2011.07.31

そろそろ自転車についてもう少しまじめに考えよう

山口浩 ファィナンス / 経営学

社会 #自転車#サイクリスト#交通ルール

探しても原文が見当たらないので記憶違いかもしれないが、いまは亡き伊丹十三が何かの本で、自転車を「もっとも高貴な乗り物」と評していたのではなかったかと思う。別に高級な、あるいは高価なものという意味ではなく、田舎道を行くふつうの自転車についての話だったような記憶なので、おそらくは自転車なる乗り物自体がもつ簡素な機能美とか、周囲と調和する感じとか、そういったものを指しての評価だったのではないかと想像する。

「高貴」かどうかはともかく、自転車には数々の利点がある。人や荷物をきちんと運べる運搬手段でありながら比較的軽くコンパクトで、その気になれば電車や飛行機にももち込める。かなり狭い道にも入り込むことができるし、渋滞でもスイスイ行ける。タイプによっては自動車にも匹敵するような速度が出せるし、これまたタイプによるが安価で誰にでも買える。ちょっとがんばれば個人でもメインテナンスができて、維持費も比較的安い。化石燃料を使わず(最近は電動アシスト機能付きのものもあるが)、環境への負荷が小さい。等々。エコロジーだの脱原発だのといった時代の潮流にも、などというごたくを並べるまでもなく、「スマート」な乗り物だと思う。

個人的にも、自転車という乗り物にはそれなりのシンパシーを感じているつもりだが、いまのところ、それを日常の足としては使っていない。理由はいくつかあるが、もっとも大きいのは、現在の日本の状況で、いわゆる「サイクリスト」のグループに入ること自体がいまひとつ気乗りしないからだ。

自転車をめぐる問題は以前からあって、改善しつつある部分もあるが、残念ながら次第に悪化している部分もある。改善された部分は多くの人が努力した結果だし、悪化した部分も、自転車がそれだけ多くの人に便利に使われていることの裏返しではあるわけだが、社会全体として、自転車を軽くみるというか、中途半端な存在として扱う傾向があったことは否定できない。ここらでもう少しまじめにいろいろ考えた方がいいのではないかというわけで、自分の思うところを少し書いてみることにする。

餅は餅屋?

わたしたちの社会のなかで自転車がうまく位置づけられていないのではないかという議論は、もちろん以前からあった。路上に「居場所」のない「交通弱者」としての自転車も、駅前の道路をふさぐ「邪魔者」としての自転車も、自転車自体やユーザーの意識・マナーだけの問題ではなく、わたしたちの社会が自転車と共存するための準備をまだ整えられずにいることの結果でもある。自転車ユーザーのなかでも意識の高い人たちは、自転車をめぐるこうした問題点を指摘し、自転車と社会とのよりよい関係について、いろいろな提言をしてきた。「本日の一冊」で紹介している「自転車ツーキニストの作法」の著者である疋田智さんなどもそのひとりということになるのだろう。

疋田さんによれば、「贋者自転車人」、つまり「自転車に乗らないのに、自転車について語る人」という人種がいるらしい。自転車ブームにすりより、いかにも理解者面をしながら、そのじつ何も理解していないから、「自転車の未来をぶち壊す」ようなことを平気でいうのだそうだ。こういう輩を自転車政策に触れさせてはならない、と疋田さんは力説しておられる。

そういうお立場からすれば、ふだん自転車に乗らないわたしなどは、この「贋者自転車人」の一味にグルーピングされるのかもしれないが、わたしとしては、別に自転車乗りの理解者面をするつもりはない。むしろここでは歩行者、自分の足と公共交通機関を主な移動手段とする人びとの視点から自転車を論じたい。自転車のことは自転車乗りに任せろというが、たとえば自動車が自転車の邪魔をしないように発言するのが自転車乗りの領分だとするなら、自転車が歩行者に迷惑をかけないように発言するのは歩行者の領分だ。もし適切と思えるなら、「自転車の未来をぶち壊す」ような発言だって躊躇はしない。

疋田さんの主張を忖度するに、たんに「歩くよりまし」といった理由で手軽な乗り物としての自転車を選択するのではなく、もっと積極的な理由で自転車を選択している人たち、自転車を生活の一部として取り入れること自体に価値を見出すような人たちの方が、自転車のことをより真剣に考えているということになるのだろう。そういう人たちを仮に「シリアスサイクリスト」と呼ぶことにする。対して、お気軽なユーザーは「カジュアルサイクリスト」とでも呼べばよいだろうか。

たしかに、シリアスサイクリストたちの提言には、傾聴すべきものが数多く含まれている。自転車道の問題にしても、駐輪場の問題にしても、やはり自転車乗りの事情は、そうした熱心な「自転車乗り」が一番よく知っているというわけだ。自転車が路上で安全にそして快適に走るためには現在の交通システムのどこをどう変えたらいいのか、あるいはどこを変えるべきではないのか。おおいに主張してもらって、どんどん参考にしたらいい。

しかし、かぎられた情報から形成された一方的な見解でしかないが、シリアスサイクリストの関心は、どうも基本的に彼ら自身の利害に深く関係した領域に限定される傾向があるように思われる。端的にいって、彼らの語る「自転車の未来」には、気軽な日常の足として自転車を利用するカジュアルサイクリストの姿がみえてこない。そういう人たちの方が圧倒的多数であるにもかかわらず、だ。

社団法人自転車協会調べによれば、2010年における自転車の国内出荷台数は約419万台だそうだが、このうち軽快車(いわゆるシティサイクル)およびミニサイクルの合計は全体の69.0%を占める。これに子供車や幼児車、電動アシスト車を加えれば9割超だ(図1)。

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これらの自転車のユーザーがすべてカジュアルサイクリストだと断定するわけではないが、おそらく大半がそうだとみていいだろう。これに対して、自転車により強い思い入れをもち、もっと自転車に金をかけることが予想されるシリアスサイクリストが乗りそうな自転車の出荷台数はというと、MTBで全体の4.1%、スポーツ車はわずか2.2%しかない。売れ行きの伸び率自体はスポーツ車などの方が高いそうだが、わたしが路上で実際にみかける自転車の構成比もおおよそこんなものではないかと思う。その実感が正しい保証はもとよりないが、全体として、シリアスサイクリストは自転車乗り全体からみれば少数派、ということぐらいはいえそうに思われる。

にもかかわらず、シリアスサイクリストの方々はえてして、カジュアルサイクリストの存在を無視し、軽視し、あるいは敵視する。たとえば、下にあげた「自転車ツーキニストの作法」では、ヨーロッパ諸国におけるやり方を念頭に、自転車は車道通行を徹底し、ママチャリは無償で途上国へ送ってしまえ、と主張している。要するに、これまで「ママチャリ」に乗っていたカジュアルサイクリストたちを「贋者自転車人」の一味と喝破し、彼らにママチャリを捨てて本格的なロードレーサーのような自転車に乗り車道を颯爽と疾走せよ、といっているわけだ。しかし、カジュアルサイクリストのなかには相当の割合で、自動車免許を返上した高齢者や、まだ自転車を上手に乗りこなせない子どもも含まれている。彼らにシリアスサイクリストと同じ行動を求めるのはおよそ現実的ではない。

この例にかぎらず、シリアスサイクリストの方々の言説には「オレたちホンモノはあいつらとはちがう」みたいなニュアンスがしばしば感じられるのだが、歩行者の目からみれば同じ自転車乗りだ。少し辛辣な表現をすれば、これまでサイクリストの意見が世論をなかなか動かせなかったのは、少なくとも外部からは「仲間」としかみえない人びとが社会にかけている迷惑を「自分とには関係ない」とスルーし、自らの「正当」な主張のみを聴いてもらおうとする態度をとっているからなのではないかと思う。

自転車は歩行者にとってより危険な乗り物になりつつある

歩行者の立場から、自転車に関して気になることはいろいろあるが、ここで取り上げたいのは安全面、具体的には、自転車が引き起こす対人事故の問題だ。自転車は本質的に、乗り手にとってリスクのある乗り物だが、同時に周囲に危険を及ぼす可能性もある。これらのリスクは身近であるだけにみすごされやすい。少なくとも、自転車をめぐる他の問題、たとえば対自動車事故で被害に遭う危険性や、駅前の放置自転車の問題などと比べて、対策が遅れているといえるのではないか。しかし、交通手段としての自転車を真剣に考えるなら、これは無視していい問題ではないように思われる。

まずデータからということで、事故の発生状況からみてみよう。交通事故による死者が減少傾向にあることはよく知られているが、この傾向自体は、自転車事故についても基本的には変わらない(図2)。ここ10年でみると、自転車に関係する交通事故の発生件数(棒グラフ:左軸)自体は2004年をピークに減ってきている。しかし、交通事故全体と比べてその減少ペースは遅く、したがって、交通事故全体のなかで自転車関連事故が占める割合(折れ線グラフ:右軸)は上がる傾向にある。

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これを事故の相手当事者別にみたのが、表1である。いうまでもないが、自転車が関係する交通事故でもっとも多いのは対自動車の事故で、全体のうち発生件数で84%、死亡事故件数で89%を占める。すなわち、交通事故のほとんどの場合で、自転車は依然として「被害者」の地位にある、ということになる。

表1:自転車関連事故の相手当事者別交通事故件数の推移 *警察庁
表1:自転車関連事故の相手当事者別交通事故件数の推移
*警察庁

しかし、ここで注目したいのは、対自動車、対二輪車の自転車関連事故の発生件数が2000年以降減少傾向にあるのに対し、対歩行者の事故が2000年時点よりも高い水準で推移していることである。

2000年時点と比較して、対自動車事故は15.3%減、対二輪車事故は25.3%減だったのに対し、対歩行者事故は約51.1%増となっている(このほか、自転車相互、および自転車単独の事故も2000年時点より多い)。対自動車、対二輪車事故では、自転車はおおむね被害者であると思われるが、対歩行者の事故においては、自転車が加害者になっていることが多いだろう。また現在、自転車全体のなかでスポーツ車等、より速いスピードで走ることが想定される自転車の割合が増えている。自転車は、徐々にだが路上において加害者としての性格を強めつつあるのである。

また、人対車両事故の大半はもちろん人と自動車とのあいだで起きているわけだが、人対自転車の事故が人対車両事故全体のなかで占める割合も、2000年時点の2.1%から10年間で4.0%と約2倍に増加していることは注目に値する(図3、棒グラフ、右軸)。

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たしかに、2010年の人対車両事故で死亡事故にまで発展したケースのうち、相手が自転車だったものは0.3%にすぎない。つまり自転車は、少なくとも死亡事故に関するかぎり、自動車やバイクと比べて、人にとって相対的に安全だとはいえる。しかし、人対車両事故全体でみれば、自転車が相手方となる割合はその10倍以上になっているのだ。つまり、自転車関連では死亡事故に至らない比較的軽微な事故が多数起きているということになる。そして、自転車が加害者となった対人事故は、人対車両事故全体と比べて減少のペースが明らかに遅い。

さらに、自動車事故とちがって、自転車事故の場合、対人事故でも対物事故でも、軽微なものであれば、あまり警察沙汰にはされないことも多かろう。したがって、上の数字は交通事故として警察が把握した件数、すなわち、警察に届け出ようと当事者が考える程度に深刻な事故のみがカウントされている可能性があるということにも留意すべきだ。当然、軽微な事故や、事故寸前の「ヒヤリ」状況は、これよりはるかに多く発生しているものと考えられる。したがって、たんに重大事故の件数があまり多くないからといって、その影響を過小評価すべきではない。全体として、自転車は、歩行者にとってより危険な存在となりつつあるといえるのではないか。

「歩行者」≠「贋者自転車人」の実感

こうしたあたりは、歩行者として街を歩く身であれば、誰しも実感するところであろう。街でみかけるサイクリスト諸氏の、大胆不敵というか無謀というか、しゃれにならないくらいの危険な運転をみかける機会は、少なくとも東京では、ここ数年まったく減っていないどころか、ますます増えているように思われる。

夜間に無灯火で走る、一時停止や信号を守らない、車道を逆走するくらいは以前からあって、もはや気にもならないくらい当たり前の状況となっているが、最近はさらに拍車がかかっている。歩行者を縫うように歩道を高速で爆走する、自動車の前に飛び出して急に右折したり進路をふさぐように走ったりするなど、もはややりたい放題とでもいうしかない。みたことがないという方は、試しにYouTubeで「自転車 危険運転」のキーワード検索をかけてみるといい。ブレーキのない競技用の自転車(いわゆる「ピスト」)をそのまま路上で乗っている人も少なからずいる。認めたくないかもしれないが、高そうな自転車に乗ったシリアスサイクリストと思しき人びとのなかには、もはや「暴走族」とでも呼ぶ方がいいくらいの人が少なからず含まれているのである。

ではカジュアルサイクリストは歩行者にとって安全なのかというと、そういうわけでもない。歩道で自転車を並べて話しながら走ってきて歩行者に正面から突っ込んできたり、後ろからぶつかってきたりすることは日常茶飯事だ。彼らのなかにもけっこうスピードを出す人たちはいて、そのまま歩道を爆走したりもするから、歩行者にとっての危険度は低くはない。また、歩道からふらふらと車道に出てきて自動車の進路をふさいだり、急ブレーキをかけさせたりすることしばしばみられるから、歩行者がバスに乗っているときなどに「被害」を被ることもあろう(わたしは実際にバス内で転倒しそうになった経験がある)。

このほか、東京都をはじめ多くの自治体で禁止されている、イヤホンやヘッドホンを装着したまま自転車を運転している人、携帯電話などを操作しながら運転している人、雨の日に傘をさしながら運転している人も、ちょっと数えてみればわかるがかなりの数に上る。

ここしばらく通勤時に数えてみたが、イヤホンを装着している人はおおむね全体の10%前後、雨の日に傘をさして乗っている人は約半数だった(雨の日は自転車の数自体が減る)。携帯電話を操作しながら乗っている人は、夕方以降顕著に増える傾向にあるように思う。以前、なぜそうした行動をするのか聞いてみたことがあるが、答えは「音楽聞いたり携帯いじったりしちゃいけないなら、自転車乗ってるときに何すればいいんですか!」だった。笑いたいところだがとても笑えない。2010年に発生した自転車事故による死傷者の約7割は法令違反をしており、そのかなりの部分が動静不注視と安全不確認である。こうした違反者は事故の予備軍なのだ。

もちろん、大半の自転車利用者の方は、安全や周囲に気を配りながら乗っておられるのだとは思うが、そうではないと思われる事例が少なからずあって、歩行者の立場としてはすでに看過しがたいレベルに達しているように思われる。

さらに気になるのは、こうした乱暴な運転や、携帯電話使用などの不注意な運転が、若年層の中で多くみられることだ。実際、2010年に発生した自転車運転中の交通事故での死傷者数(男女計)をみると、24歳以下で全体の約4割を占めるのだが、観察してみた実感からいえば、こうした危険な運転をする人の大半は若年層男性であり、その他若年層女性と中高年男性をそれぞれ一部含む程度だ。「男の子」たちが危険なふるまいをしたがるのは自転車にかぎったことではないし、ある程度しかたない面もあると思うが、そのとばっちりを受ける事態は歩行者としてやはり避けたい。

ではどうすればいいのか

それではいま、現実的に何をすべきだろうか。近年、自転車をめぐる交通ルールは規制強化の方向にあるようで、ちょっと前に運転中の携帯電話操作などが違反行為となったかと思えば、今度は自転車の一方通行ルールが定められる方向性にあるという。

「自転車に一方通行規制へ 警察庁が省令案、罰則も適用」(朝日新聞2011年7月21日)

http://www.asahi.com/national/update/0721/TKY201107210230.html

警察庁は21日、道路交通法の関係法令である総理府・建設省令「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」の一部を改め、縁石などで区切られた自転車道と、歩道上に設けられた自転車用の通行帯に、一方通行の規制を設けられるようにする案を公表した。

歩道上で自転車が対面通行しようとするために歩行者が危険にさらされる状況はよくみられるので、これは歩行者の立場からすればありがたいところだが、ただルールを決めれば守られる、というものでもなかろう。違反行為には罰則もあるようだが、それですむなら後記のような違反事例は起きないはずだ。以上をふまえ、歩行者の視点で主張したい点を3つほど挙げる。

(1) 学校の自転車安全教育を強化する

一見遠回りにみえるかもしれないが、自転車ユーザーのマナーを平均的に向上させるのにもっとも手っ取り早いのは、学校での自転車教育の強化ではないかと思う。理由は単純で、上記の通り、危険な運転をする者のかなりの割合が若年層だからだ。それに、当人たちの意思に関わりなく知識やらルールやらを教え込むには、やはり学校というセッティングは適している。

もちろん、学校での自転車安全教育の取り組みはすでに行われてきているはずだが、現時点では、自転車が本来車道を通るべきものという原則ですら知らないとする子どもは少なくないから、学校での安全教育をこれまで以上に強化する意味は大きいのではないか。自転車を運転しながらイヤホンで音楽を聞く、携帯電話を操作するといった危険な行為をしないことの重要さを教えるという趣旨では、小中学校だけでなく、実際にそうしたふるまいをすることが多い年齢層である高校、場合によっては大学での教育も強化した方がいいだろう。近年の規制強化の方向を受け、下記のように実際に摘発される事例も出ているので、これらの情報を周知し警告するだけでも一定の効果は期待できよう。

「自転車運転中に携帯電話の女子高生摘発 ルール改正後初 神奈川県警」(産経新聞2011年7月4日)

http://sankei.jp.msn.com/region/news/110704/kng11070420430004-n1.htm

自転車に乗りながら携帯電話を使用したとして、神奈川県警平塚署は4日、神奈川県道交法施行細則(画像注視)違反で、平塚市内の県立高校1年の女子生徒(15)を摘発したと発表した。同細則の一部が今年5月1日に改正されて以降、摘発は初。

この種の内容は学校教員による指導が難しいだろうから、警察官やそのOB、近隣の人びとが教える形式をイメージしている。それこそ自転車店から派遣して、自転車の整備や、後にあげる自転車「擬似免許」の講習などと併せて行うことも考えていい。

(2) 自転車「擬似免許」制度を防犯登録と組み合わせる

自転車に免許制度を導入せよという意見はしばしば聞かれるが、運営のコストなどを考えると、本格的な免許制度を実際に導入するのはなかなか難しい。ただ、「擬似免許制度」とでも呼べそうなしくみは、全国の少なからぬ自治体ですでに導入されている。もっとも早く2002年に制度をスタートさせた荒川区の制度は、講習会で講義、筆記試験、実技講習などを受けて、免許証を取得するというもので、安全教育の一環ということになる。他の自治体でもほぼ同様だろう。http://www.city.arakawa.tokyo.jp/kurashi/kurashi/jitensha/jitenshamenkyo.html

これらの擬似免許制度は、比較的容易に導入できるが、いってみれば子ども向けの「なんちゃって」免許だから、当然ながら、本物の免許のように、違反行為に対してペナルティを与えるといった強制力がないのが課題となる。これをより意味のあるものにする工夫がほしいところだ。そこでだが、自転車の防犯登録は、すでに「自転車の安全利用の促進及び自転車等の駐車対策の総合的推進に関する法律」によって、自転車保有者に義務付けられている。たとえばこれを自転車擬似免許制度と組み合わせ、自転車に貼る防犯登録シール自体を免許証にしてしまうのはどうだろうか。

防犯登録の際に「免許」取得のための講習とセットにすることも考えられよう。防犯登録には有効期限があり、更新も制度上はできるはずだが、実際にはあまり活用されていない。学校に通う子どもであれば、学校での交通安全教室などと組み合わせ、いっせいに更新するといったやり方もありうる。免許証に学校名を記載するなどして学校単位で管理できるようにし、摘発まで至らない違反行為の取り締まりの件数を所属校ごとに集計して学校に通知、同時に公表するようにすれば、競争が生じて、学校での安全教育にもこれまで以上の力が入るかもしれない。当然ながら、こうしたきめ細かい対応は自治体レベルで実情に合わせて行わなければならない。自治体間でアイデアを競うくらいであってほしい。

(3)保険を「二階建て構造」にする

自転車が歩行者との間で事故を起こしてしまった場合、被害者への賠償を迫られることになる可能性が高い。自転車でそんな大きな事故が起きることはないだろうと思う人もいるかもしれないが、件数はともかく、自転車の対人事故で高額の損害賠償を求められるケースは実際に出てきている。少し前に、こんな報道があった。

「自転車事故:歩行者との事故、過失相殺認めず 自転車側に高額賠償」(毎日新聞2010年8月21日)

http://mainichi.jp/select/jiken/ginrinnosikaku/archive/news/2010/20100821org00m040999000c.html

自転車の車道走行ルールを厳格化するため道路交通法が改正された07年以降、自転車で歩行者をはねて死亡させたり重傷を負わせた場合、民事訴訟で数百万~5000万円超の高額賠償を命じる判決が相次いでいることが分かった。

この「高額賠償」については、日本損害保険協会の資料に次のような事例が紹介されている(表2)。加害者が未成年の事例が多く含まれていることに注意されたい。

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表2:自転車加害事故での高額賠償例
*日本損害保険協会調べ

もちろん、個々の事例での賠償金額はそれぞれの事情により異なるわけだが、全体として、自転車対歩行者の事故における賠償について、自転車側の責任を重くみる流れにあるのは事実だ。そのあたりの事情が、上で紹介した記事に書かれているので引き続き引用する。

交通訴訟を専門的に扱う部署のある6地裁(東京、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸)のうち、京都、神戸を除く4地裁の裁判官は今年3月、法律雑誌で誌上討論。自動車やオートバイの事故では、歩行者側の過失の程度により車両側の責任を軽減する「過失相殺」の基準が東京地裁の研究会などにより示されているが、自転車にはないため、4地裁の裁判官は自転車にも基準の必要性を確認した。

その上で、横浜地裁の裁判官が、歩道上の事故については道交法で自転車の走行が原則禁止され、通行できる場合も歩行者の安全に注意する義務があると指摘。「事故の責任は原則、自転車運転者に負わせるべきだ」とした上で、運転者が児童や高齢者でも変わらないとし、他の3地裁も基本的に一致した。

「新基準」に、4地裁は「検討が必要」としているものの、あるベテラン裁判官は「各地裁は参考にしていく」と、その影響力を指摘。別の裁判官は「自転車には非常に厳しいが、自転車の台数増加など事故の要素が多くなっていることを受けたものだろう」と評した。

歩道での事故は基本的に自転車が悪い、というわけだ。自賠法が自動車運転者に課している実質的な無過失責任に近い水準までは達していないかもしれないが、ある種それに似た発想であるように思われる。これはここ数年の話なので、今後は、自転車に対してより厳しい判決が続々と出てくる可能性があろう。となれば、賠償責任に備える保険は必須というべきだ。

現在、自転車に関する賠償責任への備えとしては、傷害保険や火災保険、自動車保険など他の損害保険に付加する特約として契約する個人賠償責任保険と、自転車安全整備士による点検、整備を受けた安全な普通自転車であることを示すTSマーク(運営主体は財団法人日本交通管理技術協会)に付帯されたTSマーク付帯保険、日本自転車協会会員特典としてのJCA自転車総合保険などがある。補償内容にはそれぞれちがいがあるが、問題と思うのは、利用者が比較的多いと思われる前二者がいずれも、他の何かに付帯されるタイプの保険であり、それゆえ保険そのものの「存在感」に欠けているという点だ。

賠償責任保険そのものの目的は、いうまでもなく、事故が起きたとき、被害者がその損害に対して保険金というかたちで補償が受けられることにある。しかし、保険契約者や被害者が本当に求めているのは、むしろ事故そのものが起きないですむことだろう。その意味で、賠償責任保険には、危険な運転者に具体的な行動の変化を促すメカニズムが内在していることが望ましい。加害者となるリスクを運転者に自覚させ、そのリスクが運転者のコスト負担として可視化されれば、そうした危険な運転を控えさせるインセンティブになるのではないだろうか。

現在のように、自転車の賠償責任保険を他の保険やサービスいわば「おまけ」のように扱う発想は、リスク源としての自転車を軽くみるものといえる。しかしそれは、自転車の普及が進み、シリアスサイクリストがさらに増えつつある現在の動向、自転車関連事故の賠償リスクが今後さらに大きくなっていくのではないかとの見通し、および自転車に対する社会の目が厳しくなりつつある現状にそぐわないものとなっているように思われる。

具体的な保険商品の改良の方向は2つあると思う。ひとつは、自動車損害賠償責任保険(いわゆる自賠責保険)を、自転車にも拡大する方向だ。自転車を自動車損害賠償保障法(自賠法)の対象としてしまうことが前提となろう。つまり保険契約を法律で義務付けるということだ。

すでに原動機付「自転車」は、自賠法の対象になっている。原付は車検制度がないので、自賠責の付保率が必ずしも高くないことが問題視されているが、仮にそれと似た状況になったとしても、少なくとも保険があまり普及していない現在よりは劇的に状況が改善されるのではないか。自転車の場合、被害者が死亡するような重大事故に発展するケースは、自動車や原付などと比べて小さいはずであり、保険料もそう高いものにはならないと考えられる。防犯登録や擬似免許制度と組み合わせ、登録時、免許取得時などに保険契約を確認するようなしくみとすることも考えられる。

もうひとつの方向性は、自動車保険のように、リスクの差を保険料に反映させる方向性だ。理屈からいえば、自転車の賠償リスクは、運転者の年齢や性別、乗っている自転車のタイプ、過去の事故歴などによって変わってくるはずだから、それが保険料の差としてあらわれる方が自然だ。これによって、リスクの高い運転者にそのリスクを可視化してみせ、注意を促すことができる。賠償保険だけでは契約する動機づけが難しいかもしれないが、自転車に関するリスクは賠償責任だけではない。運転者本人の傷害リスクや自転車自体の盗難リスクなどを併せてカバーし、自賠責保険の上乗せ補償を提供する商品として構成することも考えられるのではないか。

この2つの方向性は、どちらかではなく双方とも実現されることが望ましい。要するに、自転車に関する保険を、自動車と同じように、強制保険と任意保険の2階建てにしてはどうかということだ。コスト増を避けたいカジュアルサイクリストたちにも、「最低限」として自賠責は義務付ける。賠償責任以外のリスクも含めてより充実した保障を求める人(シリアスサイクリストが多いかもしれないが限定する必要はもちろんない)には、それに加えて任意保険を契約してもらえばいい。

「中途半端」な存在にしない

つきつめると、本稿の趣旨は、総体としての自転車ユーザーに対して、もう少しちゃんとしてくれ、と要求しているということになる。これまで自転車を気軽で安価な交通手段として便利に利用してきたカジュアルサイクリストたちにとっては迷惑な話かもしれないが、歩行者の立場からすれば、気軽に事故を起こされても困るし、いざというときに賠償の備えもないのではさらに困るのだ。なかには、「そんなにめんどくさいのなら自転車に乗らない」という選択をする人もいるだろうが、それでいいと思う。自転車という本質的にリスクを内包する乗り物がもたらす利便性は、そのコストを払った者に対して与えられるべきものだ。

一方、シリアスサイクリストたちにとってももちろん面倒ではあるだろうが、意識の高い人であれば、便利さや快適さにコストがかかることはそもそも当然と納得してもらえるのではないかと思う。「中途半端」な存在を脱することは同時に、サイクリストたちにとってもいい機会になる。コスト負担が可視化されることで、政府に対し自転車ユーザーに配慮した政策対応を求めやすくなるからだ。サイクリストたちが、コスト負担をしたうえでそれに見合った扱いを求めるのはきわめて正当だから、自転車政策の改善に対する社会的な合意が得やすくなる。歩行者のひとりとして、サイクリストにすり寄るつもりはないが、互いにメリットがあるなら、声を合わせるのはむしろ当然だろう。結果として、歩行者にとってもサイクリストにとっても、そして自動車にとっても、自転車がより安全な乗り物に、また路上がよりよい場所になってくれればと願う。

推薦図書

本文でも紹介したが、自転車を通勤を含む本格的な交通手段として使う(本文でいう「シリアスサイクリスト」)筆者が、自転車生活を送る上でのさまざまなノウハウや、自転車がよりよく社会と共存していくための提言などについて書いている。くだけた文体は好き嫌いがあろうが、少なくとも自転車について真剣に考えていること、堅苦しい理屈より実践的であろうとしていることはよく伝わってくる。必ずしも「バラ色」には書かれていないので、「自転車生活」をしたいと思っている方には、冷水をぶっかけられるような気分になるところもあるかもしれないが、一読するといいと思う。

プロフィール

山口浩ファィナンス / 経営学

1963年生まれ。駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授。専門はファイナンス、経営学。コンテンツファイナンス、予測市場、仮想世界の経済等、金融・契約・情報の技術の新たな融合の可能性が目下の研究テーマ。著書に「リスクの正体!―賢いリスクとのつきあい方」(バジリコ)がある。

この執筆者の記事