今、福島に行くということ――「ホープツーリズム」モニターツアー参加レポート

2018年10月27日(土)から29日(月)にかけて、福島県観光物産交流協会が主催する「外国人留学生を対象としたホープツーリズムモニターツアー」が行われ、広島大学の留学生13名が参加した。筆者は留学生ではないが、研究活動の一環として特別にこのツアーに同行させていただいた。本稿ではその模様をお届けすることを通して、「今、福島に行くということ」の意味を考えてみたい。

 

 

被災地の現状を学ぶツアー

 

1日目の14時を過ぎた頃、いわき駅のロータリーに到着すると、今回のフィールドパートナーである福島大学のマクマイケルウィリアム先生、県や協会の担当者のみなさん、通訳ガイドのみなさんが迎えてくださった。県を挙げて取り組んでいるこの「ホープツーリズム」という事業は、地震・津波・原子力災害で被災した海沿いの地域をガイドとともに訪れるスタディツアーだ。

 

この「ホープツーリズム」、国内の中学生・高校生に向けての事業としては、すでに豊富な実績がある。しかし、「通訳」という要素が入る外国人留学生向けとしては、これから本格的に取り組んでいこうというところだ。今回のツアーは、通訳ガイドの方々の実地研修という意味合いが大きい。「空間線量」「中間貯蔵施設」といった難しい言葉を、多言語でわかりやすく伝えることがこれから求められてくる。今回の案内も基本的に英語で行われた。

 

参加者の国籍は中国・台湾・タイ・インドネシア・ベトナム・ミャンマーの6か国。参加前のミーティングでは、「謎の生物がいると母国で報道されていた。実際のところはどんな様子なのかを見に行きたい」という声があった。参加者は多かれ少なかれ、被災当時の危険なイメージを抱えていたように思う。それでも、「福島の人々の現在の生活状況を自分の目で確かめたい」という思いを持った人々が集まった印象を持った。ほとんどのメンバーが、はじめて福島県の地を踏んだ。

 

 

特定廃棄物埋立事業と福島第一原発の廃炉を学ぶ

 

バス車内で1時間のオリエンテーションを終え、到着したのは環境省が富岡町内に設置した施設「リプルンふくしま」。特定廃棄物(避難指示区域などにあった廃棄物や放射性物質を含む廃棄物)の埋立事業について、モニターやタッチパネル、ジオラマ等の展示を用いてわかりやすく解説してある施設だ。除染などによって発生した、放射性物質を含む廃棄物は、10万Bq/kg以下のものが富岡町内に埋め立てられ、10万Bq/kgを超えたものは福島第一原発を取り囲むように位置している中間貯蔵施設へ運ばれる。後者は30年据え置かれた後、最終処分のために県外に運ばれるという。子どもが遊ぶことを想定しているのであろう体験型のゲームコーナーもあり、「わかりやすかった」「デザインもかわいい」と好評だった。

 

わかりやすく工夫されたデザインの館内で、解説を受けるメンバー

 

 

次に向かったのは、同じく富岡町内にある東京電力旧エネルギー館。現在は廃炉資料館としてリニューアルオープンしているが、この日はその準備中といった様子だった。ここでのコンテンツは「東京電力社員との対話」。会議室に入ると、社員のみなさまによる説明が始まった。

 

 

東京電力社員による説明。廃炉を担う東電には、今後もわかりやすい情報発信が求められる

 

 

福島第一原発の状況について、1号機から4号機までの事故当時と現在の様子の比較から、汚染水対策、構内の労働環境等に至るまで、映像と説明によって解説が与えられていく。時間が限られていたこともあるが、“これまで”の話が多く、“これから”の話が少なかったのが気がかりだった。

 

「燃料デブリを今後どう取り出すのか」「トリチウムを含む処理済み水を今後どう扱うのか」といった話題については主に最後の質疑応答で展開されることになったし、廃炉に向けたロードマップについては「資料をご確認ください」の一言のみだった。ここで扱い切れなかった“これから”の福島第一原発については、この次の行程である、一般社団法人AFW代表の吉川彰浩さんによる説明の中で考えていくことになる。

 

 

福島第一原発を「みんなでどうしていく」のか

 

旧エネルギー館を後にし、ここから吉川さんもバスに同乗した。吉川さんは、東京電力の社員として福島第一原発・福島第二原発で勤務してきた経験を持ち、現在は廃炉についての説明や視察のコーディネート、双葉郡内での地域活動などに尽力されている。楢葉町に今年オープンしたばかりの交流館「ならはCANvas」にて、AFW監修により制作された福島第一原発のジオラマを囲み、対話がはじまった。

 

「“廃炉の後はどうなるんですか?”と東電の社員に質問したかもしれない。でも、考えたいのは“廃炉の後、ここをみんなでどうしていくのか?”ということ。福島第一原発の未来を、みんなにデザインしてほしい」(吉川さん)

 

参加者から「活気のある場所がいい」と声があがる。「そうだね。魅力的な職場になって、ここで働くことに誇りが持てるようになるといい」と吉川さんが答えた。考えてみれば、福島第一原発の構内に関する報道は技術的な話ばかりで、あまり「活気があるかどうか」という話は聞かない。しかし、福島第一原発は、“事故の現場”であると同時に、今も一日4,000人ほどの人が働いている“職場”なのだ。その一人ひとりは、今日何を思っているのだろう。

 

 

吉川さん(右端)のお話に、メンバーは真剣なまなざしを向けていた。説明の前には、(一社)ならはみらいの堺さんより「ならはCANvas」の館内紹介も

 

 

福島第一原発の未来を描くには、まわりの地域について知ることも重要だ。一日目は特定廃棄物や廃炉についての話題だったが、二日目からはガイドとともにまちに出て考えていくことになる。一泊目はオープンから一周年を迎えた、富岡町の「富岡ホテル」にて。長旅と到着後の情報量の多さからか、メンバーの表情には疲れが滲んでいた。

 

 

富岡町内を巡って「まち」とは何かを考える

 

2日目は、富岡町3・11を語る会の青木淑子さんによる富岡町内のガイドからはじまった。富岡町には2017年4月に避難指示が解除されたエリアと、現在も帰還困難区域に指定されているエリアが共存している。かねてから双葉郡の中心として重要な役割を果たしてきた町だ。

 

青木さんとメンバーが乗ったバスは、町内の夜の森(よのもり)地区へ向かった。美しい桜並木で有名な場所だ。帰還困難区域とその外との境界を示すバリケードのそばで、この境界について「“気持ち”にラインが引かれてしまうんです」と青木さんが話した。境界の両側で放射線量そのものが大きく変わるわけではない。「あちらは入れるのに、なぜ道一本反対のこちらには入れないのか」という気持ちが生まれるのは、当然のように思える。メンバーの一人が、並木道を見ながら「きれいだろうなあ、桜」とつぶやいた。この場所で続いてきた桜まつりは、やっと今年の春から再開したという。

 

 

夜の森の桜並木道。右側と奥は帰還困難区域に指定されており、バリケードが設置されている

 

 

次に向かったのは、海や富岡駅周辺が見渡せる高台だった。ここには、町民が有志で育て始めたぶどう畑がある。「夢は、このぶどうで作ったワインと地元で獲れた魚を使ったカルパッチョで乾杯することです。復興には、夢がないといけません」と青木さんが笑顔で話していた。昨年の春に人の暮らしが戻ってきてから、このようなチャレンジも生まれていたのだ。

 

 

青木さん(右側)によるぶどう畑についての解説。廃炉が決定した福島第二原発や特定廃棄物の焼却炉を見渡すことができる私有地に、特別に入らせていただいた

 

 

「富岡は、まだまだこれからの町です。富岡を見るということは、“まち”とは何か?“まちづくり”とは何か?“自分の居場所”とは何か?ということを考えることです。ぜひまた、この町がどう変わったのかを確かめに来てください」

 

まちを支えてきた原発をたたむことが決まった今、このまちはその先に何を残すのだろう。あたりまえに人々が暮らしてくために、必要なこととは何だろうか。普遍的な問いにもつながるこの言葉で、青木さんによる富岡町の案内が終わった。

 

一同は、未だに大部分が帰還困難区域となっている大熊町・双葉町を抜けて、浪江町に向かう。大熊や双葉にいた人々の“居場所”は、今どこにあるのだろうか。左右にバリケードが設けられた国道6号線の風景を見ながら、そんなことを考えた。

 

 

浪江町の当時と現在を往復する

 

浪江町は、東西に長い形をした自治体で、主に西側が帰還困難区域に指定されている。町役場やJR浪江駅等を含む一部の地域は、2017年3月に避難指示が解除された。

 

お昼前に「福島いこいの村なみえ」に到着した一同は、映画『無念』を鑑賞した。『無念』は、避難指示によって津波被災者の捜索を続けることができなかった浪江町消防団員の“無念”に焦点を当てた映像作品である。じつは、広島に拠点を置く「まち物語制作委員会」が紙芝居で伝えてきた物語をアニメーション映画にしたものだそうだ。広島との意外な縁を感じながら、メンバーは被災当時の浪江に思いを馳せた。

 

原発事故といえば「放射線」がひとつのキーワードとして浮かぶが、今回の原発事故では、放射線を原因として亡くなった人はただの一人も報告されていない。しかし、原発事故が、地震と津波の被災者のその後の人生に大きな影響をもたらしたことは確かだ。『無念』は、あの日の混乱やその後の悲しみがリアルに伝わる作品だった。自主上映会という形で観ることができるので、ご興味のある方は調べてみてほしい。

 

 

作品の紹介をする、フィールドパートナーのマクマイケル先生。2泊3日全行程を通して、メンバーに基礎知識を分かりやすく提供し続けてくださった

 

 

次に向かったのは、同じく浪江町内の帰還困難区域に程近い場所で開かれていたエゴマの収穫祭である。避難指示が解除された後の土地で育てているエゴマの収穫を祝う小さなお祭りで、到着するとすでに地域の方々で賑わっていた。浪江でエゴマを、福島市でかぼちゃを作っている石井農園の石井絹江さんが、「浪江には道の駅ができるので、商品化してそこに置いてもらうのを目指しています。自分が食べたい!と思うものを加工品として作っています」と話してくださった。お祭りでは、その加工品の試食のほか、エゴマ餅をつくるための餅つき、音楽イベントも開催されるなど盛りだくさんの内容だった。

 

 

石井農園の石井さん(左)。自分がやりたいことを追及しているということが、表情からも伝わってきた

 

 

シンガーソングライターの菅野潤さんが、浪江名物「かぼちゃまんじゅう」をモチーフにした楽曲「おばあちゃんのかぼちゃまんじゅう」をのびやかに歌う。かぼちゃの衣装をまとったダンサーがキュートな踊りを披露し、会場ではおじいちゃんおばあちゃんが笑ってそれを観ている。メンバーも思い思いの過ごし方で、自由にお祭りを楽しんでいた。「ゴーストタウン」「廃棄物が入った黒いフレコンバッグ」などは、この地域のことを言い表すにはあまりにも一面的すぎることが、この写真からも伝わるだろう。あの空間にあった幸福感に、メンバーは驚きとともに希望を感じたようだった。

 

 

かわいらしい歌と踊りに盛り上がる地域の方々とツアー参加者。このステージの裏側にはエゴマやカボチャの料理がずらっと並んでいる

 

 

手を振る地域の方々に見送られたバスは、同じく浪江町内の請戸(うけど)地区へ。町の沿岸部にあたり、津波で甚大な被害を受けたエリアだ。『無念』で描かれた、避難指示により救助活動が中断されたまさにその場所である。富岡で青木さんが「被災地の秋の風物詩になってしまった」と語っていたセイタカアワダチソウの群生が、住宅や田畑があった平野一面に広がっている。一見しただけでは、そこにまちがあったことはわからない。

 

津波被災当時から取り壊されずに現在まで残っている請戸小学校を訪れた。当時校内にいた児童・教職員が避難して無事だったことから、その成功例として語られることが多い。今は動かない時計が指している3時38分は、津波が来た時刻。揺れてから1時間弱ほどだ。もし自分が教員だったら、すみやかに判断を下すことができただろうか。校舎に津波の跡を確認することができ、その高さに驚いた。1階の天井部分は優に超えている。想像もつかないが、その想像を超える現実が実際にあったのだということを、この校舎と周りの風景が懸命に伝えているように思えた。

 

 

請戸小学校とその周辺の風景。ほとんどの建物は、津波で流されてしまった

 

 

歌声に迎えられた小高でのまちあるき

 

二日目最後の目的地は、浪江町から北上したところに位置する南相馬市小高区。コミュニティスペース「おだかぷらっとほーむ」に到着した途端、コーラス隊の歌声が聞こえてきた。「まさか原発から20㎞のところで歌ってるおばさんたちがいるとは思わないよねえ(笑)」と、案内役の廣畑裕子さんが朗らかに語り出す。

 

「人口は約1万3000人から一度ゼロになり、現在は3000人弱。その3000人は、自分で選んで、自分の意思でここに住んでいる人たちです。つまり、ここが大好きな人たち。コーラスでもなんでも、やりたいことをやっています。震災前にはそんな発想はありませんでした」。「おだかぷらっとほーむ」の壁面には大きくカラフルな絵が描かれていた。これも「やりたいこと」のひとつだったのだろう。

 

 

「おだかぷらっとほーむ」のアートウォールを背に話す廣畑さん。その話しぶりは、通訳を通してもメンバーを夢中にさせていた

 

 

廣畑さんと一緒に、小高のまちを散策した。このまちで生まれ育ち、被災後も地域で活動を続けていらっしゃる視点からの解説付きの、贅沢なまちあるきだ。小高駅前で、その口調が少し強くなる。「線路から海岸までは3.3㎞あり、この線路で波がおおよそ止まりました。それくらい海から離れていても、津波が来ることはあるんです。今日、これだけは覚えて帰ってほしいと思っています」。線路の東側にあったたくさんの悲劇のことを考えると、少し怖くなる。このまちの人たちもまた、あの日からの悲しみの延長線上を生きているのだ。

 

その後訪れた広めの公園には、まだ避難指示が出ていた2012年ごろ、雑草が人の背の高さくらいまで生えていたという。現在は地域の方々の清掃活動の甲斐あって綺麗になっており、その日もゲートボールを楽しむ人の姿が見られた。「去年の今頃、震災後はじめて子どもたちがこの公園で遊んでいる姿を見ました。ものすごく嬉しかった」。一度、急に人っ子ひとりいなくなった町は、少しずつ前に進んでいる。

 

「明日の私の人生なんてどうなるかわかりません。でも、今日のごはんをおいしく食べることくらいは考えられる。そうやって7年半やってきました」

 

この言葉は、災害という文脈を超えて、人生の先輩からのメッセージとして説得力を持って響いてきた。

 

二日目の宿泊先だった楢葉町の「展望の宿 天神」で食べたその日の晩ごはんは、とてもおいしかった。すべての部屋と露天風呂から太平洋を望むことができるこのホテルも、原発から20㎞圏内、一時は避難指示が出されていたところにある。機会があれば、是非利用してみてほしい。

 

 

今と未来を繋ぐ1万本の桜

 

最終日となる3日目は、NPO法人ハッピーロードネット代表の西本由美子さんにお話を伺った後、実際に活動に参加させていただいた。

 

「じつはこの団体は、地域の高校生からの依頼で立ち上げました」

 

休業中の「道の駅ならは」内にあるハッピーロードネットの事務所で、まずは西本さんによる団体の紹介、行ってきた活動についての講話がはじまった。

 

 

参加メンバーに「3日間学んだことをたくさんの人に語り継いでほしい」と話した西本さん。震災後は放射線教育にも尽力されている

 

 

「このあたりには雇用が無かったんです。高卒者の数に比べて、地域にある会社の数が少なく、規模も小さかった。そんな中、地域の高校生から“日本一のまちをつくるにはどうすればいいか?”と相談があったんです。」

 

この相談がきっかけとなり、2008年にNPO法人を設立。浜通りを南北に走る国道6号線の清掃活動、常磐道ならはPAの設計など、地域の若者の活動を後押しした。今回メンバーが参加した「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」も、災害の前から計画されていたそうだ。国道6号線を美しい並木道にすれば、魅力的なまちになるに違いない。地域の高校生がそんな議論をしていた矢先に、あの災害が起こった。災害の後、このプロジェクトの目的は変わった。その目的は二つある。

 

「一つは、桜を通して安心なまちであることをアピールすること。そしてもう一つは、毎年大きく、美しくなる桜を見て、“なんで植えたんだっけ?”と2011年のことを思い出してほしいんです。桜に、ものを言わぬ語り部になってほしい。記憶は忘れられて小さくなっていきますが、桜は毎年美しさを増していきます」

 

地域の若者や全国から参加したボランティアによって植樹された桜の木は、1万本を超えたという。一度はもう住めないと言われた場所で、163㎞に渡って桜が咲き誇る。その頃、福島はどんな場所として語られているのだろうか。

 

講話の後、広野町内にある、実際に桜が植えてある場所へ移動した。私たちがお手伝いさせていただいたのは、桜の周りの草刈りだった。植えたばかりの桜の木は、周りを手入れしなければ立派に育たない。植樹シーズンであれば実際に桜の木を植えることができるし、桜の木のオーナーになることもできるとのことだ。ご興味のある方は是非検討してみてほしい。

 

 

活動を終えて記念撮影。メンバーは「30年後の故郷」に自分も貢献できたという実感を得たようだった

 

 

絶望と希望の観光

 

広野町を後にしたメンバーは、郡山市で今回のツアーを締めくくるワークショップを行った。福島のイメージを絵で表現するというプログラムでは、今回の旅の思い出とも言える、各地で見た「希望」を描くメンバーが多かった。富岡で見たぶどう畑、浪江のエゴマ祭でメンバーも参加させていただいた餅つき、楢葉の天神岬で見た水平線から昇る朝日、桜並木道を駆ける人々…。しばしば「死の街」「危険な場所」として描かれるカタカナ書きの「フクシマ」のイメージは、目の前に広がる現実の風景を前にして、確実に塗り替えられたようだった。

 

しかし、一方で厳しい現実を目の当たりにしたのも確かだ。福島第一原発の原子炉内にある溶け落ちた核燃料を取り出せるのか。取り出したとして、その後どうするのか。放射性物質を含む廃棄物をいずれ持ち出すという「県外」はいつ、どんな風に決まるのか。誰かの大切な人を奪った津波、避難という理不尽、目に見えない放射線への不安。“気持ち”のラインによる分断、地域の人々への心ない誹謗中傷、進んでしまった過疎…。癒えない悲しみや解決されないままの課題がたくさん横たわっているのを、私たちは見てきた。

 

そもそも、福島をめぐる課題を把握するのに、観光という手法が万能なわけではない。避難先で過ごしている人々の暮らしにはアクセスできないし、私たちと会ってくださった方々やその語られた内容は、福島のほんの一部でしかない。今もどこかで、現実に縛られて身動きを取れずにいる人がきっといるだろう。「行かなきゃわからない」面もあるが、「行ってもまだわからない」ことがほとんどなのだ。

 

「ホープツーリズム」と銘打たれたこのスタディツアーだが、「絶望」のまちではなくじつは「希望」に溢れているのだ、という安易な語りでこのレポートを締めることはできない。

 

「絶望」は確かに存在している。「希望」もそこにある。私たちはそれを見てきた。そしてそれは、福島だけではない、他の地域にも同じことが言えるだろう。もしかしたら、あなた自身にも言えるかもしれない。「今、福島に行くということ」の意味は、「絶望」と「希望」を往復しながら生きていくほかない私たちの現在地を確認することにあると、私は思う。

 

今後、一人でも多くの人が福島を訪れ、それぞれの言葉で語られていくことを願って、このレポートを終わりたい。

 

謝辞

記事中の写真は、山川印刷所さまからご提供いただきました。今回、福島県観光物産交流協会や福島県庁の皆様、フィールドパートナーのマクマイケル先生、通訳ガイドの皆様、ゲストスピーカーの皆様には、大変貴重な機会を用意していただきました。また、参加メンバーの皆様をはじめ、ツアー前後を通して対話の機会をいただいた方々のおかげで、この記事ができました。お世話になった皆様に心から御礼申し上げます。

 

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