もう一度「一般理論」に挑戦する

リーマンショック以降、再び注目を集めたケインズ『一般理論』。そこには現在の不況に対する処方箋がたくさん詰まっている。しかし、ケインズの遺産をつつき回すだけでは今後の経済学が発展していくはずがない。経済学の未来はどっちだ! 山形浩生と飯田泰之の二人が語ります。

 

 

なぜ今『一般理論』なのか

 

飯田 まずは、なぜ今ケインズ(『要約 ケインズ 雇用と利子とお金の一般理論』)を訳そうと思ったのかを聞かせてください。

 

山形 解説にも書いたのですが、最初のきっかけは、松原隆一郎氏が「山形は最近リフレの話を一生懸命しているけど、ケインズは『一般理論』の最後のところでリフレ派を明白に否定しているのに、何を言っているんだ。もの知らずめ。素人め」と言ってきたことです。だから「この素人を相手にそういうことを言うかね、君。ちょっと素人の怖さを思い知らせてやろう」と思って。

 

まず最初に、最後の章を1段落ずつ要約してみせて、「問題のところはそういう意味じゃない。ここでケインズが『トンデモ経済学者』と指しているのは、明らかにリフレ派とは違う人たちのことなのだ。はい、松原隆一郎、負け。山形、1点」とやったんです。

 

それが終わった後、前のほうの章も同じように訳していきました。

 

これまで出されたケインズの解説書は、自分に都合のいいところをつまんで、あとは「ここは関係ないから飛ばして」というのが多いのを不満に思っていたので、全体として何が書いてあるのか自分なりにまとめたかったというのもあります。ひとつ、ふたつと訳を進めていったのですが、真ん中のほうは面倒くさくて飛ばしていたんです。それがあるとき、2ちゃんねるの某スレッドで、諸般の事情で脅されまして(笑)。中断して数年経っていたんですが、そういったひょんなことから、未訳の部分をやろうと思い立ちました。

 

あともうひとつ、クルーグマンが『一般理論』の読み方として、こういうことを言っていたんです。「この本は前菜が素晴らしい。それから、すごくおいしいデザートがやってくる。前菜では古典派って全然駄目だという話を延々としているので、すごく壮快。デザートの部分はケインズも面白がって『ゲゼルって頭がおかしいと思われているけど、じつはいいんだぜ』とか、どうでもいい話を山ほどして面白い。でも、真ん中のところの彼の理論のところはみんなちゃんと読まないで飛ばしちゃう。そこが『一般理論』の悲しいところだ」と。それじゃあ、みんなが飛ばしちゃうところをやろうじゃないかということで、一通りまとめてみたというところもあります。

 

飯田 実際、経済学部生でちょっとペダンチックなところがあるやつは『一般理論』を読もうと思うんですね。そのとき、『コンメンタール』(宮崎義一、伊東光晴)と『ケインズ『一般理論』を読む』(宇沢弘文)という、それを読んだ途端にさらにいっそうわけがわからなくなると有名な素晴らしい解説書と併せて読んで挫折する(笑)。だいたい学部のときに1回、院のときで1回、大人になって1回ぐらい挫折していると思うんですよ。

 

山形 『コンメンタール』とか、『『一般理論』を読む』だと、ケインズが批判している古典派の理論を数式やグラフを使って一生懸命説明して、「こんなのを彼は批判しようとしていたんだ」というあたりで力が尽きている。批判をしてるんだけど、じゃあ、何を言ったのかというあたりまでいっていないんですよね。

 

飯田 『一般理論』の冒頭を読むと、徹底的に「じつは今の主流の理論はこれから俺が語る理論のごく特殊ケースで、俺の理論ほうが一般理論である」と言っていますね。

 

山形 そう。でもそこだけだど、ケインズの理論がどう一般なのかがわからない。

 

この、なにが「一般」かというのは異論があって、その後出てきたヒックスは、やっぱりケインズのほうが特殊だと言ってますね。古典派のほうが一般的で、本来あるべき状態を言っていて、ケインズは普通では起こらない非常に特殊な事例な話をしているんじゃないかと。この「どっちが一般でどっちが特殊か」は、その後の古典派対ケインズの論争でもつづいています。

 

飯田 この論争については、ケインジアン(ケインズ経済学者)サイドの人が戦略をミスってしまったところがあるんです。そう言い返されたときにケインズ派は、「いや、この特殊な状況はごくしばしば見られるんだ」と返してしまった。そもそもどちらが一般的かについて論争せずに、「このときも、このときも成り立っていた」とやってしまったので、基本的な戦略で負けていたのだと思います。

 

その結果、1970年代以降、ヒックスが言っているいわゆるIS-LMのようなケインジアン、マクロ経済学の前提がなくなったら、「ほら、やっぱりお前らが特殊理論だった」と追い込まれてしまったんです。新古典派の人が最初からその戦略を練っていたわけではないと思いますが、後から考えて、うまくなかった。でも、そうせざるを得ないぐらい『一般理論』ってわかりにくくて、実際、要らないところが大量にあると思います。

 

 

ケインズに対する誤解

 

山形 『一般理論』の解説書を読むと、ケインズの英文が格調高いからわからないということを書いてありますが、それはウソで、金釘流の訳のわからない書き方をしているから読みにくい。英語の構文として見ると、すごく長い文の間に関係節が山ほど入って、その関係節がさらに分節化して条件になって……というのが散々出てきたりする。

 

あともうひとつは、ケインズ自身の書き方の問題。「これはこういうことだけれども、すごく特殊な例としてこんなこともあるかもしれないし、あんな例外があるかもしれないし、こんな例外もあるかもしれない」と言った後、最後に「でも、これらは例外だからあまり考えなくていいよね」と書いたりする。じゃあお前、書くなよ、と(笑)。

 

ちなみにこの『一般理論』の中にたったひとつだけグラフが使われていますが、そのグラフも「こんな話が出てくるけど、これはこの線とこの線が独立であることを設定しているので、このグラフでは何も言えません」というためのグラフで、そんなグラフを載せないでくれよというものです。グラフを理解しようとして一生懸命読んできた人は、そこですごい脱力感にとらわれる。

 

要するに、ケインズの書き方は構造的に複雑で、さらに無駄な部分が多いせいで理屈の本質をとらえにくくなっている。『一般理論』は自分の集大成だから全部書いておきたかったというケインズの気持ちもわかるんですけどね。

 

飯田 たしかに関係節がやたらつながって、駿台の英語みたいな感じです(笑)。そのうえ本筋と関係ないグラフまで入っている。後世の人が「このグラフはわざわざ書いたんだから、とんでもなく重要な意味が隠されているに違いない」というミスリードをして、関数の3回微分、4回微分の符号についての論争が起こったこともあるんです(笑)。もし本人がもう少し長生きだったら、「そこは関係ないです」と言ってくれたかもしれないんですけどね。

 

それから、IS-LMにはいいところと悪いところがあります。ヒックスは「ケインズと古典派」というタイトルの論文の中で、『一般理論』をIS-LMというものすごくわかりやすいひとつの図にまとめてしまった。そのせいで、ケインズが言っているけどIS-LMの枠をはみ出したところにある部分がなかったことのようになってしまった面があります。

 

山形 「期待の役割みたいなものが完全に抜けちゃってるじゃないか」というのはしばしば言われますよね。たしかにあの論文では簡単にするために単純化しているのは事実なんですよね。そもそもレビュー論文というか、「だいたいこんな話だよ」というためのものであって、「これぞ本質」というものではなかったはずなんです。ヒックスも後になって、「これはちょっと俺の思っていた話とは違っているんだけどな。それでノーベル賞くれちゃってるし、俺、どうしようかな」となって。

 

飯田 晩年のヒックスは「そこまで真に受けられるとは思わなかった」とIS-LM批判に転じていますよね。

 

山形 とはいえ、『一般理論』をここまで簡単にまとめられたヒックスが天才だというのは間違いがない。論文を見ると、ヒックス自身は嫌なやつだとよくわかりますけど(笑)。

 

飯田 「ケインズと古典派」で面白いのは、(初出掲載誌の)裏表紙の部分に「これがIT革命だ」みたいなことがずらっと書いてあるんです。これはベル社の広告で、電話というのは当時のIT革命ですよね。世の中いつも革命が起きている。

 

山形 その辺りについては『ヴィクトリア朝時代のインターネット』(トム・スタンデージ著、服部桂訳)という、電話がいかに当時のIT革命としてすごいと思われていたかを書いた本が翻訳で出ています。ぼくが訳したわけではないですが、面白い本なのでぜひご一読を(注:正しくは電話よりはむしろ電信の話)。

 

ケインズ理論は、最終的には理論家の人には「IS-LMモデルなんだね」と理解されていきました。それから後、政策的な意義としては、赤字国債を発行してガンガン公共投資をして経済をよくしていいということになった。「赤字支出はよくないんじゃないか」という意見を受けつつも、1950年代、60年代はそれでだいたいうまくいっていました。

 

それが70年代、80年代に入ると突然駄目になってしまい、「ケインズは死んだ」と言われるようになってしまう。教科書では「スタグフレーションが起こって何も説明できなくなったからだ」と説明してあって次のところにいくのですが、それでいいんですか?

 

飯田 いつも思うのは、なぜスタグフレーションでケインズが駄目になるか、ワケがわからないということです。ぼくの学部から大学院にかけての師匠である吉川洋先生も、いつも「スタグフレーションぐらいAD-ASモデルできれいに説明がつく現象はない」と言っていたくらいです。AD-ASモデルはIS-LMを拡張したものですから、なぜスタグフレーションがケインズモデルの欠点なのかわからないです。「財政を出したり引っ込めたりすれば、何とか経済はコントロールできる」という意味での俗流ケインズ主義ではたしかにスタグフレーションについては何も説明できないし、対応できないでしょう。でも、AD-ASモデルなら説明できる事態です。ところが実際は、ケインズの登場以降主流の座を転げ落ちていった新古典派の人が、ここぞといって復活しました。そのトップスターがミルトン・フリードマンですよね。

 

 

 

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