2019.12.10
「不自由展」をめぐるネット右派の論理と背理――アートとサブカルとの対立をめぐって
はじめに
2019年8月、「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が右派からの抗議を受け、中止に追い込まれるなか、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のキャラクターデザインなどで知られるクリエーターの貞本義行が発したツイートが物議をかもし、炎上するという一幕があった。
「キッタネー少女像。/天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー。/かの国のプロパガンダ風習/まるパク!」などというその発言には、リベラル派からの激しい批判を中心に、千件を超えるリプライが付けられる一方で、右派からは続々と賛意が寄せられ、2万件近くもの「いいね」が付けられた。そうしたなか、貞本は釈明のツイートを投じていったが、するとそれに受けて5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)には関連するスレッドが立てられ、その援護が試みられた。
「不自由展」の検証委員会によれば今回の騒動は、「電凸」などによる抗議が「祭り」に転換することによって起きたものだという。「電凸」にしても「祭り」にしても、元来はいわゆる2ちゃんねる語だ。だとすれば今回の件は、2ちゃんねる文化の、そしてその中で育まれてきた「ネット右派」の文化の一つの現れだったと見ることもできるだろう。そしてそこで彼らの「部族文化」として強く志向されてきたのが、とりわけマンガやアニメなどのオタク系サブカルチャーだった。
実際、ネット右派とオタク系サブカルチャーとの結び付きが強いことは、これまでのさまざまな事例からも見て取ることができる。たとえば1990年代の小林よしのり、2000年代の山野車輪、10年代のはすみとしこなど、この運動の「エバンジェリスト」となってきた者の多くはマンガ家だった。また、ゼロ年代半ばに急激な「右旋回」を遂げた日本青年会議所(JC)は、啓蒙のために何本かの本格的なアニメ作品を制作している。さらに10年代初頭に創刊されたオピニオン誌『JAPANISM』(青林堂)ではしばらくの間、美少女アニメ風のイラストが表紙に用いられていた。
こうした結び付きの延長線上に立って彼らは今回、アート、とりわけアクティヴィズム系アートというジャンルへの抗議に当たり、サブカル、とりわけオタク系サブカルチャーというジャンルのもとに結集し、その第一人者としての貞本を援護することになったのだろう。そこでは左右のイデオロギー対立の構図が、「アートとサブカル」との対立として焦点化されていたと言えるだろう。
今回の件では一般に、河村たかし名古屋市長らによって加えられた政治的圧力と、それに呼応するかたちで一部の勢力によって行われた脅迫行為とが問題とされている。弾圧的な公権力とそれに帯同する狂信的な右派という、まるで戦前の超国家主義体制を思い起こさせるような構図が問題とされているわけだが、しかし一方でその背後には、オタク系サブカルチャーとそれに帯同するネット右派という、より漠然とした、しかもより分厚い層があったことを見落としてはならないだろう。今回の件の大きな支えとなっていたのは、実はむしろそうした層だったのではないだろうか。
そこで彼らは何を問題化し、何に反発していたのだろうか。また、そこにはどのような論理があり、そしていかなる背理が孕まれていたのだろうか。本論ではこうした点に着目し、貞本の一連のツイートを手がかりに、「不自由展」をめぐる議論に独自の角度からの考察を加えてみたい。
特権的な文化エリートへの反発
ここでまず今回の件をめぐる対立を、「権威主義対反権威主義」という構図から整理してみよう。今回の件では一般に、公権力とそれに帯同する右派が権威主義の側に、アクティヴィズム系アートとそれに帯同するリベラル派が反権威主義の側に位置付けられている。
つまり歴史修正主義に与し、天皇中心主義に依拠しているとされる権威主義的な体制に対して、アクティヴィズム系アートが反権威主義的な立場から問題提起を行ったところ、弾圧的な公権力とそれに帯同する狂信的な右派という、さらに権威主義的な体制が現れ、それを押しつぶしてしまった。そこでリベラル派がやはり反権威主義的な立場から異議申し立てを行った、ということになるだろう。
こうした構図に従うと、貞本とその援軍としてのネット右派は権威主義の側に位置付けられることになる。つまり歴史修正主義を奉じ、天皇中心主義を信奉しているがゆえに、いいかえれば日本は正しかったという信念や、天皇は神聖なものだという信条のゆえに、それらが批判されたことに対して反発した、ということになるだろう。確かに一部の「電凸」などではそうした論理が執拗なまでに強調されていた。
しかし一方で貞本の釈明のツイートには、歴史の話題も天皇の話題も一切出てこない。いいかえればそこでは、歴史修正主義や天皇中心主義を擁護しようとする姿勢は示されていない。つまりそれらは貞本の中で、実は反発の核心にあった本質的な問題ではなかったということだろう。代わってそこに提示されていたのは、釈明になっているかどうかもよくわからないような、個人的な体験に基づく「アート論」だった。
貞本によれば「アートとは、今一番部屋に貼りたい絵なのだ」という。それが「少年時代は、ジャンプの通販で買った映画イージーライダーのキャプテンアメリカのポスター」だったが、「中学になると宇宙戦艦ヤマトに変わり、高校では菊池桃子のポスターに」変わった。この「アート論」は大学時代の「友人の受け売り」だが、当時「芸術家に憧れてた」という貞本は、それを聞いて「迷いが吹き飛んだ」ため、卒業制作では「初めての優評価」を得た。「批評会では/不服そうな教授もいた」が、「口調が気にくわないから/あんたの作品が嫌い」と評価されてもかまわないと考えたという。
ここに示されているのは、歴史修正主義や天皇中心主義に傾倒している「権威主義的パーソナリティ」の姿などではないだろう。「イージーライダーのキャプテンアメリカ」の例や「不服そうな教授」への反発の件に示されているように、そこではむしろその反権威主義的な姿勢が強調されている。しかもそれはマンガ、映画、アニメ、アイドルなどのサブカルチャーに支えられ、「部屋に貼りたい」という直接的な情動を伴うものとして提示されている。一方でそこで権威主義的な存在として設定されているのは、かつて「憧れてた」という「芸術家」や「教授」など、特権的な文化エリートの世界だろう。
そしてそうした世界の一画を成すものとして批判されていたのが、アクティヴィズム系アートというジャンルであり、その作品群だった。貞本によればそれらは「造形物として魅力がなく」、「プロパガンダをアートに仕込む行為」に終始しているため、「面白さ! 美しさ!/驚き! 心地よさ」が「皆無」で、「コンセプチャルな刺激」も感じられないという。
つまりそれらは「プロパガンダ」、すなわち「言論」的な要素に過剰に色付けられてしまっているため、「造形」的な要素に十分な創意が注がれていないということだろう。そのためそうした作品を理解するためには、それらを造形的に感知することよりも、むしろ言論的に読解することが求められる。
ただしそこで貞本はコンセプチュアルアートそのものを批判していたわけではない。実際、それらの作品には「コンセプチャルな刺激」も感じられないとされ、一方で貞本なりのコンセプチュアルアートのアイディアも紹介されている。
つまりそこで批判の眼目とされていたのは、単に作品が言論的な要素に色付けられていることではなく、一方向的に意味付けられてしまっていること、また、単に作品を言論的に読解することが求められていることではなく、特定の言説をそこに読み取ることが強いられていることだろう。そしてアクティヴィズム系アートの領域では、多くの場合、そうした言説のもとになっているのはリベラル派のイデオロギーだった。
つまり特定のイデオロギーに基づく特定の言説に作品が色付けられ、一方向的に意味付けられてしまっているため、そこにはどこか啓蒙主義的・規範主義的な性格が生じていると捉えられたのだろう。自由な解釈を許さないような、どこか教条的・独善的なそうした態度の中に貞本は、「芸術家」や「教授」などの特権的な文化エリートの世界に通じるような、権威主義的な匂いを嗅ぎ取ったのではないだろうか。
そしてそうした感覚は、ネット右派の間では以前から広く共有されていたものだった。つまりオタク系サブカルチャーという彼らの「部族文化」を足場に、リベラル派の教条的・独善的な態度と、それゆえのある種の「単純さ」を批判するという行動は、いわば彼らの「伝統芸」の一つだった。そこで今回も彼らは貞本に帯同し、さらに貞本を担ぎながら、アクティヴィズム系アートの領域を攻撃することになったのだろう。
権威主義と反権威主義、単純さと複雑さ
こうして見ると今回の件は、「権威主義対反権威主義」という構図の中に納まるものではなかったことがわかるだろう。権威主義的な体制の大きな支えとなっていたのは、実は彼らの反権威主義的な気分だった。だとすれば今回の件はその底流では、むしろ「反権威主義対反権威主義」の争いだったと見ることもできる。だからこそそこではひときわ激しい、しかもどこか噛み合わない戦いが繰り広げられたのではないだろうか。
なお、そこでアクティヴィズム系アートというジャンルが彼らのターゲットとなったことの背景には、特にもう一つの理由があったと考えられる。それはそもそもこのジャンルが、反権威主義的な姿勢をひときわ強く見せていたことだろう。
つまりそうして反権威主義的な構えを見せながら、しかし実際には権威主義的な高みの中にいるというスタンスを、いいかえれば反権威主義的と見せながら実は権威主義的であるようなスタンスを、彼らはそこに見て取り、そしてそこにある種の「卑劣さ」を感じ取ったのではないだろうか。その結果、そうした「偽物の反権威主義」を正すことが「真正な反権威主義」を貫くこととして捉えられるようになる。そうした認識が彼らの行動を正当化し、後押ししていったのだろう。
そして今回、そうしたスタンスをシンボリックに体現している存在として彼らの敵意を一身に引き受けることになったのが、芸術監督の津田大介だった。その「金髪」の反権威主義的なスタイルと、一方で大学教授の座に就き、大新聞の論説委員を務めているという権威主義的なステータスとの距離が、彼らにはどうにも苛立たしかったのだろう。かつての鳥越俊太郎など、そうしたスタンスのジャーナリストをことさら敵視することも、やはり彼らの「伝統芸」の一つだった。
では一方で、彼ら自身はその「真正な反権威主義」を貫いていたのだろうか。実はそうではないだろう。彼らの行動は、実は彼らの論理そのものを裏切っているものだった。そうした彼らの背理を示す問題として、ここでは特に二つの点を指摘しておこう。
まず第一に、彼らの反権威主義的な行動は、実は権威主義的な体制に支えられて成り立っていたものだった。つまり貞本のような「反権威主義的パーソナリティ」を応援することは、河村市長や菅官房長官のような「権威主義的パーソナリティ」に支援されていることと表裏一体となっていたものだった。そうした彼らのスタンスは、むしろ反権威主義的な構えを見せながら、しかし実際には権威主義的な支えの上にあるものだったと言えるだろう。だとすれば、反権威主義的と見せながら実は権威主義的であるようなスタンスを取っていたのは、いいかえればその「卑劣さ」のゆえに真に非難されなければならなかったのは、実はむしろ彼ら自身のほうだった。
第二に、アクティヴィズム系アートの中に教条的・独善的な態度を見て取ろうとした彼らの判断は、実はそれ自体、彼ら自身の教条的・独善的な態度に基づくものだった。たとえば貞本が「天皇の写真を燃やした後、足でふみつけるムービー」として非難していた大浦信行の作品は、そもそも天皇中心主義を一方向的に批判したものなどではない。そこでは天皇崇拝にも天皇批判にも単純に回収されないような、独自の角度からの問題提起が試みられていた。つまりそこに示されていたのは、自由な解釈を許さないような啓蒙主義的・規範主義的な態度などではなく、むしろその逆に、固定した解釈を許さないような反啓蒙主義的・反規範主義的な態度だった。
さらに言えば大浦は、そもそも右派へのシンパシーを抱いていたアーティストでもある。たとえば新右翼の活動家だった見沢知廉を題材としたドキュメンタリーを制作したことなどもある。しかもその見沢は、新右翼での活動ののち、小説家として活躍していた人物だったが、サブカルチャー評論家としても知られており、特に『エヴァンゲリオン』の大ファンだったという。
そうした見沢の「複雑さ」にかつて光を当てようとした大浦の新しい作品を、『エヴァンゲリオン』のクリエーターだった貞本が今回、その「複雑さ」に一切目を向けることなく、過度の「単純さ」から非難し、さらにそこにネット右派が同様の「単純さ」から雷同していたという経緯は、何とも皮肉なものだろう。だとすればやはり、自由な解釈を許さないような教条的・独善的な態度を取っていたのは、いいかえればその「プロパガンダ」のゆえに真に非難されなければならなかったのは、実はむしろ彼ら自身のほうだった。
戦後民主主義と戦争サブカルチャー
このように今回の件には、ネット右派という存在に特有の論理と背理の構造が、アクティヴィズム系アートとオタク系サブカルチャーとの対立という状況をめぐってシンボリックに現れていた。ではそうした構造は、そもそもどのような経緯で形作られてきたのだろうか。しかもその際、オタク系サブカルチャーがそこで重要な役割を演じるようになったのはなぜなのだろうか。
元来、この種のサブカルチャーはむしろ左派との結び付きを強く持つものだったと見ることもできる。たとえば貞本の「先輩」に当たり、『機動戦士ガンダム』のキャラクターデザインなどで知られるクリエーターの安彦良和は、60年代末の学生運動とサブカルチャーとの結び付きについて繰り返し言及している。しかしその後、90年代になってネット右派が形成されると、オタク系サブカルチャーは右派から強く志向されるようになり、彼らの「部族文化」として採用されることになった。それはなぜなのだろうか。
そうした点について考えるためには、そもそもネット右派という存在が、そしてオタク系サブカルチャーというジャンルがどのような経緯で形作られてきたのかを、特に両者の関係という観点から考えてみる必要がある。そしてそこで両者がなぜ結び付くことになったのか、いかなるロジックがそこに働いていたのかを考えてみる必要がある。
そこで次に歴史社会学的なアプローチからこれらの点について検討することにより、今回の件の背景にあった事情をさらに深く掘り下げてみたい。以下、歴史的な経緯を振り返りながら考えていこう。
ネット右派とオタク系サブカルチャーとがなぜ結び付くことになったのか、その根本的な理由を考えるためには、このジャンルが明示的に成立する以前からその基盤となってきたあるジャンルにまず注目してみる必要がある。それは「戦闘サブカルチャー」とでも言うべきジャンルだ。1990年代の『エヴァンゲリオン』から遡れば、80年代の『ガンダム』から70年代の『宇宙戦艦ヤマト』へと至るものであり、さらにその原点には60年代の戦記マンガとプラモデル、とりわけミリタリーモデルの一大ブームがあった。
このジャンルがそれらのブームを通じて最初に成立したのは、1960年代前半、日本が高度経済成長期を迎えたころのことだった。一方で「戦後民主主義」という語が使われ始め、その理念が成立したのとほぼ同時期のことだ。つまり当時、日本社会の中から先の戦争の記憶が徐々に薄れていくなかで、「戦争」のリアルさをあらためて見つめ直そうとする「大人たち」の構えが戦後民主主義という理念に結晶する一方で、「戦闘」のリアルさをそこに見つけ出そうとする「子供たち」の構えが戦闘サブカルチャーというジャンルに結実したと言えるだろう。
当時の学校世界では、戦後民主主義的な言説がいわば日教組的な教条に翻訳され、教師から子供たちへとその「布教」が行われるのが常だった。そこでは戦争を絶対悪として全否定しようとする意気込みのあまり、戦争に関わる一切の思考をヒステリックなまでに排除しようとするかのような態度がときに示される。そうした態度に反発し、戦後民主主義的な言説の「押し付け」に対抗しようとした当時の子供たちが、自分たちなりの目線で戦争を思考してみたいと望んだところに生み出されたのがこのジャンル、戦闘サブカルチャーだったと言えるだろう。
とはいえそれは、戦後民主主義という理念に対抗しようとするものだったわけではない。むしろそれを受容し、彼らなりの目線でその理解を推し進めていくためのものだった。いいかえればそれは、むしろそれ自体として戦後民主主義的な現象の一つだったと言えるだろう。そのためそこでは「戦闘」のリアリティが追い求められ、そのカッコよさがマニアックに表現される一方で、「戦争」のリアリズムが追及され、その不条理さが執拗なまでに描き込まれる。『ヤマト』から『ガンダム』へと至る流れの中で、さまざまなアプローチを伴いながらそうしたスタンスが確立されていった。
そこで彼らは、なぜ戦争が起きたのか、起きなければならなかったのかを、『ヤマト』のガミラス帝国や『ガンダム』のジオン公国のさまざまな事情を検討しながら考察していく。それは戦争という事態を、教師に言われるままに単純に全否定するのではなく、その複雑さを複雑さのままに思考してみたいという、彼らなりの反発心の一つの表現だったと言えるだろう。いいかえれば戦闘サブカルチャーとは、戦後民主主義という理念を受容しつつも、一方でその教条的・独善的な態度と、それゆえのある種の「単純さ」に対抗しようとするものだった。
そうしたなか、特に『ガンダム』ではそのシリーズ展開を通じて、「複雑さ」を担保するための方法論がさまざまに開発されていく。その一つは「歴史的物語観」とでも言うべきものだろう。いわゆる「物語消費」のアプローチに基づき、個々のエピソードの背後に戦争年代記の体系を構築していくという考え方だ。そこではさまざまな陣営の込み入った事情がさまざまな角度から描き込まれ、そうした複眼的な視座のもとで、何が正義で何が悪かも判然としないような混沌とした世界観が提示される。そこに「善悪二元論批判」とでも言うべきもう一つの考え方がもたらされることになる。
ネット右派の形成と頽落
一方でその間、1990年代になると、歴史上の大きな動きに伴ってさまざまな動きが日本社会の中に現れてくる。それに伴って社会運動の領域も活性化され、左右両翼からの動きがさまざまな盛り上がりを見せていく。
まず左派勢力の間では、冷戦体制の終結という動きを受け、マルクス主義的な「革新」から市民主義的な「リベラル」への綱領転換が図られるなかで、「リベラル市民主義」の動きが大きな盛り上がりを見せていく。一方で保守勢力の間では、55年体制の終焉という動きへの危機感から、「東京裁判史観」を見直そうとする運動が推し進められ、「歴史修正主義」の動きが大きな盛り上がりを見せていく。さらに右翼勢力の間では、昭和から平成への改元という動きを受け、「右翼のイノベーション」を掲げてヨーロッパのネオナチに接近していった一部の極右勢力により、「排外主義」の動きが形作られていく。
そうしたなか、ネットの普及という状況に後押しされつつ、これらの動きと連動しながら形作られていったのがネット右派だった。
当初彼らは、市民運動の場などに見られるリベラル市民主義の「正義」への、それも行き過ぎた「正義」への反発から、「反リベラル市民」というアジェンダを掲げ、独自の運動を繰り広げていった。そこで問題化されていたのは、「市民」を自認する者の中にしばしば見られる啓蒙主義的な規範意識と、選良としての特権意識、そしてそれらの上で繰り広げられる硬直したユートピア論の空疎さという特質だった。
しかしそうした運動の過程でやがて彼らは、歴史修正主義というアジェンダを掲げる一部の保守勢力や、排外主義というアジェンダを掲げる一部の極右勢力と接触し、帯同するようになる。それらの勢力にとってもリベラル市民主義はやはり大きな敵だったからだ。その結果、いわば呉越同舟の寄り合い所帯が営まれることになり、その過程で彼ら自身もやがてそれらのアジェンダを標榜し、信奉するようになる。
そうしたなかで彼らは、自らの立場をシンボリックに表象するアイコンとして、戦闘サブカルチャーというジャンルと取り結んでいった。というのもそこには、彼らが掲げていたアジェンダとの相同性、類似性、親和性がさまざまに見られたからだ。
まず反リベラル市民というアジェンダは、リベラル市民主義という立場が陥りがちな啓蒙主義的・規範主義的な性格への反発から生まれたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、戦後民主主義という立場が傾きがちな教条的・独善的な態度への反発を伴ったものであり、両者の間には強い相同性があった。
次に歴史修正主義というアジェンダは、歴史を「国民の物語」として捉えようとする「物語的歴史観」や、日本だけが悪かったわけではないとする「善玉悪玉史観批判」などの考え方に支えられたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、「歴史的物語観」や「善悪二元論批判」などの考え方を伴ったものであり、両者の間には強い類似性があった。
さらに排外主義というアジェンダは、ヨーロッパのネオナチを通じてかつてのナチスドイツの思想や文化から学ばれたものだったが、一方で戦闘サブカルチャーは、その軍装、兵器、儀式などへのマニアックな関心から、「ナチサブカルチャー」の意匠に彩られたものであり、両者の間には強い親和性があった。
これらの相同性、類似性、親和性のゆえにこそ、ネット右派は戦闘サブカルチャーと取り結び、それを彼らの「部族文化」として採用することになったと言えるだろう。一方でその間、このジャンルを基盤に、より広範なジャンルとして形作られていったのがオタク系サブカルチャーだった。ネット右派とオタク系サブカルチャーとがなぜ結び付くことになったのか、その理由の背後には、戦闘サブカルチャーというジャンルを介したこうした経緯があった。
しかしそうした経緯を通じて、一方で彼ら自身のスタンスも変化し、変質していったというもう一つの経緯が生じたことにここで注意しておく必要があるだろう。
当初彼らは、元来は反権威主義的な思潮だったはずのリベラル市民主義が一つの権威となってしまったことを問題化し、自らが反権威主義的な立場に寄りながら、その啓蒙主義的・規範主義的な性格を批判するという運動に取り組んでいった。しかしその後、一部の保守勢力や極右勢力と取り結び、その権威主義的な体質と協働していくなかで、やがて彼ら自身の体質も変質し、権威主義的な傾向を帯びていくことになる。
あくまでも「複雑さ」を担保しようとしていたかつての態度はいつのまにか忘れ去られ、それどころか保守勢力からもたらされた超国家主義や、極右勢力からもたらされた陰謀論などにまみえるうち、むしろ暴力的なまでの「単純さ」にその思考が乗っ取られてしまう。その結果、彼ら元来の論理はすっかり空洞化し、背理に蝕まれてしまうことになる。その過程で彼らの議論は過激化し、極端化し、そして頽落していった。
おわりに
以上のような経緯を踏まえてあらためて考えてみると、「不自由展」をめぐる今回の件の別の側面が見えてくるだろう。
そこでのネット右派の反発は、元来は政治的なものというよりもむしろ文化的なものであり、アクティヴィズム系アートとそれに帯同するリベラル派という、特権的な文化エリートのヘゲモニーに対するものだった。つまり彼らなりの反権威主義の実践だったわけだが、しかしその過程で彼らは、逆に権威主義的な存在と取り結んでいく。そこで召喚されることになったのが河村市長や菅官房長官だったわけだが、しかしそこにはもう一つのより大きな存在、絶対的な存在があった。それは天皇だろう。
つまり天皇という究極の権威と取り結んでしまえば、「芸術家」だろうと「教授」だろうと、アクティヴィズム系アートだろうとリベラル派だろうと、並の権威はその前で押し黙らざるをえなくなり、それら一切を無条件にやり込めることができる。特権的な文化エリートなどよりも遥かに特権的な、絶対的に特権的な存在と取り結ぶことを、そのことは意味するからだ。
元来、ネット右派の議論では天皇中心主義というアジェンダが取り上げられることはほとんどなく、その初期には「共和制」への志向が表明されたことなどもある。したがって彼らが天皇中心主義を強く信奉しているとは思われないが、にもかかわらず今回、天皇をめぐる議論がにわかに浮上してきたことの一つの背景には、こうした事情もあったのではないだろうか。
そこには彼ら独自の思考法がいわば究極のかたちで表現され、刻印されていたと言えるだろう。反権威主義への志向が逆に権威主義と結び付き、「複雑さ」への志向が逆に「単純さ」に回収されてしまうという、自己撞着的で自己欺瞞的な思考法だ。だとすればやはり今回の件には、ネット右派という存在に特有の論理と背理の構造がシンボリックに現れていたと言えるだろう。
プロフィール
伊藤昌亮
成蹊大学文学部教授。専攻はメディア論。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。著書に『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『デモのメディア論』(筑摩書房)、『フラッシュモブズ』(NTT出版)、共著に『奇妙なナショナリズムの時代』(岩波書店)、『ネットが生んだ文化』(KADOKAWA)など。