2018.02.13

「人づくり革命」・「無償化」・改憲構想と大学のゆくえ――国家主義化する「大学改革」

石原俊 社会学

教育 #人づくり革命

1.「人づくり革命」・「無償化」と大学の教育・人事への介入

2017年12月8日、安倍内閣は「人づくり革命」の原案を含む「新しい経済政策のパッケージ」を閣議決定した。直前の10月に実施された衆議院総選挙で、政権側は幼児教育無償化とともに高等教育無償化を公約に掲げていた。多くの有権者は、標準修業年数(4年制大学であれば4年分)の国立大学授業料に相当する程度の金額が、一部高額所得者を除いて一律に無償化されると考えたのではないだろうか。

ところが「新しい経済政策のパッケージ」では、授業料無償化や返済不要の給付型奨学金の受給条件について、年収約260万円未満の住民税非課税世帯に限るという所得制限が設けられた。所得制限については、筆者も社会科学研究者のひとりとして一定の考えをもつが、この点は本稿では議論しない。本稿がとりあげるのは、もうひとつの大きな問題である。すなわち、「人づくり革命」のアジェンダが、このような限定的な授業料「無償化」と引き換えに、政府が大学の授業内容・カリキュラムや理事・教員人事に介入できる方向性を、堂々と打ち出している点である。

「新しい経済政策パッケージ」は、授業料無償化の適用の可否について、世帯所得や学生個人の成績を基準とするにとどまらず、学生が入学する大学の教育内容やガバナンスのあり方によって選別すべきであると明言する。教育内容については、「実務経験のある教員による科目」が全開講授業数の一定割合を超えていること、ガバナンスについては、政官財界出身者など「外部人材の理事への任命」が一定割合を超えていることを求めている。

つまり、ごく限定的な授業料「無償化」と引き換えに、各大学の教育やカリキュラムの内容、理事や教員の人事に至るまで、国が直接審査を実施する方針が本格的に打ち出されたわけである。

20世紀末になると、旧西側先進国の高等教育機関は、政官財界など外部勢力からさまざまな要求や圧力を受けるようになった。日本においてもこれは例外ではなく、国立大学に関しては2004年の法人化以降、選択と集中の名のもとに、定常的経費である運営費交付金が削減され、プロジェクト型の競争的補助金に振り替えられてきた。

これによって第一に、プロジェクト期間中の雇用しか保障されない任期制教職員の割合が高まり、若手研究者や若手事務職員の雇用環境が一気に悪化した。第二に、専任教職員も競争的資金獲得のための書類作成やプロジェクトのマネジメントで疲弊させられ、とくに地方大学は研究費や教育費の慢性的不足に悩まされるようになった。近年になってようやくマスメディアが頻繁に取り上げるようになったが、国立大学の現状は、もはや社会問題といえるレベルに達している。

そして、従来から職業訓練課程が組み込まれていた医療系や工学系にとどまらず、国公私立大学のあらゆる部局が「人的資本」を産み出す場として位置づけられるようになった。2008年、政官財界の要求を背景としながら中教審が各大学に対して、「コミュニケーションスキル」「自己管理力」「チームワーク」など「学士力」と呼ばれる教育成果を要求するようになり、民主党政権下の2010年に、文部科学省が大学設置基準に「キャリア」に関する授業科目を追加したのは、その一例である。

「人的資本」育成の要求は、大学教育の方法や形式のコントロールとして表れるようになった。たとえば文科省は交付金や補助金受給の条件として、授業シラバスの形式を厳しくチェックしたり、アクティブラーニング(学生による能動的学習を促す授業形式)を要求したりするようになった。

また、2004年に国立大学が法人化されたのを機に、国公私立とわず日本のすべての大学は、文部科学省から委託を受けた日本高等教育評価機構の大学評価判定委員会から、7年に1回以上、大学機関別認証評価を受けることが義務づけられた。認証評価では、大学の財務状況や学修環境や研究環境だけでなく、教育の方法や形式が細かくチェックされ、適宜改善要求がおこなわれる(注1)。

(注1)また、認証評価の準備のために教職員がおこなう内部調査・書類作成業務は膨大であるため、これが本業であるはずの教育活動や研究活動を圧迫するという矛盾も生じた。

ただし、これまでのところ日本の国家当局は、大学の教育内容や教員人事に対しては、制度的次元では介入をひかえてきたといえる。前述のように「キャリア」に関する授業科目の設置は義務づけられたが、その科目数や授業内容、担当教員の経歴が問われることはなかった。認証評価による主たる評価対象も、あくまで教育や研究の方法形式の部分であり、教育内容・研究内容に踏み込むことには抑制的であった。

また、日本高等教育評価機構は独立機関であり、大学評価判定委員会の従来メンバーは過半数が研究者出身で占められてきた。認証評価における「ピア・レビューの精神」や「各大学の個性・特色への配慮」も、かなりの程度担保されてきた。また筆者は、大学評価制度は教員の教育・研究時間に膨大なしわ寄せをもたらした反面、大学教員の授業実践のあり方が20世紀に比べて格段に改善されるなど、いくらかの効用ももたらしたと考えている。

だが、現下の「人づくり革命」の方針は、国が大学の教育内容やカリキュラム、教員人事・理事人事について一律に審査基準を設け、大学への補助金支給や学生への学費補助の可否を選別するというものである。結論をやや先に述べると、この政策は、敗戦後70年間紆余曲折を経ながらも維持されてきた大学における「学問の自由」を根本的に掘り崩し、既存の大学を取り返しのつかないかたちで破壊していく、悪手のプロジェクトというほかない。

2.大学をネタに模索される「明文改憲」と「解釈改憲」

在任中に何としても日本国憲法改正の国民投票を実施したい安倍首相は、第9条の加項(第3項追加による自衛隊明文化)にとどまらず、第24条の追記(第1項中に「家族の助け合い」の義務を追記)、緊急事態条項の追加など、あらゆる角度からの改憲着手を模索し続けている。

安倍首相はこれに加えて、上述のような部分的「無償化」実施に連動して、義務教育を受ける権利・義務とそれに伴う義務教育の無償化を定めた日本国憲法第26条や、「公の支配に属しない教育」への公金支出の制限を定めた第89条を、改正できないかどうか模索し続けている。26条には高等教育の無償化について定めがなく、また89条に関しては、私立大学の授業料「無償化」が、私立学校振興助成法にもとづく補助金と同様、憲法上問題があるという指摘が想定されるからだという。

だが26条に関していえば、義務教育に該当しない高校の無償化はすでに、民主党政権下で憲法改正を経なくても実現している。89条に関しては、自民党が参照する私学助成違憲論はかならずしも憲法学者の多数意見ではない。つまり「大学無償化」は、現政権の改憲路線にとって「ネタ」化されてしまっているのである。

そして大学をめぐっては、こうした「明文改憲」路線と並行して、重大な「解釈改憲」が進行していることを忘れるわけにはいかない。その標的こそ、学問の自由(academic freedom)の保障を定めた第23条である。

日本国憲法23条は「学問の自由は、これを保障する」と、ただこれだけの条文なのだが、その法的・歴史的な含蓄は非常に深いものがある。その精神は、大学の教員は、教授会などでの議論にもとづいて自律的にカリキュラムを編成し、自らの自由な学術研究にもとづいて教育内容を自己決定し、学生との自由な相互作用のなかで教授活動を展開することを保障されている、というものである。

憲法23条は、「思想及び良心の自由」の不可侵を定めた第19条や「表現の自由」の保障を定めた第21条と、わざわざ別条で立てられている。23条の条文が、「アメリカの押し付け」などでは決してなく、19世紀半ばのプロイセン憲法や戦間期のワイマール憲法といったドイツ憲法典における学問の自由の保障をモデルとしていることは、憲法学上ほぼ定説となっている。

このような憲法典上の位置づけは、第一に日本の大学が近代ドイツの大学を重要なモデルとして形成されたこと、第二に明治憲法下における旧制大学や旧制高校が国家との緊張関係のなかで一定程度の学問の自由を獲得していたこと、だが第三にそれらの自由がアジア太平洋戦争期に激しい弾圧に遭ったこと、これらの歴史的経緯を反映している。それゆえ23条は、とくに高等教育機関における学問の自由を想定して作られた条文なのである。

また、憲法23条が学問の自由のコロラリー(重要な法的派生物)として大学の自治(university autonomy)を保障していることも、判例や憲法学説によって繰り返し確認されてきた。近年では無知による誤解や意図的な誤用もみられるので再確認しておくと、大学の自治とは大学を経営する学校法人の執行部(すなわち学長や理事会)の決定権だけを意味しているのではない。むしろ、研究内容や教育内容、そして研究者の採用・昇任人事にかかわる領域に関しては、教授会などの研究者集団が責任をもち、国家当局など大学の外部勢力に対してはもちろんのこと、大学や法人の執行部に対しても、一定の自律的な審議権と自己決定権を担保されるというものである。

この点に関して、大学教員の研究と教育の地位は、あらゆる業務が上司の指揮命令系統下に置かれる一般企業従業員や官公庁職員、そして大学の事務職員とも異なっている。さらには、学習指導要領によって教育内容やカリキュラムが統制されている小中高の教諭の立場とも、相当程度異なっている。

さらに、こうした学問の自由と大学の自治は、大学生にとっても重要な意味を持っている。大学生は、小中高の児童・生徒と異なって、履修科目や学習内容をある程度自由に選択することができ、また教員の指導下である程度自由に研究テーマを選ぶことを保障されたからである。

ただし20世紀半ばまでは、日本国憲法が保障する学問の自由や大学の自治は、高等教育機関の教員とそこに進学できた一部の階層のみが享受できる一種の「特権」であったといわねばならない。1950年代前半の初期新制大学・短期大学の合計進学率は、いまだ10%程度にとどまっていたからである。また冷戦体制下において、東側諸国はもちろん西側の発展途上国の大半は独裁政権や権威主義的政権によって支配されており、学問の自由や大学の自治は脆弱であった。20世紀末まで、日本を含む西側先進諸国の高等教育機関は、世界のなかで「特権的」位置にあったといえるだろう。

だが、日本における大学・短大への合計進学率は、20世紀末にかけて、50%前後にまで上昇した。その結果、日本における学問の自由は、一部階層の「特権」から、より多くの市民に開かれた権利となってきたのである。

ところが、いま「人づくり革命」の名において企図されているのは、大学の外部勢力とくに経済団体などの意向を受けた国家当局が、すべての国公私立大学における教育内容や研究内容の自由、そして大学教員の人事にかかわる自治に対して、直接的な管理・統制を加えていくという、新たなプロジェクトである。このような直接的介入は、これまでの「大学改革」と比べてもステージが異なる、憲法23条体制の破壊ともいいうる事態である(注2)。

(注2)憲法23条体制の破壊がもたらす事態については、次を参照されたい。

石原俊氏インタビュー「「冷戦経験」を考え抜く――大学は自由と自治の「最後の砦」になれるのか 『群島と大学』(共和国)をめぐって」(『図書新聞』2017年6月17日)

3.教育研究内容・部局編成という「本丸」への国家介入

2012年12月に民主党から政権を奪還した第2次安倍政権は、アベノミクスと呼ばれる金融緩和政策、特定秘密保護法や共謀罪の制定、新安保法制の導入、憲法改正への志向性、国内右翼勢力との蜜月など、さまざまな側面から注目を集めてきた。だが安倍政権が、従来の内閣が比較的無関心であった高等教育政策を前面に打ち出す、やや異例の政権であることは、市民の間でそれほど広く共有されているとはいいがたい。

まず安倍首相は、学習塾業界を支持基盤のひとつとする下村博文文科大臣(当時)と連携しながら、首相直属の諮問機関である「教育再生実行会議」や経済産業省系の「産業競争力会議」(2016年9月以後は「未来投資会議」に改名)などに、高等教育政策の主導権を与えた。各学術分野の研究者代表からなる日本学術会議の意向は以前にも増して軽視されるようになり、文科大臣の諮問機関である中央教育審議会、そして文科省自体さえも、官邸や経産省の下請け機関と見紛うほどまでに発言力を奪われた。

安倍政権がまず手をつけたのは、教授会の地位と権限を定めた学校教育法第93条の改正であった。2014年6月に採決され2015年4月に施行された新しい学校教育法は、国公私立大学のすべての教授会から教育・研究・人事に関する事項を審議・決定する法的根拠を剥奪し、すべてを学長のトップダウンで決定できると定めた。

敗戦後、日本の過半の大学では、憲法23条と関連法規・判例にもとづいて、研究や教育の内容、カリキュラム、教員の採用や昇任はもちろんのこと、学部長など部局長の選出、部局や専攻の組織改編といった事項が、教授会と教育研究評議会での慎重な審議を経て決定されていた。新学校教育法は、研究内容・教育内容・カリキュラムといった大学の「本丸」に及ぶ全事項を、学長(国立大学や大規模な公私立大学の場合)あるいは学長の任免権を掌握している理事長・理事会(小規模な公私立大学の場合)の一存で、変更可能にしてしまったのである。

筆者が驚いたのは、文科省が新学校教育法施行に先立ち、各大学の担当者を個別に虎ノ門に呼び出して、教授会や教員集団の意向が学長の決定を拘束すると解釈できるいかなる内部規則をも「違法」であるので削除するよう、詳細なチェックを実施したことである。新法が憲法23条に抵触するという憲法学者からの指摘があったにもかかわらず、文科省が異例の執拗な介入を行ったことは、教育内容やカリキュラムに至るまで大学教員集団の自己決定権を制限することに関する、官邸・文科相サイドの「本気度」を示していよう(注3)。

(注3)本稿では詳しくふれることができなかったが、学校教育法93条改正をはじめとする日本の大学におけるガバナンスのトップダウン化は、執行部(学長や理事長・理事会)の独裁化に対する歯止めの喪失、執行部の方針に批判的な教職員に対する不当懲戒・過重懲戒の横行、監督官庁や政権与党・財界団体・有力企業から大学への天下りの横行など、実にさまざまな弊害を産み続けている。こうした側面については、次を参照されたい。

石原 俊「日本の大学をぶっ壊した、政官財主導の「悪しきガバナンス改革」:なんのための大学か【後編】」『現代ビジネス』(講談社:webマガジン、2017年5月12日)

想定通り、その後安倍内閣は、教育内容・カリキュラムや専攻・部局の編成といった大学の「本丸」に対して、直接的な介入や改変指示を矢継ぎ早に打ち出していく。

2015年3月、下村文科大臣は全国の国立大学の教育関連学部に設置されていた、教員免許取得を前提としないコースを全廃するよう指示した。俗称「ゼロ免」と呼ばれるこうしたコースは、人文社会科学系や基礎科学系のまとまった部局をもたない国立大学に1980年代から新設され、当該県において文学部・法学部・理学部などの代替機能を果たしてきた。まさに非大都市圏の若者の進学ニーズに即した公共性をもっていたといえるが、これが最初に廃止の標的となる。

これに続いたのは、2015年6月の下村文科大臣名による人文社会科学系・教員養成系の「廃止」通知であった。この通知は、「教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院」について、「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努める」よう求めており、大学教職員のみならず、学生やその家族、そしてマスコミ関係者や一般市民にも衝撃を与えた。この通知に対しては財界の一部も反対に回るなどしたため、文科省高等教育局は火消しと尻ぬぐいに追われた。ただし、この通知が内閣・文科大臣レベルではいまだ正式に「撤回」されていないことを、わたしたちは銘記する必要があるだろう(注4)。

(注4)こうした経緯については、次を参照されたい。

石原 俊「政官財の愚かな圧力で、大学は想像以上にヤバいことになっている――なんのための大学か【前編】」『現代ビジネス』(講談社:webマガジン、2017年5月11日)

4.専門職大学の新設と既存大学への再編圧力

こうした大学のアカデミック分野のリストラと並行して、自公政権は2017年5月に学校教育法を再改正し、高等教育機関に専門職大学・専門職短期大学と呼ばれるカテゴリーを新設した。専門職大学・短大の目的は、「IT」「観光」「農業」など、特定の職業に直結する高度な専門技能を身につけることを一義としつつ、技術革新や労働市場の変化にも耐えられる基礎力や教養も兼ね備えた人材を育てることとされている。理念自体は立派だが、その設置の経緯や制度設計は、以下にみるように非常に多くの問題をはらんでいるといわざるをえない。

2014 年に安倍首相は OECD 閣僚理事会で、次のように演説した。「学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育を行う。そうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考えています」。そして首相の指示を受けて、文科省の「実践的な職業教育を行なう新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」と中教審において、職業教育を高等教育機関にどのように取り入れるのかについて検討が進められてきた。

そのプロセスで「有識者会議」の委員の一部が、人文社会科学系の部局や教養教育は一部の大学を除いて全廃して教員はクビにしてしまえとか、日本の大学の大部分を職業訓練校に改編せよとか、非常に暴力的な発言をおこなうなど、議論は右往左往した。結局、経済団体関係者などの意見もふまえて、さしあたり専門職大学・短大を従来の大学とは別枠で新設するという方向にまとまった。専門職大学・短大は、このように非常に拙速な経緯でできあがってきたスキームである。

もし専門職大学・短大が、中長期的な技術革新や産業構造の変化にもある程度耐えられる職業訓練カリキュラムを提供し、かなり高度で幅広い教養教育も併せておこなう機関になるのであれば、高校生らにとって進学の選択肢は広がるだろう。だが専門職大学・短大は、国家当局とくに経産省が中長期的な資本蓄積構造やイノベーションを予測できるという、無理筋の前提に立って構想されている。そして現状で決まっている運営方針は、専任教員の4割程度を実務家教員とすること、カリキュラムの3~4割を企業などでのインターン(実習)にすること、経済団体や職能団体と協力して教育を運営することなどである。

これでは専門職大学・短大は、学生から授業料を徴収しながら企業内教育を体よく大学教育に「アウトソース」する場として利用される疑いを免れないだろう。さらには、単位認定権が業界団体や実習先に事実上掌握されるため、学生がインターン先で長時間の単純無償労働に従事させられるのではないかという疑念も払拭できない。同じ理由で、実習先でのパワハラ対策やセクハラ対策についても重大な懸念が存在する。

また、上記のような設置経緯をふりかえると、専門職大学・短大では人文社会科学系や基礎科学系を含めた教養教育は、非常に軽視されるか、ほとんど実施されないのではないかという危惧がもたれる。

そもそもこの国には、職業訓練課程を中心とした大学と別枠の高等教育機関として、半世紀以上の実績をもつ高等専門学校(高専)がある。高専では、高校の課程に相当する1~3年次だけでなく、大学の学部前期課程に相当する4・5年次においても、選択制ではあるが、人文社会科学系を含めた教養教育カリキュラムが整備されている。高専の卒業生は、さらに大学の学部後期課程に相当する2年間の「専攻科」に進学した場合、修了時に大学評価・学位授与機構に所定の卒業論文を提出し審査を受けることで、ようやく学士号を取得することができる。

専門職大学・短大に関していいかげんな設置審査が行われ、教員・教育・カリキュラムの質が高専に比べて見劣りするようなことがあれば、高専の教職員や学生、卒業生らも黙ってはいないだろう。専門職大学・短大については、2019年の開設を何年か延期してでも、まずは高専の果たしてきた実績と限界をじゅうぶん検証することから始めるべきはないだろうか。

ところが現在進められているのは、まったく逆に、高専におけるカリキュラムや教育内容のリストラである。全国の高専を運営する独立行政法人・国立高等専門学校機構は近年、各国立大学法人と同様、国からの交付金の削減で疲弊させられてきている。その結果、少なからぬ高専が、教養教育の科目数や担当教員数の削減に追い込まれている。

そしていま、国家当局が主導するかたちで私立大学・短大のリストラが始まろうとしている。2017年4月、経済財政諮問会議が安倍首相の指示を受けて、次のような提言を打ち出した。第一に、経営状態が悪化した小規模私立大学や短大を、閉学させるか国立大学法人などに吸収合併させるため、リストラのスキームを整備すべきだとした。第二に、同会議の財界出身メンバーの意向を汲んで、私学助成補助金の支給について、教職員数や学生数に応じた従来の算出基準を改め、就職率などを指標とする「大胆な傾斜配分」へと転換すべきだと提言した。

これを受けて文科省は2018年1月、私立大学・短大の財務状況に応じて私学助成を大幅減額するという方針を発表している。背景に政府と財務省の圧力があることはいうまでもない。従来から入学者が定員割れの場合に一定の私学助成カットが実施されてきたが、18年度以後はこれに加え、私立大学・短大を経営する学校法人が5年連続で経営赤字となった場合も私学助成が大幅減額されることになった。市場の論理だけでは経営が苦しい大学・短大を狙い撃ちにしてシバキあげるという、文字通りの構造調整政策にほかならない。

たしかに日本国内には、高等教育進学希望者数に対して大学・短大の入学定員が過剰な地域がないわけではない。だが多くの地方都市の私立大学・短大には、さまざまな事情で地元を離れられない若者の進学ニーズに応え、地域の経済や文化を支えてきた公共性がある。こうした構造調整政策は、補助金の趣旨に照らしても本末転倒である。

筆者は、地域における進学希望者の動向やニーズに応じて、経営状態が苦しい大学・短大が、教職員・在学生・卒業生や地域住民の意向もふまえつつ、内発的に部局や教育内容の再編に着手する選択肢を否定しているのではない。だが現状では、学校法人の理事会が教職員や在学生・卒業生の意見もろくに聞かず、トップダウンで既存の大学を専門職大学・短大に再編することや、国家当局がこれを促すような可能性はじゅうぶんに懸念される。今後、当局が既存の大学・短大に対して、補助金カットをちらつかせながら専門職大学・短大への再編を促す事例が生じないか、ウォッチしていく必要があるだろう。

さらに懸念されるのは、将来的に国公私立大学すべての人文社会科学系学部や基礎科学系学部において、カリキュラムの何割かに職業訓練実習を取り入れるよう、政府が強制するおそれである。2017年5月に筆者がこの問題で東京新聞にコメントを寄せた際、文科省は東京新聞からの問合せに対して、専門職大学・短大の新設は既存の大学・短大やその部局の再編を促すものではないと回答した(注5)。しかし、その前月の2017年4月、安倍首相は日本経団連の創設70周年記念パーティーにおいて、地方国立大学のアカデミック課程を削減して「IT」「観光」などの職業訓練課程に編成替えするという趣旨の発言をおこなっている。

(注5)こちら特報部「大学が「就職予備校」化 単位の3~4割実習 「専門職大学」構想――改正学校教区法案 企業の都合優先?」(『東京新聞』2017年5月23日朝刊)

日本の各大学・短大では21世紀に入って、就職支援・キャリア支援部門がずいぶん拡充された。さらに、官公庁・営利企業・マスコミ出身などいわゆる実務家教員の割合も、多くの大学で各段に高まった。筆者には、そうした傾向を全体として称賛したり批判したりするつもりはない。

だが現在でも、実務家教員数が少なくアカデミシャンの教員の割合が非常に高い大学は、何割か存在する。学問の自由や大学の自治の意義のひとつは、大学の個性や校風を外部勢力の過剰な干渉から守ることにあった。各大学の個性や校風さえ尊重せず、既存の専門科目や教養科目を削減して職業訓練科目に一律に振り替えさせるような政策は、すでに先進国として半世紀の歴史をもつ国の高等教育政策として、悪手としかいいようがない。

5.国家主義化する「大学改革」と学問の自由の意義

以上のように、政府が大学に支給する定常的経費のカット、競争的資金に紐づけた教育・研究の形式や方法のコントロールといった、21世紀に入ってから「大学改革」の名において進んできた事態は、第2次安倍政権の専売特許ではない。それは、財政緊縮派が主導権をとった民主党政権後期を含め、政権再交代以前から政官財界の少なくともある部分が周到に準備してきたトレンドである。いっぽう、第2次安倍政権成立後の高等教育政策は、国立大学の「ゼロ免」課程を全廃させたり、国立大学の人文社会科学系部局の「廃止」や「分野転換」を促したり、さらには国家当局が全大学の教育内容や教員人事を審査する体制の整備を目指しており、従来とは異なる次元に至っている。

たとえば、民主党・野田政権期の2012年から準備され安倍政権期の2014年3月に確定した国立大学の「ミッションの再定義」では、人文科学・社会科学分野について、「既存組織における入学並びに進学・就職状況や長期的に減少する傾向にある18歳人口動態も踏まえつつ、全学的な機能強化の観点から、定員規模・組織の在り方の見直しを積極的に推進」するとされていたが、人文社会科学系部局の「組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換」までは明記されていなかった。

つまり、政府・財務省とその意向を受けた文科省は、国立大学のリストラや再編をかなり以前から計画していたわけだが、第2次安倍政権以前は、かならずしも人文社会科学系を主たる標的としていなかったのである。ましてや、国家当局からの高い独立性が保障されてきた公立大学や私立大学の教育内容・カリキュラムや部局・専攻編成に対して、政府主導で本格的な介入をおこなうような政策は、想定されていなかった。

「人づくり革命」の名において進められている高等教育政策の背景には、たとえば経産省が予測する「第四次産業革命」(インターネット・ロボット・AIなどを組み合わせた新たな産業領域の台頭)といった世界観に表れているように、国家当局が技術革新や産業構造の変化について予測を立てることが可能であり、大学の教育・研究はこの予測に奉仕すべきである、という強固なイデオロギーが存在している。

こうしたイデオロギーのもとで、政府が経済団体などの要請を受けて、大学の研究内容・教育内容やカリキュラムの改変を直接指示できる体制を整備すること、「人づくり革命」とはそうしたプロジェクトなのである。その結果、第2次安倍政権下の日本の高等教育政策は、先進諸国の「大学改革」の事例のなかでも、――韓国などとならんで――もっとも国家主義的な大学管理体制となりつつある。

そして、この国家主義化した「大学改革」のイデオロギーがもっとも敵視するものこそ、敗戦後70年間まがりなりにも機能してきた、学問の自由と大学の自治を支える憲法23条体制なのである。

誤解なきようにことわっておくと、筆者は低所得者の高等教育の学費無償化には原則として賛成である。また筆者は、各大学が内発的な議論の結果として職業訓練コースを増設することを、けっして否定するものではない。そして筆者は、大学における学問は、できるかぎり「社会の役に立つ」ほうがよいとも考えている。

しかしながら、国家当局がごく部分的な授業料「無償化」を人質にとって大学の教育内容や教員人事に介入したり、交付金・補助金を盾に既存のアカデミック課程に対して職業訓練課程への再編を求めたり、大学の社会的有用性を国家当局のイノベーション予測や経済予測に基づく産業政策や労働力育成に還元するようなやり方が、いとも簡単に正当化されてよいのだろうか。

学問の自由は、産業政策や世論の「ニーズ」といった範疇よりもはるかに広義の学術の社会的有用性を担保するために、研究者の長い闘争と挫折のなかで獲得されてきた価値なのではないだろうか。たとえば、政府の産業政策にとって都合の悪いデータの分析をおこない、これを教授すること、あるいはマジョリティ社会のなかで不可視化されてきたマイノリティをめぐる問題を調査・分析し、これを教授すること、このような意味で「社会の役に立つ」ための学問の自由とそれを支える大学の自治こそ、憲法23条体制がとくに擁護すべきとみなす対象にほかならない。

また、日本はOECD先進諸国のなかで、教育への財政支出割合が最低水準である。憲法問題を横に措くとしても、このような恥ずべき現状のなかで、高等教育に対する若干の歳出増と引き換えに、政府の大学介入が正当化される根拠は非常に薄いといわねばならない。

そして学問の自由は、大学生の学びという面からも重要な意味をもってきている。

日本ではいま、大学進学率が50%を超えようとしている。わたしたちは高等教育の「ユニバーサル化」の進行という現実を、けっして否認すべきではない。もはや日本を含む先進諸国においては、20世紀半ばまでのように、高等教育への進学は一部エリートの「特権」ではなく、それゆえ学問の自由もかつてのような「特権」に立脚した価値ではありえない。だが、こうした「ユニバーサル化」の時代であるからこそ、わたしたちは学問の自由という固有の価値を捨て去るべきではないのである。

20世紀の日本の大学を卒業して政官財各界のエリートになった人たちには想像がつきにくいかもしれないが、現在の日本の大学生たちは、20世紀の大学生の何割かが享受しえたモラトリアム(労働者予備軍であることからの自由)をほとんど失ってしまっている。かれらは文科省の方針によって授業の出席管理が厳しくなるなかで、親の経済力低下のために20世紀の学生よりはるかに長時間のアルバイトに従事し、低学年から企業インターンシップに参加することを余儀なくされ、親や採用内定企業からの資格取得圧力にもさらされている。

このように疲弊する学生生活のなかで、かれらの多くは、労働者予備軍であることから距離をとって、自由に学習し、思考し、自由な活動を展開する可能性を切り縮められてしまっている。そしてかれらは卒業後、グローバリズムと国家主義の嵐が吹き荒れる世界のなかに、否応なく投げ込まれていく。すでにそこは、近代の人類がさしあたり到達した市民社会の制度であるリベラル・デモクラシー(自由―民主主義)さえ、危機にさらされているような世界である。

そのような学生たちに、大学と大学教員は何を提供でき、また何をなすべきだろうか。それはおそらく、グローバリズムと国家主義が席巻する世界のなかで、自らの歴史的・文化的・空間的・技術的な前提を、「労働者」「消費者」や「国民」「社員」といった与えられた役割から一定程度自由に捉え直し、バックグラウンドが異なる人びとと民主主義的に共存していけるような、広い意味での批判的な知識や思考力・想像力を身につけるための手助けである。そうした広義の自由で民主主義的な知性や感性を保障するものとして、学問の自由と大学の自治は、大学生たちにとっても重要な意味をもっているのである。

付記

本稿は主として2015年以降の高等教育政策の展開に焦点をあてており、日本における「大学改革」の歴史的文脈や、学問の自由や大学の自治の歴史性・空間性について、あまり詳しく論及できなかった。また、大学におけるヘイトスピーチやヘイトクライムと自由・自治の関係も、近年焦点となった重要な問題である。こうした論点に関しては、次の拙著をぜひご一読いただきたい。

石原俊『群島と大学――冷戦ガラパゴスを超えて』(共和国、2017年)

9784907986346_600

プロフィール

石原俊社会学

明治学院大学社会学部教授。1974年、京都市生まれ。京都大学大学院文学研究科(社会学専修)博士後期課程修了。博士(文学)。千葉大学大学院人文社会科学研究科助教、明治学院大学社会学部准教授、カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員研究員などを経て、現職。
著書(単著)に、『近代日本と小笠原諸島――移動民の島々と帝国』(平凡社、2007年:第7回日本社会学会奨励賞受賞)、『殺すこと/殺されることへの感度――2009年からみる日本社会のゆくえ』(東信堂、2010年)、『<群島>の歴史社会学――小笠原諸島・硫黄島、日本・アメリカ、そして太平洋世界』(弘文堂、2013年)、『群島と大学――冷戦ガラパゴスを超えて』(共和国、2017年)。著書(編著)に、『戦争社会学の構想――制度・体験・メディア』(福間良明・野上 元・蘭 信三との共編:勉誠出版、2013年)。

この執筆者の記事