ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

現場にはリスクがある

 

ではなぜハイエクは、国家の役割を、前もって決まった明確なルールに限定し、そのときどきの状況に合わせたさじ加減で判断する政策に反対したのでしょうか。ここで、キーワード「リスク・決定・責任」と「予想は大事」が登場してくるのです。

 

先ほど述べたように、経済のことを決めるのに必要な知識は、特定の時間や場所や人間関係に依存していて、その現場の人だけが把握できるので、その当人が自分のために最大限それを利用しようとする判断に任せてこそ、一番有効にその知識を活かすことができるということでした。しかし、その判断にはリスクがつきものなのです。ハイエクは、競争をもちろん擁護する人ですが、競争の結果がすべて才能や努力の反映などと美化することはありません。「競争において人々の運命は、しばしばその人の技術や先見性よりチャンスや幸運によって決まることが多いのである」(*22)と、あっさり突き放しています。

 

にもかかわらず彼は、その単なる不運の結果所得が減ってしまったのを、国が補償することには反対します。最低限所得をみんなに保障することは賛成なのですが、それとこれとは別と言うのです(*23)。

 

所得に格差がつくことについて、「一般にこの命題は、どうやって人々にやる気を起こさせるかという問題であるかのように議論されている。もちろんそれも重要な点だが、それが全部ではないし、また最も重要な要素でもない。『適正な誘因』とは、人々に最善を尽くさせたいのならそれなりのやりがいがあるようにしなければならない、という議論にとどまる問題ではない。より重要なことは、人々に選択の自由を保障したいのなら、つまり何をなすべきかを自ら判断できるようにさせたいのなら、それぞれの職業が社会的にどれほどの重要性を持っているかを測ってみることができる、わかりやすい簡単な物差しが人々にあたえられなければならない、ということである」(*24)と言っています。「それぞれの働きが社会の他の人間にとってどれだけ有用か」(*25)ということがそれによってわかるということです。

 

つまり、知識が各自の身の回りに特有で、当事者だけが把握できるからこそ、広く世の中のニーズにかかわる情報を、外から正確に把握することは誰にもできないわけです。見込みが外れてしまって売れないリスクはどうしてもある。そのリスクを自分で引き受けて判断してこそ、なるべく人々のニーズに合わせた判断が目指されるようになるわけですね。だからハイエクは、「選択することもそれに伴う危険も個人にゆだねられているあり方か、それとも両方とも個人には課されないあり方か、の二者択一である」(*26)と言います。要するに、リスク・決定・責任の一致が必要だということです。

 

 

国家は民間人の予想を確定するのが役割

 

そうすると、民間人のこうした営みがスムーズにいくためには、ただでさえリスクのある彼らにさらなるリスクを課してはならない、むしろ、不要なリスクが軽減できるように、なるべく不確実性を減らさなければならないということになります。これが国家の役割ということなのです。ハイエクは『隷属への道』第6章で次のように言っています。

 

 

国家は、一般的な状況に適用されるルールのみを制定すべきで、時間や場所の状況に依存するすべてのことは、個人の自由に任せなければならない。というのも、それぞれの場に立っている個人のみが、その状況を十全に把握し、行動を適切に修正できるからである。そして個人のそういう知識が自らの計画の作成に有効に使われるためには、計画に影響を及ぼす国家の活動が、予測できなくてはならない。予測できるようになるためには、国家の活動は、予期も準備もできないような現実の状況によって変わるのではない、確固としたルールによってなされなければならない。(96ページ、強調は引用者)

 

 

では逆に、国家があれこれ特定の状況に応じたさじ加減の効く判断で政策をとったらどうなるでしょうか。前に述べたとおり、中央当局は、あれこれ特定の状況に応じた情報を把握することができない中で、もとごとを決めてしまうことになります。しかもどんな状況がやってくるか事前にわかりませんので、そのときにどんな政策がとられるかも、事前に民間の人々にはわかりません。

 

かくして民間の人々にとって、「国家活動の効果を予想することは不可能になる。ちなみにこの場合は、前者(一般的なルールの場合──引用者)と異なり、国家が『計画』をすればするほど、個人の計画は困難になっていく、というお馴染みの事実が必ず発生することになる」(*27)ということになります。

 

そのうえ、あれこれの状況に直面したもとで、民間の人々ならいろいろな選択をそれぞれにする可能性があるところで、国家がその中で特定の政策を選ぶということは、特定の目的を人々におしつけることになります。ハイエクは、これは公平ではないと言います。

 

 

立法者が公平でありうるとしたら、まさにこの意味においてだけである。公平であるということは、特定の問題──決めざるをえない時にはコインを投げる必要のあるような問題──にどんな答えも持っていないということを意味するのである(*28)。(強調は引用者)

 

 

「決めざるをえない時にはコインを投げる必要のあるような問題」というのは、すなわちリスクのある問題ということです。つまり「役所はリスクのあることに手を出すな」ということです。私から敷衍して言えば、役所がリスクのあることに手を出すと、その結果はその判断に同意していない人も含む多くの人々を巻き込むことになるのに、その責任はとらないということです。せいぜい決定者が辞めるぐらいです。江戸時代なら切腹したかもしれませんし、北朝鮮では銃殺されるかもしれませんけど、だとしても、被害者が補償されるわけではありません。補償されたとしても、それは決定者の自腹で負担されるものではありません(そもそも無理)から、結局国庫の負担になって、一般国民に広く損が分散されるだけです。

 

野田前総理は、原発の再稼働を決めるにあたって、「総理としての責任で」とおっしゃいました。この「責任」ってどんな意味なのか、私にはまったくわからないのですけどね。万一今度原発に何か起こったときに、まだ野田さんが総理でいる可能性は、あの時点から見ても限りなくゼロでしょう。議員である可能性もほとんどない。辞めて責任をとるというわけにはいきません。ましてや自腹で被害者に賠償するはずはないし。

 

リスクのあることを決めても責任をとらなくてもいいのならば、どんどんリスクのあることに手を出してしまうでしょう。それでは、ただでさえリスクを抱えている民間の人々に、さらに過剰なリスクを押し付けることになってしまいます。

 

ハイエクの提唱する、誰にでもあてはまる一般的ルールは、逆に、人々の予想を確定させてリスクを減らすものです。「それによって人々は、生産活動をしていく上で関わりを持たざるをえない他者が、どのように行動するかを予想できるように助けられる」(*29)というものです。例えば、民法などのルールがあれば、詐欺やごまかしのリスクは減って、安心して取引できます。私有財産権が保証されていれば、あとでもうかるようになってから重税を課されたり、政府に企業を接収されたりする恐れなく、安心して事業に投資できます。

 

リスクのあることは、すべてそのリスクにかかわる情報を持つ現場の民間人に決定を任せ、その責任は自分で引き受けさせる。公共は、リスクのあることには手を出さず、民間人の不確実性を減らして、民間人の予想の確定を促す役割に徹する。この両極分担がハイエクの提唱した図式だと言えるでしょう。

 

(*22)『隷属への道』前掲書130ページ

 

(*23)同上書154-155ページ

 

(*24)同上書161ページ

 

(*25)同上書158ページ

 

(*26)同上書163ページ

 

(*27)同上書96ページ

 

(*28)同上書97ページ

 

(*29)同上書93ページ

 

 

 

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vol.2019.4.15 

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