2013.08.28
シリア「内戦」の見取り図
シリアで何が起こっているのか。それはいつから「内戦」と呼ばれるようになったのか。
シリアにおける今日の騒乱は、元をたどればいわゆる「アラブの春」の一環として、2011年3月に始まった。
手元の『朝日新聞』のデータベースを検索してみると、シリアに関する記事で「内戦」の語が頻出するようになったのは、それから約1年が経った2012年の春である。この頃から「内戦の恐れ」、「内戦の危機」、「内戦化の懸念」といった言葉が紙面を飾るようになり、国軍・治安部隊と反体制武装勢力の双方による暴力の連鎖はエスカレートしていった。その結果、同年6月、国連の幹部が停戦監視の失敗を事実上認めるかたちで、シリアで起こっていることを「内戦」と呼んだ。以来、シリア「内戦」の語は様々なメディアで用いられている。
確かに、シリア人どうしが戦い、シリアの街や村が文字通り瓦礫に変わっていく様は、一般的な「内戦」のイメージに符合する。だが、シリアで起こっていることを「内戦」と呼ぶことには、問題の本質を覆い隠してしまう危なさがある。なぜなら、以下に詳述するように、この戦いには国外の様々なアクター(主体)が参入しており、それにともない戦いを引き起こす争点も一様ではなくなっているからである。
つまり、シリアで起こっていることは、今や「箱庭のなかの戦い」としての「内戦」と呼ぶにはあまりにも広く、複雑な構図を抱えているのである。バッシャール・アサド大統領は、自国シリアが置かれた状況を「内戦」ではなく「真の戦争状態」と表現している。
本稿では、できるだけわかりやすく、シリア「内戦」の見取り図を描いてみたい。紛争はなぜ始まったのか、誰と誰が戦っているのか、紛争はなぜ終わらないのか。アクターと争点の2つに注目しながら、これらの問いに答えてみたい。
「アラブの春」の蹉跌
まず、事の発端を振り返ってみよう。「アラブの春」である。2011年1月から2月にかけて、チュニジアとエジプトで長年にわたった権威主義体制が、市民による抗議デモに屈するかたちで立て続けに崩壊した。この「革命」の熱狂は瞬く間に他のアラブ諸国にも伝播していったが、シリアも例外ではなかった。同年3月に南部の都市ダルアーで始まった抗議デモは、やがて地方都市を中心にシリアの各地に広がっていった。こうした非暴力を基調とした民主化運動の光景は、今日の武力をともなう紛争のそれとは大きく異なる。
重要なのは、この時点で、市民による抗議デモはアサド大統領の退陣を求めるものではなく、政府に対して政治や経済の改革を訴えるものであったことである。当時の抗議デモの映像を見ると、体制打倒を叫ぶものは皆無であり、生活の改善や汚職の追放などを要求していたことが確認できる。
むろん、アサド政権が非民主的な体制を築いていたことに疑いはない。定期的に選挙は実施されるものの、それはあくまでも名目的なものであり、権力の循環が起きることはない。アサド政権は、典型的な権威主義体制であった。それを象徴したのが、2000年にアサド大統領が事実上の世襲により権力の座に着いたことである。アサド親子二代にわたるシリアの権威主義体制は、1963年のアラブ社会主義バアス党(以下、バアス党)による革命にまでさかのぼる。革命によって政権を奪取したバアス党は、巧みな政治手腕で、「先代」のハーフィズ・アサドが大統領に就任した1971年までにシリアの支配政党としての地位を固めた。
では、バアス党による強権支配は、どのように正当化されてきたのだろうか。シリアは中東地域のなかでも特に多様な宗教や宗派を抱える国の1つである。こうした様々な差異を乗り越えるためにバアス党が掲げたイデオロギーが、アラブ・ナショナリズム(アラブ民族主義)であった。
このアラブ世界の統一を目指すイデオロギーにおいては、アラビア語を母語とする者は、どのような宗教や宗派を信じていようとも、あるいはどこに生まれ住んでいようとも、皆同じ「アラブ人」となる。バアス党は、アラブ・ナショナリズムの考え方に基づき宗教・宗派や出身地などの差異を乗り越えることでシリアを治めながら、他のアラブ諸国に対して統一アラブ国家建設の必要性を訴えた。
このアラブ・ナショナリズムにしたがえば、アラブ世界の一部であるパレスチナを「占領」しているイスラエルとの対決は不可避となる。実際にシリアは他のアラブ諸国とともに4度の中東戦争を戦い、現在に至るまでイスラエルとの戦時体制を敷いている。特に、1967年の第3次中東戦争でイスラエルに奪われた自国領ゴラン高原の回復は悲願とされてきた。
つまり、バアス党による強権支配は、アラブ世界の統一とイスラエルとの戦争という2つの「未完のプロジェクト」によって正当化されてきたのである。
アサド大統領は、自らが掲げてきたこうした「大義」への自負を見せてきた。そのため、2011年初頭にチュニジアとエジプトで政変が起こったとき、「アラブの春」がシリアへ飛び火することはないと考えていたふしがある。だが、半世紀近くにわたる権威主義体制下での生活を強いられてきたシリア市民が、「アラブの春」に変化の風を感じたのは道理であった。自由が制限され腐敗が横行する政治だけではなく、貧富の格差が開き続ける経済に対する不満や危機感が高まっていた。かくして、アサド政権に改革を求める声が上がるようになった。
こうした市民の声にアサド大統領はどのように対応したのだろうか。それは、一言で言えば、「アメとムチ」であった。まず、抗議デモの発生からまもなくして、「包括的改革プログラム」と呼ばれる一連の政治改革が実施された。アサド政権は、内閣の総辞職(2011年4月)、政党法の整備、地方分権化の促進、言論と報道の自由化の推進(以上、同年8月)、さらには憲法の改正(2012年5月)までをも行い、国民対話を呼びかけながら抗議デモの沈静化に努めた。
だが、その一方で、抗議デモの拡大を阻止するための過酷な弾圧も行った。アサド大統領の実弟マーヒル・アサド大佐率いる第四機甲師団や大統領直轄の共和国防衛隊を中心に、ダルアー、バーニヤース、ヒムス(ホムス)などで武装・非武装の市民に対する激しい弾圧を行った。過酷な弾圧は、シリア市民の心をアサド政権から引き離していった。
その結果、抗議デモの発生から2ヶ月が経った2011年5月には、アサド政権の打倒を叫ぶ声がシリア国内で高まることとなった。それにともない、抗議デモの側にも治安部隊や政権支持者に対する暴力の行使が見られるようになった。その結果、国軍・治安部隊と反体制武装勢力との暴力の応酬が始まり、「血のラマダーン」と呼ばれた2011年8月には激しい弾圧が敢行された。
もし、シリアで起こっていることを「アラブの春」の枠組み、すなわち「非暴力の市民による民主化運動」の枠組みで捉えるならば、2011年夏、抗議デモが始まってから5ヶ月たらずの時点で、その物語は終わったと言っても過言ではない。それが「非暴力」でなくなったからだけではない。それが「市民による」ものでもなく、「民主化運動」でもなくなったからである。冒頭の言い回しを用いるならば、これを機にアクターも争点も変化してしまったのである。
以下では、この変化を、軍事化と国際化という相互に関わり合う2つの問題から読み解いてみたい。順に見てみよう。
軍事化が変えたアクターと争点
軍事化とは、武器を用いた暴力的手段の蔓延・拡大のことである。体制打倒を掲げる社会運動にとって、武器を取る戦いがもたらす効果は両義的である。すなわち、運動の外部に対して武力の行使をも厭わないという強い意志を示すことができる一方で、運動の内部に対しては参加者・支持者に命を賭した大きな覚悟と犠牲を強いることになる。争点が当初の改革要求から政権との全面対決へと移行したことで、市民の多くが運動からの脱落を余儀なくされ、その結果、アクターは一部の血気盛んな若者や離叛兵士に限定されていった。
こうした争点とアクターの変化を象徴したのが、2011年9月の反体制勢力の武装集団「自由シリア軍」の結成であった。自由シリア軍は、国軍・治安部隊から離叛した上級士官や兵士を中心に様々な背景を有する人びとの寄り合い所帯であった。
国軍・治安部隊と自由シリア軍の武力衝突が頻発するようになった2011年末頃から、マスメディアだけではなく各国の政策決定者からも「なぜアサド政権は倒れないのか」という疑問が上がるようになった。だが、こうした疑問は、アサド政権のような「独裁政権」が倒れること、あるいは倒れるべきだとする認識を意識的ないしは無意識的に前提していたものであり、実際の戦局を正確に捉えていなかったと言える。むろん、エジプトやチュニジアで政権の懐刀であった国軍が命令に背き、市民による抗議デモに対する弾圧を拒否した記憶がまだ新しかったこともある。
だが、シリアの国軍(正式には「シリア国軍武装部隊」と呼ぶ)、とりわけ先に触れた重装備の精鋭部隊は、アサド大統領の親族や側近に率いられた「家産的な軍」であり、軍組織内部での政敵の排除と忠実な士官の登用を通して徐々に築き上げられてきたものであった。そのため、国軍、少なくともアサド大統領旗下の精鋭部隊は、自由シリア軍との戦闘を忠実に実行した。これに対して、離叛兵士は2011年末までに15,000人に上ったとも伝えられたが、そのほとんどが抗議デモの激化している地方都市の出身者であり、拳銃や小銃などの小火器を有するに過ぎなかった。
つまり、忠誠心の面から見ても、装備の面から見ても、軍事力で勝るアサド政権が反体制勢力によって倒されるはずはなかったのである。
そうだとすれば、むしろ疑問は、自由シリア軍を中心とした国内の反体制勢力はなぜ軍事的に敗北しないのか、という点にあるだろう。それどころか、反体制勢力は2012年7月と12月にはアサド政権に攻勢を仕掛け、それぞれシリアの首都ダマスカスと第2の都市アレッポの深奥まで到達した。
常識的に考えれば、戦車や装甲車、戦闘機やヘリコプターを有する正規の軍隊と真正面から対峙すれば、市民や離叛兵士からなる即席のグループはひとたまりもない。にもかかわらず、反体制勢力が今日まで「善戦」しているのは、彼らが自己犠牲を厭わない「自由の戦士」だからではなく(こうした見方は、観察者の側が「アラブの春」の「革命物語」や「英雄物語」を反体制勢力に投影しているだけに過ぎない)、単純に国軍・治安部隊に対峙できるだけの武器が存在するからである。
では、反体制勢力の武器はどこからやってくるのか。その答えは、もう1つの問題である国際化にある。
国際化がもたらした混乱
国際化とは、シリア国外で活動するアクターが紛争へと参入していくことである。そうしたアクターには、アサド政権の打倒を目指す国家、在外シリア人、そしてサラフィー主義者の3つがある。
まず、アサド政権の打倒を目指す国家には、米国、英国、フランス、ドイツ、ポルトガルなどの欧米諸国、湾岸アラブ諸国のサウジアラビアとカタール、それからトルコが挙げられる。これらの諸国は、シリアの民主化を是とする点で一致し、外交圧力や経済・金融制裁などを通してアサド政権に対する包囲網を狭める一方で、反体制勢力に対しては様々な支援をしている。
例えば、欧米諸国は、基本的に避難民や反体制勢力に対する非軍事の援助物資の提供を行ってきたとされるが、米国もEUも2013年に入ってからは反体制勢力への武器提供を正式に決定している。サウジアラビアとカタールは、アラブ連盟での反アサド陣営を主導しながら反体制勢力への武器や資金の提供を拡大している。トルコは、南部のシリアとの国境地帯から自由シリア軍や避難民を支援してきた。
次に、第2のアクターである在外シリア人の動向を見てみよう。
2011年の夏以降、アサド政権に対峙する勢力としての主導権を握ったのは、長年にわたり英国やトルコ、ヨルダンといったシリア国外で活動してきた古参の反体制派諸組織であった。弾圧によって国外での亡命生活を余儀なくされたこれらの組織は、シリア国内での抗議デモの発生を祖国復帰・政権奪取の好機と捉え、国際的な承認と支援を取り付けるための外交活動に奔走した。そして、2011年10月に反体制勢力の「正式な代表」となる組織「シリア国民評議会」の結成に踏み切った。アサド政権の退陣を訴える諸国の多くが同評議会を承認した。こうした「海外組」の外交活動が「国内組」に武器や資金をもたらしている。
だが、忘れてはならないのは、この紛争で実際に血を流しているのは「国内組」である、という事実である。彼らから見れば、古参の「海外組」は血を流さないどころか、「アサド後」の権力を横取りしようとしている。そもそも、在外の反体制派諸組織は長年の亡命生活によってシリア国内での支持基盤を失っていた。つまり、当初から「国内組」と「海外組」との間には埋めがたい溝があった。
それだけではない。溝は「海外組」の内部にも存在しており、在外の反体制諸組織は「アサド後」を見越した権力闘争に明け暮れている。シリア国民評議会、そしてその後に結成された「シリア革命反体制勢力国民連立(通称シリア国民連合)」においても、「アサド後」のシリアの姿をめぐって組織間での不一致が続いている。
第3のアクター、サラフィー主義者については、少し背景的な説明がいるだろう。サラフィー主義とは、イスラーム世界が抱える諸問題を解決する上で、その規範や指針を初期イスラーム(サラフ)に求める思想である。このサラフィー主義者が、アサド政権と戦う反体制勢力のなかで増加することで、紛争はいっそう激しさを増すこととなった。
誤解を避けるために言えば、サラフィー主義者が存在するのはシリアだけではないし、暴力の行使を是とするのは彼らのなかでもごくわずかである。エジプトでは、2011年の政変後の国民議会選挙で総議席数の約4分の1を獲得したヌール党がサラフィー主義者の政党として知られている。
しかし、シリアのケースが特異であったのは、国外から武装した過激なサラフィー主義者が流入したことであった。彼らは、一部のシリア人活動家らとともに、2011年末頃から「シャームの民のヌスラ戦線」などの組織を名乗り、政府機関や政治家を狙ったテロ活動を繰り返した。このような過激な行動、彼らが言うところの「ジハード(聖戦、義戦)」については、ソ連軍侵攻下のアフガニスタン(1979〜88年)、2003年の戦争以降のイラク、2011年の「アラブの春」の際のリビアなどでも見られた。今日において彼らの主戦場はシリアであり、敵はイスラームではなくアラブ・ナショナリズムに基づく統治を行ってきたアサド政権である。
以上のような、アサド政権の打倒を目指す国家、在外シリア人、サラフィー主義者の3つの国外のアクターが参入することで、反体制勢力はアサド政権と軍事的に対峙し続けることが可能となり、結果的に紛争の膠着状態と長期化をもたらしたのである。
だが、ここでより強調すべきは、このような国際化の進展がシリア市民をいっそうの窮地に追い込んだことである。シリアの一般の人びとの目から見れば、もはや「アラブの春」は自分たちの手を離れ、国内の自由シリア軍だけでなく、国外の関係各国、反体制派諸組織、サラフィー主義者に乗っ取られてしまった。人びとにとっての最大の関心は、今やアサド政権の行く末でもなく、どの組織が権力を奪取するのかという問題でもなく、ましてやジハードの成就でもなく、日々生命や財産を脅かし破壊し続ける戦闘の終結であろう。
つまり、国外のアクターの参入は紛争の軍事化を助長しただけではなく、それぞれが掲げる独自の争点が持ち込まれたことで、「市民による民主化運動」の「市民による」と「民主化運動」の両方の側面をスポイル(台無しにすること)してしまったのである。
シリアをめぐる「30年戦争」の構図
これまで見てきたように、シリア「内戦」は「箱庭のなかの戦い」ではなく、今日の国際政治の力学によって駆動している紛争である。反体制勢力に対する軍事・資金援助が拡大の一途を辿る一方で、アサド政権に対してはイラン、ロシア、中国が支持の立場を貫いている。
一般的に事態の収束のためには国際的な取り組みが不可欠であると言われることも多いが、シリア「内戦」の深刻化は国際社会の対立を反映したものであるため、その対立が続く限り国際社会による解決は望むべくもない。2013年6月に北アイルランドで開かれたG8サミットにおける事態打開の試みも、反体制勢力を支持・支援する欧米諸国と、アサド政権と長年にわたる友好関係を築いてきたロシアおよび中国との間の意見の相違から不調に終わった。
シリアをめぐってなぜ国際社会は対立し続けるのであろうか。シリア国内の対立構図からズームアウトして考えてみよう。
シリアで起こった「アラブの春」が軍事化・国際化したのは、一言で言えば、シリアが今日の中東地域を舞台とした国際政治の覇権争いの要に位置するためである。その覇権争いとは、米国およびその同盟国による覇権拡大とそれに抵抗しようとする諸国が対峙する構図をとる。これを筆者は「30年戦争」と呼んでいる。
この「30年戦争」の構図は、今から約30年前、1970年代末から80年代初頭の時期に起こった一連の出来事により生まれた。1978年、エジプトはイスラエルとの単独和平に踏み切った(キャンプ・デーヴィッド合意)。一方で、1979年、イランはイラン・イスラーム革命を成就させ、それまでの親米・新イスラエル路線から反米・反イスラエル路線へと180度転換した。その結果、イスラエルとの戦争状態にあったシリアは、エジプトに代わる新たな同盟者として、革命イランへと接近していった。
つまり、エジプトを中心としたアラブ諸国がイスラエルに対峙する構図から、イランとシリアの戦略的同盟関係がイスラエルとその最大の支援国である米国の覇権拡大を阻止しようとする構図へと変わったのである。こうして生まれたシリアとイランの戦略的同盟関係は、イラン・イラク戦争(1980〜88年)とレバノン戦争(1982〜85年)のなかで、「敵の敵は味方」の論理に基づき強固なものとなっていった。
こうした中東地域の対立構図の変化は大国の外交戦略にも強く影響した。とりわけ、イスラエルと米国の覇権拡大を望まないソ連(後のロシア)や中国が、イランとともにシリアへの支援を強めることは道理であった。冷戦終結後もロシアはシリアを中東における戦略的資産として捉え続け、外交、経済、軍事などの様々な分野での協力関係を築いていった。
むろん、この30年の間には、冷戦の終結、1990年の湾岸戦争とそれに続く湾岸戦争、1993年のオスロ合意など、中東政治のパワーバランスを震撼させたものもある。そして、これらの事件は、基本的には中東における米国の覇権拡大を意味した。だが、「30年戦争」の構図は、2003年のイラク戦争に見られたようなアクターの盛衰や入れ替えを経験しながらも、基本的には大きく変化することはなかった。むしろ、米国の覇権拡大が進めば進むほど、ロシアや中国にとってシリアの戦略的重要性は高まったのだと見ることもできる。
要するに、仮にアサド政権が崩壊したとすれば、それはこの「30年戦争」の構図全体の崩壊を意味することになる。そのため、イラン、ロシア、中国はこの構図を維持するためにアサド政権への支援を続けているのである。レバノンのシーア派イスラーム主義組織「ヒズブッラー(ヒズボラ、「神の党」の意)」の戦闘員がシリア国内で反体制勢力との戦闘に従事しているが、それも彼らがイランの同盟者であることを踏まえれば当然の判断であるとも言えよう。
見えてこない幕引きのシナリオ
国連によると、2011年3月からのシリアの戦争死者は10万人を超え、国外に流出した難民は190万人以上、国内避難民は425万人以上に上るという(2013年8月現在)。また、アサド政権と反体制勢力の片方ないしは双方が化学兵器を使用したとも伝えられるなど、シリア国内での人道的危機の悪化が止まらない。
シリア「内戦」が、中東政治、さらには国際政治にまで広がる「30年戦争」の一部である事実に鑑みれば、その幕引きが容易ではないことは明らかである。この大きな構図を解体し、別の新たな仕組みを構築するためには巨大なリスクとコストを要する。そのため、アサド政権の打倒を目指す反体制勢力もそれを支援する諸国も、「アサド後」のシリアはおろか、「30年戦争」の後の中東や国際社会の青写真を描き切れていないのが実情である。
加えて、シリアにおけるサラフィー主義者の急速な勢力拡大が問題となっている。国際社会にとって、アル=カーイダに近い世界観を持つ過激なサラフィー主義者の伸張は安全保障上の脅威となる。米国国務省は、2012年12月、アル=カーイダの指導者アイマン・ザワーヒリーへの忠誠を誓う「シャームの民のヌスラ戦線」を「国際テロ組織」に指定した。だが、アサド政権と戦う反体制勢力に混在する彼らの手に資金や武器が渡るのを阻止することは困難であり、米国とその同盟国が仮にアサド政権の打倒に成功したとしても、その後の治安や民主主義の確立に大きな不安を残すことになる。
つまり、イランやロシアがアサド政権の崩壊、広くは「30年戦争」の構図の崩壊に抵抗する一方で、シリア「内戦」の主導権を握ってきたはずの米国とその同盟国も、将来への不確実性を抱えることで、「力押し」ができなくなっているのである。とりわけ、シリアの隣に位置するイスラエルは、長年の仇敵であるアサド政権への批判を強めながらも、中・長期的な展望を欠く拙速な軍事介入については慎重な立場を見せている。
いずれの陣営も決め手を欠くなか、2012年6月の段階で、米国とロシア、そして国連の主導によって、スイスのジュネーヴで事態の収束に向けた国際会議を開催することが一応合意されている。国際会議には、アサド政権と反体制勢力の双方、そして「内戦」に関与してきた諸国の参加が見込まれている。こうした試みは、様々なアクター間の対話を通して幕引きを目指すという意味で一定の評価はできる。だが、シリアにおいて停戦と和解に向けた挙国一致の「移行政府」を樹立することまでは合意がなされているものの、アサド大統領自身がこれに加わるべきかどうかで議論は紛糾しており、会議の開催時期が決まらないだけでなく、開催自体すらも危ぶまれている。依然として予断を許さない。
「21世紀最悪の人道危機」へ(※2013年8月27日加筆)
UNHCR特使を務める米女優アンジェリーナ・ジョリーが言ったように、シリア「内戦」は徐々に、そして着実に「21世紀最悪の人道的危機」へとなりつつある。重要なのは、「人道的危機」をもたらしているものが何なのか、それを見極めることである。
8月21日、反体制勢力は、アサド政権が「再び」化学兵器を使用したと発表し、多数の子供を含む1300人が死亡したと伝えた。このニュースによって世界の耳目は再びシリアへと集まったが、現段階では政権側は化学兵器の使用を完全否定し、また、実際にそれを裏付けるための客観的な証拠も欠如している。
活動中の国連の調査団の調査結果が待たれるが、それも化学兵器の使用の有無だけではなく使用者の特定が重要である。仮にアサド政権による使用が明らかになったとしても、米英が準備していると言われる巡航ミサイルによる軍事介入は、シリアにおける「人道的危機」の本質的な解決にも、「内戦」の収束にもつながらないだろう。それどころか、中・長期的な展望を欠いた拙速な判断は、事態をさらなる混乱に陥れる恐れがある。
アサド政権は、戦略的要衝である地方都市クサイルの奪還(6月5日)を契機に、反体制勢力に対する軍事的攻勢を強めてきている。その背景には、レバノンのヒズブッラーの加勢があると言われているが、内部抗争の激化による反体制勢力の弱体化も看過できない。
「海外組」の反体制派諸組織間の足並みの乱れは解消されるどころか悪化の一途を辿っている。シリア国内では、北東部のイラク国境付近で過激なサラフィー主義者が増加した結果、そこで暮らす「第3の勢力」クルド人たちとの衝突を招いている。戦火で家を追われたクルド人たちは、難民としてイラク北部のクルド人自治区へと流入している。その数は、8月末の数日間だけで3万人を超えたと伝えられている。シリア「内戦」の対立軸は、もはや「アサド政権対反体制勢力」だけではなくなってきているのである。
シリアにおける「人道的危機」への対応は、多重化・多層化する「内戦」の構図を見据えながら、その拡大を阻止する、ないしは荷担しないようなかたちで探っていくべきであろう。
(本稿は、「α-Synodos vol.128(2013/07/15) 『ひっそりと、時には大胆に』(https://synodos.jp/a-synodos)」に掲載された原稿を一部加筆・修正したものです。)
サムネイル「Destruction in Homs, Syria」Freedom House
プロフィール
末近浩太
中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダーラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、、