2013.09.06

固定化される言葉に挑む取材とは

開沼博×寺島英弥×水島宏明

社会 #東日本大震災#震災復興#ジャーナリストキャンプ

震災から2年がたち、関心の低下とともに「フクシマ」をはじめとした被災地のイメージが固定化、単純化されつつあるいま、ジャーナリストになにができるのか。『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』著者の開沼博氏、河北新報編集委員・寺島英弥氏、ジャーナリストで法政大学社会学部教授の水島宏明氏が語り合った。(構成/山本菜々子)

「見えない現場」

水島 日本ジャーナリスト教育センターでは、今年の5月にいわき市で「ジャーナリストキャンプ2013」を行いました。「震災後の福島に生きる」をテーマに、全国から集まった記者15名と5名のデスクが2泊3日で取材をし、その原稿はダイヤモンドオンラインにて現在発表しております(*1)。今回は、デスクを務めたお二人に、今回のキャンプの成果報告も踏まえ、ジャーナリストとしてなにができるのかをお話頂ければとおもいます。まず、開沼さんはどのようなことに気をつけましたか。

開沼 現場に来る前に持っていた先入観をいかに乗り越えるか、意識してもらうようにしました。そのためには手持ちの材料から仮説をたて、それを突き崩して何度も作り変えながら現場を回る必要があります。キャンプは、記者3名にデスク1名がつく形でチームを作り、基本的にはそのチームごとに議論を進め事前準備から記事完成までのやり取りをしました。私はデスクだったわけですが、デスクを中心にした事前準備は4月中にはじまっていて、各チームごとに実際に集まったり、facebookで取材対象を探したりしていました。

私のチームでは、記者の方に「研究計画書」を出してもらいました。研究者が研究をはじめる前に作る計画書のフォーマットにそって取材案を書いてもらったんです。どういうことかって言うと、研究って「問いを立て、仮説検証作業をすること」なんです。研究計画書を作ると仮説検証のための材料が揃う。その材料をしっかり揃えてから現場に臨んでもらおうと思っていました。やはり、メディアが震災を描く際には、なかなか問いを洗練していない報道が多いと感じていたからです。

たとえば、「被災者はパチンコばっかりしている」「被災者は避難先の地域の人ともめてばかりいる」っていうような、時にメディアが好んでセンセーショナルに描きたてるところの被災地イメージにとらわれてしまうと、現場に来た所で「パチンコをする被災者」「もめる被災者」ばかりに目がいってそれで終わってしまいます。でも、そんなはじめから答えありきで書いた記事なんて、別に現場来なくたって書けるわけです。実態はそれだけではない。そういう固定化したイメージを超えて、なにが被災地で起こっているのかということを知ってもらうために、事前に何度もメールでやり取りをしていました。

水島 寺島さんは普段仙台の河北新報で取材をされていますよね。自分のテリトリーとは違ういわき市で取材をしてみるのはどのような感じでしたか。なにか、気をつけた事はありますか。

寺島 私は事前のやり取りは行いませんでした。被災地を歩いて、そこで直に感じたテーマを書いて欲しいと思ったからです。いわきというのは、津波と原発事故の被災地でありますが、それを忘れられたような扱いをされている場所です。福島県双葉郡など近隣の被災地からの避難者を受け入れ、「仮の町」をつくろうという話も持ち上がっています。ある意味では「見えない被災地」といってもいいでしょう。取材場所がいわきであることで、今まで発信されて来たものとは違う震災報道ができるのではという期待がありました。

水島 たしかに、いわき発のニュースと言うのは聞くことが少ないですよね。私も日本テレビの「NNNドキュメント」で、福島や宮城といった被災地に入りました。震災直後は特に、津波被害が激しいところばかりがニュースになったという印象があります。津波の被害がなくとも、内陸では潰滅的に家が潰されてしまった地域が沢山あるのですが、そのような地域のことはほとんど報じられていないと、地元の人も言っていました。

開沼 いくつか被災地での地域間報道格差についての研究も出てきていますが、やはり、いわきというのは人口や被害、原発からの距離などの多さ・大きさに対して総体的に報道が少ないんです。福島県のテレビ局や新聞の中枢的な機能が福島市と郡山市に寄っているのも一因でしょう。福島市からいわき市まで車で2時間かかりますので、いわきよりも、飯舘村や南相馬市といった県北の近場の方が報道されがちです。それと呼応するように、震災直後は南相馬の櫻井市長がYoutubeで情報発信して世界的に話題になったり、「飯舘村の悲劇」が東京のメディアではよく報じられるようになったりもしました。一方で、福島市から離れた、県南のいわき市や楢葉町、広野町は報道格差の劣位におかれていたという問題意識がありました。

固定化したイメージとしては、「福島からは人が大量に出て行って困っている」という話もありますが、それは必ずしも福島全体に一般化できる問題ではありません。もちろん、線量が高く子どもを連れて県外避難する人達が多いなど、人口流出問題も非常に重要な問題ですが、いわき市では避難者が多く移住し、工事関係者も訪れているため、人口が増えている。震災前に30万人ほどだったところに、3万人弱人が流入しているという話もあります。1割増というのは数字だけみたらたいしたことないのかもしれませんが、市の行政や医療機関などには大きな影響が出ていて機能不全に陥りそうな面もある。

このように、同じ福島の中でも人口が増えたり減ったりしているのですが、外からみると「放射能に恐れおののいた人達が福島から出て行っている」といった問題にされてしまいます。重要なのは、増えていることも減っていることも、両方ある。単純化せずに、でも伝わるようにその両方を伝えることです。

避難の話自体をとっても「放射線を恐れて、お母さんと子どもが避難している」というわかりやすいイメージで捉えられがちな問題ですが、避難者には男性も、単身の女性もいます。あるいは、一度避難したけどさまざまな要因で戻ってきた人も大勢います。いわきで取材をすることで問題の多様性を理解し、議論の幅を広げることができるのではとおもいました。

水島 実際現場に行ってみると、東京との報道のギャップに驚かされます。去年の秋に、除染がどのように進んでいるのか、福島で取材しました。東京での報道では、夏休みに校庭の土をひっくり返す場面が流れ、高圧洗浄機での除染が効果的に進んでいるような印象を受けました。しかし、実際に保育園などで機器を使い線量を計ってみると、除染前と数値の変化はあまりなく、改善されていないことがよくわかりました。

このように東京では伝わってこない実態というのがあります。現場に行き、取材をすればさまざまな問題がわかるので、多分地元のメディアでは報道されているとおもうんです。しかし、東京のメディアではほとんど触れられていない。そのギャップに私は驚きました。東京と地元とのギャップをお二人は感じていましたか?

開沼 そうですね。東京でニュースをみてみると、除染作業を行いました、だとか、補償が始まりました、という話が報道されています。それを聞くと、福島の状況は進んでいるのではないかとおもうのも仕方ありません。つまり、「もう福島は大丈夫」と思わせる情報がある。

一方で、魚から何百ベクレルの値が出ただとか、除染業者が手抜きをしている、さらにソーシャルメディアでは「実は福島では人が死にまくっている」「本当は今も放射線量が上がり続けている」などという情報も流れてきます。そういう情報を元に「フクシマはもう住めない」「どんどん人が流出している」といった、固定化された「もう福島は危険過ぎる」像が出来上がってしまう面もあります。

しかし、実際の福島は「すごく安全」でもなく「すごく危険」でもありません。実際に住んでいる人の実感は、そういう両極端のイメージとは別なところにある。もう十分に安全で復興が進んでいる面もあるし、まだ危険で復興が遅れている面もある。そういう色々なものが入り混じった、安全・危険や復興が進んでいる・遅れているという二項対立では語りきれないような「第三の現実」がある。現実はわかりにくく、一言で言えるものではない。でも、このわかりにくい現実って、外には伝わりにくいんです。ジャーナリストというのはその現実を拾い上げていく必要があるのかとおもっています。

水島 現在のジャーナリズムでは、最初から現場のイメージを作ってから、取材をすることが多いです。それがステレオタイプな報道につながっているのだとおもいます。なかなか、現地の人がどうおもっているのか、背景まで丁寧に取材していく感じにはなりません。東京目線と現地の生活には差がありますよね。今回は若手のジャーナリストを教育するという目的でしたが、寺島さんはベテランの記者として彼らにどのような働きかけをしましたか。

寺島 今は、誰でも自らのメディアを手にして表現者・発信者になれる時です。そこでどんな新しいジャーナリズムが可能か、ベテランも若い世代も共に模索する時でもあります。

実は私、こうしたキャンプに参加するのは2回目なんです。1回目は「スイッチオン・プロジェクト」といって、さまざまなメディアの現場の有志と大学生が一緒に活動し、アポの取り方や取材方法、誰に向けて書くのか?といった基本的なことも含めてやりました。今回は、実際に報道機関で働かれている人が多いので、このようにやれば、このようなストーリーで書けるといった前提を共有できていました。

今回は特に、いわき市でなにができるのかといったところが重要でした。先ほどの話にもあがったように、いわきというのは、被災地でありながら被災地でないような扱いを受けている場所です。

ある参加者は、いわきの海の神を祀るみこしの若い担ぎ手が震災でいなくなり、高齢者たちがふんばってコミュニティの復活に動き回っている状況を取材しました。また、震災後のいわきで現地取材をした縁から、自分もなにか役に立ちたいと、実際に地元の港で釣れた魚を持ち帰り、一人の消費者として食べてみるような体験取材をした参加者もいました。

(*1)http://diamond.jp/category/s-fukushimajournalist

「寄り添う」ってなんだろう

水島氏
水島氏

水島 お二人が被災地を取材する上で気をつけていたことなどはありますか。

開沼 良い記事を書くためには、「自分の中に自然と生まれている仮説を何回崩せるのか」という意識が必要だとおもいます。これは学問でも言われ続けていることです。そして、仮説を検証することも重要ですが、それ以前に「福島はこうだ」という先入観やステレオタイプ、「わからないけれどここまでにしておこう」といった妥協も崩していくことが大切だとおもいますね。

たとえば、昨年までに、福島の漁業経営体はどのくらい営業を再開しているとおもいますか。水島さんはどうおもわれます?

水島 ほとんど再開していないのかとおもいますね。

開沼 もう福島では漁業なんか一切、永遠に再開できないんだという前提で語る方もいます。漁師もみんな海に出れず転職したり賠償で暮らしているんではないか、と。でも、実は、5%ほどは漁を再開しています。これは2012年度の話で、今後はさらに増えていく。近海の魚は現在とることができませんが、一方でサンマやカツオといったいわきから遠い漁場のもの、タコや貝などセシウムを吸収しない一部の漁は再開しており、地元のスーパーなどにならんでいます。

一方で、同じ福島の海の話には水産加工業もあります。こちらは、7割が再開しています。震災前のいわきでは、板かまぼこの生産量が日本一でした。実はいわきの海の仕事という意味では、こちらの規模の大きさも相当なものであり、そちらは急速に復旧してきている。宮城・岩手でも8割弱ですので殆ど変わりません。例えばカマボコだと、原料となるスリ身はロシアなどでとったものを使うわけですから、工場が残ってさえいれば、震災前同様に操業することができます。そのため、7割という高い再開率なんです。

このように、基本的な数値や実態を抑えずに、大雑把な「福島は放射線被害でもうダメだ」というイメージをもとに風評被害が云々だとか復興が遅れているといっても仕方がないわけです。今、この話を聞いて、「もう福島の近海の魚の漁も再開してたのか」「7割か」と驚いた人は、どこかに自分の中で固定化した仮説を持っていながら被災地をみていたのかもしれません。もし、そういう眼差しのもとで被災地にいったら、「風評被害が起こっていて、みんな怯え苦しんでいて、立ち直っていません」という記事が書けてしまうんでしょうが、それは本質ではないことを、現場にいったら理解できるとおもいます。

水島 寺島さんはどうでしょうか。

寺島 そうですね。震災後、現場に行ってみんなが感じたのは無力感だったと思うんです。目の前の現実に圧倒されて、そこで出会った被災者たちにどんな声を掛けたらいいのか、なにを問えばいいのか、ここで自分はなにができるのか、一人の人間に戻って考えざるを得なかった。

でも、こちらはプロの記者ですから、記事を書かなくてはいけない。しかし、「あなたの体験や悲しみについて5分で語ってください」なんて聞くことはできない。それまでの取材経験にない現場だったから。

2時間も3時間も話を聞き、ノートがいっぱいになっていく。ノートに書き留めたものは一人一人の事実であり、伝えるべき声であり、記録であり、歴史になっていく。そのすべてが、読者や被災地の外の人々と共有されるべきものなのです。しかし、新聞の記事は長くても1200文字。そのために、たくさんの事実を捨てなければならないことに矛盾を感じました。それゆえ、紙面の記事だけで伝えきれないこと、ノートに書かれたことを余さず、ブログ(連載『余震の中で新聞を作る』。現在までに98回)につづるようになりました。

取材は一本の記事を書いて終わるのでなく、そこからが始まりです。縁ができた先に何度も通い続けることで、初めて信頼関係とつながりが生まれ、肉声が自然に語られるようになり、その人と周りの変化がわかるようになる。その小さな変化が続報になり、続報を積み重ねることが、被災地が抱える問題、人々の現実の歩みをありのままに伝えることができる。それが、地元の地方紙記者が日々やっている仕事です。

今年の3月15日、東京であったNHK放送文化研究所の発表会に出席しました。そこで「NHKの記者・ディレクター・カメラマン217名に聞いた 被災地に入ってあなたの言葉はどう変わったか」というアンケートの結果が発表され、私はコメンテーターの一人でした。

やはり、被災地に入ったNHKの取材者たちも、同じように無力感にさいなまれ、被災者を前に「私はNHKです。お話を聞かせてください。」とは当然のように言えなくなった。「そうですね。大変ですね。」という言葉から始まり、一緒に泣いた人もいた。相手がしゃべるまで2時間待って話を聞いた、という人もいた。「ガレキ」という名詞も使えなくなった、と。

「ガレキ」と簡単に言いますが、津波が来る前はガレキではなく、人間の営み、歴史そのものの家々だった。現場に立ってみれば、柱や屋根があったり、人形があったり、三輪車やランドセルがあったり、手鏡や化粧品があったり、結婚から赤ちゃんの誕生など家族のアルバムがあったりすることがわかります。遠く離れた東京のデスクからはガレキに見えるのかもしれませんが、取材者が被災者と等身大になり、彼らが語る言葉や感情に触れた時、それは「ガレキ」ではなくなるのです。そこから、取材者とデスクの間の葛藤、あるいは被災地と外の世界とのギャップも生まれてきたはずです。

よく「被災者に寄り添う」という言葉が聞かれます。すごく口当たりのいい言葉です。しかし、介護の現場を想像してみてください。「もう時間が来たので、帰ります」と、介護を受けている人をほおっておいたら、生命の危機にさらされてしまうかもしれませんよね。「被災者に寄り添う」という時、それは現場から逃げない、そこにとどまって同じ時を生きる、という覚悟を問われるのです。

貼られたレッテル

開沼氏
開沼氏

水島 今、寺島さんがおっしゃった事って震災に限らず、記者と言う仕事にある限り大切なことですよね。いろんな人達と関わり取材しながら、しかし、ニュースでは1000文字や1分半のニュースにしなければいけない。その責任を私たちは負えるのかと。まぁ、負うことはできないのですが、負うための努力はしていくわけです。自分が最終的に選びぬいたものを提供する。つらい仕事ですが、それをやり続けることが記者の役割だと感じます。

特に、今回の震災のような大きな悲劇であると、それが顕著に出るとおもいます。開沼さんがレッテルや先入観を壊す必要性をおっしゃっていましたが、現場に行ってディティールをみればみるほど自分の先入観が壊れて行き、取材すればするほど、自分の思い込みが裏切られる。それがジャーナリストとして成長していくプロセスであるとおもいます。

しかし、コストパフォーマンス重視で成果主義のマスコミ経営の中では一泊二日でいわき市に行って5分のレポートを作れということが頻繁に行われているわけです。マイクを突き付けることに戸惑いのある記者もいる一方で、東京から来た事情をよく知らない記者が「どうですか、大変でしょう。」と無遠慮にマイクを押しつけるということをやってしまう現実があります。

開沼 ジャーナリズムとアカデミズムは「自分が変わっていくこと」を恐れてしまうとダメですよね。しかし、震災後の報道や学問をみていると、自分が変わることよりも、大混乱の中で自分が安心できるようなもの、自分が変わらなくてもいいものにすがりつくような社会の動き方が突出してきた部分もあるのかなとおもっております。

現場で話を聞くと、やはり特異な経験をしている方の話なので、ディティールは全部おもしろいです。しかし、紙面や放送時間には決まりがあるので、そこでなにかを出すことを求められたら、どうしてもお約束の情報を流してしまいがちなんだとおもいます。たとえば、感動できる良い話、福島=原発・放射能といった枠組み。このように加工してやっと、受け手も作り手も満足感を得ることができるということもあります。

そのことの積み重ねで、「想像上の福島」として語られがちなお約束ができて、何らかの負のレッテルやスティグマが生まれていく。「フクシマ」は負の状態にある、もしくは負の状態でなければならないと語られて来た部分があるとおもうんです。

たとえば、固定化されている言葉としては「福島には住めない」「もうあそこでとれたものは食べられない」「これからみんな病気になっていくんだ」という話。それが、「科学的には解明できていない」という言い訳と共に垂れ流されている状況があります。実際には震災から2年以上たち、さまざまな科学的な取り組みがなされ改善されている状況もある。しかし、どうしても外からみた時には、3.11から半年ぐらいの雰囲気のまま語った方が、聞いている方も元の枠組みで語っているから安心できてしまうのかもしれない。今でも「震災直後の福島」を語る枠組みの中での固定観念が続いてしまうんです。

固定観念のせいで現場の状況とは乖離した報道がされてしまう。言うまでもなく、時間とともに状況は常に変化している。状況の変わりつつある現場をきちんと伝え続けることが、今後ますます必要になってくるのだとおもっています。作り手側も受けて側も自分が変わっていく様子を楽しめるような、環境づくりが大切だとおもいます。

水島 寺島さんにも伺いたいのですが、このようなレッテルを突き崩すようにはどのようにしたらいいとおもいますか。

寺島 とりわけ原発事故の後は、風評というものが大きな壁になった。これは、今までの私の取材経験でもないことでした。

私の出身地である相馬市の漁師たちは、でっかい波にも恐れずに立ち向かい、とても勇敢なことで有名だったと聞きます。今回の津波では、100槽ほど助かり、これは宮城、岩手の被災地の漁港の漁船被害と比べて、かなり多いと言えます。しかし、福島第1原発から海への放射性物質の汚染水放出以来、漁の自粛によって休業状態で、せっかくの漁船団も海に出られず、のたりのたりと港にたゆたっているわけです。

しかし、県水産試験場がサンプリング調査を経て安全と確認した魚種について、試験操業という形で漁と販売が昨年から始まりました。もちろんなに段階ものチェックによって信頼性を固めながら、漁業復活の足掛かりをつくろうという試みです。

相馬双葉漁協の海域ではこれまで17の魚種に広がり、相馬市では地元産の毛ガニも売られ、私が帰省すると母が料理して待っていて、久しぶりに、とてもうまかったです(笑)。しかし、同じ食文化を共有してきた家族でも、年配者と小さな子どものいる若夫婦では意識が違ってきました。地元の魚を若夫婦は食べず、おばあちゃんが料理した鍋を、お嫁さんは使わない、といった分断が起こっているんです。

漁業だけではなく、農業者も苦闘しています。福島の果樹農家は、セシウムの吸収を抑制する土壌改良剤を散布し、セシウムが付着しやすかった古い樹皮も高圧洗浄機で取り除くなど、血のにじむような努力してきました。しかも、国の食品の安全基準である100ベクレル(キロ当たり)を下回る自主基準を設けて、厳しい検査に通ったものだけを市場に出ています。

しかし、スーパーの商品棚に福島と他産地のモモが並んでいたら、たとえば山梨の方を選ぶことを「自己防衛」と考える人が多いのが、大消費地の現状だと思います。被災地のわれわれは、農家がこれだけの努力をして、結果を出している事実を、被災地の外に伝え続けなければなりません。紙面だけでは足りないのでブログを書いている、と言いましたが、風評、そして風化の壁を超えるための、あらゆる発信の方法が必要な時です。

メディアにタブーは存在するのか

水島 よく、メディアには情報規制があり、都合の悪い真実は隠蔽されているんということが言われます。私も大学で教えていて、学生からそのような質問を受けることもあります。「福島の野菜は安全だ」とメディアが言っても、それが怪しいとおもわれてしまう。たしかに、記者の情報規制が存在することは事実だとおもいますが、都合が悪いから隠蔽しているわけでもない。その辺りについてお二人はどうおもわれますか。

開沼 「情報規制」自体はあるでしょうが、それが「マスメディアは広告代理店から広告費をもらっているから情報は全て権力者が国民を欺くためにコントロールされているんだ」云々というような陰謀論で全て回収できてしまうほど自体は単純ではありません。むしろ、もっと微妙な気づかいとか善意の中で行われていることを想像する必要があります。

先日も、ある新聞に、いわき市で市民と避難者がもめているという記事が掲載されましたが、この報道に反感を持つ人が、地元住民にも、行政や地元のメディア関係者の中にも少なくありません。なぜならば、この報道によって、それまでは市民と避難者の葛藤をあまり意識して来なかった人まで「市民と避難者に葛藤がある」という前提で行動し、実際に分断があらわになってしまうのではないかと懸念するからです。

そして、実際にそういう報道による弊害が起こっている部分もあるでしょう。いわき市には避難者や復旧関係の職に就く方など3万人規模で人が入ってきています。たしかに、揉め事も起こっていますが、刑事事件になったようなレベルのものは全体から見ればごくわずかです。それも、別に「市民と避難者の葛藤」などと、震災にかこつけて報じるべき問題かは微妙だったりもする。でも、メディアは「震災の悲劇が今も被災地でまきおこっているのである。政治・行政の怠慢、許すまじ」みたいな外の人間にわかりやい話を好む。このような現象を社会学で、「予言の自己成就」と言いますが、社会のごく一部で怒っていることを針小棒大に切り取ったり、噂が広く流通することで、実際に社会的現実を作ってしまう。

こういう現地にいるからこそ感じる機微、情報を出すことへの躊躇いの中で「情報規制」に見えることも起こりえる。ただ、ぼく個人の感想としては、その記事には、そういった懸念も当然踏まえた上での言い回しも含めて充分な分量をとってあり、「それでも報じなければ」と書いたんだなとおもいました。

一方、少し前のことになりますが、「被災者はパチンコばかりしている」という、いわき市長の発言を報道したメディアもありました。これは、「それでも報じなければ」という熟慮があったわけではなく、もっとアクシデンタルに表に出てしまった話だと聞きます。つまり、市長の発言後、「これは書いちゃったら、被災者バッシングになるだろう。外に向けて書くことではないよね」といった雰囲気は共有されていた。

ところが、ある媒体が「市長の失言、きたー」とさっさと書いてしまった、と。そうなると、他の媒体も後追いせざるをえなかったりもする。「被災者=パチンコ」イメージはいわき市以外の被災地でもしばしば聞くことですが、これは事実ではありません。たしかに、賠償金でパチンコに行くようになった人がいてパチンコ屋が流行っているという話もあるけど、一方で、生活再建に向けて勤勉に働いている人も大勢いる。数を比べたら、賠償もある程度進んできている現在においては、後者のしっかり働き始めている人のほうが多いでしょう。

被災者の中には、パチンコやる人もいる、全然やらない人もいる。どちらもそれぞれいるという話であって「被災者=パチンコ」なんていう単純化できるものではない。当然のことです。でも、メディアが軽はずみで書いた瞬間、単純化の暴力が起こり、実際に地元でも「被災者はパチンコしてばかり」と言い始める人も出てきてしまう。

いずれにせよ、取材して掴んだ書くべきことはなんでも書かなければいけないと言うのは基本原則でしょうが、この報道をすることに本当に意味があるのか、どんな帰結をもたらすのかは問われなければいけません。ところが、そこに注意を払う中で「情報規制」に見えることが生じる。これは「善意のタブー」と言ってもいいのかもしれません。

ぼくはずっと、原発の話をしていますし、それ以外にも『漂白される社会』に書いたような裏社会の話もしていますが、一度もその取材の過程でいわゆる「圧力」を受けたことはありません。「圧力」を受ける可能性があったとすれば、基本的な礼儀を欠いていたり、裏とりが甘かったりした場合でしょう。「悪しき権力者による圧力」みたいなカッコいいことじゃなくて、ただの「力量不足によるトラブル」だったりする。あまりにも一面的な情報を提供した際にはもしかすると抗議をうけることがあるのでしょう。

よく言われるのは「広告費をもらっているから書けないのでは」。もしかしたらぼくが知らないがけでそういう側面があるのかもしれませんが、多くのメディアは仮に広告費をもらっていた過去があったとしても、東電についてバンバン書いていますよね。先ほどあげたような、農業・漁業に関する数字だって調べればすぐに出てくるわけです。「メディアが情報を隠している」という話も、「あなたが調べてないから無知なだけなんじゃないか」という事でしかなかったりする。そういった陰謀論モデルは生産的ではないとはおもいますね。

水島 陰謀論ってよく言われますよね。ある学生に「水島先生、在日が政府転覆をはかっているのは本当ですか」と真剣に聞かれたことがあり驚きました(笑)。今の若い人のかなりの部分が新聞を読まない、テレビもみない、そうすると、Twitterだけで自分の考えを決めていくことになりがちです。その点、今回のJCEJの取り組みは、ダイヤモンド・オンラインで掲載するなど、ネットジャーナリズムと親和性があるとおもいます。ネットの危険性や、ネットだからできる面があるかなと感じています。寺島さんは、新聞記事で書けなかった部分をブログに書いていますが、その部分をどう感じていますか。

寺島 紙の新聞には物理的限界があるということを、今回の震災で痛感しました。たくさんの記者が被災地の状況をノートいっぱいに取材して持ち帰っても、紙面のスペースは限られ、すべてを伝えきることはできない。もともと、ブログはやっていたんですが、これが、すべてをありのままに書ける媒体だと明確に意識したのは震災がきっかけです。

その人の苦悩、家族のことなど、プライバシーを丸ごと書かせてもらっているようなものです。しかし、一回も抗議を受けたことはありません。まず、取材させてくれた当事者に読んでもらえるように向けて書いているので、「これが、俺の生きざまの記録なんだ」と言ってくれる人もいます。紙かネットか、ではなく、両方必要な時なのだと考えています。

水島 ネットによって、ディティールを発信できる時代になってきたということですね。

いいジャーナリストとは

寺島氏
寺島氏

水島 先日、入学したばかりの福島出身の女の子と会話をしました。彼女が「私のおばあちゃんが仮設住宅に入ったとたんに料理ができなくなりました。先生、どうしてかわかりますか。」と聞くんです。なぜかと聞いたら、年老いた女性はもともと使っていた料理道具じゃないと料理ができなくなってしまうようなんです。

仮設住宅にも台所がありますが、鍋や包丁などはみんななくなってしまった。だから自分のおばあちゃんは料理ができないと、そのことを発見して突き詰めたわけです。私は、優れたジャーナリストになる感性だとおもいました。優れたジャーナリストというのは、共感力があったり、当事者としての問題意識があったりするんです。彼女は学生ですが、福島の仮設住宅に関して言えば、ある程度の記事が書けるのではとおもっています。お二人は、優れたジャーナリストとはどのような人だと考えていますか。

開沼 「どこから喋っているのか」ということを明確にすることが重要だとおもっています。自分は東京の人間として被災地でなにを気づいたのか、とか、自分はかつて被災地に暮らしていたからこのような微妙な雰囲気を感じられたけどそれを外の人にわかってもらうにはどうすればいいのか、とか。自分がここに立っているが故に、自分がこれを発信できるというのが、いいジャーナリズムでありアカデミズムであるのかなと個人的に考えています。

当事者だからこそ、わかる視点もありますし、外から来たからこそ出来ることもあるとおもうんです。たとえば、コミュニティの中で内紛が起こっている場合、外から来た人だからこそ、中立的な立場で考えることができるということもあるとおもいますね。

寺島 私は、取材先から学べる人が、いいジャーナリストだとおもいます。当事者の心情と状況だけでなく、その人の周囲、地域との関係性までを理解しながら、なにがニュースなのかをきちんと捉え、伝えることができる人です。

たとえば、被災地の村で地元の人に会えば、難しい状況下で「村長がどうだこうだ」といった批判話は出てくるわけです。当たり前の日常です。これは実話ですが、東京からある村にやって来たあるネットメディアの取材者が、居合わせて聞きかじった話をみんな書いてしまった。それを後で知った当事者は、取り返しのつかない事態に頭を抱えてしまった。そういう話が、たくさんあるのです。繰り返しになりますが、何度も通うことで初めて、その社会の常識や歴史がだんだんとわかってくる。今、この人達が喋っていることにどのような意味があるのか、単なる噂なのか、グチなのか、本当のニュースなのかが見えてくる。

これも実話ですが、2年前、原発事故のため避難指示が出された村で、私の取材先の人を訪ねて、土地の事情がよくわからない若い地元紙の取材者が来た。放射能汚染から守るため牧舎から出してはいけない牛が、たまたま外に出てしまい、その牛を捕まえた場面を、カメラで撮られたそうです。その写真が新聞に載ってしまい、「あそこでは、外の牧草を食べさせている」と誤解されてしまった。その人は、今でも無念だ、と悔しがっています。

このように、背景にある意味や状況をまったく知らないままに現場に行くと、当事者を単に傷付けてしまうような記事を書いてしまう恐さがあります。いいジャーナリストとは、そのことにきちんと自覚的である人だと思います。

(6月1日「フクシマ」という虚像を壊す~被災地のいまを伝える新たな取材手法 http://d.hatena.ne.jp/jcej/20130513/1368413207 、第一部「固定化される言葉に挑む取材とは」より抄録)

プロフィール

寺島英弥河北新報編集委員

1957年福島県相馬市生まれ。早大法学部卒。1979年河北新報入社、山形県村山支局、東京支社などに勤務、この間に脱スパイクタイヤ運動、光のページェント運動など、地域に密着した取材をつづける。携わった連載に「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」など。論説委員、編集局次長兼務生活文化部長を経て2010年から現職。02~03年にフルブライト留学で渡米。

主な著書に『シビック・ジャーナリズムの挑戦―コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『悲劇から生をつむぐ―「河北新報」編集委員の震災記録300日』(講談社)、共著に『地域メディアが地域をつくる』(日本経済評論社)など多数。

この執筆者の記事

水島宏明ジャーナリスト

ジャーナリスト、法政大学社会学部教授。1957年北海道生まれ。札幌テレビ記者、ロンドン、ベルリン特派員、日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター兼解説委員を経て、2012年4月から現職。主なドキュメンタリー『母さんが死んだ 生活保護の周辺』『天使の矛盾 さまよえる准看護婦』ほか。『ネットカフェ難民』で芸術選奨・文部科学大臣賞。著書『ネットカフェ難民と貧困ニッポン』ほか。

この執筆者の記事

開沼博社会学

1984年福島県いわき市生。立命館大学衣笠総合研究機構特別招聘准教授、東日本国際大学客員教授。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義 』(幻冬舎)、『「フクシマ」論』(青土社)など。共著に『地方の論理』(青土社)、『「原発避難」論』(明石書店)など。早稲田大学非常勤講師、読売新聞読書委員、復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)ワーキンググループメンバーなどを歴任。現在、福島大学客員研究員、Yahoo!基金評議委員、楢葉町放射線健康管理委員会副委員長、経済産業省資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員などを務める。受賞歴に第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞、第36回同優秀賞、第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞など。

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