2018.02.26

教育はイデオロギーでなく「運用」で語れ――安全装置としての「理想の日本人像」

『文部省の研究』著者、辻田真佐憲氏インタビュー

情報 #教育勅語#新刊インタビュー#文部省

明治維新後の「独立独歩で生きてゆく個人」、戦時期の「天皇に奉仕する臣民」、戦後の「平和と民主主義の担い手」、そして高度成長時代の「熱心に働く企業戦士」と、文部省は時代の要請にこたえて「理想の人間像」を打ち出してきた。その軌跡には近代日本の姿がそのまま映し出されている。『文部省の研究』の著者、辻田真佐憲氏に150年の日本の教育の歴史と、いまなぜ「理想の日本人像」なのかを伺った。(聞き手・構成 / 芹沢一也) 

普遍主義か、共同体主義か

――本日は『文部省の研究』を出版された辻田先生に、文部省と「理想の日本人像」というテーマをめぐってお話を伺います。最初に本書のコンセプトを教えていただけますか。

「国家百年の大計」である教育は、経済的な数字だけでは成り立ちません。どうしてもそこにイデオロギー的な要素が入り込んできます。

修身、唱歌、「教育勅語」、「国体の本義」、思想局、教学局、国民精神文化研究所、「教育基本法」、「国民実践要領」、「期待される人間像」、国旗国歌問題、「改正教育基本法」、教育再生実行会議などなど……。こうした文書や組織などには、以前から強い関心がありました。過去の著作である『日本の軍歌』では唱歌について触れましたし、『ふしぎな君が代』ではまさに国歌問題を取り上げました。

こうしたものをひとつの歴史のなかで俯瞰できないか。そう考えるうちに、文部省にたどり着きました。教育関係の組織や人物は入れ替わりが激しいですが、文部省とその後継の文部科学省はこの約150年間ずっと存在していましたので、近代日本の教育を定点観測にするのに最適だったわけです。

最終的に、文部省の歴史とともに、それが担った「理想の日本人像」の変遷をたどるというかたちで以上の内容をまとめることにしました。その歴史のなかで、「理想の日本人像」は、普遍主義と共同体主義のあいだで揺れ動いた、というのが本書の見立てです。

――普遍主義と共同体主義、というのは?

大まかに言えば、普遍主義は世界の価値観を基準にする考え方で、共同体主義は日本の価値観を基準にする考え方です。

明治維新以降、日本は欧米列強に追いつくため、欧米の思想や制度を積極的に取り入れ、世界で通用する普遍的な人材を育成しようとしてきました。そのいっぽうで、国民国家の統合を進めるため、日本という共同体の歴史と責任を担う国民を育成しようとしてきました。

この相反する志向をいかに調和させるか。それが日本の教育の一大テーマだったといえます。普遍主義に偏れば共同体が分解してしまいますし、かといって共同体主義に偏れば視野狭窄に陥ってしまいます。それは、今日のグローバリズムとナショナリズムのあいだにも当てはまるでしょう。

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啓蒙主義と儒教主義との対立

――文部省が担った「理想の日本人」像を辿った本書を読むと、近代日本の歴史、あるいは自画像が凝縮されていてとても面白かったです。具体的にお聞きしていきたいのですが、維新後の20年くらいは教育方針をめぐって、いまおっしゃられたように欧米式の啓蒙主義と復古的な儒教主義の対立が起きていますね。

明治新政府は教育こそ日本の近代化を左右すると考えていました。いかに強力な兵器を揃えても、いかに立派な工場を建てても、一般国民が無学で無気力では宝の持ち腐れになってしまうからです。

――これから欧米に伍して国を建てていこう、という時代ですもんね。

そうです。そこで教育の方針としては、はじめ欧米式、とくに英米仏の啓蒙主義が採用されました。独立した国家を作るためには、自力で一人前になり、社会の発展に貢献する、独立独歩の個人をまず養成しなければならないというわけです。

このような考え方は、1872年の「学制」で明示されました。これは、当時ベストセラーとなった、スマイルズの『自助論』の「(自助の人民が多ければ)その邦国、必ず元気充実し、精神強盛」や、福沢諭吉の『学問のすすめ』の「一身独立して一国独立す」などとも共鳴していました。

――世界の価値観を基準とする普遍主義の方向ですね。

はい。それに対し、教育の方針としては、伝統的な儒教の徳目を大切にすべきだとの反論が起こりました。1879年の「教学聖旨」がその象徴です。独立独歩の個人などというのは幻想であって、かえって年長者を侮り、空理空論を弄ぶ風潮を生んだだけではないかというのがその主張で、明治天皇の侍講であった元田永孚が起草したといわれます。

――こちらが日本の価値観を基準とする共同体主義と。どちらが勝ったのですか?

明治政府は、自由民権運動に対抗するなどの理由から、徐々に儒教主義にかじを切りました。啓蒙主義は、自由民権運動と親和性が高かったからです。ただ、1880年代前半はまだどちらともつかない状態でした。

「教育勅語」という第三の道

――決着は明治23年に発布された「教育勅語」で着くわけですね。

「教育勅語」は、「大日本帝国憲法」の起草者のひとりでもある井上毅によって起草されました。有能な法制官吏である井上は、絶妙なバランス感覚の持ち主でした。かれは、山県有朋宛の書簡で「教育勅語」に「漢学の口吻と洋風の気習」を持ち込んではならないなどと述べています。

――自由民権運動、つまりは反政府運動に結びつく啓蒙主義がダメなのは理解できるとして、意外にも儒教主義も退けられてるんですね。

「教育勅語」は「克ク忠ニ克ク孝ニ」などの言葉づかいから儒教的と思われがちですが、じつはそうではありません。むしろその文言を一部利用しながら、個人を近代国家の国民道徳に結びつけたところにポイントがありました。井上は、元田永孚の介入を受けつつも、起草段階で四書五経に由来することばを大量に削除しています。

たとえば、歴史学者の家永三郎はその点をよく見抜いており、アジア太平洋戦争の敗戦後すぐに「教育勅語」について「頗る普遍性豊にして近代的国民道徳を多分に盛つた教訓」などと述べています。

――「教育勅語」というとどうしても戦前の軍国主義の経験を投影しがちですが、「教育勅語」の普遍性を評価する立場もあるんですね。

はい。といっても、「教育勅語」は啓蒙主義でもありません。独立独歩や自発性は強調されていません。そもそも井上は、福沢諭吉を痛烈に批判しています。

「教育勅語」は、最終的には、天皇国家に奉仕すること(以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ)を求めました。その意味では、啓蒙主義でも、儒教主義でもない、日本独特の国家主義。当時の『東京日日新聞』社説のことばを借りれば、「国体主義」と呼べるのではないかと思います。

――ちなみに、儒教主義はなぜダメだったんですか? 

たんに復古的な考えでは、欧米の文化や技術を受け入れる上で障害になります。また、儒教の徳目では、近代国家の価値観をカバーできなかった点も見逃せません。

――そして「国体主義」に落ち着いたと。

この時代にふさわしい、普遍主義と共同体主義の折衷案と理解できるでしょう。

「教育勅語」起草時の日本は、日清戦争に勝利する前で、東アジアの弱小国家にすぎませんでしたから、このような内容になったのは当然だったわけです。当然ながら、「日本は神の国」といったファナティックな内容も入っていません。

「逆・教育勅語」

――後年のように夜郎自大なことを言ってる場合ではなかったんですね。ところで、「逆・教育勅語」という試みが一部で話題ですが、辻田先生は教育勅語のこのような再評価についてはどう思われますか?

いわゆる「逆・教育勅語」は、教育勅語の徳目を反転させ、その不道徳ぶりを示し、そこからオリジナルの教育勅語の普遍性を主張するというアクロバティックな論法です。1950年代に里見岸雄によって提唱されましたが、近年、倉山満によってあらためて取り上げられ、一部で注目を集めています。

しかし、この論法は明らかに無理があります。都合よく徳目を抜き出して、反転させるならば、ほかの文献でも容易に普遍性を主張できるからです。「逆・論語」や「逆・聖書」などを考えてみてください。

また「どこをどう逆にするか」も問題です。たとえば、倉山版「逆・教育勅語」では、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の逆が「勇気をもって国のため真心を尽くしてはいけません」となっていますが、これでは天皇の存在が抜け落ちており、逆になっているとはいえないでしょう。

――大事なところがすっぽり抜けてますね。

戦後の「教育勅語」肯定論者は、このように天皇の存在を曖昧にしがちです。天皇を擁護せよという主張は、さすがに戦後社会では受け入れられにくいと思っているのでしょうか。いずれにしても、このような解釈は、戦前であれば許されなかったと思います。このような戦後の「教育勅語」肯定論については、『教育勅語と日本社会』(岩波書店)掲載の拙稿をご参照ください。

それはともかく、「逆・教育勅語」は、詭弁の一種といわなければなりません。

天皇に無条件で奉仕する臣民

――時計の針を進めます。「教育勅語」の時点では、後の時代にもその普遍性が評価できるほどの健全性があったとのことですが、結局、戦前の教育は『国体の本義』や『臣民の道』といった個人主義の抑圧に行き着いてしまいました。

おっしゃるように、『国体の本義』(1937年)では、個人主義が諸悪の根源として徹底的に批判されます。日本をめぐる思想的・社会的な混乱は、個人主義に由来する西洋思想を十分に消化せず、急激に受け入れたせいだというのです。

そのため、同書で示された「理想の日本人像」は、個人主義の対極にあります。日本では、個々人はあくまで全体のなかの部分にすぎない。天皇と臣民の関係も「没我一如」であって、そこに支配服従・権利義務の関係はなく、天皇にたいする絶対随順は止みがたき自然の心の現れであるとさえいわれます。

このような「理想の日本人像」は、「天皇に無条件で奉仕する臣民」とまとめられるでしょう。

――戦争がはじまると、『臣民の道』でその理想像がより強く打ち出されたわけですね。

そう。『臣民の道』(1941年)でも個人主義が否定され、「人は孤立せる個人でもなければ、普遍的な世界人でもなく、まさしく具体的な歴史人であり、国民である」と強調されました。そのうえ、「遊ぶ閑、眠る間と雖も国を離れた私はなく、すべて国との繋がりにある」とまでいわれます。

この時期の「理想の日本人像」は、普遍主義を否定し、共同体主義にもっとも傾斜したものだったといえるでしょう。「教育勅語」などよりもはるかに現実離れした理想像だったといえます。

真理と平和を希求する人間

――そして敗戦を迎え、一転、教育が普遍主義の方向に振れます。戦前の軍国主義への反省のもと、日本はふたたび民主化への道を歩み始めますが、そうしたなか「教育基本法」が制定されて民主主義教育の基盤となります。

「教育基本法」はGHQの押しつけだったとの主張もありますが、じつは日本人の発意で作られました。当時の文部省関係者は、「教育基本法」に「教育宣言的な意味」と「教育憲法的な意味」の性格を与え、そのなかで戦後日本にふさわしい「理想の日本人像」を示そうとしたといわれています。

「教育基本法」の内容をめぐっても進歩派と保守派が対立したのですが、最終的に進歩派の意見を中心にまとまりました。そのため、その内容は復古的ではなかったものの、理想主義的で、いささか抽象的なものになりました。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間」とか「平和的な国家及び社会の形成者」といったものです。

ところが、意外にも、制定当時「教育基本法」は進歩的な教育者から批判されています。文部省が密室で決めたものであり、中身も美辞麗句が並ぶだけだといわれたのです。

ただ、本格的に同法が批判されはじめたのは、第三次吉田茂内閣のときです。吉田首相は、同法について「民主主義国ならどこの国にも通じることが常識的にならべて法律にしたまでのこと」と指摘し、「歴史と伝統のある日本人全体に感銘を与えるような血の通った教育信条のようなものがほしい」と述べたといいます。

――第三次吉田内閣というと1949年から50年にかけてですから、ずいぶん早く共同体主義からの批判が出ていたんですね。

はい。「教育基本法」に、日本的な価値観、共同体的な価値観を入れよというのは、それ以来保守派による同法批判の骨子となりました。その改正案や「教育勅語」の代用物のようなものも数多く提案されました。これに対抗するかたちで、革新派は最初こそ批判的だったものの、のちに「教育基本法」の擁護に回るようになり、55年体制の保革対立の構図ができあがります。

――これはいまだに、保守とリベラルをわける対立軸として機能していますね。

「教育基本法」はいつしか左右対立のわかりやすい記号となってしまいました。否定すれば右、肯定すれば左というわけです。もう少し是々非々で中身について議論ができればよかったのですが。

「個性」と「愛国心」

――高度成長時代を迎えると企業戦士の育成が課題となり、「責任をもって黙々と働く日本人」という理想像が打ち出されます。そして、日本が成熟した先進国としての地位を占めた80年代になると、臨教審が「個性」ということを言い始めます。

戦後の日本では、戦後復興と高度経済成長のため、長らく詰め込み式の画一主義的な教育が行われていました。ところが、当時の日本はすでに経済大国であり、その転換が求められていました。臨教審はこのような認識のもと、教育の自由化をめざしました。それが最終的に「個性重視の原則」ということばとなって現れることになります。

個性それ自体は立派な理念のように思えます。ただ、臨教審の「個性」はたんなる個人主義の謳歌ではないので、その「実装」に注目する必要がありました。

――「実装」と言いますと?

個性重視は、画一主義否定の美名のもとに、エリートとそれ以外を区別する教育を是認することばにもなりかねないということです。

多種多様な教育を行うのは結構ですが、エリート教育には国民間の分断を引き起こす副作用もあります。それをおさえて、いかに「理想の日本人像」を実現していくか。このような理想の「実装」面がもう少し問題になってもよかったのではないかと思っています。これは、その後の教育改革にもいえることだと思います。

――実際には「個性教育」は良くも悪くも定着はしなかったですね。さて、2006年には改正教育基本法が成立し、今度はまた一転、「愛国心」が謳われるようになりました。

「改正教育基本法」は、第一次安倍晋三政権のときに改正されたことから、その保守的な側面に注目が集まりがちです。

じっさいに、これまでの「教育基本法」への批判を受けて、前文には「伝統」や「公共の精神」などのことばが付け加えられ、第二条(教育の目標)には「道徳心を培う」「公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養う」「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」などの文言が盛りこまれました。

ただ、よく読めば、たんに保守色が強まっただけではありません。

――どういうことでしょうか?

第一条(教育の目的)には「平和で民主的な国家及び社会の形成者」ということばがあります。また、第二条には「他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」などのことばもしっかり入っています。

――それは建前ではないでしょうか?

いえ、ここで旧「教育基本法」の歴史が参照されるべきです。同法は、先ほど申し上げたように、制定当初、進歩的な教育者に批判されました。ただ、保守派の批判を受けて、読み替えられ、一転して擁護されてきたという歴史があります。

「改正教育基本法」にもそのような読み替えが可能であるように思います。つまり、こちらもまた「実装」面で改善の余地があるということです。一方的な「改悪」との批判は、こうした柔軟な議論を阻害するおそれがあります。

安全装置としての「理想の日本人像」

――イデオロギー的に「改正教育基本法」をただ否定するのは生産的ではない、ということですね。「実装」の段階で普遍主義的な文面の方向に読み替えていけと。そういえば辻田先生は、「理想の日本人像」を安全装置として利用せよ、と主張されていますね。

「理想の日本人像」などというものはすべてフェイクです。万人によって模範的な理想像などありえないですし、価値観が多様化した現在だとなおのことそうです。ですので、どのような「理想の日本人像」が提示されたとしても、内容を細かく分析して、これを否定することは容易でしょう。

――そもそも「理想像」なるものが必要なのでしょうか?

全国民的な教育を行おうとすると、どうしても一定の理想像を参照せざるをえません。それをあまりにないがしろにすると、一部の熱心なひとたちによって現実離れした理想像が作られてしまいます。それがここ十数年の歴史であるように思います。

――なるほど。放っておいたら最悪のものがつくられてしまうので、よりましなものをつくっておいた方がよいということですね。

そうです。そこで、「これぐらいならば問題ないのではないか」という理想像を提示しておくのがよいのではないでしょうか。つまり、「理想の日本人像」を特定の思想をブーストするための装置ではなく、特定の思想の暴発を制御する安全装置として利用するということです。

同志社大学の設立者である新島襄は1888年に、「国家百年の大計」ということばをつかって、つぎのように述べています。

「もしも立憲政治を百年後にも継続したいのであれば、決して個々の法律や制度だけに依存すべきではない。国民が立憲政治のもとで生活できる資質を養成しなければならない。そして立憲政治を維持するのは、知識があり品性があり自ら立ち自ら治めることができる国民でなければならない。そうであれば今日、この大学を設立するのは、まことに国家百年の大計でなくてなんであろうか」(『現代語で読む新島襄』の現代語訳より)

「国家百年の大計」「理想の日本人像」というと、いかにも右翼的に聞こえるかもしれませんが、かならずしもそうではないことはここからもわかるかと思います。

イデオロギー対立をこえて

――名ではなく実を取るというか、とてもプラグマティックなスタンスですね。ただ、こと教育となると保守とリベラルがイデオロギー的に対立しがちです。

教育は成果が出るまで時間がかかるので、どうしてもイデオロギーの空中戦になりやすい分野です。そこで、いかにその弊害を中和するのかが重要になってきます。

その点で、文部科学省の役割りは重要だと思っています。政治家がいかに親しいイデオローグたちを集めて提言を行ったとしても、じっさいの教育政策や学校教育にそれをそのまま使うことはできません。

そこで、文科省が、フィルターとしての役割りを果たすわけです。つまり、法令などに落とし込むときに、内容をより中立的で科学的で現実的な内容に改めるということです。天下り問題や加計学園問題で悪目立ちしてしまった同省ですが、もともとは地味にそのような役割りを果たしていたのではないでしょうか。

昨年11月に刊行された前川喜平、寺脇研両氏の対談本『これからの日本、これからの教育』にそのようなエピソードが掲載されていました(http://bunshun.jp/articles/-/5004)。

――最後に教育論議はどうあるべきか、辻田先生のお考えを教えてください。

わたしはかつて著書で「君が代」について運用論で解決すべきだと提案したことがあります。「肯定か」「否定か」のイデオロギー論争では、いつまでたっても解決しません。むしろそのときどきに政治的に強い立場のひとの意見が貫徹されてしまいます。

そこで、その運用のしかたを工夫することで、多くのひとびとにとって負担のないかたちに変えていったほうが現実的だと考えました。「君が代」については、「歌う国歌」ではなく「聴く国歌」にすべきだというのがわたしの提案です。

――「聴く国歌」というのは?

日本では、「国歌は絶対に歌うべきだ」という思い込みが根強くあります。しかし、世界を見渡すと、国歌の演奏時は起立し静粛にすることは求められますが、歌うかどうかは多くのばあい個々人に任されています。これは、国歌の歌詞が長くて誰もが覚えていないという問題もあります。日本はたまたま歌詞が短いので「斉唱」が強調されがちなのだと思います。

立って大人しくしているだけならば、負担もさほどないですし、「口を開け」「歌っているかどうかチェックする」などという滑稽なことも起こりにくいでしょう。考えてみれば、スポーツの大会では、プロの歌手や芸能人が国歌を歌って、それを観客が聴くというスタイルが定着しつつあります。詳しくは拙著に譲りますが、「聴く国歌」はこのような落としどころを提案したものです。

教育のほかの分野にかんしても同様のことがいえるのではないでしょうか。左右のイデオロギー対立をこえて、より柔軟な運用論へ。「理想の日本人像」を安全装置として用いるべきだというのも、こうした考えの延長線上にあります。

プロフィール

辻田真佐憲作家・近現代史研究者

1984年大阪府生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。現在、政治と文化芸術の関係を主な執筆テーマとしている。著書に『大本営発表』『ふしぎな君が代』『日本の軍歌』(以上、幻冬舎新書)、『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『愛国とレコード』(えにし書房)、『文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年』(文春新書)などがある。

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