2025.12.21

「リベラル」と「レフト」の不幸な結婚を終わらせよう――リベラリズムを再建するための絶縁状

芹沢一也 SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

政治

「リベラル」という言葉が、これほどまでに手垢にまみれ、憎悪の対象となってしまったのはなぜでしょうか。
それは、私たちが本来守るべき「自由」と、それとは似て非なる「急進的な変革(レフト)」とを、あまりにも長い間、曖昧に混同させてきたからではないでしょうか。

世間一般の目には、リベラルも左翼も、ひとまとめに「サヨク」として映っています。
キャンセルカルチャーで他人の口を封じる人びと、資本主義の破壊を叫ぶ人びと、あるいは過去の歴史を断罪する人びと。
そうした「レフト」の過激な振る舞いが炎上するたびに、なぜか「リベラル」という看板全体が泥を被り、本来のリベラリストまでが信頼を失っていく。

この「連帯責任」の悪循環を断ち切らなくてはなりません。

今回取り上げるのは、米国の左派雑誌『Current Affairs』の編集長ネイサン・J・ロビンソンによる論考、「リベラリズムとレフティズムの違い(The Difference Between Liberalism and Leftism)」です。
https://www.currentaffairs.org/news/2017/06/the-difference-between-liberalism-and-leftism

著者はバリバリの「レフト(左翼)」です。
彼は記事の中で、リベラルを「生ぬるい」「体制補完的だ」と激しく批判しています。
しかし、だからこそ、この記事はきわめて有用です。
敵対者による批判の中にこそ、私たちリベラルの輪郭がもっとも鮮やかに描かれているからです。

彼の議論は図らずも証明しています。
「リベラル」と「レフト」は、水と油ほどに異なる思想なのだ、と。

「手続き」のリベラル、「結果」のレフト

ロビンソンは、両者の決定的な違いを「手段と目的」の関係に見出します。

リベラリズムにとって、手段は目的と同じくらい重要である。……リベラリズムとは、一連の政治的・経済的な「手続き」へのコミットメントなのだ。 (For liberalism, the means are as important as the ends. … Liberalism is a commitment to a set of political and economic procedures…)

ここでの「手続き」とは、選挙、言論の自由、適正な法プロセス、議会での対話を指します。
私たちリベラルにとって、たとえ正しい目的(平等の実現など)があっても、それを達成するために言論を封殺したり、暴力的手段を用いたりすることは許されません。
「自由な対話」と「公正なルール」そのものに価値があるからです。

対して、レフト(左翼)はどうでしょうか。

レフトにとって重要なのは、手続きではなく、社会正義の実現そのものである。もし既存の制度が正義を阻害しているなら、制度ごとお払い箱にすべきだと考える。

ここに根本的な断絶があります。
レフトにとって世界は「抑圧者 vs 被抑圧者」の権力闘争の場です。
彼らにとって重要なのは、権力構造を打倒し、結果としての平等を勝ち取ることです。
そのためなら、ときには「手続き」を無視し、過激な糾弾やキャンセル(排斥)を行うことも正義とされます。

歴史を振り返れば、その道行きの危うさは明らかです。
ロシア革命しかり、その後の多くの社会主義革命しかり、既存の秩序を「悪」として徹底的に破壊しようとした運動の多くは、結果として、かつての支配者以上に強権的で自由のない、権威主義的な独裁体制へと帰結してしまいました。
「正義という目的のためなら手段を選ばない」という論理は、権力を握った瞬間、「自分たちへの批判を封じるためなら何をしてもいい」という抑圧の論理へと、容易に反転してしまうのです。

リベラルが「私があなたの意見に反対だとしても、あなたがそれを言う権利は死んでも守る(ヴォルテール的態度)」をとるのに対し、レフトは「あなたの意見は『抑圧』に加担しているから、発言権そのものを認めない」という態度をとります。
この二つが同じ「リベラル」という箱に入っていること自体が、そもそも無理があったのです。

資本主義を「直す」か、「壊す」か

経済に対する態度もまったく異なります。
ロビンソンは、リベラルを「資本主義の管理人」だと揶揄します。

リベラルは、資本主義に代わるものを望んではいない。彼らはそれをただ、より優しく、よりソフトにしたいだけなのだ。 (Liberals … do not want an alternative to capitalism. They want to make it nicer and softer.)

彼の言う通りです。
前回の記事で紹介したアンガス・ディートンのように、リベラルは市場経済の欠陥(独占や格差)を認め、それを規制や再分配によって「修正」しようとします。
しかし、市場そのものが生み出す自由やイノベーションまでは否定しません。

一方でレフトは、資本主義そのものを「諸悪の根源」と見なし、根本的な転覆(社会主義化など)を目指します。
私たちが「どうすればこのシステムをもっと公正にできるか」を議論している横で、彼らは「システムそのものを爆破しろ」と叫んでいるのです。
この両者が「野党共闘」の名の下に手を組んでいれば、有権者が「リベラルに政権を任せたら社会が壊される」と不安になるのも当然です。

「リベラル」をレフトから奪還する

なぜ私たちはこれまで、レフトとの境界線を曖昧にしてきたのでしょうか。
それはおそらく、保守派や権威主義といった「共通の敵」に対抗するために、少しでも数を増やそうとしたからでしょう。
しかし、その「野合」の代償はあまりに大きすぎました。

レフトが主導する極端なアイデンティティ政治や、異論を許さない不寛容さは、本来リベラリズムがもっとも大切にしてきた「寛容」や「個人の自律」とは相容れないものです。
記事の中でロビンソンは、リベラルのことを「妥協を好む」「現状維持バイアスがある」と批判しますが、裏を返せば、リベラルとは「現実的な改革者」であり、「社会の分断を防ぐ調整者」だというひとです。

現在、リベラリズムが嫌われている最大の理由は、それが「レフト」と混同され、独善的な過激思想に見えてしまっているからです。
しかし本来のリベラリズムは、極端な正義を振りかざすことを排し、異なる価値観を持つ人びとが共存するための「知恵」だったはずです。

未来に向けてリベラリズムを鍛え直す第一歩。
それは、リベラル自身が「私たちはレフトではない」とはっきり宣言することです。

「私たちは不正義とは戦う。しかし、正義の名の下に自由を踏みにじることとも戦う」
「私たちは格差を是正する。しかし、繁栄を生み出す自由な市場までは破壊しない」

そうやって、レフトの急進主義とは明確に距離を置き、保守層とも対話可能な「大人の思想」としての立ち位置を回復すること。
それこそが、迷走する現代社会において、リベラリズムがふたたび「信頼される選択肢」となる唯一の道です。

ロビンソンのような左翼からの「絶縁状」を、私たちリベラルは感謝して受け取りましょう。
そして、胸を張ってこう言い返すのです。
「その通り。私たちは違う。だからこそ、リベラリズムは未来に必要なのだ」と。

プロフィール

芹沢一也SYNODOS / SYNODOS Future 編集長

1968年東京生。
慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。
・株式会社シノドス代表取締役。
・シノドス国際社会動向研究所理事
http://synodoslab.jp/
・SYNODOS 編集長
https://synodos.jp/
・SYNODOS Future編集長。
https://future.synodos.jp/
・シノドス英会話コーチ。
https://synodos.jp/english/lp/
著書に『〈法〉から解放される権力』(新曜社)など。

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