2024.07.08
「自然の価値」を論じなおす:関係価値と自然の代替不可能性――環境経済学と環境倫理学の対話
シリーズ「環境倫理学のフロンティア」では、環境倫理学の隣接分野の研究者との対話を行っています。今回は「環境経済学×環境倫理学」として、「クリティカル自然資本」をキーワードに研究されている環境経済学者の篭橋一輝さんと対話を行います。篭橋さんは、最近では自然の価値に関する論考を書かれており、これは環境倫理学に親和性のあるものになっています。今回は、これらの内容をふまえて、環境経済学と環境倫理学の観点から、現代における自然の価値について議論していきます。
吉永 篭橋さんは環境経済学がご専門で、南山大学社会倫理研究所で第二種研究員としてお勤めになり、以前(2019年3月)には同研究所で『未来の環境倫理学』の書評会を開いていただきました。このように、以前から環境経済学の観点から環境倫理学の研究を見守っていただいておりましたが、2020年にお書きになった論考「〈関係価値〉は新しい価値カテゴリなのか――手段的価値、内在的価値、代替可能性の観点から読み解く」を拝読して、これはもう完璧に環境倫理学ではないか、と思いました。この論考は、最新のご著書『水と大地の環境学――持続可能性の根を求めて』(晃洋書房、2024年)にも収録されています。
ご論考では、「内在的価値(人間の利用を離れて自然そのものがもつ価値)」と、「手段的価値(人間が利用するための価値)」を中心に論じられてきた「自然の価値論」の中に新たに登場した「関係価値」について、海外の文献を紹介しながら論評されています。今日はこの論考を中心に、「関係価値」の意義と位置づけについて議論したいと思います。まずは篭橋さんの研究のキーワードである「クリティカル自然資本」について、お話しいただけますか。
「クリティカル自然資本」(CNC)とは何か
篭橋 どうもありがとうございます。クリティカル自然資本(critical natural capital、以下CNC)は、経済学の中で自然環境・資源の不可欠性を表すために生まれた概念です。経済学では、人間の幸せや福祉(well-being)水準に影響を与える要素として、自然環境・資源のストックを「自然資本」と認識します。自然資本というストックから、環境機能や生態系サービスのようなフローが生み出され、それを人間が消費することによって、個々人の幸せや福祉が向上すると考えるわけです。自然を資本の一類型として認識することは、マクロ経済の中で、ある国の「富(wealth)」の構成要素として自然環境・資源を計上することを意味します。
私たちは日頃、国の豊かさをGDP(国内総生産)で評価しますが、GDPには自然環境・資源の劣化や減耗は反映されていません。ですから、GDPを見ているだけでは、ある国の森や川、生態系がどのような状態になっているかが分からないのです。でも、自然資本として自然環境・資源を捉え、それを適切にマクロ経済勘定の中に反映させることができれば、GDPよりもずっと“真の”国の経済状態の望ましさを捉えることができるはずだ——このような問題意識の下で、自然資本を経済学の経済成長理論の中に理論的・実証的に組み入れる研究が精力的に行われてきました。その重要な成果の一つが、「包括的富(inclusive wealth)」と呼ばれるものです。自然資本、人工資本(インフラや施設など)、人的資本(労働の質や健康、学歴など)のそれぞれのストックを経済的価値で価値づけたものの合計(=包括的富)が全体として維持されることで、現在から将来にかけての持続的な経済発展が担保されるというわけです。
ここでは包括的富の構成要素の一つとして自然資本があるわけですが、他の人工資本や人的資本といった異なる資本資産を“集計している”という点に注意が必要です。例えばある経済システムにおいて、森林伐採が飛躍的に進み、自然資本が減耗・劣化したとしましょう。一方で、道路やダム、橋梁などのインフラ設備投資が進み、人工資本が大幅に増加したとします。このような経済システムでは、自然資本のマイナス分と人工資本のプラス分が相殺されます。その結果、“集計された”合計値としての包括的富は変化せず、場合によっては(人工資本の投資の方が大きければ)包括的富は拡大します。思考実験として、自然資本の減耗がどれだけ進んだとしても、それを上回るだけの他の異なる種類の資本への投資が行われれば、そのような発展経路は持続可能であるという帰結が得られるわけです。
ここで問題となっているのは、自然資本の「代替可能性(substitutability)」です。自然資本が人工資本や人的資本などの資本資産と代替可能であるという前提が、包括的富にはあるわけです。しかし、水、森、川、大気、土壌、微生物、昆虫、動植物など、私たちの生活の根底を支え、物質循環の中で不可欠な働きをしているものを、人工資本や人的資本で代替できると手放しに考えて良いでしょうか。この問いを深めていくと、「自然資本の代替不可能性(non-substitutability)をどう考えるか」という問題に行き着きます。まさにそこに、CNC概念があるのです。CNCは、他の資本資産と代替不可能であり、それゆえに私たちが将来世代に引き継ぐべき自然環境・資源を表しています。
経済学における自然の価値の表象の仕方
篭橋 私がCNC概念にこだわっている理由は2つあります。1つは、経済学における自然の価値の表象の仕方そのものに強い関心があるからです。環境経済学はこれまで様々な環境評価手法を発展させてきました。それらを通じて、私たちは自然の経済的価値を知ることができます。それは自然を正当な資産(asset)として認識し、合理的に運用することを私たちに求めます。ちょうど、私たちが保有する土地や家、車などの個人資産の運用益を最大にするように、ポートフォリオを管理する作業に似ています。本当は親から大切な資産を引き継いでいるのに、それを資産として認識しないがために、子の世代が家計を食い潰していることに気づかないということがあってはなりません。自然環境・資源を「自然資本」として認識することの意義は、そうした危険性を回避することにあります。
ただ、私の関心は少し別のところにあって、上の例でいうところの「親から引き継いだ大切な資産」の具体的な中身が何であり、それをどのような価値として表象するか、ということです。例えば、童謡「大きな古時計」で歌われているおじいさんの古時計は、子どもや孫にとって、どのような価値があると考えられるでしょうか。もしそれが時間を正確に測るための機能だけで測られるのであれば、いまはもう動かなくなった古時計には何の価値も無くなってしまいます。しかし、童謡の中で歌われているのは、明らかにそれ以外の価値のことです。それは愛着や思い出、骨董品、生きた証、形見などといった言葉で語られるような事柄です。そうしたものの価値は、どこまで貨幣尺度に還元されうるか。また、おじいさんの古時計が破壊されても、別の種類のモノ、例えば高級ワインを購入してワインセラーに貯蔵することで、古時計がもっていた「価値」は代替されると考えてよいのか。こうした問題を、自然環境・資源の文脈で考えていくと、歴史や文化、土地への愛着や倫理というような、自然資本を取り巻く社会的文脈性に目を向ける必要が出てきます。それらをどう自然の価値として表象するかが、私の研究関心です。これは今回の対話のテーマである「関係価値」の議論に関連します。
自然資本と代替可能性/不可能性
篭橋 私がCNCにこだわるもう1つの理由は、それが自然資本の保全問題に関して現実的な問いを与え、2つの異なるパラダイムを架橋する潜在性を持っていると考えるからです。環境経済学には、自然の代替可能性を許容する「弱い持続可能性(Weak sustainability)」と、その代替不可能性を強調する「強い持続可能性(Strong sustainability)」という2つのパラダイムがあります。両者は、「自然資本は代替可能か代替不可能か」という論点をめぐって鋭く対立しています。枯渇性資源の代替可能性をめぐっては、既に1970年代から新古典派経済学とエントロピー経済学の間で激しい論争がありました。
しかし、自然資本が代替可能か代替不可能かという問いは、実はかなり極端です。現実には2つのパラダイムの間のどこかに、着地点を見出す必要があります。「どのような自然資本を、どれだけ保全する必要があるか」という問いの方が、実践的には重要だからです。ここに、クリティカル自然資本の本来の概念的な意義があると私は考えます。クリティカル自然資本概念は単に「強い持続可能性における自然観」を表すものとして位置づけられる向きがあります(例えば、Ekins et al. 2014)。しかし、クリティカル自然資本は、上記の実践的な問いを具体的に考えるための概念として、強い持続可能性と弱い持続可能性の両方のパラダイムで用いられるべきだというのが、私の立場です。
吉永 ありがとうございます。篭橋さんの問題意識がよくわかりました。このような問題意識のもとで「関係価値」に注目されたわけですね。
関係価値の位置づけについて
篭橋 はい。ここで私の論考のポイントについてお話したいと思います。関係価値は「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」(通称IPBES)の中で、主に文化的サービスの評価に関連して重要な位置づけを与えられている概念です。2018年には、Current Opinions in Environmental Sustainability誌で関係価値の特集が組まれ、それ以降も多くの論者によって、精力的に研究が進められています。関係価値論において重要なポイントは以下の点です。第1に、内在的価値(intrinsic value)と手段的価値(instrumental value)の従来の価値カテゴリの区分では、自然に対して適切な価値づけを行うことが困難であり、第2に、主体(人間)と客体(自然)に分ける考え方も、自然を人間から(あるいは人間を自然から)分離して捉えることにつながるため、見直す必要がある。こうしたニーズに応えるのが「関係価値」である、というわけです。
私は関係価値がもっている問題意識と可能性を高く評価しています。しかし、その一方で、関係価値論の中で「代替可能性」と「手段的価値」の概念がナイーブに使われていることが、とても気になりました。私が上記の論文を書いたのは、そのような動機からです。
Himes & Muraca (2018)を初めとする関係価値論者は、関係価値は内在的価値とも手段的価値とも異なる第3の新しい価値カテゴリであるという点で一致しています。関係価値は人間と自然の間の関係に目を向けますが、内在的価値だと自然を人間から切り離された「非関係的なもの」として位置づけてしまうし、手段的価値だと、あらゆる自然の構成要素は「代替可能なもの」とならざるを得ない。従来の価値カテゴリの区分では、関係価値が捉えようとしている、“関係的”かつ“代替不可能”な価値が捉えられない、というわけです。
これは一見もっともらしく見えますが、実は彼らは、内在的価値と手段的価値をかなり狭く限定的に定義して使っています。内在的価値を「非関係的なもの」とするのは、ジョン・オニールが整理した内在的価値の類型の一つに過ぎませんし、手段的価値を「代替可能なもの」とアプリオリに想定するのもかなり極端です。目的-手段関係の中で物事を捉えたとき、「手段」に該当するものが自動的にすべて代替可能になるかというと、決してそうではありません。ある手段の貢献度がきわめて大きかったり、特異性が認められたりすれば、それが“代替不可能”となる余地は十分にあるのです。
私が論文の中で主張したのは、関係価値は従来の内在的価値と手段的価値の両者にわたって広がる価値として捉えることができる、ということでした。それは関係価値が不要だと言っているわけではありません。関係価値が実際のところ、どのような価値を捉えているのかを明確にしておく必要があると思ったからです。少なくとも「第3の新しい価値カテゴリ」という言い方はミスリーディングです。そこは現実の生態系保全をめぐる政策的なトレンドとは切り離して、きちんと主張しておかなければいけないと思っています。
関係価値の実践的意義について
吉永 ありがとうございます。先ほどの「クリティカル自然資本」に関する説明と符合する見解ですね。ここで私が「関係価値」に関心をもったきっかけをお話しします。
21世紀に入り、自然保護や地球環境保全が常識になった時代に、開発行為の際にも自然環境への配慮とか地球環境への貢献ということが言われるようになりました。典型的なのはメガソーラーに代表される再生可能エネルギー開発です。これは脱炭素・脱原発を推進するという観点からすれば、地球にやさしい開発事業です。他方で、メガソーラーが山林に設置される場合、端的にその地域に自然破壊が生じます。
その際に、「この地域では自然が失われるが、その分、他の地域で自然を再生すればよい、トータルではむしろ自然が増える」という言い方で、開発事業を正当化する言説が見られます。しかし、メガソーラーに反対する人たちは、まさに目前の自然が失われることに対して反対しているのであり、他のところで植林するからよいのだと言われても、何にもならないわけです。失いたくない自然は、「この」森であり、「この」川なのですから。ここには「この」自然は代替不可能であるという価値観があります。私は、「関係価値」というのは、こうした目前の自然は「かけがえのない」ものであるという価値観を表現するものだと考えますが、いかがでしょうか。
篭橋 「この」という限定がつくというのは、とても重要なことです。関係価値が目を向けているのは、まさにその部分だと私は理解しています。「この」森や「この」川は、評価者にとってまさに「顔」の見える存在になっているわけです。「この」の部分を形づくるのは、知識であり、歴史であり、文化であり、対象と触れ合った経験や過ごした時間、さまざまな体験や思い出などです。それらが総体となって、「この」人と「この」自然の間に、豊かな関係性が生み出されます。それを価値として表象したものが関係価値だと考えてよいでしょう。
ただ、私は関係価値という概念は、とても魅力的であると同時に、危うさも孕んでいると思います。上で述べたように、関係価値の理論的な基盤がまだ整っていないようにみられる一方で、海外では関係価値が「第3の新しい価値カテゴリ」とセンセーショナルに喧伝されています。関係価値が捉えようとしている内容を丁寧に、適切な網目で学問的にすくい上げるという作業が、私たちに求められていると感じます。もしそれも環境倫理学だよ、とおっしゃって頂けるなら、私は喜んで貢献したいです。
吉永 自然の価値論は環境倫理学の中核ですから、100%環境倫理学と言えますよ。ただ、ご論考を拝読した限り、海外の議論にあいまいさはあっても「危うさ」は感じませんでした。どういうところが危ういのでしょうか。私見では、ご紹介された海外の議論に概念的混乱が見られるのは、内在的価値/手段的価値の二分法をいまだに引きずっているからだと思います。これを忘れて新たに価値論を組み立てなおすべきだと思いますが、いかがでしょうか。
篭橋 私が海外の関係価値論に関して「危うさ」と言ったのは、広い意味での手段的価値に相当するものがすべて、代替可能なものとして(”mere instrumental”という呼称で)切り捨てられるからです。Himes & Muracaは、関係価値はエウダイモニアに貢献するもので、“手段的価値”(これは先述のとおり、彼らがかなり限定的に用いている点に注意してください)は商品の消費とか心理的な欲求の類しか扱わないものだ、というように論を進めます。
上記の論の背景には、手段的価値は低次なものという価値判断があるように思えます。しかし手段的価値はHimes & Muracaが想定するよりもずっと広い範囲をカバーするはずです。それは心理的な満足とか商品の消費に限定されるものではなく、アマルティア・センが論じた潜在能力のようなものも含むでしょう。手段的価値は全部ダメ、内在的価値もダメ、だからエウダイモニアに貢献する関係価値こそが重要なんだという大雑把な論の進め方には、私は賛同できません。それは既存の価値論における先行研究や学術的な蓄積を否定することになりますし、関係価値の理論的基盤をかえって脆弱なものにしてしまいます。
私は関係価値が捉えようとしているものが、手段的価値に還元できない要素を持っている、という点には強く賛同します。また関係価値論が、主体と客体を分離させて価値を考える従来の枠組みを批判的に乗り越えようとする点もポジティブに評価しています。しかし、「関係価値は手段的価値とも内在的価値とも異なる第3のカテゴリの価値である」という言説が先行すると、かえって関係価値が大切にしようとしているものを見失わせてしまうような気がするのです。
吉永さんがおっしゃるように、こうしたことは手段的価値と内在的価値の分類を引きずっていることがもたらす混乱なのかもしれません。関係価値を新しい価値論として組み立てるべきだというお考えも魅力的ですので、詳しくお伺いしてみたいです。
機能的価値と関係価値
吉永 初期の環境倫理学や自然保護の世界で「内在的価値」が提唱されたのは、手段的価値が常識だったからです。その時代には、手段的価値に回収されない価値が存在するという主張には意味があったわけです。しかし、その後の環境倫理学では、内在的価値は批判の対象になりました。自然に内在的価値があるならば、人間による自然利用はほとんどできなくなります。内在的価値をもつ自然を人の手から守るという論理からすると、人は自然と関わらないほうがよいことになります。それはおかしいということで、現在の環境倫理学や自然保護の世界では、「内在的価値」と「手段的価値」の二分法はやめて、「アメニティ的価値」や「美的価値」のような多様な価値を認めようという議論(価値多元論)が強くなっています。
そうした価値多元論を前提に、関係価値の対になる価値として、「機能的価値(functional value)」というものを設定してみます。自然の価値を、人間および生態系全体にとっての「機能」におく価値観で、「関係価値」が代替不可能な(かけがえのない)価値を表明するのに対して、「機能的価値」は自然の代替可能性を前提とします。生物多様性保全の現場で用いられる「オフセット」(相殺)という手法は、こうした価値観に基づくものといえます。
オフセットとは、ある地域で生物多様性の損失が見られた場合でも、他の地域で生物多様性をプラスにすればよい、ということです。これは生物多様性保全という目標の実現可能性を意識した周到なしくみともいえますが、他方でここには大きなモラルハザードの芽があります。つまり他の地域で生物多様性をプラスにしさえすれば、ある地域の生物多様性の減少は気にせずどんどん開発してよいと理解されるおそれがあり、「他で植林するからここは開発する」という開発事業者に開発のお墨付きを与えることになります。
自然の「機能的価値」を重視する人々は、ある意味ではマクロで長期的な展望を持った見方をしているので、その立場からすると、「かけがえのない」目前の自然を残すことを主張する人々は、近視眼的な「感情論」を語っているように映るかもしれません。しかし、「かけがえのない」という感覚を軽蔑するならば、人間の道徳の大部分が崩壊してしまうでしょう。
例えば会社の中で「おまえの代わりはいくらでもいる」と言われたら、機能的にはその通りだとしても、ひどく傷つきます。そうした言動は非難の対象になるでしょう。また、昔はネコを飼う理由として、ネズミを捕らせるため、という理由がありました。その際、ネコが機能的価値としてしか見られていない場合には、死んでしまったら代わりのネコを調達すればよいということになります。しかしそのネコに名前が付けられ、家族同様に扱われたならば、そのネコはその家族にとって「かけがえのない」ものとなり、「死んだら代わりを連れてくればよい」などと言おうものなら白い目で見られることになるでしょう。
その人、そのネコが「かけがえのない」存在であると主張することは、近視眼的な感情論として切り捨てられてよいものではありません。このような「かけがえのない」関係性は、近所の森や川といった生態系との間にも、人工物(駅舎、校舎など)との間にも成立します。
篭橋 「機能的価値」と「関係価値」を区別するというのは面白いですね。関係価値には機能的なものが全く含まれないように定義する、というのも一つの方向性かもしれません。吉永さんが言及されている、「かけがえのない」存在をどう考えるか、という点は私もとても大切なポイントだと思います。それは「この○○」という先述の議論にもつながりますね。
先にご紹介いただいた拙著の序章で、私は①有用性、②希少性、③固有性、④通約不可能性という4つの軸で代替可能性を整理しました。吉永さんが上で言及された「機能的価値」は、〈有用性〉と〈希少性〉によって特徴づけられると思います。それは他の存在との比較を通じて、代替可能になったり代替不可能になったりするわけです。一方で、関係価値は〈固有性〉がその根本にあります。ある対象との「固有な関係性」を、どう価値として表象するかが、関係価値論のテーゼです。また「固有な関係性」は同時に、他の存在との「通約不可能性」も生み出すと考えられます。家族同然の「この」ネコとの関係性は、名無しのネコのそれとは本質的に異なるわけです。こうした特徴をもつ関係価値は、〈有用性〉や〈希少性〉を基軸とする機能的価値とは異なるものとして捉える必要があるでしょう。「かけがえのなさ」という感覚は、実は機能的価値と関係価値の本質的な違いを認め、それを尊重する態度から生まれるのかもしれません。
吉永 ありがとうございました。これからもいろいろ議論していきましょう。
プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『
篭橋一輝
南山大学国際教養学部/社会倫理研究所・准教授。
続可能性―到達点と課題―」(『環境経済・政策研究』