2011.03.22

「便乗値上げ」と市場の機能  

清水剛 経営学 / 法と経済学

経済 #便乗値上げ

最初に、この大震災で亡くなられた方々、ご遺族の方々に対し謹んでお悔やみ申し上げるととともに、被災者の方々、とりわけいまだ避難所で厳しい生活を送っておられる方々に対し心よりお見舞い申し上げます。また、被災者の方々の救援や福島の原発への対応のために日夜奮闘しておられる多くの方々に改めて深く感謝申し上げたいと思います。

さて、このような状況のなかで「便乗値上げ」を取り上げようと思ったのは、経済学のツールも使う経営学者としてはいささか気になる議論があったためである。

「便乗値上げ」は合理的?

大震災の後の3月13日に、秋葉原にあるらしいある会社の社長さんが、ブログに地震で首都機能が麻痺しているいまが(便乗)値上げのチャンスだと書き(ザ・商売人|Kozakai社長のアメブロ http://ameblo.jp/kozakai-hidell/entry-10829301091.html)、これに対してネット上で非難が殺到するという事件があった。結果としてこのブログは閉鎖されてしまったようだが、これに対し、このような経営者の行動は合理的であり、そのような行動によってこそ市場が機能するとして、このようなネット上での非難を批判する意見もある(たとえば、藤沢数希の金融日記http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51804805.html)。

「便乗値上げ」はとくに問題ではない、という後者のような考え方はそれなりに説得力のあるものであり、ことに経済学者のあいだではそのように考える人も多い。たとえば、財の売り手が利益を求めて値上げをすることで、その財をより必要とする人が高い値段を払って手に入れることになり、結果として必要な人の手に必要な財がわたることになる。また、高い値段で売る機会を与えることで、別な場所からその場所に財を持ち込んで売ろうとする新しい売り手をひきつけ、その結果、必要な財が必要な場所に供給される、という効果もある。

しかし、一方でこのような意味での個人の合理的な行動が、そのまま市場の機能(効率的な資源の配分)につながるというのは、いささか楽観的に過ぎるように思われる。むしろ、個人の合理的な行動は場合によっては市場の機能を失わせかねない、というのが最近の経済学でもいわれていることではなかっただろうか(たとえば、金融市場が中心であるが、ラグラム・ラジャン=ルイス・ジンガレス『セイヴィング・キャピタリズム』慶應義塾大学出版会, 2006)。

そこで、ここでは一体「便乗値上げ」の何が問題なのかということを、古典的な経済学の考え方を参照しながら少し検討してみたい。そのなかで、「個人の合理的行動が市場を機能させる」という構図の何が問題なのかもについても考えてみたい。

そもそも「便乗値上げ」とは何か?

最初に問題となるのは、そもそも「便乗値上げ」というのが非常に曖昧な概念である、ということである。基本的には非常事態において、とくに生活必需品について値上げをする、というような状況を意味しているが、それは通常の値上げと何が違うのだろうか。

ここで考えるべきポイントは「非常事態」と「生活必需品」のふたつである。ここで、非常事態とは、天災やテロリズムなどにより生産が途絶、あるいは急速に縮小している状況を意味する。もし生産量をすぐに拡大でき、財が安定的に供給されるのであれば、「便乗値上げ」というのは問題にならないから、このように考えるのが自然であろう(なお、経済学の教科書に出てくるような競争均衡モデルにおいては、財の供給は柔軟に変化することが想定されている)。つまり、このような状況においては、財の供給をできるものが限定されており、財の供給量にもかぎりがあることが想定される。

もうひとつの生活必需品、すなわちたとえば食品や衣服、石油やトイレットペーパーのような生活を維持するのに必要な商品、ということであるが、生活必需品でない場合には後で生産が回復するまで待つことができるのに対して、生活必需品の場合には、生産が回復するまで待つことができないという違いがある(いま食事をせず、あとでまとめて食事をする、というわけにはいかない)。

すなわち、「便乗値上げ」とは、消費を後回しにできない財について、財の供給者と供給量が限定されている状況における値上げ、と整理することができる。

独占やカルテルという古典的問題

このように整理すると、こうした状況が一種の独占的状況になりうることがわかる。すなわち、生産が回復するまでのあいだ、現在供給能力をもつ企業以外の他企業がその市場に参入することはなく、また消費が後回しにされないために、その一時期に関して、企業は独占的な立場に立ちうるのである。

たとえば、こんな状況を想定してみるとよい。いままで10のメーカーがつくっていた製品が、そのうち9つのメーカーが何らかの理由により生産できなくなり、しばらくのあいだ残りひとつのみが製品を供給する。

この状況において、製品の価格自体が上がること自体はなんらおかしなことではない。というのは、仮にこのメーカーがすべての能力を振り絞って生産を行ったとしても、需要に対して供給が減少する以上、価格は必然的に上昇するはずである。この場合、社会に対して好ましくない状況が発生しているわけではない。社会にとっての好ましさという観点からみれば、このメーカーはとくに非難するには当たらないだろう。

問題となりうるのは、このメーカーが現在独占的地位にあることに気がついたために、その独占的地位を利用して、供給できる最大量より低い水準で供給をし、いわば価格を吊り上げた場合である(あるいは、現在の在庫からの放出量を絞る、というのでも同じである)。より簡単に、「売り惜しみ」をしている状況といってもよい。この場合には、供給がいわば過小になり、社会全体からみると好ましくない状況が発生することになるために、その行動は社会的な非難に値するものとなるだろう。

なお、以上の話は、冒頭で述べたような値上げの可能性が新しい売り手の参入を促すという場合でもほぼ同様である。つまり、新しい売り手が高い値段を求めて参入すること自体は(ほかに問題を引き起こさないかぎり)よいのだが、もしこの新しい売り手が既存の売り手と組んで値段を吊り上げるとなるとカルテル的な状況になってしまう。

これは古くからある独占やカルテルの問題そのものである。そして、独占やカルテルが非難されるべきものであるとすれば、同じ程度に便乗値上げも非難に値するものになりうる。ただし、それが本当に非難に値するかどうかは、その便乗値上げとされる値上げを行った企業が実際にどの程度、値上げしていたかによるはずである。

むしろ安値で提供したほうが

もう少し便乗値上げらしい想定で考えてみよう。たとえば、災害直後のある地域に一軒だけガソリンスタンドがあるとする。当然、仕入れは途絶え、現在の手持ちの量しか販売できない。一方で、顧客の側は他の地域まで買いに行くことは難しい(そもそもガソリンが必要だ!)。ここでガソリンがないと生活に支障をきたす、という場合であれば、このガソリンスタンドで買うしかない。

この場合、供給量には制限があるため、価格が上がること自体は決しておかしくないし、価格の上昇を非難することは難しい。しかし、そのガソリンスタンドが価格を引き上げるとともに売り惜しみをした場合には、その独占的な地位を利用したとして非難されても仕方がない。それは「商売人」として合理的であっても、社会にとっては好ましくないのである。

また、この地域に他の地域からタンクローリーに載せてガソリンを売りにくる、という業者がいるかもしれない。そのこと自体は(もってくる元の地域において問題を引き起こさないのであれば)よいのだが、この業者と既存の業者が手を組んで売り惜しみを行えば、やはり非難に値するだろう。

ここで注意してほしいのは、このガソリンスタンドや新規参入業者としては、その地位を利用して売り惜しみをし、値段を吊り上げるほうが「合理的」な選択だということである。この意味で、上のような状況では個人の合理的行動が社会にとって好ましい結果をもたらすとはかぎらない(これは先の『セイヴィング・キャピタリズム』の主張でもある)。個人の合理的な行動が市場を機能させるかどうかは社会の状況次第、というのはそれほどおかしな結論でもない。

もちろん、このような考え方からすれば、実際にある値上げが便乗値上げであるかどうかを決めるのは大変難しい。売り惜しみをしたかどうか、という判定基準はありうるが、実際にそれを見定めるのは容易ではないだろう。ゆえに、便乗値上げを実際に規制する際にはもう少し慎重な考慮がいる。少なくとも「平時」の価格から値上がりしたら便乗値上げだ、というのは短絡的に過ぎる。この点は関係当局にも少しお考えいただきたい点である。

しかし、だからといって便乗値上げにまったく問題がないともいいきれない。たしかにその境界線はわかりにくいのだか、一定の範囲をこえて値上げをしてしまえば、それは社会的には好ましくない行動なのである。このような点を、ご自分を「商売人」だと思っていらっしゃる皆さんには一度お考えいただきたいと思う。個人的には、あるところの書き込みのなかの「むしろこういうときに安値で食料品を提供して信用を作れば、後々何倍にもなって帰ってくるのに…」というコメントのほうが説得的であるように思う。

最後に、自分と異なる意見をみた場合には、単純に非難するのではなくできるだけ冷静に議論をすることを改めてお願いしておきたい。冷静な議論こそが、社会におけるよりよい解決策を見出すもっとも適切な方法であるはずである。

推薦図書

翻訳のタイトルはいささかわかりにくいが、原著のタイトルであるSaving Capitalism from the Capitalists、つまり「資本家から資本主義を救う」という言葉をみれば少し著者らの主張がわかるかもしれない。内容すべてに無条件に賛成するわけではないが、資本家という人々がいかに競争を回避しようとするか、それに対していかに既得権益を打破し、競争を機能させるようにしなくてはならないか、ということを考えさせてくれる。市場が自生的に発展する、と考えがちな方にはとくに読んでいただきたい。

プロフィール

清水剛経営学 / 法と経済学

1974年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は経営学、法と経済学。主な著書として、「合併行動と企業の寿命」(有斐閣、2001)、「講座・日本経営史 第6巻 グローバル化と日本型企業システムの変容」(共著、ミネルヴァ書房、2010)等。

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