたんです。

我々は男女に分かれています。男女に分かれているから特質に違いがある。男性は男らしくなり、女性は女らしくなる。それぞれの特性に応じて、社会のなかでも役割を分担するようになる。そのように我々は考えがちですよね。ところがジェンダー論においては、男らしさや女らしさは、生物学的な違いからは導き出されないという考え方をします。

男女の身体的・知的・感情的な違いが、染色体などによってどのくらい生まれつき決定されているかということは、社会の影響を排除して比較してみないと分からないことです。しかし人間は生まれた時から人間がつくった社会のなかで生き、成長します。現実には社会の影響力を一切排除した男女の比較なんてできません。私たちが自然に存在していると思い込んでいる男女の違いは、相当程度、社会のなかで「つくられた」と考えるべきではないでしょうか。

――女性はそういった社会のなかの固定観念によって、相当苦労している部分がありますよね。

はい。たとえば数学は男性の方が得意で、女性は向いていないという考えがありますよね。そのため理系の大学には学生も教員も、女性が少ない。ではこれは、女性が本質的に数学などの理系学問に向かない存在だからなのでしょうか。実際には、理系学問への向き不向きは、男女差というよりも個人差です。

「女性は理系に向かない」「理系学問を熱心に学ぶ女性は女らしくない」といった社会の見方が、男性による女性の理系学問の能力への過小評価を生み出したり、女性たち自身でも「女らしくない」という評価を避けるために理系学問を避けるようになったりした、そうしたことの積み重ねの結果といえるでしょう。でもその結果から、「女性は理系に少ない、やはり向いていないからではないか」という結論を多くの人が導き出せば、女性を理系から遠ざける構造がまた繰り返されるのです。

――先に「女性は理系に向かない」という考え方があったせいで、女性は本来あったはずの能力を発揮できていないということですね。

こうした女性観が問題なのは、理系は特に経済にとって重要なハイテク産業をはじめとする企業とも関係しているからです。企業は大学の優秀な理系学生を求めている。しかし理系の大学・学部には、先ほど述べたような社会的な理由によって、女性が少なくなる構造があります。そうなると、これは女性にとって職業選択の自由が実質的に制限されているということにもなります。

そこで、「男は○○であるべき」「女は○○してはならない」という考え方には本当に正当性があるのか、そうした考えはどのようにしてつくられてきたのか、また時代によってどのように変化してきたのかといったことを研究することが重要になってくるわけです。

またその一方で、ある特定の社会や時代、集団や組織のなかの「男らしさ・女らしさ」に対して、私たちはどのように順応していくのか、あるいはそれから矛盾を感じたり矛盾を抑え込んだり逸脱したり抵抗したりするのか、そしてどのような行動によって既存の「男らしさ・女らしさ」を変容させていくのかということも重要になってきます。ジェンダー研究とは、こうした問題に対して、社会学や歴史学や文学、人類学や心理学などさまざまな人文社会科学の手法を用いてアプローチしていく学問のことです。

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――先生はジェンダーを文化史の観点から研究されているということですが、その二つはどのように関わっているのでしょうか?

まず最近では、歴史における「文化」というものを広く捉えるようになっています。つまり、我々がもっている価値観や認識、見て意味をすぐに理解できるシンボル、共有され好まれる物語なども文化であるという捉え方ですね。そして我々はちょうど眼鏡のように、そうしたある時代や社会や集団に特有の価値観や認識の枠組みを通じて、自分の社会やほかの社会を見て理解している。だから文化が変わると社会も変わるし、その逆もしかりということなんですね。

一つ例を挙げます。19世紀のアメリカの、特に中流層の男性のあいだでは、「セルフ・メイド・マン」という価値観が支配的でした。つまり、男性は自分の努力や才覚で身を立てて独立し、商売を始めたりするのがすばらしいという意味です。今でいうところの起業ですね。この価値観は当時の子供向けの本にも反映されていて、それを読んだ子供たちは独立して商売を始め成功するイメージをもって成長するわけです。ところがこの価値観がのちに、アメリカ経済の変化と齟齬を起こすことになります。

19世紀末になると、アメリカは個人経営のような経済から、法人格を持った企業が中心になる経済に移行します。従業員1万人規模の大企業もたくさん現れました。そうした会社に就職した人々は、つねに組織の歯車として、ボスの指示に従って働かなければなりませんよね。それは、自分の努力とアイデアで独立し、商売をしたり自分の事務所を開いたりするという価値観と対立するわけです。

そこで20世紀のはじめには、大企業に就職した男性の多くが5年以内に会社を辞めてしまうという現象が起こり始めました。企業側はこれに対して、福利厚生を整えると同時に、「会社の中で出世をめざして努力するのが男らしい生き方」という価値観を従業員に広めようとしました。新しい企業組織が定着するかどうかということと、「男らしさ」の理想像という文化的な価値が、じつは深くかかわっていたんです。

 

 

――なるほど。歴史の研究というのは、どのように行うものなのでしょうか?

基本的に昔のことを調べるのですが、残念ながらまだタイムマシンが発明されていないので、おもに昔の人が書き残したもの(これを史料と呼びます)を調べることになります。たとえば、19世紀のアメリカについて調べるときは、19世紀のアメリカ人が書き残した日記や手紙、新聞、雑誌を読み、当時は何が起こっていたのか、そうした出来事を当時の人はどうとらえていたのか、そこにはどのような価値観があったのか、ということなどを読み取ります。

ところがそれは逆に言えば、我々は書き残されたものからしか歴史を知ることができないという限界も意味するわけです。たとえば歴史的には、昔になればなるほど、文字を読み書きできる人は少なかった。なので、本当は貧しい庶民がどのような生活を送っているのかを知りたいのに、日記や手紙を書いていることはほとんどないんですね。そうなると残念ながら、誰かが貧しい人について書き残したものを見て判断するしかないんです。

しかし人間は、必ず自分の物の見方を通して他人を書きますよね。だからそこには先入観や偏見が入っている。だから、書かれていたことを文字通り受け取るわけにはいかないことが多いんですね。そこで、書いた人の先入観を割り出しながら、実際はどうだったのかを解読していく作業も必要になってきます。

――ジェンダー論と似ている学問のセクシュアリティ論についてもお聞きしたいのですが。こちらはどのような学問なのでしょうか?

セクシュアリティは一般的には性的な欲望のあり方についての概念ですね。我々は性的な欲望を人類普遍の一般法則だと思っています。しかしこれも歴史的にはかなり大きく変化してきました。最近では、この性的な欲望のあり方が時代や社会の違いによってどのように違ってきたのか、どのように欲望の在り方や特定の欲望へのタブー視などが変化していったのかという問いが、盛んに研究されています。

たとえば古代ギリシャや江戸時代までの日本では、じつは男性が男性に欲望を覚えることそれ自体は、異常なことであるとは思われていなかったんですね。実際に古代ギリシャの人々や名前の知られている哲学者たちも、美しい少年への欲望について肯定的に語っているという史料がたくさん存在しています。少なくとも近代以降の欧米では、西洋文明の源として古代ギリシャを称えるとき、そういった史料は見て見ぬふりをされていたわけですが。

日本では明治維新以降、西洋文化の影響で同性愛を異常視する考え方が徐々に広がっていったといわれますが、実際には男性の同性愛文化はあちこちに見られており、同性愛の異常視が日本で支配的価値観になったのは、じつは戦後ではないかとも指摘されています。

――昔は同性愛は普通のことだった、ということですか。

はい。しかし19世紀になると、アメリカの中流階級の人にとって、性的な欲望というのはあくまでも子供をつくるために発揮されるものであるという考えがつくられました。つまり、それ以外の目的で女性と性交渉を行うことは男らしくないと考えられていたんですね。そしてこの時代、同性間でセックスを行うことは刑罰の対象でした。

20世紀になると、セックスは妊娠・出産を目的としていなくても、夫婦間の愛の確認や、性的にお互いに充足することで関係を円満に維持するためのものとしても認識され、肯定的にみられるようになりました。しかしそれと軌を一にして、同性に対して性的な感情や欲望を抱くこと自体が異常であり、そういう人間は存在として異常であるという見方も強まっていきました。

そう考えると、同性愛嫌悪は人類普遍の法則というわけではないということになります。人間社会はある時点において同性愛を非常に異常なものとして見るようになり、そうした欲望をもつ人々を「ふつうの」人々とは違う存在とみなし、差別するようになっていったということですよね。

国家に利用されてきた歴史学を、弱者のために

 

――先ほど、古代ギリシャの人たちの同性愛については見て見ぬふりをされてきたという話がありましたが、どうしてでしょうか? 史料は存在していたにもかかわらず、研究対象にはしなかったということですよね。

基本的にはそのような歴史研究は、ここ半世紀ぐらいで盛んになってきました。もちろん欲望のあり方については、欧米においては昔から医学や心理学などの一部として研究されていました。しかし20世紀前半の段階では、同性愛は異性愛を唯一「正しい」とする規範から外れたものだと考えられていました。

19世紀にヨーロッパを中心にして近代的な歴史学というものが確立した時には、歴史学の対象は国家の歴史であるべきという考えがありました。つまり政治と外交ですね。そこには人々の日常生活や性の営みは含まれていませんでした。それはなぜかというと、そもそも近代歴史学というのは、19世紀に近代国民国家が確立する時に、その国家を正当化するために生まれたという側面があるからなんですね。だから国家が残した議事録や公文書だけが、客観的で信頼できる史料だと思われていたんです。

ところがそのようなやり方では、無視されるものがあまりにも多いですよね。特にそのなかで無視されてきたのは女性です。ヴィクトリア女王とかジャンヌ・ダルクとかの特別な活躍をした一部の人を除けば、かつては国家の歴史に女性が登場することはまずありませんでした。

そうなると、実際には人間社会の歴史において女性たちがさまざまなかたちで影響を及ぼしていたはずなのに、歴史学は基本的には男性の言動や男性によって営まれる制度のみに焦点をあてることになり、女性はまるで存在してなかったかのように描かれてしまうわけですね。

――女性の歴史について着目するところから、性のあり方についての研究が始まり、やっと古代ギリシャの性についても注目されてきたということなんですね。

そうですね。1960年代に入ってから、アメリカではそれまで抑圧され、無視されてきた人々が次々と声を上げるようになってきました。とりわけ人種差別を受けてきた人たちの公民権運動が大きなムーブメントになり、それがきっかけで女性や同性愛者などのさまざまなマイノリティの人たちも認知されるようになってきたわけです。

ここに来て歴史学は、そういった人々にとって、自分と同じ人々の過去と現在を発見し、未来への権利を訴えていくためのものになったんですね。女性史や黒人史、先住民史が登場したり、同性愛者の歴史が発掘されたりするようになったんです。

――なるほど。つまり1960年代までの歴史学は、国家を権威づけるために利用されていたと。しかしそれ以降の歴史学は、それまで差別されてきた人たちのアイデンティティを発見するためにも役に立つようになってきたわけですね。

 

そうなるとジェンダー論の研究は単なる趣味などではなく、非常に重要な意味をもつことになりますね。

はい。この社会では、ある特定の男女観に基づいて、男性は男らしく、女性は女らしく育っていくこと、期待される役割を演じることが求められます。そしてそれはそれぞれの趣味嗜好だけでなく、自分は何者であるかというアイデンティティの問題や、どう生きるかといった、個人の存在の根幹にも影響しています。

つまりジェンダーというのは、きわめてパーソナルな領域に関わるんですね。それについて研究するということはすなわち、自分は何者なのか、何者であるべきなのかというミクロな問題であるわけです。そしてそれと同時に、大きな社会もまた、ジェンダーによってつくられているということも注目すべきことです。

たとえば結婚というものがあります。それは現在の日本においては、男女が惹かれあって自発的意志のもとに夫婦として結びついて家族になり、場合によっては子供を産み育てて親になるということを意味する概念ですよね。つまり個人と個人のパーソナルな問題であるわけです。

しかし結婚というのは同時に、民法によって規定され、また法的に夫婦だと認められるとさまざまな権利と義務が認められるという、国家によってつくられた制度でもあるわけです。結婚すればパートナーは法的な家族と認められますし、亡くなった場合には残された側は遺族として認められます。

――ある意味、国家からすると、国民を管理するのに便利な制度ですよね。

そうなると配偶者に対する扶養義務が生まれ、夫婦間で「自分以外に性的な関係を持つな」と要求する権利も持ちますね。配偶者の勤め先が提供する健康保険に入ることもできます。遺族であれば相続権が認められ、遺族年金を受給できるというような恩恵も国家から与えられます。

逆に言えば人々は、同棲するカップルや親友同士では得られない権利を求めて、結婚することを奨励されてもいます。そして結婚した男女には、ある種の役割を果たすことが社会から要請されています。たとえば日本の場合、「少子化対策」として子どもをつくり、その子を既存の社会にとって適切であるように育てて、労働人口の拡大に貢献することを国家からも社会からも要求されています。

最近では「少子化対策」として「婚活支援」をするという政策があります。しかしこれは結婚と出産・育児が結びつけられていて、結婚するけど子はつくらない、結婚しないけど子はつくる、というライフスタイルは好ましくないものとして、支援する対象にはなっていません。

つまり結婚や出産は個人の自由選択であるようで、そんなに自由な行為ではないんですね。我々は結婚を個人的な感情に基づいたものだと考えている一方で、じつはそれ自体が社会のシステムの一部でもあるのです。そう考えると、ジェンダー論というのはじつはきわめて個人的で身近なことでもあり、しかし大きな社会のことを考えることでもある。この両者を直結させられるというところが、とくにジェンダー論の大きな問いであり、なおかつ面白いところだと思います。

「差別してしまう側の人」を踏みとどまらせるために

 

――今年8月、一橋大学のロースクールの学生が、自身が同性愛者であることを友人にばらされたことをきっかけに自殺した事件が報道されました。他人が人のプライベートな部分を暴露するというのは繊細な問題ですが、先生はどのようにお考えですか?

この事件に関しては現在裁判中ということもあり気軽なことは言えないため、まずは一般論からお話ししたいと思います。まず、「カムアウト」は自身の性的アイデンティティを公に知らせることですが、「アウティング」は、本人は隠しているのに、周囲が「彼はゲイだ」というように公に暴露してしまうことですね。つぎに、なぜ性的なアイデンティティを隠す人がいるのかということを考えなければなりません。

一般に、人がなんらかのかたちで本当の自分を隠す理由は2つあります。ひとつは、人には知られていない行為や考えが、不道徳であるとか異常であると見られている場合です。そしてもうひとつは、それが本来不道徳でも異常でもないのに、本当のアイデンティティが明らかになることで差別され迫害されるおそれがあるから、という場合です。いわれのない差別であるけれども、自由に安全に生きることができないので本当の自分を隠さざるを得ない、ということですよね。

今回の場合は後者です。自殺してしまった彼は、公に向けてカムアウトしたわけではなくて、恋愛感情を伝えるために友人にカムアウトすることになったということだそうです。つまり彼は、自分の恋愛感情を告白する際に性的アイデンティティも共にカムアウトしたということですよね。

今回の問題は、告白された側の友人がそれを周りにばらしてしまったところにあります。なぜばらしてしまうのか。なぜなら、それが隠されているからですね。そこには「隠されているものは不道徳で異常で逸脱しており、暴露するべきだ」という先入観が潜んでいる可能性があります。そうでなければ、わざわざ他人に暴露するという行為に意味はありません。

同性愛が単にいろいろな正当な性のあり方のひとつでしかないという見方ではなく、「正常」ではないという見方があるからこそ、暴露することに意味が出てしまうのです。そしてその暴露は、カムアウトした人を、同性愛は異常だとみなす差別のまなざしにさらし、差別の言動にさらすことを意味するんですね。もっともそうした暴露を共有する側には「自分が差別している」という意識がなく、隠された悪が暴露された瞬間に居合わせたかのような感覚があるのかもしれませんが。

――異性愛の場合、異性から告白された際に「返事を待ってほしい」と告げ、別の友達に「じつは○○から告白されたんだけど」と相談することがあると思うんです。しかしこれが同性愛だった場合、そのことについて別の友達に相談するのはまずい行為なのでしょうか?

とても難しい問題です。相談相手の友達が同性愛に差別的な感情を抱いていた場合、告白した人への差別のきっかけを増やしてしまうことになります。ですので相談する相手が友人である場合、その人が同性愛について誠実に考えてくれるのかどうかがポイントになってしまいます。つまり、告白した人を窮地に陥れてしまうおそれがあるかどうかを慎重に判断する必要があるわけです。

しかしだからといって誰にも相談できず、一人で抱え込むことができず、暴露に向かってしまうことは望ましいことではありません。そこで少しでも逡巡や躊躇が生まれるのであれば、カウンセラーなどの守秘義務のある人や、LGBT権利問題などに詳しい専門家のような人に相談するという選択はありだと思います。

――同性愛の人に告白された場合、その瞬間に告白された側には守秘義務が発生するのではないかという考えがあると思うんです。その時に、告白された側の戸惑いをうまく解消できるような相談相手がいるといいですよね。

よく考えてみれば、女性が男性から、男性が女性から告白されたとしても、それはプライバシーの領域のことですよね。異性愛者にとっても自分が告白したことを周囲の人にばらされるのは相当に傷つくことですから、ばらすのはよくないことだということは理解できるはずです。同性愛者からの告白に対してどうするかという場合、その延長線上に差別という問題がもう一枚絡んでいるというわけです。

そういう意味で考えると、何も同性愛者から告白された場合にのみ、極端な守秘義務が発生するというわけではないですよね? そこも、同性愛者だけを特別視するべきではないと考えてほしいです。ただプライバシーや尊厳という観点のみにおいて、同性愛者も異性愛者も同じように尊重すると考えるべきなんですね。そのうえで、同性愛者の場合には同性愛者への差別という社会問題があり、その中に相手がいるのだということを理解することが必要だということなのではないでしょうか。

――最後に高校生へのメッセージをお願いします。

私は高校生時代、いけてない高校生の典型でした。勉強はそれなりで飛び抜けていたわけではなかったし、運動もできず、ファッションも無頓着でした。つまり男性として男らしいわけではない、つまり支配的な男らしさの基準に照らして高い価値を持っているわけじゃないんだという鬱屈がありました。そのような自分を変えたいと思って、大学ではESSという英語サークルに入り、英語のディベートに明け暮れていました。

そうしていたら、授業をさぼったり予習復習も怠ったりして、なんと指導教員の授業で「C」評価をもらってしまいまして(笑)、結局まじめに勉強し始めたのは卒論を書く時になってからでした。それまでは歴史が面白い、と思っていただけでしたが、卒論を書く時に研究の面白さに気づきました。同じ人間のはずなのに、時代によってまったく違う価値観をもっている。それで、将来のことを考えずに大学院に入りました。

ジェンダー論を専門にし始めたのは、修士論文がきっかけです。100年ほど前のアメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトについて研究していたところ、奇妙なことに気づいたんです。「男らしい」「男らしく」といった言葉を彼は演説や著作のなかで、ものすごく多用していたんです。これはいわゆる「ジェンダー」というやつではないかと思い、そこでジェンダー論について調べていたところ、男らしさの概念も時代によって変わっているということが分かったんですね。

そのなかで、高校のころから抱いていた、自分が男らしいとされるところから離れているんじゃないかというコンプレックスについても徐々に分かってきたんですね。また、そのコンプレックスを自分に抱かせるのは、じつは社会の仕組みとか、ある時期につくられた文化であって、何か万古不変のものではないということも思ってきたんです。

そして無理につくられた男らしさの基準に自分を合わせようと追求することは、反転すれば女性に特定のあり方を強制することにも当然つながるわけですよね。それは多くの場合、女性を対等に見なかったり、女性の希望を否定したりすることを肯定することにもなります。

それに、基準に合わせようとしても合わせられないとき、埋め合わせに誰かの存在を否定するという行為に走ることも、よくあります。そう考えると、そのような考え方からは少しは自由になったほうが、自分にとっても他人にとってもよいことかもしれないな、という気持ちも芽生えてきますよね。

だから高校生のみなさんに言いたいのは、自分が悩み苦しんだりしているとき、それは自分の本質がおかしいからではなく、社会がそうさせているからかもしれないよ、ということ。その社会というのは万古不変のものでもないのだと。そして社会は人間がつくってきたものなのだから、少しずつでも変わりうる、変えられるものかもしれないよ、ということです。

さらに、そうしたことを気づかせてくれ、変わり方のヒントをもらえるのが学問なんだよ、と。学問はお金になるかならないか、より偏差値の高い学校に進学できるための手段というより(そういう側面があるのは現実ですが)、自分のことを考え直し、社会のことを考え直し、そうしてもっと自分が生きやすくなる。そして、みんなにとって生きやすい社会をつくる、そのための手がかりを追求するということなんです。政治学や経済学や法学はもちろんそうですが、歴史学も文学も人類学もジェンダー論も、みんなそうなんです。

 

高校生におすすめの3冊

 

この本を読んだ人は、みんな衝撃を受けますね。この著者は高校を卒業してアメリカに渡り、貧しい先住民たちと一緒に暮らしたんです。そういった人々の側から、みんなが知っているアメリカとは全く違う側面を知ることができ、そしてそれが実はアメリカの本質をついているということも分かる、とても面白い本です。難しい学術書とは違い自伝のような形ですので、気軽に楽しめると思います。

そもそも同性愛とは何か、異性愛とは何かということを解きほぐしてくれる本です。セクシュアリティについての見方が変わる本ですので、異性愛者の人にもおすすめしたいです。

フェミニズムというとヒステリックに男を攻撃するようなイメージがありますが、そういった誤解を解く本です。タイトルが示唆的で、「みんな」のなかには男性も含まれるんですね。フェミニズムが解放するのは女性だけでなく、男性も含むという視点で書かれた名著です。

プロフィール

兼子歩アメリカ社会文化史・ジェンダー論

明治大学政治経済学部専任講師。北海道大学大学院文学研究科博士後期課程単位習得退学。専門はアメリカ社会文化史・ジェンダー論・セクシュアリティ論。共著に『〈近代規範〉の社会史』(彩流社、2013年)、『アメリカ・ジェンダー史研究入門』(青木書店、2010年)、訳書に『南北戦争のなかの女と男』(岩波書店、2016年)などがある。

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