福島レポート

2018.05.12

早野⿓五教授最終講義「CERNと20年福島と6年 ―311号室を去るにあたって」

服部美咲 フリーライター

インタビュー・寄稿

2017年3⽉、物理学の研究、そして福島において、数々の功績を残した早野⿓五・東京⼤学教授が退官を迎える。早野教授の最終講義が⾏われた3⽉15⽇⼣刻、東京⼤学の⼩柴ホールには、⼤勢の⼈々が集った。福島の⼈々は「物理学者・早野⿓五」を、物理学界の⼈々は「福島に⼒を注ぐ早野先⽣」を、それぞれ初めて⾒ることになった。講義後のカクテルパーティでは、福島から酒樽を担いできた⼈と、世界的な物理学者とが、和気藹々と盃を交わす光景が⾒られた。

CERNで20年、福島で6年

CERNで20年、福島で6年というタイトルでお話をいたします。

たまたま私の⼤学の居室は311号室です。この数字には何か因縁を感じます。⼤勢の⽅々、恩師、学⽣、同僚、そして本⽇は⼥性の⽐率が多い。物理の最終講義でこれほど⼥性が多いことはありません。

今日は「数式を使うな」と多くの⽅に⾔われました。けれども、物理学の講義を聴くときに、これだけは知っていていただきたいということがあります。物理学には、まずは物性物理学があり、次に物は原⼦からできているということで、原⼦物理学というものがあります。原⼦の中には原⼦核がある。そこを研究するのが原⼦核物理学です。原⼦核は中性⼦と陽⼦からできていますが、もっと基本的な粒⼦としてクォークなどの素粒⼦があり、それを研究するのが素粒⼦物理学です。そしてこれら各々に実験と理論がある。私は主に実験をやってまいりました。

⼤学以前から2011年3⽉11⽇以降の話までを、全部通して聞いたことのある⽅は、ここに1⼈か2⼈しかおられません。今⽇のスライドは222枚。果たして本当に終わるのか。やってみます。

研究者への道を選ぶ

⽣まれは1952年1⽉3⽇、出⾝は岐⾩県の⼤垣市です。⽣家は岐⾩⼤に寄付いたしまして、現在はセミナーハウスとして使っていただいております。⽗が信州⼤医学部の眼科学の助教授として松本に赴任し、私も⾼校を出るまでは松本で暮らしました。

バイオリンを弾く⼦でありました。⼦供に⾳楽を教えて⼈を育てる「スズキメソード」創始者の鈴⽊先⽣の愛弟⼦でした。1964年、仲間とともに10⼈で全⽶ツアーに⾏きました。スズキメソードが世界に広まるきっかけになったツアーです。

⾼校は松本深志⾼校、将来何をやろうかと真剣に悩みました。「⾳楽で⼀⽣⾷べていくのか︖」とも考えてみました。僕の答えは「NO」でした。⽗、⺟、祖⽗も医者でしたから、「医学かなあ」なんて思いつつ、「⼆重らせん(ジェームズ・D・ワトソン)」を読んでいました。そして⾼校3年になると「物理の散歩道(ロゲルギスト)」が愛読書になり、「研究に惹かれるなあ」と思いました。どの⼤学に願書を出すか迷っているときに、「研究者になるなら医師免許状いらない。2年早く⼤学を卒業できる」と、これは⽗が⾔いました。そうか、と妙に納得しまして、東⼤理科⼀類に1970年に⼊りました。

⼤学では、⼭崎敏光先⽣にお世話になりました。卒業論⽂はないのですが、⼤学4年⽣で研究室に配属になり、特別実験をやります。⼭崎先⽣の研究室紹介はこの通りでした。まず、「バークレーで実験準備をしている」。それから、「研究室は本郷にない」。ただし、「夜はサイクロトロン(円型の加速器)を使える」。そして最後に先生は、「僕はとても忙しいから、あなたがたの⾯倒は⾒られない」と⾔い放ちました。それをとても楽しそうに⾔っておられたのが印象的でした。

1973年夏の事件

⽩⾦の医科研の隅に、サイクロトロンはありました。そこで1973年の夏、事件が起こります。

⼥性技官がサイクロトロンの部屋から出ようとすると、警報が鳴り響きました。体をサーベイメータ(放射線測定器)で調べたら、全部が汚染されている。技官はたちまちシャワー室に⾏き、残った皆で辺りをサーベイします。すると、実験室の中は汚染されていない。汚染は廊下で⾒つかりました。⾜跡です。技官は外から歩いてきた。どうも外が汚染されている。外は⾬でした。葉っぱに⿊い付着物がありました。「ゲルマニウム半導体検出器を持ってらっしゃい」ということで、これを測りました。そこで先⽣が「これはフォールアウトに違いない」と仰った。あとで新聞の縮刷版をみると、中国が核実験したものをみていたようです。

「リュウ」「トシ」と呼びあう

1974年、⼤学院に進学しました。お約束通り⼭崎先⽣はおられません。そのかわり、ミュンヘン⼯科⼤のポール・キンネ先⽣がいらっしゃいました。修⼠1年⽣がドイツ⼈の先⽣と過ごすなんて当時は珍しいことです。そこで最初にやった仕事は、短波のアンテナ設営でした。僕は⾼校時代にアマチュア無線をやっていたので、お⼿のものです。これは何かと⾔いますと、キンネ先⽣はFCバイエルンのファンだったんですね。そして次の指⽰は、「からいダイコンを買ってこい。薄切りにして塩でもんでビールを飲むぞ」と。3番⽬に命じられたのは、本物のキルシュトルテです。これは当時東京で探すのはとても難しかったのですが。

やがて、⼭崎先⽣から「バークレーにいらっしゃい」とお誘いを頂きました。中間⼦⼯場、メソンファクトリーが建設されつつありました。湯川秀樹先⽣が予⾔なさった中間⼦です。最初は宇宙線の中で⾒つかったπ中間⼦、これは放っておくと、μとニュートリノに壊れます。このμも最初は宇宙線の中に⾒つかった粒⼦です。陽⼦を加速して、⾦属標的にぶつける。それでπ中間⼦やμを⼤量に⽣成します。これを使って何か新しいことをやろうという企画です。

⼭崎研は、その前哨戦として、バークレーにあった184インチサイクロトロンで実験をしておりました。さて、僕がバークレーに着いた最初の⽇。ご挨拶に⾏ったのはオウエン・チェンバレン先⽣。反陽⼦という、陽⼦と質量が同じで、マイナスの電荷を持っている、そういう粒⼦を発⾒して、1959年にノーベル賞をお取りになった先⽣です。

挨拶をしていたら、研究室のドアから若い⼤学院⽣がひょいと体を半分⼊れて、「ハーイ、オウエン︕」と⾔いました。これはえらいところに来たものだ、と思いました。ノーベル賞を取られた先⽣を、ファーストネームで呼んでしまうわけです。以来、僕は⼭崎先⽣を「トシ」と呼び、先⽣は僕を「リュウ」と呼びます。

理論を実験で⾒る

それから博⼠号を取るまで、ほとんどアメリカ⻄海岸で過ごしました。そこで、私の出世作とも⾔える研究をまとめることができました。

それが、「ミューオン」。これは磁⽯のような性質を持っています。壊れるときに、「パリティ⾮保存」と⾔いまして、電⼦がスピンの⽅向に出やすいか、反対に出やすいか、というのがあらかじめ決まっています。そしてプラスのミューオンというのは、スピンの⽅向に陽電⼦を出して壊れる。だから、電⼦が出る⽅向を⾒れば、崩壊したときにスピンがどっちを向いてるのかがわかる、というものです。さらに磁⽯の性質をもってますので、磁場をかけてやると歳差運動をします、「ぐりぐりっ」と。それが、寿命2.2マイクロ秒で壊れる。その様⼦を⾒てやると、時間と共に、ミューオンが回りながら壊れていく様⼦がわかる。

私が博⼠論⽂を書いた頃は、皆がスピンに対して垂直に磁場をかけていました。私は、磁場をかけない、ないしはスピンに対してちょっとだけ、弱い磁場をかける、こんな装置を作りました。

博⼠課程3年⽬、あるときこの装置を使ったら、意味ありげなデータがとれました。当時は電⼦メールがないもので、航空便かFAXかで送りました。すると東京から指令が届きまして、「もっと⻑い時間のデータが⾒たい」と。そこで、データを取りました。すると、グラフが段々盛り上がってきた。実は、これは久保亮五先⽣が修⼠論⽂で書かれたものが、初めて実験で⾒えたのでした。

久保亮五先⽣、ご存じない⽅もおられるかもしれませんが、平成の元号を制定したときに委員をされていた物理学者です。久保亮五先⽣が書かれたのは、全くアカデミックな論⽂で、「この世で実際にそれが⾒えることはないだろう」と思われていたのが、今回実験で⾒えたので、⼤変喜んで頂けました。

その後、⾼温超電導体が⾒つかって話題になったとき、私のそのときの論⽂がずいぶん引⽤されました。現在までに580くらいの引⽤です。私のヒット作ですね。

アマチュアの⼼で、プロの仕事を、楽しそうにやる

物質を研究するためには、たとえば「磁場をかける」とか「低温にする」という⼿段があります。原⼦物理学の代表的な実験⼿段は、レーザーです。素粒⼦物理学、原⼦核物理学の主な実験手段は、加速器と放射線検出器です。私はこれらの道具を使って、物性物理学の実験をするということを、博⼠論⽂を書いた当時はやっておりました。

このころ私が学んだこと、そして先⽣に教えられたことは、まず「国際的であること」。これはかなり叩き込まれました。そして、「学際的であること」。〇〇学と〇〇学の間にはおもしろいものがあります。それから、「原点にもどって考えること」。研究としては、「⼈がやらないことをやること」。

「⼈がやらないことをやる」ということは、やり始めたときにはアマチュアなんです。知らないことをやってるわけですから。だから、「アマチュアの⼼で、最後はプロの仕事としてまとめること」になる。

そして、もっとも⼤事なことは、「楽しそうにやること」。決して楽しくないんですよ。駄⽬な⽇もいっぱいあるんだから。だけど、それでも「楽しそうに」やること。これは、⻑く続けるために、とても⼤切なことです。

共著者リストが1ページで終わらない

当時はパソコンができる前の時代でしたから、ミニコンピュータといいました。これが実験室に⼊ってきて、コンピュータ・ネットワークが始まった時代。私はそういう時期にアメリカ⻄海岸で教え込まれましたので、後に東⼤に来てから、「計算物理」を書きました。これで勉強された学⽣も多いでしょう。

1980年代、つくばの⾼エネ研(⾼エネルギー加速器研究機構)の助教授をやっておりました。この時期に、初めて海外から⽇本のコンピュータへのハッキング事件があり、私がそれを⾒つけて、ドイツだと特定しました。

さて、その後の私がなにをやっていたかというと、論⽂を651本書きました。h-index82、すなわち80⼈以上に引⽤された論⽂が82本ということで、この研究分野では⽐較的多いです。この論⽂を全て話すことはとても無理なので、今⽇はかいつまんで話すわけなんですが、そうすると、「ああ、せっかく聴きに来たのに、私の関係した研究がすっとばされた」と感じられる⽅も多いかと思います。ごめんなさい、とばします。

1986年に、僕は東⼤に助教授として着任いたしました。すると、隣の研究室にいた先輩に、突然重⼤なことを告げられました。

「僕、まもなくコロンビアの教授になるねん。君、エネルギー重イオン実験の本側

代表になってくれへんか」

 

「え

いえ、僕はそんなことやったことないんです。でも、「⼈から物事を頼まれているうちが花かな」と思い、お引き受けいたしました。

原⼦核を⾼いエネルギーにして、「がちゃん」とぶつける。すると真ん中に⾼温状態ができて、もしかしたら、クォークやグルーオン(いずれも素粒⼦)が⾃由に⾶び交う「クォーク・グルーオン・プラズマ」というものに相転移をするのではないか、というのが1980年代に話題になっておりました。初期の宇宙、ビッグバンの後は、実は陽⼦も中性⼦もなくて、宇宙にはこういうものがあったのではと信じられています。おそらくそうです。それを実験室の中で遡って、⼀瞬だけでも⾒られないか。これを⽬指した、アメリカのロングアイランドのブルックヘブン国⽴研究所というのがあるんですが、ここで博⼠をとったのが、今⽇の司会者(櫻井博儀教授)です。

私はそこの重イオン衝突型加速器(RHIC)で始まったPHENIX実験の創⽴メンバーでした。実験全体の設計やマネージメント、予算獲得や測定器の設計と製作など、⽇⽶のメンバーと⽇々、喧々諤々やっておりました。毎⽉ニューヨークに⾶ぶ⽣活です。論⽂を書くと、共著者リストが1ページでは終わらない、という⼤きな実験でありました。私はその後ニューヨークからジュネーブに転⾝いたしますが、PHENIXで当時からその後もクォーク・グルーオン・プラズマを研究されて、2011年の仁科記念賞をとられた秋葉康之さんも、本⽇は来ておられます。

何かを精密に測ることが学問を進歩させる

僕の研究の多くは分光という分類ができます。光と⾔っても、⾒える光だけではありません。分光というとおそらく皆さんご存じなのはニュートンですね。プリズムで太陽の光を当てると虹になる、とこれを最初にやりました。それをもっと専⾨的にやった⼈が、フラウンホーファーです。ドイツのミュンヘン辺りに実験室を持っていました。彼が⾒つけたのがフラウンホーファー線です。太陽の光の中に⿊い線が⾒えるというものです。⿊い線のいくつかは太陽の中にある⽔素が原因であります。それからいくつかは、当時まだ地上では⾒つかっていなかったヘリウムの証拠となります。

このように、何かを精密に測るということは、学問を⾮常に進歩させます。縦軸と横軸を設定して数字を⼊れていくと、やがてピークが⾒える。この「ピークが⾒える」というのが実験していて嬉しいんですね。いかにも「⾒つけた」という感じがします。

ハイパー核の研究

1980年代、最初は「ハイパー核」というものの研究をしていました。クォークは6種類あることが知られていますが、陽⼦と中性⼦の中に⼊っているのはこのうち2つだけです。しかし実験室の中では、もう1つ、「ストレンジクォーク」というものを不純物として⼊れることができます。陽⼦や中性⼦に、このストレンジクォークを⼊れる。すると「ハイペロン」というものに化けます。ラムダハイペロン、シグマハイペロン、そういったものに化けさせることができます。それを原⼦核の中の陽⼦や中性⼦に対して⾏いますと、それが例えば「ラムダハイパー核」。ラムダハイパー核は当時既に存在が知られていて、よく調べられていました。国際的に議論があったのは、「じゃあシグマハイパー核は存在するかどうか」ということ。これは世界中でものすごく物議を醸していました。「シグマは、原⼦核の中で、もっと安定的なラムダにたちまち化けてしまう。するとシグマが消えてラムダが残るので、シグマハイパー核っていうのはそう実験で⾒えるかたちでは存在しないだろう」と⾔われていました。

1980年代の終わり頃、僕が仲間と共につくばの⾼エネ研で実験したスペクトルに、ちょっと⼭がありました。そこに理論の助けもあって、「ヘリウムのように⼩さな原⼦核の中の陽⼦や中性⼦にシグマを⼊れた場合、シグマハイパー核は存在しうる」と⾔うことができた。そして1989年に、「存在しないと思われていたシグマハイパー核が、少なくともヘリウムのシグマという状態なら存在する」という論⽂を書きました。これによって1998年に井上学術賞をいただきました。

失敗の連続の末に得た「証拠」

さて、今度は電⼦です。電⼦は原⼦核の周りを回っている。ここには、「プラスとマイナスで引き合う」という引⼒が働いています。すると、「マイナスの電荷をもっている粒⼦であれば、別に電⼦でなくても原⼦になりうる」ということですね。

その1つがπ中間⼦。π中間⼦は⾮常に重たい。重たくて、原⼦核にほとんどめり込むような形で、グルグル回っている。これを調べて、「π中間⼦が真空中にある場合と、原⼦核の中にちょっと⼊っているような場合とで、違いが⾒えるか」というのが、1990年代に⼤変話題になりました。

この実験を始めてから完成するまでは、⻑い⻑い失敗の連続でありました。

カナダに⾏って失敗をし、ベルリンの壁が崩壊する頃にフランスで失敗をし、そして最後は、ドイツでうまくいきました。ドイツの重イオン研究所です。⽐連崎悟さんが、「重陽⼦を原⼦核にぶつけて、ヘリウム3というものを検出する、というやり⽅ならば、原⼦核に⾮常に近い場所にπ中間⼦を置き去りにできる」という理論を予⾔されて、これを我々も実験でたしかめることができました。めでたく、ピークが⾒えました。やっぱりピークが⾒えると嬉しいですね。

そのときの論⽂はこんな論⽂です。タイトルに、カイラル対称性の⾃発的破れの部分的回復、とあって、こんな⾵に⽇本語に訳すと訳がわからないですが、これは南部陽⼀郎先⽣の「⾃発的対称性の破れ」に関係しています。

陽⼦の中にはクォークとグルオンがあることを我々は知っている。ただ、クォークとグルオンの質量を⾜しても陽⼦の質量にはまったく⾜りない。クォークとグルオンにはほとんど質量がないのに陽⼦はとてもヘビー級です。この状態を説明できるのは、「真空の対称性が⾃発的に破れている」という考え⽅です。「真空の中にヒッグスが凝縮していて、それでクォークも凝縮している。これによって陽⼦が質量を得ている」というものですね。我々がやっていた研究は、真空とパイ中間⼦、そして原⼦核の質量。それがどこで最⼤に破れていて、質量を増やしていくとちょっと減っていく、そういうことを定量的にみた最初の実験です。理論の⽅々からも評価され、2014年にドイツで賞をいただきました。

物理学最終講義、唯⼀の数式

1997年からはジュネーブで研究をしています。ヘリウムの原⼦。2個の電⼦のうち1個を反陽⼦におきかえて、原⼦をつくることができる。これが⽐較的安定して存在することを偶然⾒つけました。修⼠1年⽬で最初に挨拶をしたノーベル物理学賞のオウエン先⽣が反陽⼦の発⾒者であることを考えると、これも因縁めいたものを感じます。

これを詳しく研究するために、ジュネーブのCERN(欧州原⼦核研究機構)で作ったグループ、頭⽂字をとって「ASACUSA(アサクサ)」と呼んでますが、僕はここのチームリーダーを務めております。

普通、原⼦にレーザーを当てて分光するときは、電⼦の軌道を変化させます。でも我々がやっているのはそうではなく、反陽⼦の軌道を変化させています。そして、これが今⽇の唯⼀の数式。ごめんなさい、1つだけ数式を書きます。この数式の左側はレーザーの周波数、これは我々が測定をします。右側は⽔素の電⼦に似た、理論の式です。これは理論の⽅が、⼼を込めてやってくださいます。すると、作り出されている反陽⼦の電⼦の質量を精密に求めることができます。それを陽⼦と電⼦の質量と⽐べて、陽⼦と反陽⼦の質量と等しいか等しくないかということを⾒ます。

そんなことをやっている最中に肺がんになりまして、右肺の上葉を切除するという⼿術も受けました。それでも実験はその後もうまくいきまして、「Nature」や「Science」にも論⽂が出ています。

この約20年の間で、反陽⼦の質量を決める精度が、当初5ケタほどだったのが、10ケタに届くほどに上がりました。反陽⼦は⾮常に稀な粒⼦なんですが、その質量を、ごくありふれた陽⼦に匹敵する精度で決めることができるようになりました。これで2008年、仁科記念賞をいただきました。

そして、2011年3⽉11⽇を迎えます。

それでも黙らなかった

地震でテレビが壊れてしまって⾒られなかったので、翌⽇、ネットのストリーミング放送でニュースを⾒ていましたら、「セシウム」という声が聞こえました。それで最初のツイートをしました。その後、東電が正⾨付近のガンマ線量を数字で公表しました。我々は、数字を⾒ると、「グラフにしなくてはいけない」という強迫観念があるので、これをグラフにしました。それもまたツイートしました。そんなことをやっていましたら、3⽉に3000⼈から15万⼈にフォロワーが増えました。東北⼤の調査によると、⽇本で7番⽬に影響⼒があったそうです。2014年には、「Science」で、Twitterをやっている科学者100⼈が載りまして、そこでは22番⽬でした。

3⽉14⽇の⽉曜⽇、東⼤本部から使者が来まして、「黙れ」と⾔われました。本⽇いらしている鈴⽊寛さんのご尽⼒もあり、おかげさまでこれまで黙らずにやっております。

まずは給食の検査からはじめよう

私がアクティブに動き始めたのは、給⾷の検査でした。放射線による内部被ばくと外部被ばく、もう皆さんご存知かとは思いますが、復習をします。原発事故があり、福島の地面が放射性物質で汚染されました。体の外の物質から影響を受けるのが外部被ばく、放射性物質を⾷べて体の中に取り込むのを内部被ばくと⾔います。

さて、いかに⼈々の内部被ばくに対する⼼配が⼤きかったのかということを⽰すデータがあります。Googleで「内部被ばく」と「外部被ばく」というキーワードが、いつ、どれだけ検索されたのかというグラフです。圧倒的に、常に内部被ばくが上になります。最初のピークは東京の⽔道から放射性ヨウ素が出たときです。2番⽬のピークは、⽜⾁から放射性セシウムが出たとき。

お⺟さん⽅は、ご⾃分のお⼦さんが安全なものを⾷べているのかということを、⼤変に⼼配された。そこで、給⾷で内部被ばくの状況を調べるために、ミキサーですりつぶしてゲルマニウム半導体検出器で測るということを提案するために、⽂科省に⾏きました。⽂科省の担当者は「やりたくありません」と⾔いました。もし出てしまったらパニックになるだろうということがあったのだろうと思います。

そこで⽂科省の副⼤⾂を説得しまして、2012年から予算をつけていただけることになりました。現在でも、国の委託で給⾷の検査は続いています。検査のスケールが重要で、1kgあたり1ベクレルの基準で検査をしています。国の基準は100ベクレル、EUの基準は1250ベクレルです。そして、福島市の給⾷では1ベクレルを超えたものはありません。2013年の1⽉からは地元福島のお⽶を給⾷に使うようになりましたが、それでも出ませんでした。

自分にしかできないことをやる

さて、僕はいずれ近いうちに「餅屋さんが来るだろう」と思っていました。つまり、放射線の専⾨家が出てきて、僕のような素⼈がやっている時代はたちまち終わるだろうと信じていました。ところが、終わらなかった。

「やっぱり僕がやった⽅がいいかな」と思うようになる出来事が、2011年8⽉にありました。ネット上で、驚愕すべき測定結果が私の⽬に触れました。東京の⼈が、内部被ばくを⼼配されて、わざわざ北海道まで⾶⾏機で⾏って、北海道のがんセンターにあったホールボディカウンターを受けられたという、その測定結果です。

⼈間の体の中にはもともと、4000ベクレルくらいのカリウム40があります。その測定結果を⾒ると、それが16000。もっとひどかったのが、誤差です。誤差が、なんと70000以上。「世の中にはひどい機械があるものだなあ」と思いました。また、その機械を放置するばかりか、そんな結果をそのまま本⼈に伝えてしまうという病院というのはいったいなんなんだ、とっても変だなあ、ということを、ネット上で議論しておりました。

すると、10⽇ほど後、1通のメールをいただきました。福島県⽴医⼤の宮崎真先⽣からのメールでありました。そこには、「北海道にあるものと同じメーカーのホールボディカウンターが福島県の南相⾺にもあり、これが⾮常に問題である」とありました。この機械は、東海村JCO臨界事故の際全国に配置されたものだが、実は実際に⼈を測ったことはないものだ、と。

そのとき、⼤変に苦労をされていた南相⾺市⽴総合病院のホールボディカウンターには、遮蔽がありませんでした。2011年7⽉の実測データを⾒ると、当時まだあった空気中の放射性物質が遮蔽されませんから、⼈が座っていないときの⽅が、被ばくリスクが⾼そう⼈に座ってもらったときよりも、線量が⾼い。「なんだこれは」ということで、2011年の秋に南相⾺に⾏き、私がデータをお預かりしました。そのときに、初めて坪倉正治先⽣と

も会いました。

南相⾺の先⽣⽅との出会いは、私にとって福島と向き合うきっかけになりました。

まず、「⼈がやっていないことをやる」、という観点。ほかの⼈はやらないだろうと思われることで、かつ僕にならできること。その優先順位を、総合的に判断する。なるべく俯瞰的なこと、全体像が⾒える仕事をするようにしました。そして、英語の査読付き論⽂を書いて、皆さんに広く知っていただくこと。しかしこれは、別に福島ではなくても、全ての研究者がやっていることです。

振り返ってみると、「私の福島とのつきあい⽅は『研究者』だったなあ」と思います。

初めての医学論⽂

僕が福島で書いた論⽂は、全てお⾦を払ってオープンアクセスにしてあります。

最初に、2011年〜2012年に33000⼈の⽅を測定して、内部被ばくはほとんどなかったという論⽂を書きました。チェルノブイリの知⾒がありまして、⼟壌汚染から⼈の内部被ばくを係数で単純計算すると、郡⼭市や福島市で年間5ミリシーベルトの内部被ばくをするはずだ、ということになりますが、実際はどうだったか。

ちゃんと4トンの遮蔽板があって、検出器も2本⼊っているという、先ほどのホールボディカウンターよりよほど素敵なホールボディカウンターで測定しました。2012年、33000⼈を実測すると、⼈間の体の中に必ずもともとあるカリウム40のスペクトルだけが⾒えて、セシウムのスペクトルが⾒える⼈はほとんどいませんでした。

これは、僕が⽣まれて初めて書いた医学論⽂でした。2013年の正⽉休みをつぶして書いたのですが、なぜこれを書いたかというと、当時UNSCEAR(原子放射線の影響に関する国連科学委員会)が最初の福島レポートを書くことになっていました。(https://www.unscear.org/docs/reports/2013/14-02678_Report_2013_MainText_JP.pdf)彼らは査読付き論⽂を採⽤する。ところが周りを⾒回したところ、「福島には汚染⾷品があまりなく、⼈々の内部被ばくが低い」ということを英語の論⽂にした⽅は1⼈もおられなかった。

「これはもしや、僕がここで書かなかったら、実測データなしで国連のレポートが出るんじゃないか︖」ということを、⼤変に恐れて書きました。しかし、いかにこのときの私が素⼈だったかということを⽩状しますと、こういう医学論⽂を書いたときには、倫理審査委員会を通さなければならないことを私は知りませんでした。投稿しますよ、と⾔ったら、坪倉先⽣から⼀⾔「倫理審査委員会通しましたか」とメールが来ました。それからあわてて倫理審査委員会を通しました。そんなわけで、2ヵ⽉ほど論⽂が出るのが遅れました。

めでたくUNSCEARの2013年報告書には、こういう結果が載っております。「Hayanoらによると、福島県と隣県を測って、初年度は12%、2012年に⼊ってからは1%のみが検出限界を超えた。このことから、平均実効線量は1ミリシーベルトにはるかに及ばない」。(注)

(注)Internal radiocesium contamination of adults and children in fukushima 7 to 20 months after the fukushima NPP accident as measured by extensive whole-body-counter surveys

Proceedings of the Japan Academy Series B (2013)

DOI: 10.2183/pjab.89.157

次は、初期内部被ばくの論⽂です。これは⾷べ物ではなく、気体を吸ったりしたときの内部被ばくですね。これも1ミリシーベルトに達しなかった、という論⽂を書きました。(南相⾺市⽴総合病院で、遮蔽板のないホールボディカウンターで初期に計測されたデータを使って)内部被ばくをどうやって計算するのかというと、まず、外から来たガンマ線と⼈から出たガンマ線がどちらも測定器に当たります。また、外から来たベータ線は⼈間の体にぶつかって⽌まります。このうち、⼈から出たガンマ線だけのデータを取りだすわけです。

結局、3年程かかりましたが、2014年に論⽂を発表しました。南相⾺の⽅々との約束を果たせてとても嬉しかった。この論⽂も、UNSCEARの2015年白書([1] https://www.unscear.org/docs/publications/2015/UNSCEAR_2015_WP_JAPANESE_CORR.pdf)に採⽤されました。図も引⽤されています。(注)

(注)Whole-body counter survey results 4 months after the Fukushima Dai-ichi NPP accident in Minamisoma City, Fukushima

Journal of Radiological Protection (2014)

DOI: 10.1088/0952-4746/34/4/787

対話をするための測定器

「BABYSCAN」の話をします。⼤⼈⽤のホールボディカウンターでは、狭いところに2分間⽴っていないと測れません。そもそも⼤⼈⽤にデザインされていますので、⼩さい⼦供を測るのはとても苦⼿です。そして、私は⼦供を測っても出ないということを熟知していました。でも、お⺟さん⽅はそうは思わない。「うちの⼦を実際に測ってほしい」ということを何度も⾔われました。じゃあ作るしかないな、と思ったのが2013年2⽉のことです。

⼦供の内部被ばくを測る装置というのは、こういうものです。

まず、6トンの鉄板で遮蔽します。そして、検出器は通常2本のところを4本⼊れます。精度の⾼い測定器としてはこれで完成なんだけども、御覧のように、明らかに誰もここに⼦供をいれたいとは思わない。出ないことをあらかじめ知っている装置を作るということの意味は、不安に思う⽅が測りに来てくださって、その⼈と話す機会ができることにある。つまりこれは、測定器というより、コミュニケーションの道具なわけです。

「作るしかない」と思ったその⽇の夜に、Twitterのダイレクトメール機能を使って、「@yam_eye」というアカウントにメッセージをしました。東京⼤学の⼭中俊治先⽣です。⼭中先⽣にデザインはお願いして、測定器の機能としては、新⽣児の体の中にあるごく少ない量のカリウム40でもちゃんと測れる精度で作る、というのが⽬標でありました。こうしてできた「BABYSCAN」は、現在福島県内で3台稼働しています。もちろんこれまで1⼈も検出者はいません。これも論⽂にしまして、UNSCEARも2016年⽩書(https://www.unscear.org/docs/publications/2016/UNSCEAR_WP_2016_JAPANESE.pdf)で採⽤しました。(注)

(注)BABYSCAN: A whole body counter for small children in Fukushima

Journal of Radiological Protection (2014)

DOI: 10.1088/0952-4746/34/3/645

Dシャトルの発⾒

そろそろ外部被ばくが⼤事なんじゃないか、と思い始めます。福島県内では、「ガラスバッジ」(個⼈積算線量計)が配られて、とくに妊婦さんとお⼦さんの外部被ばく線量は測定されていました。これによって、すでに2011年秋の段階で、1年換算で10ミリシーベルトを超える⽅はいないし、おおむね50%の⽅は1ミリシーベルト以下だということはわかっていました。

でもガラスバッジですと、3ヵ⽉⾝につけて返送して、数字が1個しか出ません。これでは、「あなたがどういう⾏動をしたからこの線量です」というのはわからない。これでは対話になりませんから、何かいい道具はないかと探していたところ、産業技術総合研究所が、今は「Dシャトル」と呼ばれている道具を千代⽥テクノルと⼀緒に製品化していました。「これを売ってくれますか」と訊いてみましたら、「50個なら在庫があります」と⾔われたので、その50個を買いました。

Dシャトルは、1時間ごとに線量を記録できる個⼈積算線量計です。これを使えば、個⼈の⾏動と外部被ばくとの関係に説明がつきます。このとき避難指⽰解除が予定されていた⽥村市の都路地区で、内閣⽀援チームと⼀緒に住⺠に持っていただき、⾃分の⾏動と線量の関係を実際に⾒て、納得してもらうことができました。

233人の共著者リスト

福島に住む⾼校⽣が、⾃分の置かれた環境がどうなっているのかを知ること、そして、他の地域に住む⾼校⽣の外部被ばくとの⽐較をしたらいいのではということで、プロジェクトを⽴ち上げました。

2014年に、Dシャトルを、フランス、ベラルーシ、ポーランドに送りました。各地域の測定結果を福島⾼校⽣が分析して、⽇本語で学術論⽂を書いてもらいました。それを私が英語にして、査読付きのイギリスの専⾨紙に出しました。査読者からの質問を⾼校⽣に戻して、「⽇本語でいいから反論を書きなさい」と。そしてそれを私がまた英語に直して、とやりあった末に出たのが、2015年に出た論⽂です。(注)

(注)Measurement and comparison of individual external doses of high-school students living in Japan, France, Poland and Belarus – The ‘D-shuttle’ project

Journal of Radiological Protection (2016)

DOI: 10.1088/0952-4746/36/1/49

線量測定に参加した⾼校⽣を含めて、233の名前がアルファベット順に並んでいます。僕はCERNで研究して論⽂を書いていますから、このくらいの⼈数が並んでも全然驚かない。けれども、この雑誌の編集者からは、「正気か」と⾔われました。「これだけの著者をリストするのか」と。僕は「する」と⾔って押し切りました。現在までで84000回ダウンロードされております。私が⽣涯書いた中で、⼀番⼈に読まれた論⽂はこれです。

世界の他の地域とほとんど変わらない線量

論⽂の内容ですが、2週間のデータを1年間に換算すると、⾃然放射線の寄与を含めても、外部被ばく線量はだいたい年間1ミリシーベルトくらいです。福島を知ってる⽅が御覧になると、「ああ会津は低いね」とわかっていただけると思うんですが、県外と⽐べると「福島って特別⾼いわけじゃないんだなあ」ということもわかります。

海外と⽐較すると、実は今回⼀番⾼かったのはフランスのコルシカ島でした。地⾯に花崗岩があるので、⾃然放射線の寄与が⾼いんですね。これは⾮常に説得性がありました。全体を⾒ると、福島県内外も海外も、ほとんど変わらないという結果が出ました。

この論⽂が出た2015年の冬に、外国⼈特派員協会で福島⾼校⽣と⼀緒に英語で記者会⾒をしました。この⽣徒はこのとき受験⽣だったのですが、よくつきあってくれました。その後めでたく東⼯⼤に受かりました。

ショッキングなほど低い被ばく線量

最後に、論⽂の話です。フランスの原⼦⼒関係の⽅々が、我々の福島での研究を聞きたいということで、フランスに何度か呼ばれました。このとき、「伊達市のあの膨⼤なデータをなんとかしませんか」と提案されました。そこで論⽂を書くようにと2014年10⽉に⾔われまして、時間はかかりましたが、最近その論⽂を出すことができました。

伊達市に、6万⼈のデータが1年分ありました。福島県内で唯⼀ほぼ市⺠の全員を測っていた、というビッグデータです。ガラスバッジで測定した個⼈の外部被ばく線量と、航空機モニタリングから推定されるその⼈の住居付近の外部被ばく線量のつきあわせをやりました。空間線量率が0.23マイクロシーベルト毎時、福島では皆さんご存知の数字ですが、これが年間1ミリシーベルトの外部被ばく線量に相当する、というのが政府の公式な⾒解です。でも実際に測ってみますと、これは1ミリシーベルトにほど遠いことがわかりました。実際に年間1ミリシーベルトの外部被ばく量に相当する空間線量は、0.8マイクロシーベルト毎時でした。

論⽂の共著者からは、医学博⼠が複数名誕⽣しています。これは嬉しいことです。もしかしたら僕も、申請したら医学博⼠になれるかもしれません。

なぜ福島に⾏ったのか

福島でのことを、僕は職務としてはやる必要がありませんでした。ならばなぜやったのか、といろんな⼈に聞かれます。理由は2つあります。

ひとつは、CERNやその前のアメリカで、僕は役に⽴たない研究に、10億では利かない、もっとたくさんのお⾦を注ぎ込みました。だから、これをどこかで納税者に還元しなければなりません。もちろんノーベル賞とればOKだということはわかってるんですが。そして、原発事故があったとき、僕が納税者になにかお返しできるとすれば、それは今しかないと思いました。

2つ⽬の理由は、僕が2011年当時59歳だったことです。昔であれば東⼤の定年は60歳ですから、定年の1年前です。ここでもう1本論⽂を書くのとどっちが⼤事かということを考えました。僕はもし49歳だったらやらなかったと思います。⾃分の研究をやる⽅がもっと⼤事だ、と考えたと思う。でも僕は59歳だった。

しかし、これらの思いだけでは実現できません。何が必要か。

まず、「学問の⾃由」。つまり、CERNに研究室も持っている東⼤の教授が、好き勝⼿やってよいのか、ということです。幸いなことに、僕は東⼤には学問の⾃由かなりあることを助教授に着任したときに知っていました。駒場にいたときに、「学⽣に歌舞伎鑑賞のゼミをやります」と⾔ったんです。理学部教務は、「駄⽬です」と⾔いました。「あなたは専⾨じゃない。そんなものを教えてはいかん」と。そのときに理学部⻑がなんと⾔ったか。「羨ましい」と⾔いました。「僕も俳句のゼミをやりたい。やらせなさい。」と、こういうことがあったので、東⼤の理学部には学問の⾃由が⼗分にあると知っていました。

そして、学問の⾃由だけでもできません。お⾦がなければできません。「経済的な⾃由」が必要です。CERNの経費を福島に横流しはできません。僕は、「⾃分のポケットマネーで給⾷の検査をやる」と宣⾔して、実際にやりはじめました。すると、Twitterのフォロワーが寄付を送ってくれるようになりました。それを受け取るために、東⼤が基⾦を作ってくれました。ワンクリックで1000円、15%は東⼤がピンハネして、85%が私の所に来る、という仕組みです。この基⾦は私が退職すると同時に閉じられます。

⼤学にいますと、こういうお⾦を⼿にすることはないのですが、それを⼿にすることができました。⾦額は、今まで⾔ったことがなかったのですが、今初めて⾔います。2016年までで、2200万円です。私の福島での活動は全額、この寄付でまかなわれました。

「はい。ちゃんと産めます」

この6年でやってよかったと思うのは、本を書いたことです。「知ろうとすること。」という本です。これは「⾼校⽣に読んでほしい50冊」にも⼊れていただきました。遠藤周作の「沈黙」の下に⼊っております。これは私にとっても、じんとくるものがあります。

この本で⼀番⼤事なページは、ここのセクションです。

もし早野先の前にがやってきて、「私はどもを産めるんですか」って、質問してきたとしたら、どう答えますか

 

早野 まずは、信を持って「はい。ちゃんと産めます」と答えます。躊躇しないで。間髪をれずに。

ここが、書いておいてよかったな、と思う部分です。

今、⼤きな問題があります。福島県で実施されている県⺠健康調査の結果があります。平成26年度で、「現在の放射線被ばくによって、次世代の⽣まれてくる⼦供に健康影響はどのくらい起こると思いますか」という質問に、実に38%が、「可能性は⾮常に⾼い」と答えている。

「そんなことはありえない」ということを、皆さんは知っていますね。けれども、実際に38%もの⼈が、「ある」と答えている。事故直後は60%でしたから、それでも減ったんです。でも依然としてこんな状況にある。これは、僕は⾮常に⼤変なことだと思っている。広島や⻑崎でもこういうことはありました。今、このことを払拭しておかないと、次の世代まで払拭できない。対策は教育しかない。

「ありがとうございました」

さて残りですが、私は今後どうするのか。

CERNのチームリーダーは、あと2年くらい続けます。福島も、まだ少し続ける。少なくとも福島⾼校の原先⽣が退職されるまでは続けたいと思っています。

今⼤変に楽しんでやっているのは、国際物理オリンピックです。2022年の⽇本⼤会で、出題委員⻑を命じられました。とても楽しくやっています。そして、こんなことが起こるとはまったく予想していなかったのですが、2年前から放射線影響研究所の評議員に選ばれました。この6年で僕もずいぶん勉強しましたし、そのことが福島で活かされればいい

と思っています。

そして去年の夏からは、スズキメソードの会⻑を任されました。⼦供の頃、創始者の鈴⽊先⽣にお世話になっていたので、「是⾮に」という声がたくさんあって。実は逃げ回っていた時期もあったのですが、最近はプロのバイオリニストと並んで、なんとなく弾いたふりをしております。

65年の⼈⽣を振り返ってみました。現在、2011年の1⽉から6年間、1⽇1枚、1⽇も⽋かさずにとり続けた写真を、⻄⿇布のビアクラブで展⽰しています。⾏ってたら、ちゃんとビールも注⽂してくださいね。

どうもありがとうございました。

質疑応答

――先⽣が今もし20代だったら、こうしたいと思うことはありますか。また、若い⼈にこうした⽅が良いというアドバイスはありますか。

あまりそういうことを思わない⼈⽣でした。ですので、そうそう「昔こうしておけばよかった」というのを思わない⼈⽣を歩むことをお勧めします。

――廃炉についてのお考えをお聞かせください。

僕が答えるべきではないと思っております。

ただし、今現場でそれに取り組んでおられる⽅は、最後まで⾒届ける⽅々ではありません。最後まで⾒届ける⽅は次の世代ということになるかと思います。そういう⽅々がちゃんとモチベーションをもってやっていただける職場になること。実際に取り組まない⼈も、関⼼を持ち続けることがなければ、そして社会としてこれを⽀えていくことがなければ完了しない、難しい仕事です。

そういう思いを込めて、いろいろ批判もありましたが、昨年の11⽉福島⾼校の⽣徒さんを連れて福島第⼀に初めて⼊りました。⽣徒さんの⼤変に読み応えのあるレポートが、福島⾼校のホームページに掲載されておりますので、是⾮お読みいただきたいと思います。

――教育が⼤事とのお話でした。放射線の影響が次世代にも残るのでは、とありえないことについての⼼配が残っています。これに対して、どのレベルで教育がおこなわれれば良いでしょうか。

ご存知のように、義務教育から放射線教育がなされない時代が30年ありました。そのために、カリウム40のスペクトルをお⺟さんに⾒せると、カリウム40の影響でこの⼦は危ないんじゃないか、ということを⼤変に⼼配される、ということが起こっております。⾃然放射線があるということをご存じないということは、今回様々な理解を進める上で⼤変に難しかった。ですから、そういう教育は広くなされるべきだと思います。

しかし喫緊なのは、やはり福島で育った⼦供が福島の外に出ていったときに、根拠のない偏⾒にさらされることです。それに対して、きちんと「そうではない」ということを、⾃信を持って⾔える。そういう状態にして送り出してあげるということが、教育する対象⼈数が少ないということもありますが、今⾮常に⼤切なこと。福島県内の教育機関の⽅々は、それも最重要の課題として取り組んでいただければと思います。

プロフィール

服部美咲フリーライター

慶應義塾大学卒。ライター。2018年からはsynodos「福島レポート」(http://fukushima-report.jp/)で、東京電力福島第一原子力発電所事故後の福島の状況についての取材・執筆活動を行う。2021年に著書『東京電力福島第一原発事故から10年の知見 復興する福島の科学と倫理』(丸善出版)を刊行。

この執筆者の記事