2013.12.02

なぜ、運動で社会は変わらずに、権力によって流されてしまうのか――戦争とプロパガンダの間に

伊勢崎賢治×伊藤剛

国際 #特定秘密保護法#プロパガンダ

「紛争屋」と、「伝えるプロ」が語り合う――実務家として紛争解決や武装解除をしてきた伊勢崎賢治と、コミュニティ分野での様々な企画を手掛けてきた伊藤剛。共に東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防コース」にて、平和コミュニケーションに携わる二人が、戦争とプロパガンダの関係について議論する(構成/山本菜々子)

プロパガンダと情報統制はコインの裏表

伊藤 今日は、「戦争とプロパガンダ」についてお話しできればと思います。

伊勢崎 まず、「特定秘密保護法」について話したいですね。と、いうのもこれは、プロパガンダにも関わって来る大事な話しです。着々と法制定に向けて進んでいますよね。この対談が活字になっている頃は、すでに可決されているでしょうが、これはまずいな、と感じています。

伊藤 伊勢崎さんの中で明確な危機感があるということですね。

伊勢崎 はい。でも、このままこんなことを許してしまうと日本が第二次世界大戦を引き起こした軍国主義に戻っちゃう、なんて言うつもりはありません。こういうことを言う人がいますが、それもひとつのプロパガンダだと思うからです。ぼくは、日本がアメリカの基地である限りは、軍部が闊歩するような状況にはなり得ないと思うし、アメリカがそれを許さないでしょ。単に与党だけでなく日本全体としても、アメリカに真っ向から楯突くような政治力があるわけないし。

ぼくは、憲法9条を護持した方が日本の国益になると主張していますが、たとえこのまま護憲のままでいても、「9条が世界を平和にする」なんて護憲派が言うだけで、リスクをとって世界に進出するはずもなく、一国平和主義の戦後体制がずっと継続するだけだと思っています。護憲派の方が「保守」なんですね(笑)。

改憲になっても、そりゃ、北東アジアの隣人たちは一時的に緊張するでしょうが、これから近未来を支配する世界テロ戦に集団的自衛権を掲げて出て行っても、自衛隊が同じアメリカの同盟国としてイギリス、フランス並の軍事的貢献をするには、だいぶ時間がかかると思います。30~50年くらいかかるんじゃないかな。その軍事的貢献も、戦後同じような十字架を背負ってきたドイツを超えることは、まずないでしょうね。国内で歴史に裏付けられた巨大な反対勢力がブレーキをかけ続けますから。

だから、日本がどう転ぼうと、国際情勢的には、あまり心配ない(笑)。

ぼくの危機感というのは、単にドメスティックで、感情的なものなんですね。ぼくには、戦後ずっとアメリカの軍事的傘下で維持できていた、先進国の中では例外的な日本の平和が、このままずっと続いて欲しいという、一家族人としての一国平和主義がありますが(笑)、同時に、日本が安全保障の拠り所とするアメリカという存在、その同盟が集団的自衛権の行使として開戦するも出口が見えない世界テロ戦、――アフガン戦はアメリカ建国史上最長の戦争になります――その苦悩をちゃんとわかって集団的自衛権を議論しているのか、という、安倍政権というよりも、右も左も、メディアも含めて、日本全体に対するフラストレーションがあります。

たぶん、このまま無批判の追従が続くと、アメリカの対テロ戦略でも上位概念としてしっかり捉えられている「火力に頼らない人心掌握」――テロリストの温床となる現地社会へのそれですね――において、たぶん決定的な役割を果たすかもしれない――ホント、希望的観測かもしれませんが――日本の潜在能力を完全に摘み取ってしまうのでは、という危機感です。完全に摘み取るには、惜し過ぎる!

伊藤 危機感への思いの丈は伝わりました(笑)。伊勢崎さんの怒りは、何のビジョンに向けてこの法案の議論をしてるんだ、ということですよね。特定秘密保護法案は日本版のNSC(国家安全保障会議)の創設とセットになって出て来ましたからね。日本には、長らくアメリカのCIAのように情報収集をする機関は現在ありませんでしたが、NSC設立とともに、本当に日本にもCIAのような組織が出来るんですかね。

伊勢崎 今のところは、そこまでの構想はないと思います。しかし、仮にそれをやろうとしたら、人材育成にお金と膨大な時間と労力がかかるでしょう。情報収集は単に現地の新聞の切り抜きをやっていればいいというものではありません。必要なのは能動的なそれです。普段行けないようなところに敢えて出かけて行って人脈をつくり情報を得る。諜報活動とも言えますね。その恒常的な基地となるのは在外公館ですが、日本人は、大戦の反省から諜報というものを文化的に封印してきました。

それが祟ってか、日本の在外公館員は、まず危険な場所には行かない。行かせない。行かせて怪我人や犠牲を出そうものなら、メディアが総出で叩く。何、余計なことやってるんだ、と。特にサヨク系のそれが。官僚組織はそれにビビり引きこもる。でも、能動的な情報収集となると、国益のために危険な場所に行くことも厭わないことを許容する文化形成が必要なのです。

伊藤 そうすると、いずれはスパイ活動をする可能性もあるということになりますよね。

伊勢崎 日本の公安はオウム事件の時にも潜入捜査をやってましたから……ミイラ取りがミイラになったケースがあったと聞いていますが(笑)、それを海外で、という可能性はあるでしょうね。ぼくは、能動的な情報収集自体を否定する立場ではありません。

でも、何のために情報収集するか、その上位目的いかんで意味合いが変わってきます。戦争のために情報収集するのと、戦争を回避するために情報収集するのでは全然違いますからね。

例えば、アメリカは「大量破壊兵器」があるという情報を収集して、イラク戦争をはじめました。CIAのようなトップクラスの情報機関が言っているんだから間違いないと、みんなを納得させてしまった。まぁ、実際には発見されなかったわけなんですが。開戦をするという上位目的下では、情報は諜報機関により捏造さえ、されうる。

一方で、戦争を回避するための情報収集もあるはずです。どうしようもなく危険な敵国に見えるけど、中には穏健派もいて、そこをつつくことで信頼をなんとか醸成できそうだ、とか。こんな諜報活動は、先に言った対テロ戦での人心掌握では、決定的に重要です。

といっても、まあ、目的が正反対でも、現場の諜報活動の手法自体はほとんど同じですから、要は、上位目的を堅持する力、つまり、国家としての「政治の心がけ」次第、ということになります。だから、日本では憲法9条がそれを縛る決定的な力になるはずなのです。ぼくは、憲法9条下の諜報活動は大いにやるべき、という考えですが、一国平和主義の護憲派は、ここが理解できず、それをも封印してしまった。そして、漠然と諜報能力がないという劣等感だけが残り、それが今俄然勢いを得て、「こうなったのは9条のせい」ということになってしまっている。すべて、護憲派がいけないのです(笑)。

今、安倍政権がやろうしているのは、9条改憲を上位目的とした特定秘密保護法であり日本版NSC構想ですから、戦争を上位目的とした諜報と比べても、悲劇的にチンケです。

伊藤 お気持ちはお察しします(笑)。いずれにしても、諜報活動は大事だけど、その情報が何に使われるか分からないこわさがあるということですね。その活動とのセットで「特定秘密保護法」が出てきましたが、これによってはたして本当に外交関係が円滑になったりするんでしょうか。

伊勢崎 この法律をつくらないとアメリカから情報がもらえないというのが、特定秘密保護法の弁護によく聞かれます。「口が堅い」ことは大切ですが、――だから現状でも公務員法、自衛隊法にもそれがあるわけですが――それがあるだけで情報が多くもらえるというのは、チョット……、と思います。

例えば、アメリカの情報がウィキリークスで漏れたからといって、別にアメリカに対する態度がどうこうというのではなく、まあ、一つの革命的な事故ですよね。この情報環境のご時世で、情報漏らしたヤツはこんなにシバくんですよ、って自慢してもあんまり意味ないと思うんですが。ぼくが過去、アフガニスタンでアメリカ軍、そして一部のCIAと関わった時の経験から言うと、口が堅かろうがなかろうが、情報をやった後のそいつの行動がアメリカの国益になるか否かでアメリカは判断する、という感触をぼくは持っています。

伊藤 非常にビジネスライクということなんですね。

伊勢崎 そりゃそうでしょ(笑)。

ぼくは、国連平和維持活動で多国籍軍を統括しながら、現地で活動するユニセフなどの国連下部組織やNGOのスタッフ、そして地元社会の安全の責任を負う地位にいたのですが、やはり、伝えられない情報は存在します。「知る権利」は大切ですが、どうしても言えない情報と時期はあるんですよね。

伊藤 民間企業でも一緒だと思いますよ。トップレベルの企業秘密を全社員で共有していることはありえませんから。

伊勢崎 そうですよね。だから、「知る権利」をあまり振り回されても困るわけです。情報源をさらすことで、その人が危なくなってしまうこともありますし。管轄する多国籍軍の武器の使用基準、つまりいつ撃てるか、は敵に知られたら困るから通常言いませんし、治安を脅かす“敵”の捜索や奇襲情報なんか言えるわけがありません。作戦そのものが成り立たなくなりますから。でも、事後、できるだけ早くその結果を伝える努力はしますが。

伊藤 単に全部公開することが良いわけではない。けれど、ずっと秘密のままでも良くないと。

伊勢崎 そうです。どういう情報を保護するのか、なぜそれが保護すべき情報なのかをポリシーとしてチェックするような機関が決定的に必要だというのは、ぼくの現場感覚でも直感的にわかります。

伊藤 アメリカの場合は、諜報活動も盛んな一方で、情報公開制度もしっかり整備されている印象がありますよね。国立公文書館をはじめ、国家機密を保全していても一定の期間が経てば、誰でも閲覧できる権利が与えられている。国民の側も積極的に情報公開を望む声が強いような気がします。

ある意味で「知る権利に対するピュアさ」みたいなものがアメリカにはあると思うんですよね。でも、日本の場合は情報公開の部分が非常に曖昧です。たとえある時期秘密にしていたとしても、時間が経ったら見られるようにしないと、本当に危険ですね。

伊勢崎 今日のお題は「戦争とプロパガンダ」ですが、なぜ、特定秘密保護法の話をしようと思ったのかというと、プロパガンダと情報統制は、コインの裏表のような気がするからです。政府と世論が開戦に向かっているとして、それを回避する情報収集でも、単に政府の言っていることを検証するにしても、もし非政府の主体の能力が封印されてしまったら、もうプロパガンダのやり放題ですね。

平和をブランディングする

伊勢崎 この前、ビデオニュース・ドットコムで元トップ防衛官僚の柳澤協二さんと対談をしたんですよ。彼と、同じく元トップ防衛官僚の小池清彦さんと『「国防軍」私の懸念』(かもがわ出版)という共著も出していて、面白い本なんですけどなかなか売れないんですよね(笑)。

ぼくたちは基本的に自衛隊の存在を是とする立場なんですが、今の安倍政権の文脈で「国防軍」にすることには危機感を持っています。元官僚トップの彼らは、集団的自衛権を認めてしまえば、現実と、いわゆる憲法9条が指し示す理想との乖離が、許容範囲を超えてしまう、と考えています。9条の完全空洞化ですね。

こういう理由で、柳澤さんを中心に「憲法9条下の自衛隊の活用を考える会」というのをつくろうと考えているんです。

伊藤 とても現実的な発想を持った会ですね。

伊勢崎 柳澤さんは、小泉政権の時に自衛隊をイラクに派遣した張本人なんですよ。その彼が、集団的自衛権は認めなくていいと言うのです。

自衛隊のイラク派遣においては、「同胞の部隊がやられても撃てない、助けないでいいのか」という意見が常にありました。そういう「現場の不都合」が集団的自衛権を容認させるレトリックに使われてきました。でも、ぼくらの現場感覚からすると、?という感じなんですよ。事実、自衛隊の同胞として隣に展開していたオーストラリア政府からも、そんな不平を正式に言われたことないということですし。だから騒いだのは一部の日本人だけ、ということになります。

さっきも言ったようにイラクは対テロ戦の主戦場なんですよ。現在の人身掌握を上位概念とするアメリカの対テロ戦略、通称COIN (Counter-Insurgency)は、ここから生まれたんですよ。多国籍軍の司令部の立場からすると、同盟軍の中に住民に安心感を与える「撃たない部隊」が少しはいた方が――もちろん全部がそうでは対テロ戦略が成り立ちませんが――、人心掌握に良いに決まっているからです。「撃たない自衛隊」は、アメリカの戦略にとってプラスで、絶対に文句は言わないはずです。ドンパチだったらバカでもできるわけですから。

伊藤 ある意味「白旗」を持ちながら現場に入っていくようなものということですね。伊勢崎さんが、アフガニスタンで武装解除をやった時も、相手が日本人に「平和の匂い」を感じているんだとおっしゃっていましたよね。目に見えないけれども、「好戦的ではない」というのは戦後の日本が持ってきたイメージです。これは今から数百億円の広報予算をかけたからといって築き上げられるものではない、日本の貴重なブランドイメージだと思います。

伊勢崎 自衛隊の宿営地に迫撃砲を何発かは撃たれましたが、銃撃戦を経験せずに任務を完了しました。地元のイスラムの指導者は、自衛隊を攻撃することは「反イスラム」というおふれを出したりしたんですね。

日本独自の立ち位置ってあると思うんです。必ずしも、平和主義を掲げて、アメリカと決別する必要もない、――アメリカが許すはずもありませんが。日本が完全平和主義を掲げようが掲げまいが、アメリカは戦争をするでしょう。だったら、ぼくは、日本はアメリカの戦争による被害をいかに和らげるかを、アメリカに内包されながら模索する。もしくは、どう取り繕っても「火力」の権化というイメージのアメリカが、「火力に頼らない人心掌握」が対テロ戦の特効薬と知りながら悶え苦しむ近未来において「補完」の役割を担うというのが、現実的な平和への道筋だと思うのです。

伊藤 国家をマーケティング的発想で捉えれば、間違いなく日本は火力とは別のところに強みがあると思うので、それを生かした方が効率的だとは思います。

伊勢崎 日本は憲法9条を政府として諸外国に積極的にPRしてこなかったんですが、それはそれで良かったのではないかと、このごろになって思うんです。

伊藤 PRしない方が良かった?

伊勢崎 PRせずとも、じんわりと戦後70年間培ってきた地道なイメージの構築があるわけです。仮に大々的にPRしていたら、矛盾をつかれますよね。実際に軍にあたるものを持っているわけですから。なんじゃこりゃ、と。

伊藤 なるほど。しかし、どうやって異国のイスラム圏などにこのイメージが伝わっているんですか?

伊勢崎 日露戦争で日本が勝利したことが大きい。アフガニスタンなんかは米ソ冷戦の局地戦の戦場になり、それがアラブ社会の同情を集めた。よくアフガンの軍閥に言われましたね。「ジャパンはスゲーよな。俺らも勝ったけど」って。と同時に、日本はアメリカにヒドイ目に合わされたと。勇猛な被害者という感じですかね。彼らと同じ目線でものを見てくれる経済大国、みたいな。

伊藤 イメージのルーツは日露戦争なんですね。でも、戦争した歴史と、日本が「平和の国」であるというイメージが結びつくのが不思議な気がします。

伊勢崎 日本人が想定する「平和の国」というイメージではないと思います。というのも、日本人の平和観って特殊なんです。ふつうは「平和は戦って得るもの」だと考えていますから。ぼくが勤務する東京外国語大学の学生は多言語に堪能ですから、この前、ゼミで一度、10ぐらいの国々で、子どもに初めて「平和観」なるものを教えるとき、どうやっているかを比較研究したことがあるんです。それらの国では、苦しみから抜け出す為に戦ってきた歴史や、戦いの末に得たものをこれから守っていくにはどうしたらいいのか、というような視点で「平和」を考えているんですね。

しかし、日本は唯一特殊で、「平和」という漠然としたものがあって、「そこにみんなで行きましょう」というイメージなんです。

伊藤 「極楽浄土がある」みたいな感じなんでしょうかね。

伊勢崎 宗教と言ってもいいかもしれません。ですので、日本人が思う「平和の国」というイメージとは離れていますが、先進国で唯一戦争をしていない国だと認識されていることは事実だと思います。先進国って、普通、例外なく戦争していますから。今この瞬間でも。そこから反戦の匂いを嗅ぎ取るのかもしれません。日本が戦争をしないでいられるのが、アメリカのお陰だということまでは想像できないと思います。日本人だって、沖縄に連れて行かなければ、それ実感できないでしょ。

伊藤 平和の捉え方の違いは興味深いです。でも、誤解であれ何であれ、そのイメージは間違いなく強みです。戦後、誰一人殺さずにきた自衛隊という組織が持っている独特の「柔和な香り」があるんでしょうね。

伊勢崎 ある意味で、ぼく達の主張って保守なんです。戦後やってきたものを維持しようとしているわけです。護憲派というとリベラルで、革新的だと思われますが、実際は逆ですよね。護憲派は本当に保守だと思います。アメリカのお陰で平和なのを感覚的に認めたくないだけで、基本的に戦後体制の維持を願っている。

だって、米軍基地を押し付けている沖縄にシンパシーは表明するけど、結局なにもやらない訳じゃないですか。地位協定を変える努力もしていないし、そのための社会運動も本土では起こらない。イラクでさえ、壮烈なネゴをアメリカとやったわけです。米兵士、軍属たちの過失を裁く権限の所在、国内での米軍の軍事行動の制約などで。来年、国際部隊のマンデートが切れるアフガニスタンでは、残留部隊のためにアメリカは個別にアフガン政府と地位協定を結ばなければならず、もちろん、アフガン政府は、全ての過失をアフガンの法で裁くこと、米軍の単独軍事行動を許さないなどの要求を突きつけ、今この瞬間、ネゴの最中です。

地位協定は柔軟なもの、ということを見事に示しているのは、他ならぬ日本なんですよ。日本が“加害者”側の地位協定は2つあるんです。今は失効しましたがクエートと、今でも有効なジブチ政府とのものです。対クエート地位協定では、自衛隊の公務外・公務内両方の過失を裁く権限はクエート側に。このときは、ちょうど、小泉政権のイラク派遣の時です。クエートが前哨基地だったんですね。どうしてもイラクに派遣したかったんですね。まったく。自衛隊員の運命をどう考えているのか……。対ジブチでは、このまったく逆。公務外・公務内、何をやろうと、法的権限は日本側に。これ、相手側社会にとっては、日米地位協定よりヒドい。アメリカに文句言える筋合いじゃないかも……。

ぼくが勤務している東京外大があるところは、昔米軍の基地施設だったんです。ぼくの生まれ故郷、立川もです。広大な米軍基地は返還され、昭和記念公園として名所になっています。ぼくをはじめ東京人にとってみれば、米軍は縮小しているイメージなんですよね。残留する米軍の存在を視野の端っこに意識しながらも日本の主権は着実に回復したという印象。沖縄に「迷惑施設」を押し付けながらの幻想ですね。そして、憲法9条のお陰で平和だという「宗教」も生まれた…。

もう、そういう考え方には限界がきていると思います。原発事故で圧倒的な恐怖を味わい、これが原子力施設が襲われる恐怖に掏り替わりそうな昨今、隣国との挑発行為もエスカレートし、たぶん、国民の国防への渇望は、ピークに向かっているのではないでしょうか。もはや、「宗教」では太刀打ちできない。国防と同じ「国益」の議論をしないとダメだと思います。

それは、国家のブランディングの観点からアプローチしていくべきです。日本が地道に作りあげてきたイメージ、好戦でないという、ポワっとしているけど確固たるイメージ。これらが無くなった時にどのような損失があるのか、もう一度ゼロから作りあげようとするならばどのくらいのコストが必要なのか、それを無くすことで得られる利益と、秤にかけないといけませんよね。

伊藤 確かに、戦後70年もかけたイメージは、なかなか再構築できるものではありませんね。ブランドイメージというのは、決して広告技術のみで作れるものではありません。実態があってこそ初めて作り上げることができるものです。

安倍さんは、「戦後レジームからの脱却」を言っていますが、憲法9条を変えることが、イコール戦後ではない、という認識なんでしょうかね。

伊勢崎 ぼくだって、アメリカから独立して日本が自分の足で立つ願望みたいなものは、少しは、あります。(笑)

伊藤 正直、ぼくたちのような世代にとっては、独立して一本足で立つことに対する渇望はそんなにないと思うんです。だから、そこに関して若い人は基本的に保守だと思います。安倍さんが言うような「戦後レジームからの脱却」が、日本の独立を意味することには共感してないけれど、反対もしていないというか。結局、「アベノミクス」という経済プロパガンダに負けてしまっているんでしょうね。

歴史的な傾向として、不景気の時であればあるほど、国家が打ち出すプロパガンダに飲まれていきます。あの戦争の時も、「バスに乗り遅れるな」のスローガンのもとで、当時の広告クリエイターたちは行政仕事を中心にやっていたそうです。経済的な論理に負けてしまうと、人は心理的に大事なものに反対できない自主規制の土壌ができてしまうような気がします。

伊勢崎 制度の観点から言えば、戦時中、軍機保護法というものがあって、これは民衆の口を閉ざすもの、今回の特定秘密保護法は、民衆の耳をふさぐようなものと言われていますね。結局は同じような言論統制である、と。

さらに、NSC構想と一体でやっている。たとえば、原発施設の警備などの情報統制が必要かと言われたら、それは、ウンというしかないですよね。バレて、攻撃されたら大変ですから。

反原発運動は「サブカル」!?

伊藤 結局、このまま特定秘密保護法は何の議論も深められないまま成立してしまうのでしょうね。

伊勢崎 国民の意識が国防への渇望に向かっている現在、国民的な反対運動が起こる可能性はないでしょう。残念ですが。

伊藤 3.11の時にも感じたことですが、あれだけの震災を経験して、原発事故が起きて、反原発運動が盛り上がったにもかかわらず、段々と大きな政治的な流れに飲まれてしまいました。思考停止に陥りやすい土壌が今の日本にあるのではないかと感じています。

一方、「周辺国の脅威」を煽られることによって、今まで培ってきた日本のブランディングを捨ててまで、武装しようとする動きになっています。思考停止したぼくらがどのような時にスイッチが入りやすいのかと考えると、結局「ナショナリズム」を煽られる時なのではないかとも感じます。

現代の日本で、そんな簡単にナショナリズムを煽れるのかと思う人がいるかもしれませんが、若い人ほど政治的な文脈を意識することなく巻き込まれてしまうと思うんです。オリンピックやサッカーなどスポーツの世界を見ていれば、とても簡単にスイッチが入ることは証明されてますよね。「反原発」のような政治運動は盛り上がらなくても、「日本人の誇り」みたいなものには反応してしまう。

伊勢崎 原発運動では多くのクリエイターと言われる人たちが、首相官邸前のデモなどに積極的に参加していましたよね。本当に沢山の人が参加し、協力して盛り上がったじゃないですか。でも、残念ながら、政治力にはならなかった。

このご時世において、民衆運動が政治力にならないというのはかなり不思議ですよ。今は民衆運動がレジームをひっくり返す時代です。中東だって民衆運動がきっかけでどんどん政治が動いています。ぼくの国際キャリアは、インドでスラムの住民運動を組織することを職業とすることから始まりました。組織化 オルグの目的は何かというと、住民の苦悩を和らげる法律をつくるため、住民を一つの政治力にすることです。今は、当時のぼくのようなオーガナイザーがいなくても、SNSで、まず若者が連動し、体制転覆まで成し遂げてしまう。日本は、まず、高齢化社会ですし、若者も草食化しているからダメなんですかね。でも、仰るように、「誇り」には反応するようですね。ヘイト・スピーチのように。

伊藤 確かに、反原発は盛り上がっていたと思います。ミュージシャンの坂本龍一さんのような方が中心に立ったのは、今までの運動にはない勢いも感じました。でも、実際には、坂本龍一さんが何か発言するよりも、小泉元首相の一言の方が遙かに影響力がありましたよね。

伊勢崎 残念ながらそうですね。

伊藤 そう言った意味では、あの運動はある種の「サブカル」だったんじゃないでしょうか。

伊勢崎 「サブカル」! 言いきっちゃいますか。

伊藤 もし坂本龍一さんを反原発のひとつのシンボルだったと考えると、現実的には彼の影響力の及ぶ範囲ってどこか「マニアック」ですよね。有名ではありますけど、決して「親しみ」はない。

例えば、あの運動にアイドルグループやサッカーの代表選手が意志を持って参加するのを想像した時と比べると、一般の人に浸透するほどのマス感はなかったのではないでしょうか。その点、小泉さんにはマス感がありますし、タレント性という意味でも圧倒的な存在感があるのは事実ですよね。

伊勢崎 サブカル的ないわゆる「著名人」を動員しても、民衆運動で政治は動かないということですね。

伊藤 そうですね。おそらく「文化人」というイメージなんでしょうね。だから、運動自体が少し難しいものに見えてしまうのかもしれません。それとは別の話として、そもそも日本において民衆運動による政治変革が成立するのだろうかという素朴な疑問もあります。よく「外圧によって日本が変わってきた」と言われるように、民衆運動によって日本が大きく転換した例はありませんよね。

60年の安保闘争の時には、30万人が参加するほどのデモだったそうですが、それでも何も変わらなかった。もちろん、これは国民側だけの問題じゃなく、民意を無視できる政治家側の体質も問題だと思います。

いずれにしても、今はツイッターやフェイスブックなどがある時代にもかかわらず、それでも30万人を超えられないのは、一般大衆のイシューにはなりきれなかったと言えるのかもしれません。

伊勢崎 「サブカル」って、納得しちゃうけど……。これ、あんまり言うと、ぼく、友達失っちゃうかも……。

伊藤 ぼくもです(笑)。まあ、サブカルかどうかは別として、日本ではいわゆる大衆的な芸能人が「政治」と結びついても人気を得られない土壌があるのは間違いないと思います。アメリカの大統領選挙などを見ていても、有名なロックミュージシャンが公然と支援を表明して、選挙会場でライブをやったりしています。第二次世界大戦時のアメリカが慰問として戦地に送ったのは、何と言ってもマリリンモンローでしたからね。

そう思うと、今の反原発運動に賛同したのは「知識人」であって、「大衆人」ではなかったんでしょうね。国家がプロパガンダを行う時は、戦略的に大衆人を巻き込む手段をとってくるので、対抗する運動側がピュアな思いだけでは勝てないと思います。

伊勢崎 その点、小泉さんが出てきたのは凄いですよね。

伊藤 好き嫌いは別にしても、希有な政治家ですね。彼の一言で「動きそうな気配」がありますから。郵政民営化を成し遂げたという説得力なのか、きっと小泉さんが街頭演説をした方が一般の主婦の人も聞きますよね。その差が何なのかを真剣に考えないといけないと思います。

伊勢崎 もう、小泉さんに期待するしかないのかなー。原発問題に関しては。

伊藤 反原発派が彼を利用しない手はないと思います。彼と会話を出来たり、交渉したりする人が運動側にも現れてこないと。

伊勢崎 しかし、運動側には、彼に対する嫌悪感はあるでしょうね。

伊藤 でも、本気で「政治」を変えようと思うなら、手を組むしかないですよね。それくらいのずる賢さがないと、政治というのは変えられないんじゃないでしょうか。

伊勢崎 それは、そう思いますよ。例として、今、アフガニスタンで起こっていることを話しますが、来年、大統領選があるんです。大統領候補は、アメリカと同じように、副大統領候補を指名してコンビで選挙キャンペーンをやるんでが、アシュラフ・ガニという候補がいましてね。アメリカで博士号をとり、そしてアメリカの超一流大学の教授もやり、誰もが認めるアフガン随一の知識人そして教育者として、財務相を務め、カブール大学の学長までやり、国連事務総長候補にもなった人物です。

この彼が、誰を副大統領候補にしたか? ドスタムという軍閥の大物です。大量殺人で人権団体から常に糾弾されている人物です。まあ、大悪党ですね。でも、国を良くするために政権をとるには、勝なければならない。ぼくは、個人的にアシュラフ・ガニを知っていますが、ホント、聖人の趣きのある賢者で、この人殺しのコンビとのギャップに、ちょっと目眩がするほどです。でも、政治ってそういうものですよね。

伊藤 相手じゃなく、ミッションを見るということですね。

伊勢崎 そう。ミッションのためには、悪魔とも手を結ぶ。このアフガンに比べたら、小泉さんと組むくらい大したことないじゃない(笑)。

伊藤 おっしゃる通りです(笑)。

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熱狂はこわい

伊勢崎 反原発運動には様々なクリエイターが参加したと思うんですが、伊藤さんは参加していませんでしたよね。どうしてですか?

伊藤 デモの見学には行きました。でもぼくの中で、どんなに正しいことであっても「熱狂はこわい」という感覚がありまして……。

プロパガンダの要素の一つは「熱狂する」ことだと思います。熱狂の状況下では、どこか冷めていなきゃいけないという思いがあるんです。極端に言えば、ぼくは好きなミュージシャンのライブに行っている時でも、ふと我に返って周囲の熱狂がこわいなって思ってしまいます。これ、誰かが利用できちゃうなって。よく、伊勢崎さんは「誰もが正義を掲げて戦争をはじめる」と言いますよね。理屈なんかいくらでも後からつけられます。いくら正義だとしても、熱狂するのは少しこわい感じがするんです。

ですが、「知らない」ということもこわいことなので、原発についての情報はとにかく収集していました。

伊勢崎 その感覚はよくわかりますね。ぼくも、心の中で応援していましたが、脱原発運動には行っていないんです。見に行ってもいません。

と、いうのも、原発反対の熱狂が、あらたな「排他性」を生むんじゃないか、と感じていたからです。親しくしているピースボートが頑張った脱原発世界会議の時は、そのキャンペーンのためにメッセージを頼まれたので、以下のようなものを送りました。

『福島の子どもたちからの手紙 「ふつうの子供産めますか」。これが集団で増幅すると優生思想になり、放射能より格段に多くの人を殺すことを、この時期に、どう、子供達に伝えるか。脱原発は当然であるが、脱原発運動が差別を生んではならない。脱原発世界会議に期待します。』

ちゃんとキャンペーン用のウェブに載せてくれたので、僕の主張の温度差を理解してくれたのだと思います。

ぼく個人的にも、放射能の「恐怖」はすごかった。事故直後は、反射的にイソジンを飲んだりしちゃいましたからね。平常心を簡単に失う自分を思い知りました。それまでは、チョットばかし自信あったんですが(笑)。

このごろは、原発事故の記憶が風化していると言われますが、でも、あの「恐怖」は日本人の深層心理に深く刻まれていると思います。だから、「原発施設が狙われる恐怖」が煽られたら、それは国民の国防への渇望と豹変し、もう歯止めが利かなくなるのでは、と思います。防衛費が今年はじめて増加しましたよね。あれだけ、財政難と言いながら、誰も文句を言わない。これから自衛隊が原子力施設防護の主体となってゆくことに異を唱える声はなくなるでしょう。

福島第一事故は、世界のテロリストにヒントを与えたと言われます。原発テロをやるには大掛かりな攻撃はいらない、潜入して電源を切ればいい、と。そうすると、われわれの社会の中のテロ分子のウォッチ、ということに向かいます。

伊藤 まさに、「原発が狙われたら困るから情報を出しません」という特定秘密保護法の話と直結しますね。

伊勢崎 そうなると誰も反論できません。

伊藤 コミュニケーション論的に言えば「バトルフィールド」をつくられてしまったという状況ですね。本当はもっと議論すべきことが沢山あるのに、「原発の秘密保護」という反論しづらい論点だけで、法律が必要か不要かの議論をさせられてしまうというPR技術のひとつです。

伊勢崎 話し合いの「土俵」をつくられてしまったということですね?

伊藤 まさにそうです。安全保障的に反論できないからいいでしょうという議論になってしまう。その土俵をこちら側が先につくることが出来なかった。先手を打たれてしまったということです。

(後半はα-synodos vol.137で! → https://synodos.jp/a-synodos

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「物語」を紡ぎだす

伊勢崎賢治×伊藤剛「なぜ、運動で社会は変わらずに、権力によって流されてしまうのか――戦争とプロパガンダの間に(前編)」

伊勢崎賢治×伊藤剛「なぜ戦争はセクシーで、平和はぼんやりしているのか――戦争とプロパガンダの間に(後編)」

石原俊「世界史のなかの小笠原諸島(Bonin Islands)――小さな群島からのグローバルヒストリーに向けて」

岸政彦「沖縄の階層格差と共同性──フィールドワークから浮かび上がる離脱/埋没/排除の物語」

片岡剛士「経済ニュースの基礎知識TOP5」

プロフィール

伊勢崎賢治国際政治

1957年東京都生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防講座」担当教授。国際NGOでスラムの住民運動を組織した後、アフリカで開発援助に携わる。国連PKO上級幹部として東ティモール、シエラレオネの、日本政府特別代表としてアフガニスタンの武装解除を指揮。著書に『インドスラム・レポート』(明石書店)、『東チモール県知事日記』(藤原書店)、『武装解除』(講談社現代新書)、『伊勢崎賢治の平和構築ゼミ』(大月書店)、『アフガン戦争を憲法9条と非武装自衛隊で終わらせる』(かもがわ出版)、『紛争屋の外交論』(NHK出版新書)など。新刊に『「国防軍」 私の懸念』(かもがわ出版、柳澤協二、小池清彦との共著)、『テロリストは日本の「何」を見ているのか』(幻冬舎)、『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』(毎日新聞出版)、『本当の戦争の話をしよう:世界の「対立」を仕切る』(朝日出版社)、『日本人は人を殺しに行くのか:戦場からの集団的自衛権入門』(朝日新書)

この執筆者の記事

伊藤剛asobot inc. 代表

1975年生まれ。明治大学法学部を卒業後、外資系広告代理店を経て、2001年にデザイン・コンサルティング会社「asobot(アソボット)」を設立。主な仕事として、2004年にジャーナル・タブロイド誌「GENERATION TIMES」を創刊。2006年にはNPO法人「シブヤ大学」を設立し、グッドデザイン賞2007(新領域デザイン部門)を受賞する。また、東京外国語大学・大学院総合国際学研究科の「平和構築・紛争予防専修コース」では講師を務め、広報・PR等のコミュニケーション戦略の視点から平和構築を考えるカリキュラム「ピース・コミュニケーション」を提唱している。

主な著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』(光文社)、これまで企画、編集した書籍に『earth code ー46億年のプロローグ』『survival ism ー70億人の生存意志』(いずれもダイヤモンド社)、『被災地デイズ』(弘文堂)がある。

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