2020.02.03

なぜ、「安全保障をみるプリズム」が必要なのか――「安保の呪縛」からの脱却をめざして

藤重博美 安全保障研究・平和構築研究

政治 #安全保障をみるプリズム

“Security”と「安全保障」

安全保障――。この言葉は、あなたに何を想起させ、どのような感情を抱かせるだろうか。

「安全保障」という言葉は、戦後日本の政治と言論界をざわつかせ、物議を醸し出してきた。もちろん、元から日本語としてあった言葉ではなく、英語の“Security”の訳語である(注1)。 “Security”のもっとも根源的な意味は「恐怖や不安から逃れること」(Merriam-Webster Online-ed.)。だが、実際に意味するところは幅広い。特に日本語の場合、人間が生きていくうえで直面する様々な恐怖や不安、また、これらから逃れるために必要となるニーズを事細かに反映し、「社会保障」、「警備」、「治安」、「担保」、「証券」など、様々に訳出されてきた。しかし、「安全保障」と訳された場合、その意味は、以下の定義に近づく。

「国外からの攻撃や侵略に対して国家の安全を保障すること。また、その体制」(デジタル大辞泉)

つまり、原語の“Security”がきわめて多義的であるのに対し、日本語としての「安全保障」は、本質的に軍事や国防と密接的に関連づけてこられたのだといえよう。

日本における「安全保障」と「安保」

「安全保障」という言葉は、いつから日本語として広く使われるようになったのか。

この言葉が、ある程度、一般的になった直接的な契機は、1951年に締結された「日米安全保障条約(US-Japan Security Treaty)」だと思われる(注2)。敗戦の傷も癒えぬうちに冷戦の荒波へと投げ込まれた日本は、この条約によって西側陣営の一端に固く結び付けられた。だが、当初の条約には、日本国内で内乱が発生した際、米軍による介入を規定した「内乱条項」など、日本側に不利な内容が含まれていたため、1960年に改正されることになる。

しかし、これは社会の猛反発を招き、巨大な反対運動のうねりを生み出した。条約改正を主導した岸信介首相の不人気に加え、1958年の第二次台湾海峡の余波を受け、当時、「米国の戦争に巻き込まれる不安」が高まっていためである。その結果、「革命前夜」とも形容されたほどの深刻な政治的・社会的混乱を引き起こす事態に陥った。いわゆる「安保闘争」である。

こうした経緯から、日本の政治と言論界では、「安全保障」というよりは、「安保」の方が馴染みのある言葉となり、しかも、そこには安保闘争のざらりとした記憶がまとわりつくこととなった。

「安保の呪縛」

“Security” が、「安全保障」ではなく「安保」として定着したことは、誠に不幸なことだった。

安保闘争後、日本の政治は、自民党の一党優位体制(1955年体制)に収斂していったが、「安全保障」を論じること自体、事実上の禁忌と化す。当時、まだ少なからず力を残していた左派勢力は、反「安保」を掲げ続けることによって巻き返しを図り、他方、再び混乱を引き起こすことを嫌った自民党側は「安保」批判には真っ向から取り合わず、むしろ沈黙を選んだのであった。

「安保闘争」以降のこうした構造は、「安全保障」についての思考停止を生み出し、それは1955年体制の終焉後も続くことになる。その結果、日本の安全保障に関する議論の多くは、「安保」――日米同盟とそれに関わる自衛隊の役割に批判的な左派の反対論、他方、これをなんとかやり過ごそうとする保守陣営の事なかれ主義という構造に矮小化され、そもそも「安全保障とはなにか」という本質的な議論が行われることはほとんどなかった。「安保の呪縛」といってよい。

国際レベルでの新潮流――多様な安全保障観の開花

安全保障を軍事的な国防と密接に関連づけてきたのは、日本だけのことではなく、冷戦期には国際的に広くみられた。超大国間の対立が核戦争にエスカレートするのではという恐怖に支配されたこの時代、Security=国家の安全保障、軍事的な安全保障という固定的な図式に対する疑いはほとんど存在しなかったといえよう。

だが、冷戦が終わると、大国の全面核戦争が瞬時に世界中を崩壊させるという危機は遠いた。かわって、それまでは米ソ対立の影に押し込められていた多種多様の問題――国内の民族対立や国境を超えて広がるテロの懸念、環境破壊、貧困、ジェンダー的暴力などに対する対処へと「安全保障」の焦点が移った。こうした非国家的、非軍事的な課題は、安全保障の新しい捉え方として注目を集めた。冷戦終結とともに、安全保障を軍事的な国家防衛と同一視する解釈の信憑性が揺らぐなか、様々な「安全保障」観が花開き、百家争鳴の相を呈するようになったのである。

以上でみた国際的な動きを一言でいえば、安全保障の「相対化」であった。それまで、当然のごとく「軍事的手段によって国家を守るもの」としてきた固定的な定義から解き放たれ、「誰が(主体)、何を(客体)、何から(脅威)、何によって(手段)守るのか」という方程式に、その時々で異なった変数をあてはめることにより、安全保障の意味を問い直す試みが始まったのだ。

この「安全保障のルネサンス」とでもいうべき動きのなか、1990年代以降、様々な新しい安全保障観が台頭し、百花繚乱の様相を呈していく。

その一つは、安全保障の客体、脅威、また手段を非軍事的にとらえなおそうとする動きであり、「経済の安全保障」や「環境の安全保障」などが、その例である。このなかで「安全保障」の主体を相対化しようとする動きも活発となり、国家以外の目からみた安全保障についても、さかんに論じられるようになった。なかでも、1994年に国連開発計画(UNDP)が提唱した「人間の安全保障」論は、個々人の安全確保、さらに福利厚生や人権の達成にまで安全保障概念を援用した点で画期的であり、冷戦後の安全保障論議に大きなインパクトを与えた。

同時期、加速度的に進展したグローバル化の追い風も受け、安全保障の相対化は、一層進むことになる。ヒト、モノ、カネ、情報、そして脅威が国境を容易に超えるようになったことで、伝統的な領土防衛の必然性が相対的に低下したことも背景にある。

さらに、アフガニスタンが2001年に発生した9.11テロの温床となったことから、脆弱国家(fragile states)への開発支援を安全保障課題と位置づける動きも進み、国際レベルにおける安全保障の様相はさらに複雑なものとなっていった。

冷戦後日本の安全保障論議(1)古い定式の残存

翻って、日本の政治と言論界における「安全保障」に対する理解は、冷戦の終結後、どのように変化してきたのか。

実は、「安全保障=軍事的な領土防衛」いう固定的な定式を疑う試みにおいて、日本は他国に先んじていた。政府が「総合安全保障」概念を掲げたのは、いまだ冷戦中であった1980年のことである。1970年代、二度にわたって発生した石油危機の苦い教訓から、経済やエネルギーに関する深刻な問題を「脅威」と捉える発想が生まれ、安全保障を軍事的にだけではなく、非軍事的な範疇にも押し拡げた新しい概念が提唱されたのだった。

だが、結局、これは日本の安全保障観の主流とはならず、国際的に「安全保障」の相対化が進んだ1990年代以降も、旧来からの「安全保障=安保(日米同盟・自衛隊)」という定式は依然として生き続けることになる。

その証左の一つを、田中明彦・政策研究大学院大学学長が1997年に著した『安全保障』という書籍を題材にみてみよう。

日本を代表する国際政治学者である田中は、この小論で振り返ってきたような安全保障概念の変遷については当然のことながら知悉しており、同書の冒頭で「『何から』『何を』、そして『何で』守るのか」に重点をおいて日本の安全保障を論じるとし、また、安全保障上の脅威を軍事的なものに絞らないという相対的な安全保障観を提示している(田中明彦、『安全保障』読売新聞社、1997年、3、5頁)。

実際、同書は、上述の「総合安全保障」のような非軍事的な安全保障論にも目を向けた。だが、同書の大部分は、日米同盟や自衛隊の役割、つまり、旧来の「安保」に近いテーマに割かれている。同書は、戦後日本の安全保障政策をふりかえる歴史的なアプローチを取っているため、田中自身は「安全保障」の相対化を企図しても、実際の史料が「安保」的な議論に終始していれば、その壁を乗り越えることは容易ではなかったのではないか。

冷戦後日本の安全保障論議(2)――安全保障の忘却

こうした背景には、冷戦後の日本では安全保障をめぐる言説の状況が、国際的な潮流とは異なっていたことがあろう。

冷戦が終わり、全面核戦争の恐怖が遠のいたのも束の間、バルカン半島やアフリカなどで一般市民を巻き込んだ悲惨な内戦が頻発した。このような「新しい戦争」への危機意識が、「人間の安全保障」に代表される新しい安全保障概念の台頭につながることになった。

これとは真逆に、冷戦終結直後であった1990年代前半、日本における脅威認識は急速に薄れていた。一つには、上で指摘したような凄惨な内戦の多くは日本から遠く離れた地域で発生していたため切迫感が薄かったことがあった。また、おりしも1955年体制の崩壊時期にあたり、目まぐるしく移り変わる国内の政治劇にメディアや国民の目が釘付けになっていたためでもある。

実をいえば、米ソ対立は解消したとはいえ、北東アジアに平和がもたらされたわけではない。この地域では、冷戦時代に起因する対立構造が依然残っており、超大国対立の重しが外れたことで情勢はむしろ流動的になっていた。その不安定さは、1993年から翌年にかけての北朝鮮核危機を通して如実に露わになった。朝鮮半島有事の危険性はかつてないほど高まったのである。

にもかかわらず、この時期、日本国内の脅威認識はむしろ低下していた。内閣府が3年おきに実施している『自衛隊・防衛問題に関する世論調査』によれば、冷戦終結直後であった1990年と比べ、1993年の調査では、防衛問題や自衛隊に関心がないという回答が増え(30.2%から40.5%へ)、その理由を聞かれた質問に対しては「日本には差し迫った軍事的脅威はない」とする回答が増えたのである(15.7%から21.9%へ)。北朝鮮核危機に対する日本政府の対応も鈍いものであった。つまり、冷戦終結直後の日本で起こったのは、安全保障の忘却だったのである。

冷戦後日本の安全保障論議(3)「危機管理」意識の台頭と軍事的安全保障への回帰

「安全保障の忘却」の傾向は、1995年に立て続けに発生した予想外の出来事――阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件――を契機に押し戻されることになる。この二つの事件の衝撃は計り知れないほど大きなものであった。その結果、対応が後手後手に回った政府への批判が高まるとともに、「危機管理」の必要性が盛んに論じられるようになったのである。これは、みずからの安全に対する懐疑が頭をもたげたということであり、「安全保障の忘却」に歯止めをかけるきっかけとなった。

ちょうど、このタイミングで、北東アジアの不安定さを痛感させる事件が立て続けに起こる。1996年の台湾海峡ミサイル危機、1998年の北朝鮮によるテポドン・ミサイル発射事件、1999年の能登半島沖不審船事件などだ。

これら一連の事件により、もともと、テロや災害といった非軍事的な脅威への備えを意味した「危機管理」は、より軍事的な意味もあわせ持つようになっていく。1996年、「日米安全保障共同宣言」が発表されたこともあって、従来は「安保」の影に隠れがちであった「安全保障」という言葉もこの頃から頻繁に言及されるようになり、「日米同盟・自衛隊」の強化という文脈で用いられることが増えたのである。

21世紀に入ると、安全保障を「日米同盟・自衛隊」に引きつけて理解する傾向は一層鮮明になった。2001年に発生した9.11攻撃の衝撃と国境を越えるテロの脅威、また、奄美沖で発生した工作船自沈事件や日本人拉致の実態発覚によって一層高まった北朝鮮に対する警戒感、さらに、米国が主導するアフガニスタンでの対テロ戦やイラク戦争に同盟国としていかに関わるべきかという悩ましい問題など――。2000年代には、日本が直面する軍事的な課題の存在が広く認識されるようになったのである。

それは、アフガニスタンとイラクで米国が突き進んだ「テロとの戦い」というグローバルな課題と、北朝鮮の脅威など北東アジアの不安定な状況を受けて、日米同盟の強化を迫られた日本の安全保障政策とが密接に絡み合うようになった時代であったといえよう。

さらに2010年ごろからは、大きな衝撃を与えた尖閣諸島中国漁船衝突事件を皮切りに、中国への警戒感はいやがおうにも高まっている。他方、北朝鮮の瀬戸際外交も留まるところをしらず、核・ミサイル問題はますます深刻さを増している状況だ。この流れを受け、集団的自衛権をめぐる政府解釈の変更(2014年)、平和安全法制の成立(2015年)など、軍事的対応策の強化を図る措置が次々に取られた。

だが、こうした軍事的措置拡充をめぐる一連の騒動は、日本の安全保障論議を取り巻く構造が根本的には以前と大きくは変わっていないことをまざまざと見せつけることになる。「若者を戦場に送るな」と声高に叫ぶ拒否反応。これに取り合わず、ひたすら法案成立を急ぐ政府側。その議論は最後まで噛み合わず、日本の安全保障を真摯かつ多角的に検討する姿勢は、反対勢力にも政府側にもついぞ見られなかった。

この時の状況を1960年の安保闘争時と対比させてみると、否定的な響きがある「安保」という言葉が使われることは減り(反対派は好んで「安保法制」という呼称を使ったが)、臆することなく「安全保障」という言葉が使われるようになっている点は顕著な変化だった。だが、日本の安全保障を「日米同盟・自衛隊」の強化と同一視し、これが深刻な反発を招いたという点では、その本質は、安保闘争の時代を大きくは変わらなかったのだといえよう。

このように、冷戦後の日本では、まず「安全保障の忘却」が生じ、非軍事面での危機管理意識の台頭を経て、一転、軍事的な安全保障へと急激に回帰したことにより、安全保障を相対化する機会は失われた。その結果、日本の安全保障論は「安全保障=日米同盟・自衛隊」とする固定的な理解と、これに対するやみくもな反対論から逃れられないでいる。

誤解しないでほしい。筆者は、日本の安全保障における日米同盟や自衛隊の役割の重要性に疑義を呈しているわけではない。近年の北東アジアの戦略環境の激化を考えれば、軍事的措置の強化は当然である。問題は、その狭い焦点から外になかなか目が向けられないことだ。

安全保障の必要性を訴える側が、日米同盟・自衛隊の強化に傾きがちであり続けてきたために「安全保障=日米同盟・自衛隊」の定式に批判的な「アンチ安保」に反撃の機会を与え、結果的に教条的な安全保障論議の虜囚となってきたのである。

世界は「軍事的安全保障」へと回帰してはいるが――

軍事的な安全保障への回帰は、近年、特に2010年代に入って以降、日本だけではなく、国際的にも広く見受けられる現象だ。米中間の軋轢拡大やNATO(北大西洋条約機構)諸国とロシアの関係冷却化をとらえ、冷戦の再来だとする論者もいる。2020年は、新年早々、米国がイラン革命防衛隊のソレイマニ司令官を暗殺したという驚天動地のニュースが飛び込み、新たな世界大戦の勃発を真剣に懸念する声さえ聞かれた。

軍事衝突の危険性が明らかに高まっている以上、国際的にも軍事的な安全保障への回帰が起こるのは必然だといえよう。ただ、現状を憂える論調の多くが見落としているのは、今日の国際環境が、第二次世界大戦や冷戦が「安全保障」と密接に関連づけられた20世紀とは根本的に異なっているということだ。

その最大の違いは、先にも少し触れた通り、グローバル化の趨勢とともに脅威が多様化・変質していることである。イスラム過激派やテロ、麻薬密売や人身売買などの国際的組織犯罪、難民や不法移民の大量流入、サイバー攻撃の懸念、地球温暖化に伴う気候変動や自然災害の深刻化、資源確保の課題、グローバル経済につきまとう脆弱性――。国境をかいくぐって拡散する不安定要因は枚挙にいとまない。

最近のニュースをみても、新型コロナウイルスの感染拡大、気候変動との連関が疑われるオーストラリアの大規模な山火事、事態収拾の兆しが見られないミャンマーのロヒンギャ問題、また、トランプ大統領の弾劾裁判で混迷を深める米国政治など、世界的に広く共有される深刻な懸念材料は多い。これらは状況によってはきわめて深刻な結果を引き起こす可能性があるものの、軍事的に対処できることは限られている。

また、グローバル化とともに国境を超えたヒトの往来が増えたことで、海外にいる国民の安全確保も重要な課題となっている。日本の場合、第1回東京オリンピックが開催された1964年、海外へと旅立った邦人は年間20万人余りにすぎなかった。それが、冷戦終結直後の1990年には1,000万人超と飛躍的に増加し、2018年には2,000万人に近づく勢いであった(日本政府観光庁「年別訪日外客数, 出国日本人数の推移」)。こうした状況下、ごく最近、中国・武漢にいる日本人が新型肺炎の脅威にさらされ、その早急な帰国が喫緊の課題となった例からも明らかな通り、軍事手段だけでは国民を守れないことは明らかだ。

さらに、国家の体をなさない、いわゆる「脆弱国家」の問題も近年の深刻な懸念材料である。米国の非営利団体「平和基金」が毎年発表している「脆弱国家指数」によると、脆弱度リストの上位にはイエメン、ソマリア、南スーダン、コンゴ民主共和国などアフリカの国々、シリア、イラク、アフガニスタンなどの中東諸国がランクインし、その他の地域では、ハイチ、ミャンマーなどの名も挙がる(The Fund for Peace, “The Fragile States Index,” http://fragilestatesindex.org/data/)。

正常な統治機能を失った(あるいは、そもそも持っていない)国々の存在は、冷戦終結直後から問題になっており、その立て直し(国家再建)が世界各地で支援されてきた。だが、こうした国々の多くはいまだに混乱の淵に沈んでいる。この事実は、きわめて重い。国際社会のメカニズムは、主権国家を基本単位として想定されているが、この枠からこぼれ落ちる国々が多く存在するということだ。この現実には、国家対国家、軍事対軍事という既存の安全保障アプローチだけでは対応しきれない。

より広く、外交や経済面の課題にも目を向ければ「日米同盟・自衛隊」だけで対処できない問題はあまりにも多い。近々の問題でいえば、2020年1月末、ついに実現したイギリスのEU離脱により、特に経済面での混乱や不利益が日本にも及ぶことが懸念される。より長期的な問題としては、たとえば、「一帯一路」構想により、米国や日本を除いた一大経済圏の構築を目指す中国の思惑にも注視していかなければならないだろう。

「日米同盟・自衛隊」の強化にしても、2020年秋に予定される米国の大統領選挙の行方は不透明であり、盤石とはいいがたい状況だ。また、昨年(2019年)は、日韓の関係悪化が韓国の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄問題へと発展し、日米の安全保障協力にも悪影響を及ぼしかねない事態に陥った(結局、ぎりぎりのところで協定破棄は回避されたが)。これらの状況を考え合わせると、軍事的な対応だけですべてが解決するわけではないことは、火を見るよりも明らかだ。

「プリズム」を通してみることで、安全保障の相対化を――

以上でみたように、現下の国際情勢は、単純に、大国間対立の時代に「先祖返り」しているわけではない。冷戦後、多様化・多面化した国際環境の上に国家間の対立も重なり合い、いっそう複雑さが増している状況とだいえよう。これには、どのように対処すべきか。

軍事的措置の強化も当然必要となるとしても、それだけでは十分ではない。日本の安全保障論議に不足しているのは、この視点だ。

もっとも、これまで安全保障の多様な側面がまったく意識されてこなかったというわけではない。たとえば、2013年、日本にとっての初めての包括的な安全保障政策の指針として出された『国家安全保障戦略』は、「我が国が有する多様な資源を有効に活用し、総合的な施策を推進する」とし、国家安全保障を達成するための政策分野として、「海洋、宇宙、サイバー、政府開発援助(ODA)、エネルギー」など、非軍事分野を含めた多様な方策に言及している。

上記戦略の公表とほぼ同じタイミングで、日本の安全保障政策を牽引する政治の司令塔として「国家安全保障会議(National Security Council: NSC)」が整備され、また、その事務局として「国家安全保障局(National Security Secretariat: NSS)」も設置されたが、これらの活動にも、非軍事的な側面から安全保障をとらえようとする試みがみられる。

特に、安全保障上の目的に資するため経済的施策を用いるという姿勢が近年は鮮明になっている(いわゆるエコノミック・ステイトクラフト)。たとえば、昨年、日本政府は安全保障上の懸念から韓国に対する半導体素材の輸出管理を強めたが、その決定は官邸主導でなされた。上記のNSSにおいても、同じく昨年、経済問題を扱う部署が新設され、安全保障と経済の絡む問題に包括的に対応する態勢が整えられたのである。

以上でみたように、新しい安全保障の潮流が日本にもまったく及んでいないわけではない。だが、全体的な傾向としては、とりわけ論点になるのは、やはり自衛隊の役割や日米同盟の強化など軍事的な安全保障分野の話題である。近隣に差し迫った軍事的懸念がある日本の場合、安全保障上の課題の中心が軍事的措置になることは当然であるし、必要でもある。しかし、「日米同盟・自衛隊」中心の安全保障観にのみとらわれていては、複雑にからみあった問題の数々に適切に対処することはできない。

そこで、今、日本に求められることは、安全保障問題の「棚卸し」だ。軍事的な脅威に限らず、非軍事的問題にも射程を広げて抜本的に安全保障の課題を検討する――。これは、1990年代に機会を失った、日本における安全保障の相対化を進めることにほかならない。安全保障に関する固定観念を取り払い、日本が真剣に取り組む必要のある課題を幅広く検討し、それに対する対応策を様々な手段を包括的に組み合わせて柔軟に考えることである。

安全保障の範囲や解をあらかじめ固定してしまうのではなく、状況を丹念に解きほぐして、本稿の冒頭で挙げたような方程式――「誰が(主体)、何を(客体)、何から(脅威)、何によって(手段)守るのか」に当てはめてみる必要がある。非軍事的な措置も含めて様々な視点から安全保障をとらえることで、我々の安全をどのように担保していくのかを真剣かつ柔軟にみつめなおす――。こうした意識を強く持つことで、これまでの「安保」論議で見過ごされてきたものがみえてくるのではないか。

日本を取り巻く現状を考えれば、「棚卸し」の結果、「日米同盟・自衛隊」中心の安全保障路線が維持される可能性が高い。しかし、初めから結論ありきで「日米同盟・自衛隊」の強化を掲げるのとは、長期的にみてまったく異なった意味をもつに違いない。方程式に変数を当てはめる相対化が機能すれば、将来、変数が変わった時、より柔軟に新たな解を求められるようになるはずだからだ。これは、硬直的・教条的な「安保」論議からの脱却を目指す重要な第一歩となるだろう。

本稿の冒頭で、「安全保障」という言葉に何を想起し、何を感じるかを尋ねたのは、安全保障について固定的な決めつけをしてしまっていないだろうか、という問いかけであった。「安全保障=日米同盟・自衛隊」的な理解にしても、反「安保」のスローガンにしても、それぞれ、あらかじめ解だけが与えられ、そこには、冷静かつ柔軟な相対化がほとんどみられない。そこに「安保の呪縛」が残存する余地が生まれる。

しかしながら、これまで固定的な安全保障観に慣れてしまっていれば、急に相対化を進めることは容易ではないだろう。予断を許さない北東アジアの戦略環境やきな臭さを増す中東情勢に鑑みれば、ますます軍事的措置に目が向かいがちだ。だが、だからこそ、意識的に安全保障の相対化を行っていくことが重要なのである。

その手始めとしては、まず、多様な安全保障観に触れてみることが有益な助けとなるだろう。こうした観点から、本連載シリーズ「安全保障のプリズム」(https://synodos.jp/authorcategory/anzenhosho)では、軍事・非軍事を取り混ぜた多様な安全保障論議を展開していくつもりである。

主要参考文献(出版年順)

田中明彦『安全保障:戦後50年の模索』読売新聞社、1997年。

赤根谷達雄・落合浩太郎編著『新しい安全保障論の視座』亜紀書房、2001年。

防衛大学校安全保障学研究会(編著)『安全保障学入門(新訂第五版)』亜紀書房、2018年。

(注1)歴史的にいえば、”Security”が戦争や平和の問題と直接的に関連づけることが一般化したのは、第一次世界大戦後、新たな戦争発生を阻止するための新たな国際制度を構築する過程においてであった(国際連盟規約や不戦条約の制定など)。これらの文書を策定する過程では、英語と仏語の両方で作業が行われたため、安全保障概念を歴史的に掘り下げるならば、英語の“Security”だけでなく、仏語の“Sécurité”にも注意を払う必要がある。安全保障の原義や概念形成過程の歴史的考察については、以下が詳しい。中西寛「安全保障概念の歴史的再検討」赤根谷・落合編『新しい安全保障の視座』(前掲)19−67頁。

(注2)「安全保障」という言葉が、今日の意味に近い文脈で日本で用いられるようになった起源を新聞報道の例で調べると、その嚆矢は意外に古く、読売新聞の場合、明治20年の記事中に初出があった(読売新聞、1887年10月28日、「伊総理大臣がドイツ、オーストリア同盟に加盟と表明」)。戦後では、たとえば、毎日新聞の場合、「安全保障」について最初の言及があったのは、終戦直後の1945年9月に書かれた「米国は原子爆弾を連合国安全保障理事会の管理下に置くという案を検討中」という記事においてである(ここでいう「連合国」とは、今の国連のこと)。これらの例からわかる通り、従来、日本語のなかで「安全保障」が用いられる場合、国際的な動きについての言及であり、日本との直接的な関連で用いられることはほとんどなかった。

プロフィール

藤重博美安全保障研究・平和構築研究

青山学院大学国際政治経済学部教授。ロンドン大学東洋アフリカ学院博士課程修了(政治学博士)。国際平和活動・平和構築論や日本の国際平和協力活動についての研究を専門とする。主要な業績は「ハイブリッドな国家建設――自由主義と現地重視の狭間で」(共編著)ナカニシヤ出版、2019年;「冷戦後における自衛隊の役割とその変容――規範の相克と止揚、そして『積極主義』への転回」(単著)内外出版、2018年;「国際平和協力入門――国際社会への貢献と日本の課題」(共編著)ミネルヴァ書房、2018年など。

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