2014.02.14

ヒズブッラーとは何か――抵抗と革命の30年

末近浩太 中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

国際 #synodos#シノドス#シリア#ヒズブッラー#ヒズボラ#レバノン#アルマナール・テレビ#アンヌール放送

「ヒズボラ」の多様な貌(かお)

中東情勢をめぐる報道のなかでしばしば登場する「ヒズボラ」。最近では、とくに2011年からのシリア「内戦」において、バッシャール・アサド政権を支持・支援する勢力として、新聞やテレビのニュースで取り上げられている。かつては、自爆攻撃や欧米人の誘拐を繰り返す「イスラーム原理主義」や「テロ組織」として、その名がたびたび報じられたこともある。

「ヒズボラ」とは、中東のレバノンを拠点とするシーア派のイスラーム主義組織である。イスラーム主義とは、イスラームを政治的なイデオロギーとして掲げ、それに依拠した社会改革や国家建設を目指す思想である。この思想を掲げる組織、すなわちイスラーム主義組織としては、例えば、エジプトのムスリム同胞団やパレスチナのハマース、アル=カーイダなどが挙げられる。

しかし、そのなかでも、「ヒズボラ」は、結成以来約30年もの長きにわたって一貫して勢力の拡大に成功してきたという点で異彩を放っている。というのも、イスラーム主義組織の多くが、中東の独裁政権による厳しい弾圧や「テロとの戦い」によって壊滅状態になるか、暴力に訴えることで治安の悪化を懸念した民衆からの支持を失う事態を経験してきたからである。事実、「ヒズボラ」も不安定な中東情勢なかで幾度となく組織存亡の危機に直面してきた。だが、彼らは危機を好機へと変える巧みな戦略・戦術を駆使して、レバノン政治、広くは中東政治における強力なプレイヤーへと成長した。2011年初頭には、連立政権のかたちではあるが、レバノンの政府を事実上掌握することに成功している。

この「ヒズボラ」については、マスメディアやアカデミアにおいて、イスラーム原理主義組織、テロ組織、武装組織、抵抗運動、合法政党、さらにはNGOなどさまざまな呼ばれ方・捉え方がなされてきた。だが、それもそのはずである。「ヒズボラ」は、これらのうちのどれか1つで言い表されるようなものではなく、多様な貌(かお)を持っているからである。したがって、それぞれの呼び方・捉え方が必ずしも誤りだというわけではなく、ニュースや研究論文が、それぞれの文脈に応じて、「ヒズボラ」の持つ特定の貌に光を当ててきたというのが実情であろう。

このように呼び方・捉え方が一様でないのは、翻って見れば、「ヒズボラ」がいまやその実態を一言で言い表せないほど巨大な組織になっていることの証と受け取ることもできる。すなわち、レバノン、広くは中東における軍事、政治、社会、経済のすべての領域へと活動の幅を広げてきている事実を示しているのである。

「ヒズボラ」とは一体何者なのか。なぜ、どのようにして、それほどまでに巨大な組織になることができたのか。本稿では、これらの問いに答えてみたい。具体的には、「ヒズボラ」の結成から今日までの約30年間の歴史を辿り、抵抗組織、革命組織、合法政党、NGOの4つの貌に光を当てていく。

その前に、「ヒズボラ」の名称について確認しておこう。「ヒズボラ」は、アラビア語の「ヒズブッラー」がおもに英語圏のニュースを経由していわば英語訛りでカタカナ化したものである。「ヒズブッラー」とは、アラビア語で「神の党」を意味し、クルアーン(コーラン)の章句「神の党こそ勝利する者である」(食卓章第56節)に由来する。本稿では、日本の学界での慣例に倣い、よりアラビア語の原音に近い「ヒズブッラー」を用いることとする

抵抗組織としての誕生

ヒズブッラーは、いまから約30年前に誕生した。「約」というのは、結成年が明確にされていないからである。だが、確かなのは、1982年のイスラエル国防軍によるレバノン侵攻、通称レバノン戦争がその誕生の直接的なきっかけであったことである。

1982年6月、イスラエルはレバノンに駐留していたPLO(パレスチナ解放機構)掃討のために、大規模な地上部隊を首都ベイルートまで北進させた。この戦争のなかで、ヒズブッラーは国土防衛のための草の根の抵抗組織(レジスタンス)として秘密裏に結成された。彼らは、起伏に富んだレバノン南部の丘陵地帯を縦横無尽に移動しながら、イスラエル国防軍やその傀儡民兵組織に対して一撃離脱のゲリラ戦を挑んだ。

通常、ある国が他国から侵略を受けたとき、それを迎撃する役割を果たすべきは国軍である。なぜ、レバノンでは国軍ではなく草の根の抵抗組織が国土防衛を担うことになったのか。それは、イスラエルによる侵攻が開始された1982年の時点で、レバノンは1975年に開始された内戦(〜1990年)によって国家機能が麻痺していたからであった。加えて、レバノンの一部のキリスト教徒の民兵組織が、内戦を自らに有利に運ぶためにイスラエルの部隊を自国の領内へと招き入れる事態も生じていた。

ヒズブッラーは、イスラエル国防軍だけではなく、米仏伊からなる多国籍の平和維持部隊までも「占領軍」として攻撃した(理由は後述する)。だが、重火器や航空機を擁する正規軍との戦力差は明らかであった。そこで、彼らが編み出したのが、爆薬を満載したトラックを用いた自爆攻撃であった。

最初の自爆攻撃は、1982年11月11日、レバノン南部の街スール(ティール)のイスラエル国防軍兵営に対して行われ、90名の犠牲者を出した。翌年には、ベイルートの米国大使館が標的となり、CIA(米国中央情報局)の職員8名を含む米国人14名が死亡した。また、その直後には、米国海兵隊の兵営への自爆攻撃が行われ、実に241名もの米国人が犠牲となった。このときの海兵隊の1日の死者数(200名超)は太平洋戦争時の「硫黄島の戦い」に次ぐものであり、米軍全体として見ても単一の攻撃被害としては第二次世界大戦後最大規模のものとなった。これらのレバノンでの苦い経験は、今日でもCIAと海兵隊のトラウマとなっている。

自爆攻撃は、「占領軍」に多大な損害を与えるだけではなく、その自死を厭わない捨て身の攻撃の新規性と異常性でもって世界を震撼させた(ただし、ヒズブッラー指導部はこれらの作戦を讃えながらも、自らの関与を公式には認めていない)。それは、当然、非道な行為としてレバノンの国内外から激しい非難が浴びせられた。だが、他方で、結果的に見れば、ヒズブッラーによってその軍事的な有効性が証明されたという点に注目すべきである。このとき、自爆攻撃はイスラーム的に正当化され、「弱者の武器」として戦術的に確立されたのである。

自爆攻撃は、当然、非道な行為としてレバノンの国内外から激しい非難が浴びせられた。だが、他方で、結果的に見れば、ヒズブッラーによってその軍事的な有効性が証明されたという点に注目すべきである。このとき、自爆攻撃はイスラーム的に正当化され、「弱者の武器」として戦術的に確立されたのである。

では、自死を禁ずるイスラームにおいて、いかにして自爆攻撃は正当化され得るのか。そこには、次のような解釈の転換があった。イスラームの信仰や共同体を守るための戦いで命を落とすことは、たとえそれが無謀なかたちであっても、神に背く行為(意図した死)ではなく神に酬いる行為である(意図せざる、結果としての死)である——。ゆえに、ヒズブッラーは自爆攻撃を「殉教作戦」と呼んだ(ちなみに、「自爆テロ」は他称・蔑称であるため、当事者が用いることはない)。

ヒズブッラーによる苛烈な「抵抗」の結果、1984年には多国籍軍がレバノンから撤退、1985年にはイスラエル国防軍がレバノン国土の大部分からの撤退を余儀なくされた(ただし、南部地域は引き続き占領下に置かれた)。アラブ諸国に侵攻したイスラエル国防軍が無条件で撤退したのは、これが史上初めてのことであった。

ゲリラ戦のための塹壕。現在は史跡として展示されている。(2010年10月)
ゲリラ戦のための塹壕。現在は史跡として展示されている。(2010年10月)

革命組織としての発展

こうしたヒズブッラーの「強さ」はどこから来ていたのだろうか。ここで重要となるのは、支援者としてのイランの存在である。

イスラエル侵攻下のレバノンでは、ヒズブッラーの他にも数多くの抵抗組織が結成されていた。しかし、ヒズブッラーが他の諸組織と決定的に違ったのは、彼らが抵抗組織であると同時に革命組織であった点であった。すなわち、1979年にイスラーム革命を成功させたイランとの強いつながりを持っていたのである。

ヒズブッラーの存在が公式に明らかにされたのは、組織の憲章である「公開書簡」が発表された1985年2月のことであった。ゲリラ戦を基本とする彼らは、軍事戦略上、指導者はおろか、メンバーや拠点についても明らかにすることはなかった。だとすれば、「公開書簡」の発表を通して自らの存在を明らかしたことは、ヒズブッラーがこの時点で一定の軍事力と組織力を確立していたことを意味する。

「公開書簡」は、彼らが何者であるかを理解する上でもっとも重要な文書である。そこでは、イスラエルの侵略に対する「抵抗」に加えて、レバノンにイスラーム国家を樹立するための「革命」が、組織の二大目標として掲げられた。ヒズブッラーはイランでイスラーム革命を成功させたホメイニー師への忠誠を誓い、反対にイランはおもに革命防衛隊を通じてヒズブッラーに武器や資金の援助をした。先述のように、ヒズブッラーがイスラエル国防軍だけではなく、多国籍軍すらも「占領者」として攻撃対象としたのは、欧米諸国を敵視したホメイニー流のイスラーム革命思想を採用していたからであった。つまり、「公開書簡」では、「占領者」の撃退の先に、戦乱で荒廃したレバノンをイスラーム国家として再建することが見据えられていたのである

ただし、だからといって、ヒズブッラーをイランの傀儡とする通俗的な見方はミスリーディングである。なぜなら、彼らのルーツは実際には思想の面でも活動の面でもイランを越えた大きな広がりを持っていたからである。思想面では、アラブ世界におけるシーア派法学者の歴史的なネットワーク、とくにイラクのナジャフ学派およびイスラーム・ダアワ党にそのルーツを持つ。一方、活動面においては、レバノンのシーア派住民による社会運動である「奪われた者たちの運動」とその軍事部門「アマル」(後に運動の正式名称となった)にルーツがあった。

要するに、ヒズブッラーは、イラン、イラク、レバノンに広がっていたシーア派のイスラーム革命思想と運動が、内戦とイスラエルによる侵攻という未曾有の危機にあったレバノンの地で結晶化したものであったと言えよう。

合法政党としての政治参加

「抵抗」と「革命」を掲げたヒズブッラーは、1980年代を通して着実に支持者を増やしていった。それは、レバノン内戦とレバノン戦争という2つの戦争による混乱が、思想と活動の両面においてヒズブッラーにとって有利に働いたためであった。どういうことか。

思想面では、2つの戦争でレバノン国家が崩壊していくなかで、それまで優勢であった世俗主義が無力さを露呈し、オルタナティヴとしてのイスラーム主義が多くの人びとの心を掴んでいた。1979年にはアラブ・ナショナリズムの盟主であったエジプトがイスラエルとの単独和平条約の調印に踏み切る一方で、イスラーム革命を成就させたイランが対米・対イスラエル強硬派の急先鋒となっていた。

活動面では、戦乱によってレバノンの国家機能が麻痺した結果、ヒズブッラーのような民兵組織が独自の軍事力と経済力を背景に住民の安全や生活を守るセーフティーネットとなっていたことが指摘できる。つまり、1980年代のヒズブッラーは、戦乱のなかで生まれ、戦乱を糧にして急成長を遂げたのである。

だが、戦乱の世は永遠に続くものではない。レバノン内戦は1990年に終結を迎えたが、ヒズブッラー指導部はこれを組織存亡の危機として受け止めた。国家が再建されれば彼らの「抵抗」と「革命」の意義は損なわれる。しかし、だからといって、その看板を下ろすことは組織の存在理由を自ら否定することになる。ヒズブッラーはジレンマに直面した。

このジレンマを克服するためにヒズブッラーの指導部が講じたのは、「抵抗」と「革命」の理念を堅持しつつ、これに抵触しないかたちで戦略・戦術レベルにおいて新政策を次々と打ち出していくという巧みな戦略であった。以降、ヒズブッラーの最高指導者でありカリスマ的な人気を誇るハサン・ナスルッラー書記長(1960年生まれ、1992年選出、現在7期目)のリーダーシップの下、組織はそのあり方を大きく変えていく。

まず、「抵抗」について見てみよう。確かに、イスラエルによるレバノン南部地域の占領は続いていた。先述のように、本来的に国土防衛を司るのは国軍であり、レバノンもまた例外ではない。レバノン国軍も内戦終結に際して再編され、その結果、ヒズブッラーによる草の根の「抵抗」は意義喪失の危機に直面した。そこで、ヒズブッラー指導部は、軍事部門「レバノン・イスラーム抵抗」をレバノンの領土と主権の防衛を担う「国民的レジスタンス」として再定義し、組織のメンバーだけではなく全国民に開かれた軍隊と位置付けた。つまり、自らの武力の矛先はあくまでも「全国民の敵」であるイスラエルに向けられたものであると主張することで、内戦終結にともなう武装解除要求を拒否し、「抵抗」を継続したのである。こうして、ヒズブッラーは世界にも類を見ない「武装政党」となった。

ヒズブッラーによる「抵抗」は、2000年5月、イスラエル国防軍をレバノン南部地域からの撤退に追い込むことに成功した。だが、彼らは、それ以降も国境線付近にイスラエルの部隊が残存しており、また、何よりもパレスチナという巨大な「占領地」が存在していると主張することで、「抵抗」の看板を下ろすことなく臨戦態勢をとり続けている。「抵抗」の継続は、ヒズブッラーの存在理由そのものに他ならない。

他方、「革命」によるイスラーム国家の樹立については、内戦終結後どのような新政策として打ち出されたのか。ヒズブッラー指導部は、イスラーム国家の樹立を目指す「革命」理念の是非には触れず、あくまでもその方法をめぐっての大胆な解釈を試みた。すなわち、レバノンに「革命」をもたらすとしても、それは力によって国家を転覆する方法ではなく、合法政党として民主政治に参加することで、政府権力の内側から漸進的に変革を迫るという方法が採られた。いわば「内破」の戦略である。

ヒズブッラーは、1992年の内戦後初の国民議会選挙(定数128)に出馬し、11名の候補者全員を当選させた。その後の2009年までの4度の選挙でも10議席前後の安定した議席数を確保しており、さらには、2005年には初めてメンバーから閣僚を誕生させている。彼らは、レバノンの民主政治での発言力を増大させ、単独最大野党としての立場から自らの「革命」理念を押し出していった。

レバノン南部地域、イスラエルとの国境線。黄色い旗がヒズブッラーの党旗。(2002年7月)
レバノン南部地域、イスラエルとの国境線。黄色い旗がヒズブッラーの党旗。(2002年7月)

NGOとしての社会サービス

このような合法政党としてのヒズブッラーの支持者の増大と団結力の強化に重要な役割を果たしてきたのが、組織の結成当初から展開してきた幅広い社会サービス事業である。

ベイルート南部郊外、ヒズブッラーの拠点地域。イスラエル空軍の空爆によって破壊された。(2006年7月、ワアド提供)
ベイルート南部郊外、ヒズブッラーの拠点地域。イスラエル空軍の空爆によって破壊された。(2006年7月、ワアド提供)

ヒズブッラーは、傘下に少なくとも10を超える大規模なNGOを持っており、シーア派住民を中心とした貧困層が集まるレバノン南部地域やベカーア高原、ベイルート南部郊外で、医療、福祉、教育、開発などの社会サービスを提供している。これらの社会サービスは、貧富の差の拡大が社会問題となっているレバノンにおいて、国家行政の手薄な部分を補完する役割を果たしてきた。例えば、ヒズブッラー傘下のとある医療機関は、設備やスタッフの面からレバノン保健省の「五つ星認証」を受けているにもかかわらず、治療にかかる費用は他の病院よりも低く抑えられているという。

また、衛星テレビ局「アル=マナール・テレビ」やラジオ局「アン=ヌール放送」をはじめとして、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネットなど独自のメディア展開も進めており、国内外に自らの世界観を浸透させることで支持者の獲得や団結力の強化につとめている。

これらのメディアでは、ヒズブッラーが「抵抗」すべき相手とは、いまやイスラエルという従来からの脅威だけではなく、疾病、貧困、環境破壊といった人類全体にとっての脅威であると喧伝される。その狙いは、指導部の幹部や軍事部門の戦闘員といったエリートも、NGOの職員や普通の日常生活を営む一般の支持者も、同じ「抵抗」にたずさわる者として一体感と誇りを共有させることにある。組織運営のなかで常に問題となるエリートと非エリートの断絶や確執を防ぐための巧みなメディア戦略である。

こうした組織としての団結力が強く見られたのが、2006年夏のヒズブッラーとイスラエルとの全面衝突の際であった。イスラエルの陸海空の三軍による全面攻撃によって、レバノンのほぼ全土に戦禍が及んだ。ヒズブッラーの戦闘員が前線でイスラエル国防軍のゲリラ戦を挑む一方で、傘下のNGOのスタッフや一般の支持者たちは避難民の保護、負傷者の治療、消火活動、瓦礫の撤去などに従事する光景が見られた。「抵抗」の名の下に、前線と銃後が地続きになった瞬間であった。

ヒズブッラー傘下NGOによる戦後復興工事。(2008年7月、ワアド提供)
ヒズブッラー傘下NGOによる戦後復興工事。(2008年7月、ワアド提供)

権力への階段

以上見てきたように、ヒズブッラーは、「抵抗」と「革命」の理念を堅持しながらも柔軟に情勢の変化に対応することで、組織の生き残り、さらには勢力の拡大にも成功してきた。だが、その成功の影には、結成からの支援者であるイランに加えて、内戦終結後のレバノンを実効支配下に置いていた隣国シリアの存在にも触れておかねばならない。

ヒズブッラーとシリアは、一言で言えば、戦略的な互恵関係にあった。すなわち、シリアはヒズブッラーに対して、(1)イスラエルとの交渉における外交カードと(2)レバノン実効支配のための橋頭堡の2つの役割を担わせた。他方、ヒズブッラーはシリアから、(1)軍事的支援(資金や兵器の直接供給だけではなく、イランからの兵站の確保を含む)と(2)政治的庇護、とくに「武装政党」としての特権の保証の2つを受けていた。

ところが、内戦終結から15年目の2005年春、両者の関係を揺るがす事件が起こった。ラフィーク・ハリーリー元首相の爆殺事件を機に、レバノン国内でシリアによる実効支配に対する不満が爆発したのである。その不満の矛先はかねてからシリア——シリアが「推定有罪」とされた——と強く結びついていたヒズブッラーにも向けられ、「武装政党」としての特権の剥奪を求める声が国内外で高まった。そして、最終的にシリアによるレバノン実効支配が終焉を迎えたこと——レバノンの国樹である杉にちなんで「杉の木革命」と呼ばれる——で、ヒズブッラーは大きな庇護者を失うことになった。

窮地に陥ったヒズブッラーは、再び新たな戦略を打ち出す。それは、シリア撤退後のレバノンでの権力の空白を自らが埋めていくというものであった。彼らの「革命」は、それまでの野党の立場から体制を「内破」していく戦略から、一挙に国家権力の掌握を目指す戦略へとシフトアップしたのである。

ヒズブッラーは、まず、国内の親シリア派の政治家や政党を糾合し、シリアからの独立の歓喜に沸き立つ「杉の木革命」に対して「反革命」を挑んだ。2005年と2009年の国民議会選挙では反シリア派の政党連合に僅差で敗北を喫するも、コンセンサス(全会一致)による意思決定を基本とするレバノン独特の民主政治——「宗派制度」と呼ばれる——の弱点を突き、また、ときには大規模な街頭行動や武力の行使に訴えることで、幾度にもわたってレバノン国家の意思決定機能を麻痺させた。そして、これを梃子に自派への閣僚ポストの割り当てや自派に不利となる法案や閣議決定の撤回の要求を行い、レバノン政府内での発言力を増大させていった。

そして、2011年1月。チュニジアやエジプトで市民による抗議デモが広がる陰で、ヒズブッラーはレバノンで「静かなる革命」を成就させた。ときの内閣における自派閣僚を一斉に辞任させ、憲法規定に従い同内閣を解散に追い込んだ。新内閣は、自らが率いる親シリア派の政治家によって埋め尽くされ、連立政権のかたちではあるものの、ヒズブッラーはレバノンの国家としての意思決定に強い影響力を持つことになった。こうして、ヒズブッラーは、シリアによる実効支配終焉後のレバノンにおける権力の空白を自ら埋めることに成功したのである。

シリア「内戦」への参戦

このように、ヒズブッラーが結成以来シリアとの戦略的な互恵関係にあり、また、そのことがレバノンでの組織の生き残りに重大な意味を持つのだとすれば、冒頭で触れたように、2011年からのシリア「内戦」において彼らがアサド政権の支持・支援に向かったのは必然であったと言える。つまり、アサド政権の存続は、レバノン国内で自らが築き上げてきた地位と権力を維持するための必要条件であった。

しかし、ヒズブッラーによるシリア「内戦」への参戦は、より広い文脈で見る必要もある。すなわち、筆者が「30年戦争」と呼ぶ、米国とその同盟国による覇権拡大とそれに抵抗しようとする諸国が対峙する構図である。先述のように、1979年のエジプトのイスラエルとの単独和平とイランのイスラーム革命によって、中東における対イスラエル強硬派の地位はエジプトからイランへと移った。その結果、イスラエルとの戦争状態にあったシリアは新たな同盟者としてイランへと接近していった。ヒズブッラーは、この1970年代末から80年代初頭の中東政治の構造変容によって生まれたと言ってもよい。

要するに、イラン、シリア、ヒズブッラーはイスラエルと米国を共通の脅威とする「鉄の三角形」を築いてきたことになる。それゆえに、ヒズブッラーにとって、アサド政権に対する支持・支援は、レバノン国内での自らの地位だけではなく、中東全体でのシリアとイランの地位を護ることと同義であり、欧米主導の地域秩序の出現を阻止するための戦いを意味するのである(ロシアと中国もこの構図を維持するためにアサド政権への支持・支援している)。

ヒズブッラーがシリアに送り込んでいる兵力の規模については現段階では明確な数字が存在せず、アナリストによる推計も数千人から1万5千人と大きな開きがある。そのため、ヒズブッラーがアサド政権に対して軍事面でどの程度貢献しているのかは判然としない。しかし、確かなのは、シリア「内戦」が泥沼化するなかで、ヒズブッラーは自らの立場に自信を高めつつあることである。

仮にアサド政権が崩壊したとしても、それはもはや米国とその同盟国の勝利を約束するものではなく、国内で急激に増加しているイスラーム過激派に「漁夫の利」を与えるだけだとするシナリオが現実味を帯びてきている。そのため、ヒズブッラーは、シリアを中心とした東アラブ諸国におけるイスラーム過激派の台頭という「最悪のシナリオ」を阻止する立場にあるプレイヤーとして、米国やその同盟国だけではなく、シリアとレバノンの両国民に対しても自らの存在理由をアピールできるようになった。

中東政治を動かすイスラーム主義

ところで、筆者はいまベイルートでこの原稿を書いている。かつて「中東のパリ」と呼ばれたこの美しい街では、この1か月間だけで4度も爆弾テロが起こり、多くの人びとが犠牲となった。これまで幾度ものテロ事件や暗殺事件を経験してきたレバノンであるが、この1、2年で治安を急激に悪化させている。隣国シリアの「内戦」が飛び火してきているのである。

ヒズブッラーがシリア「内戦」に参戦したことで、組織の本拠地のあるベイルート南部郊外も戦場の一部となった。アサド政権の打倒を目指すシリアの反体制派やイスラーム過激派による攻撃の対象となっているのである。また、ヒズブッラーは2005年のハリーリー元首相暗殺事件への関与が疑われており、オランダのハーグに設置された特別法廷では組織のメンバーが容疑者として裁かれている(米国やEUはヒズブッラー組織のすべてないしは一部を「国際テロ組織」に指定している)。内戦終結以降、「抵抗」の名の下にレバノン国民の取り込みにつとめてきたヒズブッラーであるが、最近では自国の安定を脅かす存在として国内外からの厳しい批判にさらされることも多い。

だが、他方で、ヒズブッラーをイスラエルの脅威、欧米諸国の野心、イスラーム過激派の攻撃にさらされ続けるレバノンにとっての「守護者」として支持する人びとが依然として多くいるのも現実である。ヒズブッラーは既にレバノンの地に深く根ざしており、実戦経験が豊富な彼らの存在を抜きにした国土防衛が可能なのか不安視する声は根強い。

つまり、ヒズブッラーをレバノン、広くは中東の不安定の「原因」と見なすのか、それとも「結果」と見なすのかについては、思想、宗派、政治的立場などの違い、また、その時々の情勢によっても大きく異なるのである。そのため、善悪や是非を断ずることは難しく、また、軽々に断ずるべきではないだろう。しかし、確かなのは、安定と不安定のいずれに作用するにせよ、ヒズブッラーが中東政治のなかの重要なプレイヤーであり続けていると言う事実である。彼らは、多様な貌を持ち、軍事、政治、社会、経済のあらゆる領域に影響を及ぼし続けている。

イスラーム主義組織は、2001年の9.11事件の後には安全保障と、それから10年後の2011年の「アラブの春」では民主化の文脈で(おもに脅威として)論じられてきた。だが、一口にイスラーム主義組織と言っても、思想、活動、戦略・戦術などにおいて大きな違いがあり、その内実については——関心の高さに比べると——いまだ十分に明らかにされてはいない。イスラーム主義組織の実態把握は、彼らの素顔を知るためだけではなく、複雑怪奇な中東政治のダイナミクスを理解し、今後の展望を拓くための大きな手がかりになるものであろう。

サムネイル http://www.flickr.com/photos/hawra/3836285927/

プロフィール

末近浩太中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究

中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダーラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、、英国ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)ロンドン中東研究所研究員を歴任。著作に、『現代シリアの国家変容とイスラーム』(ナカニシヤ出版、2005年)、『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店、2009年、青山弘之との共著)、『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年)、『比較政治学の考え方』(有斐閣、2016年、久保慶一・高橋百合子との共著)、『イスラーム主義:もう一つの近代を構想する』(岩波新書、2018年)がある。

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