「人づくり革命」・「無償化」・改憲構想と大学のゆくえ――国家主義化する「大学改革」

1.「人づくり革命」・「無償化」と大学の教育・人事への介入

 

2017年12月8日、安倍内閣は「人づくり革命」の原案を含む「新しい経済政策のパッケージ」を閣議決定した。直前の10月に実施された衆議院総選挙で、政権側は幼児教育無償化とともに高等教育無償化を公約に掲げていた。多くの有権者は、標準修業年数(4年制大学であれば4年分)の国立大学授業料に相当する程度の金額が、一部高額所得者を除いて一律に無償化されると考えたのではないだろうか。

 

ところが「新しい経済政策のパッケージ」では、授業料無償化や返済不要の給付型奨学金の受給条件について、年収約260万円未満の住民税非課税世帯に限るという所得制限が設けられた。所得制限については、筆者も社会科学研究者のひとりとして一定の考えをもつが、この点は本稿では議論しない。本稿がとりあげるのは、もうひとつの大きな問題である。すなわち、「人づくり革命」のアジェンダが、このような限定的な授業料「無償化」と引き換えに、政府が大学の授業内容・カリキュラムや理事・教員人事に介入できる方向性を、堂々と打ち出している点である。

 

「新しい経済政策パッケージ」は、授業料無償化の適用の可否について、世帯所得や学生個人の成績を基準とするにとどまらず、学生が入学する大学の教育内容やガバナンスのあり方によって選別すべきであると明言する。教育内容については、「実務経験のある教員による科目」が全開講授業数の一定割合を超えていること、ガバナンスについては、政官財界出身者など「外部人材の理事への任命」が一定割合を超えていることを求めている。

 

つまり、ごく限定的な授業料「無償化」と引き換えに、各大学の教育やカリキュラムの内容、理事や教員の人事に至るまで、国が直接審査を実施する方針が本格的に打ち出されたわけである。

 

20世紀末になると、旧西側先進国の高等教育機関は、政官財界など外部勢力からさまざまな要求や圧力を受けるようになった。日本においてもこれは例外ではなく、国立大学に関しては2004年の法人化以降、選択と集中の名のもとに、定常的経費である運営費交付金が削減され、プロジェクト型の競争的補助金に振り替えられてきた。

 

これによって第一に、プロジェクト期間中の雇用しか保障されない任期制教職員の割合が高まり、若手研究者や若手事務職員の雇用環境が一気に悪化した。第二に、専任教職員も競争的資金獲得のための書類作成やプロジェクトのマネジメントで疲弊させられ、とくに地方大学は研究費や教育費の慢性的不足に悩まされるようになった。近年になってようやくマスメディアが頻繁に取り上げるようになったが、国立大学の現状は、もはや社会問題といえるレベルに達している。

 

そして、従来から職業訓練課程が組み込まれていた医療系や工学系にとどまらず、国公私立大学のあらゆる部局が「人的資本」を産み出す場として位置づけられるようになった。2008年、政官財界の要求を背景としながら中教審が各大学に対して、「コミュニケーションスキル」「自己管理力」「チームワーク」など「学士力」と呼ばれる教育成果を要求するようになり、民主党政権下の2010年に、文部科学省が大学設置基準に「キャリア」に関する授業科目を追加したのは、その一例である。

 

「人的資本」育成の要求は、大学教育の方法や形式のコントロールとして表れるようになった。たとえば文科省は交付金や補助金受給の条件として、授業シラバスの形式を厳しくチェックしたり、アクティブラーニング(学生による能動的学習を促す授業形式)を要求したりするようになった。

 

また、2004年に国立大学が法人化されたのを機に、国公私立とわず日本のすべての大学は、文部科学省から委託を受けた日本高等教育評価機構の大学評価判定委員会から、7年に1回以上、大学機関別認証評価を受けることが義務づけられた。認証評価では、大学の財務状況や学修環境や研究環境だけでなく、教育の方法や形式が細かくチェックされ、適宜改善要求がおこなわれる(注1)。

 

(注1)また、認証評価の準備のために教職員がおこなう内部調査・書類作成業務は膨大であるため、これが本業であるはずの教育活動や研究活動を圧迫するという矛盾も生じた。

 

ただし、これまでのところ日本の国家当局は、大学の教育内容や教員人事に対しては、制度的次元では介入をひかえてきたといえる。前述のように「キャリア」に関する授業科目の設置は義務づけられたが、その科目数や授業内容、担当教員の経歴が問われることはなかった。認証評価による主たる評価対象も、あくまで教育や研究の方法形式の部分であり、教育内容・研究内容に踏み込むことには抑制的であった。

 

また、日本高等教育評価機構は独立機関であり、大学評価判定委員会の従来メンバーは過半数が研究者出身で占められてきた。認証評価における「ピア・レビューの精神」や「各大学の個性・特色への配慮」も、かなりの程度担保されてきた。また筆者は、大学評価制度は教員の教育・研究時間に膨大なしわ寄せをもたらした反面、大学教員の授業実践のあり方が20世紀に比べて格段に改善されるなど、いくらかの効用ももたらしたと考えている。

 

だが、現下の「人づくり革命」の方針は、国が大学の教育内容やカリキュラム、教員人事・理事人事について一律に審査基準を設け、大学への補助金支給や学生への学費補助の可否を選別するというものである。結論をやや先に述べると、この政策は、敗戦後70年間紆余曲折を経ながらも維持されてきた大学における「学問の自由」を根本的に掘り崩し、既存の大学を取り返しのつかないかたちで破壊していく、悪手のプロジェクトというほかない。

 

 

2.大学をネタに模索される「明文改憲」と「解釈改憲」

 

在任中に何としても日本国憲法改正の国民投票を実施したい安倍首相は、第9条の加項(第3項追加による自衛隊明文化)にとどまらず、第24条の追記(第1項中に「家族の助け合い」の義務を追記)、緊急事態条項の追加など、あらゆる角度からの改憲着手を模索し続けている。

 

安倍首相はこれに加えて、上述のような部分的「無償化」実施に連動して、義務教育を受ける権利・義務とそれに伴う義務教育の無償化を定めた日本国憲法第26条や、「公の支配に属しない教育」への公金支出の制限を定めた第89条を、改正できないかどうか模索し続けている。26条には高等教育の無償化について定めがなく、また89条に関しては、私立大学の授業料「無償化」が、私立学校振興助成法にもとづく補助金と同様、憲法上問題があるという指摘が想定されるからだという。

 

だが26条に関していえば、義務教育に該当しない高校の無償化はすでに、民主党政権下で憲法改正を経なくても実現している。89条に関しては、自民党が参照する私学助成違憲論はかならずしも憲法学者の多数意見ではない。つまり「大学無償化」は、現政権の改憲路線にとって「ネタ」化されてしまっているのである。

 

そして大学をめぐっては、こうした「明文改憲」路線と並行して、重大な「解釈改憲」が進行していることを忘れるわけにはいかない。その標的こそ、学問の自由(academic freedom)の保障を定めた第23条である。

 

日本国憲法23条は「学問の自由は、これを保障する」と、ただこれだけの条文なのだが、その法的・歴史的な含蓄は非常に深いものがある。その精神は、大学の教員は、教授会などでの議論にもとづいて自律的にカリキュラムを編成し、自らの自由な学術研究にもとづいて教育内容を自己決定し、学生との自由な相互作用のなかで教授活動を展開することを保障されている、というものである。

 

憲法23条は、「思想及び良心の自由」の不可侵を定めた第19条や「表現の自由」の保障を定めた第21条と、わざわざ別条で立てられている。23条の条文が、「アメリカの押し付け」などでは決してなく、19世紀半ばのプロイセン憲法や戦間期のワイマール憲法といったドイツ憲法典における学問の自由の保障をモデルとしていることは、憲法学上ほぼ定説となっている。

 

このような憲法典上の位置づけは、第一に日本の大学が近代ドイツの大学を重要なモデルとして形成されたこと、第二に明治憲法下における旧制大学や旧制高校が国家との緊張関係のなかで一定程度の学問の自由を獲得していたこと、だが第三にそれらの自由がアジア太平洋戦争期に激しい弾圧に遭ったこと、これらの歴史的経緯を反映している。それゆえ23条は、とくに高等教育機関における学問の自由を想定して作られた条文なのである。

 

また、憲法23条が学問の自由のコロラリー(重要な法的派生物)として大学の自治(university autonomy)を保障していることも、判例や憲法学説によって繰り返し確認されてきた。近年では無知による誤解や意図的な誤用もみられるので再確認しておくと、大学の自治とは大学を経営する学校法人の執行部(すなわち学長や理事会)の決定権だけを意味しているのではない。むしろ、研究内容や教育内容、そして研究者の採用・昇任人事にかかわる領域に関しては、教授会などの研究者集団が責任をもち、国家当局など大学の外部勢力に対してはもちろんのこと、大学や法人の執行部に対しても、一定の自律的な審議権と自己決定権を担保されるというものである。

 

この点に関して、大学教員の研究と教育の地位は、あらゆる業務が上司の指揮命令系統下に置かれる一般企業従業員や官公庁職員、そして大学の事務職員とも異なっている。さらには、学習指導要領によって教育内容やカリキュラムが統制されている小中高の教諭の立場とも、相当程度異なっている。

 

さらに、こうした学問の自由と大学の自治は、大学生にとっても重要な意味を持っている。大学生は、小中高の児童・生徒と異なって、履修科目や学習内容をある程度自由に選択することができ、また教員の指導下である程度自由に研究テーマを選ぶことを保障されたからである。

 

ただし20世紀半ばまでは、日本国憲法が保障する学問の自由や大学の自治は、高等教育機関の教員とそこに進学できた一部の階層のみが享受できる一種の「特権」であったといわねばならない。1950年代前半の初期新制大学・短期大学の合計進学率は、いまだ10%程度にとどまっていたからである。また冷戦体制下において、東側諸国はもちろん西側の発展途上国の大半は独裁政権や権威主義的政権によって支配されており、学問の自由や大学の自治は脆弱であった。20世紀末まで、日本を含む西側先進諸国の高等教育機関は、世界のなかで「特権的」位置にあったといえるだろう。

 

だが、日本における大学・短大への合計進学率は、20世紀末にかけて、50%前後にまで上昇した。その結果、日本における学問の自由は、一部階層の「特権」から、より多くの市民に開かれた権利となってきたのである。

ところが、いま「人づくり革命」の名において企図されているのは、大学の外部勢力とくに経済団体などの意向を受けた国家当局が、すべての国公私立大学における教育内容や研究内容の自由、そして大学教員の人事にかかわる自治に対して、直接的な管理・統制を加えていくという、新たなプロジェクトである。このような直接的介入は、これまでの「大学改革」と比べてもステージが異なる、憲法23条体制の破壊ともいいうる事態である(注2)。【次ページにつづく】

 

(注2)憲法23条体制の破壊がもたらす事態については、次を参照されたい。

石原俊氏インタビュー「「冷戦経験」を考え抜く――大学は自由と自治の「最後の砦」になれるのか 『群島と大学』(共和国)をめぐって」(『図書新聞』2017年6月17日)

 

 

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