2012.10.23

「ごめん」ですむなら警察はいらない、という話

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #遠隔操作ウィルス#誤認逮捕

脅迫メールを送りつけたとして逮捕された4人が、実際には遠隔操作ウィルスに感染したPCで勝手にメールを送られたものであったことが明らかとなった件は、警察庁長官が誤認逮捕を事実上認めて謝罪する事態となった。

「警察庁長官、誤認逮捕「可能性高い」…PC操作」(読売新聞2012年10月18日)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121018-OYT1T00778.htm

ウイルス感染したパソコンなどから犯行予告が書き込まれ4人が逮捕された事件で、警察庁の片桐裕長官は18日の定例記者会見で、「真犯人でない方を逮捕した可能性が高い。断定されれば関係都府県警がおわびを含めた適切な対応を図る」と述べた。


自白「させられてしまう」恐怖

この問題はもちろん、ウィルスを作成しばらまいたとされる「真犯人」が悪いに決まっているわけだが、同時に警察や司法のやり方、あり方にも問題があることを明らかにしたものといえる。IPアドレスで犯人を特定できたと決めつけた捜査の流れは、DNA鑑定をめぐる冤罪事件を思い出させるものだ。技術を過信、というより技術への理解不足、といった方がいいだろう。少なくとも現場レベルでは技術進歩についていっていないことが明らかであり、こんなことで今後さらに高度化するであろうサイバー犯罪に対処できるのかなどと心配になる。

しかし、もっと深刻なのは、そうした技術面の問題ではなく、やっていない(と警察自身が認めた)人が、「自白」をした(というか、させられた)ということだ。思ってもいなかったであろう動機と、知りもしない詳しい手口もセットで。警察は子どもだましのような説明をしているが、常識的に考えれば、これは取り調べにあたった捜査官が誘導して「自白」させたものでしかありえない。警察というのは、やってもいない犯罪を「自白」させてしまう力をもった組織であり、それによって無辜の者が簡単に犯罪者に仕立てられうるということを、この事件は改めて示したのだ。

「「自供しないと少年院、と言われた」誤認逮捕の大学生」(朝日新聞2012年10月22日)

http://www.asahi.com/national/update/1022/TKY201210210455.html

都内の弁護士らに「真犯人」を名乗る人物から犯行声明メールが届いたことを受け、県警は17日に大学生を再聴取した。捜査関係者によると、大学生はその際、「県警の取調官に『認めないと少年院に行くことになる』と言われた」「検事に『認めないと長くなる』と言われた」と話した。取調官は県警の調査にこの発言を否定しているという。

「釈放の男性、上申書「逮捕状思い出し書いた」遠隔操作事件」(日本経済新聞2012年10月20日)

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905J_Q2A021C1CC0000/

遠隔操作ウイルスに感染したパソコンから襲撃予告が送信された事件で、警視庁に誤認逮捕された福岡市の男性(28)=釈放=が同庁の再聴取に、脅迫メール事件で再逮捕される際「逮捕状の内容を思い出しながら、(容疑を認める)上申書を書いた」と話したことが20日、捜査関係者への取材で分かった。

この事件の影響は小さくはない。逮捕され、保護観察処分となった大学生は、その後の一部報道では元大学生と書かれており、退学したのかもしれない。それが逮捕の影響かどうかはわからないが、「逮捕されたから退学」という流れだったとしても誰も不自然には感じないだろう。実際、社員が逮捕された場合、たとえ不起訴処分になっても退職を迫る会社は珍しくない。少なくともその程度には、逮捕されるということの社会的影響は大きい。

「小学校襲撃予告メール 元大学生を再聴取」(よみうりテレビ2012年10月17日)

http://www.ytv.co.jp/press/society/TI20090562.html

今月になって「真犯人」を名乗る人物からのメールが「TBS」などに送りつけられ、県警は改めて元大学生から話を聴く必要があると判断し、17日、弁護士同席の下、事情聴取を行った。

当然ながらこれは、「どこかにいる不運な誰か」だけの問題ではない。こうした流れを見た私たちは、改めて、私たち自身の生活がいかに大きなリスクにさらされているかを認識させられた。今回は「真犯人」が名乗り出たからわかったわけだが、もしなければわからないままだったろう。こうした事例が他にもあるかもしれないと考える方が自然だし、いつ自分もそうなるかわからないとつい考えてしまうのも無理はない。うっかりスパムメールのリンクをクリックして遠隔操作ウィルスに感染してしまったら。ツイッターで回ってきた短縮URLのリンク先の怪しいサイトにアクセスしてマルウェアに感染してしまったら。電車の中でもし、隣に立っていた女性が勘違いして「この人痴漢です」と声を挙げたら。

私たちがやってもいない犯罪のために誤認逮捕されてしまうリスクは意外に高いかもしれない。そしていったん逮捕されてしまったら、やっていなくても(ここがポイントだ)、かなり高い確率で「自白」をさせられてしまう(もちろん「任意」という扱いだ)。たとえ自白をしなくても、日本の裁判における有罪率は100%近い。過酷な取り調べに耐えても、それは反省していない証拠とみなされて罪が重くなるだけだ。

私たちを守ってくれるはずの警察や司法システムが、ほんのささいなきっかけで、私たちに対して牙をむいて襲いかかる恐ろしい「魔物」に変貌する。こう考えてくると、私たちはすべて、日常生活を不安でいっぱいのまま過ごし、警察に疑いの目を向けずにはいられなくなる。こうした不安感や不信感の蔓延こそがこの問題の最大の影響だ。

「神奈川県警、少年の上申書誘導か…不自然な詳述」(読売新聞2012年10月18日)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121020-OYT1T00514.htm

不正操作されたパソコンから横浜市のホームページ(HP)に小学校への襲撃予告が書き込まれた事件で、神奈川県警に威力業務妨害容疑で誤認逮捕されたとみられる少年(19)(保護観察処分)が、手口や動機を不自然なほど詳述した上申書が県警に提出されていることが捜査関係者への取材でわかった。

警察庁長官は「おわびを含めた適切な対応を図る」と言ったわけで、今後賠償などもされるのだろうが、それですむ話なのか、という批判がいくつか上がっているのをソーシャルメディア上で見かけた。きちんと裏付け捜査をせず無実の者を強引な取調べで犯罪者に仕立てあげた捜査官やそれに関わった司法関係者など、関係者に対して刑事責任を問う余地はないのか、という批判だ。要は「ごめんですむなら警察はいらない」という子どものケンカでよく出てくる文句を地で行く意見だが、共感する人も少なくないだろう。私も共感する部分がないではないが、同時に少しちがった意見を持ってもいる。

専門家というシステム

犯罪捜査や司法のプロセスに限らず、職業の中には、他人の生命や健康、財産や権利、社会的評価や人間関係などに大きな影響を与えうるものがある。しかも、それらの仕事は多くの場合技術的な困難性を伴い、誰にでもできるようなものではない。このため、そうした仕事は、資格や免許など、なんらかのかたちで従事者のクォリティを一定レベル以上に保ち、自由な参入を制限するしくみになっていることが少なくない。

こうした仕事に従事する人々を私たちは「専門家」と呼ぶ。困難かつ重要な仕事を行うために必要な知識や技能を訓練によって身につけた人々だ。彼らはその仕事に関して何らかの意味で優遇された立場を与えられ、その引き換えに、一般人より高いレベルの注意義務と職務上の倫理などを備えていることを要求される。それに反すれば、いわゆる民事、刑事の法的責任、あるいは資格停止や免許剥奪、職場での処分、社会的名声の失墜など、さまざまなペナルティを受けることとなる。

もちろん、彼らとて、万能なわけではない。特に、専門家が取り組む仕事の中には高度に困難なもの、対処法がわかっていない課題などもあるから、手を尽くしても、うまくいかないことはある。したがって、一般人よりは高度な注意義務を負うとしても、無過失責任を負わされているわけではない。たいていの場合、専門家としてきちんとすべきことをした上でいい結果が得られなかった場合には、それ以上の責任は負わないですむようになっている。併せて、その専門性から、業務上の判断について、ある程度の裁量の余地が認められるのがふつうだ。

今回の警察の誤認逮捕について、捜査官個人に対する刑事責任の追及はなさそうだ。基本的にこれは通常の取り扱いといえる。警察官が犯罪の疑いのある者を逮捕して取り調べることは職務の執行として当然のことだ。問題はそれが適切に行われたかどうかで、たとえば自白を誘導して虚偽の上申書や調書を書かせたり作成したりすることが何らかの犯罪にあたらないのかなど、素人目には議論の余地がありそうにも見えるが、実際のところ、物証を直接偽造、改竄したケースを除いて、取り調べ時の誘導が犯罪として摘発されたケースは寡聞にして知らない。警察官が必要な捜査を尽くさなかったという理由で個人の刑事責任を問われたケースも聞いたことがない。

これ自体には必ずしも納得するものではないが、同時に、こうした業務については、職務執行の経過で行われるさまざまな判断にある程度の裁量の余地があるべきという主張も理解できる。法律上の議論はさておき、警察官の職務執行における過失の責任をあまりに厳格に追及しようとすると、萎縮を招き、かえって悪影響が懸念されるからだ。警察官が事件化を渋ったために起きてしまったストーカー殺人事件を思い出す人もいるだろう。あの事件自体はともかく、捜査上の勇み足による警察官個人への責任追及のリスクが高まるとすれば、あの種の事件の予防がより難しくなるだろうことは容易に想像できる。誰だって犯罪が野放しになる社会を望んではいないだろう。

専門家という意味では同種の職業である医師に関しても、似た問題がある。医療過誤事件において、医師が民事責任のみならず、刑事責任を問われるケースが増えている件については、以前、この「シノドスジャーナル」でも取り上げた。「専門分化の「帰結」:専門家の3つの「受難」

医師も、警察官と同程度、あるいはそれ以上に専門性が高く、社会にとって重要な意義をもち、かつ困難な課題に取り組んでいるが、医療行為については国家賠償法の対象にもならないわけで、業務遂行に関して法的責任を問われる度合いは、警察官と比べて高そうに思われる。上記記事では、訴訟リスクが他の診療科と比べずば抜けて高い産婦人科で、他の診療科と比べて医師数の減少傾向が際立ち、高齢化が進んでいると指摘した。

もちろん、リスクの高さには高齢出産の増加なども関係していようし、数の減少には勤務の厳しさや少子化などに起因する部分もあるだろう。しかし、リスクの高さが産婦人科医師数の減少に全く影響していないと考えるのもまた現実味を欠く。こうした医師個人への責任追及の動きは、無視できないレベルの萎縮効果を医療の現場に与えているのではないか。

医師に限らず、会社経営者やいわゆる「士業」の人々、学者など、専門家個人への責任追及の動きは、広まりつつある流れのように思われる。そう考えると、これまで制度上あるいは運用上、個人への厳しい責任追及から概ね免れてきた警察官も、いつまでもそうした立場を享受できるかわからない。

現場の裁量と事後的な検証

専門家がその知識や技術を存分に活用して社会に貢献してもらうためには、彼らが思い切って力をふるえる環境を整える必要がある。一方、職務の重要性を考えれば、彼らにはそれにふさわしい高度な責任感をもって仕事に臨んでもらいたい。この2つがしばしば対立し、ジレンマとして認識される。両者をどうバランスさせれば私たちの社会が全体としてよりよくなるかが問題となっているわけだ。

もちろん警察への不信も、高い評価と期待の裏返しではある。今回の件を受けて、おそらくいっそう慎重な捜査を行うよう現場に指示したりするのだろうが、組織構造や文化に根ざしたこのような問題を「気をつけろ」で解決することはまず不可能だし、気をつけたところで人々の不信を解消することもできまい。「科学捜査の限界を理解せよ」「自白を偏重するな」などと言うはたやすいが、具体的な手立てがなければ空論にすぎない。

このジレンマを解くカギの1つは、取り調べのプロセスに関する検証可能性を向上させることだろう。具体策はいろいろ考えられようが、取り調べの全面可視化は欠くべからざる要素だと思う。今回の遠隔操作ウィルス事件で警察は、被疑者を誘導して事実でない「自白」をあたかも自分の意志でしたかのように引き出しているのではないかと疑われている。もっとはっきりいえば、部分可視化はその誘導している部分を見られたくないがゆえの主張ではないかと疑われているのだ。全面可視化以外にその疑いを解く方法はない。

不完全な情報の下で意思決定を行う以上、事後的に見て常に正しいということはありえないが、事後的な検証はできる。その時点その時点で適切な判断をしていたかどうかをあとで検証される可能性があることは、現場の警察官たちにとって、現場での怠慢や欺罔を許さぬプレッシャーとなるはずだが、同時にそれは、彼ら自身をあらぬ疑いから守ることにもなる。そうした検証可能性を前提としてはじめて、私たちは彼らの専門性に基づいた裁量を許容することができるようになろう。つまり、現場での裁量と事後的検証をセットで考えるべきなのだ。

今回のような不手際(あるいは疑惑)に接すると、どうしても厳しい意見に傾きがちだが、一般論として、専門家の業務遂行に関して、刑事責任を含む個人への責任追及を厳しくしようという方向性は、社会全体として、また私たち自身にとって必ずしも得策ではない。彼らの仕事については、一般にいわれているのとはちがった意味で、「ごめんですむなら警察はいらない」領域を、意識的に保っておく必要がある。ここでいう「ごめん」の中には所属組織や保険等のしくみによる賠償も含む。要するに、個人に対する過剰な責任追及はよくない、ということだ。

警察に関しては、組織の閉鎖性と身内への甘さ(少なくとも外部の多くの人々がそう思っているだろう)が冷静な議論を難しくしている。2001年に発生した明石花火大会歩道橋事故では、不起訴になった警察官に対し、検察審査会が何度も起訴相当との議決を行い、法改正もあって結局起訴される運びとなった。あの事件での起訴判断の当否はともかく、人々の目が次第に厳しさを増していることは事実だ。警察自身が、取り調べ全面可視化など、業務遂行過程の検証可能性を高める努力を行わなければ、事後的に警察官個人への刑事責任追及を求める動きは今後いっそう強くなっていくだろう。繰り返すが、それは彼らにとっても私たちにとってもいい方向ではない。

高い期待に応え存分に職務を遂行していくことと、権限の濫用に対して厳しいチェックを受けていくことは、一見矛盾するかのようにみられがちだが、これらを、同じゴールをめざした表裏一体のものととらえることが求められているように思う。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

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