「ふるさとをもう一度誇りに思いたい」福島県大熊町の未来を考える

東京電力福島第一原子力発電所が立地する福島県大熊町と双葉町には、今も多くの地域に原発事故による避難指示が出されている。

 

大熊町に生まれ育った齋藤真緒さんは、小学校4年生のときに東日本大震災に被災し、原発事故による避難を体験した。

 

大熊町での暮らしや震災と原発事故の経験、そしてこれからの町との向き合い方について、齋藤さんにお話を伺った。(聞き手・構成 / 服部美咲)

 

 

大熊町の「あたりまえの暮らし」のかけがえのなさ

 

――子どもの頃の思い出を伺えますか。

 

私のふるさとは、福島県双葉郡にあり、東京電力福島第一原子力発電所の立地する大熊町です。町に住んでいた頃は、「大熊町の魅力が何か」なんて、特に考えてみたこともありませんでした。でも、小学校4年生まで暮らした大熊町での生活は、とても充実していました。

 

春は、なんといっても山菜採りです。山にはもちろん、そこらじゅうに山菜が生えていて、特にワラビがたくさん採れる場所を「ワラビの丘」と呼んでいました。

 

夏は、友だちや兄弟と一緒にスポーツセンターのプールに通ったり、川遊びをしたり、早朝からカブトムシを捕まえにいったりしていました。秋は、マラソン大会で1位を獲りたくて、兄弟と一緒に山や森で走り込みをしました。冬になると、大熊町で雪が積もるのは年に1度くらいなので、雪が積もると感動して、泥や草が混じっていても構わずに、雪だるまを作りました。

 

季節に関わらず、近所のおじいちゃんやおばあちゃんの家に遊びに行ったり、町の商店街で買い物をしたり…。大熊の暮らしは、とても楽しかったです。小さい頃の私にとっては、大熊町での生活があたりまえになっていて、そのかけがえのなさには気がついていませんでした。

 

 

「元気に咲く大熊町のひまわり」 福島県大熊町大川原地区 (2019/ 8/15)撮影:齋藤真緒

 

 

めったに降らない雪が降っていた

 

――2011年3月11日の東日本大震災のときは、どちらにいらっしゃいましたか。

 

私は小学4年生でした。教室では、ちょうど下校時のホームルームの最中でした。机の下にもぐって、揺れがおさまるのを待っていたのですが、いっこうに収まる様子がありませんでした。なぜなのかわかりませんが、机の下で、私は必死に「ごめんなさい、ごめんなさい」と叫んでいました。「それまで自分がやってきた悪さのせいで地震が起きたんだ」という感覚だったのかもしれません。

 

しばらくして、担任の先生に誘導されて、全校生が校庭に避難しました。もう春だというのに、めったに降らないはずの雪が降っていたのを覚えています。寒さと恐怖で、震えが止まりませんでした。

 

まだ親が迎えに来ていない生徒は体育館に移動しました。私も体育館に移動しましたが、すぐに母が迎えに来てくれました。車で家に向かう途中の町の景色が、登校したときとまったく別のものになっていました。道路が盛り上がり、塀や家が崩れているところもありました。

 

家に着くころ、私は体調が悪くなって、車から出られなくなっていました。ひとりで車の中に閉じこもって、そのうち外が真っ暗になりました。やっと少し落ち着いて、なんとか車を降りて、家に入りました。

 

近所の方が発電機を持っていて電気が使えたので、隣近所でその家に集まりました。夕食として、カップラーメンや即席スープが用意されていましたが、私は食欲がなくて、食べることができませんでした。夜、自分の家に戻って、一階のリビングで母、姉、兄、妹2人と一緒に並んで横になりました。東京電力福島第一原発で働いていた父は、まだ帰ってきていませんでした。余震もおさまらず、恐怖と不安で、その夜は眠れませんでした。

 

翌日の早朝、近所の方が「齋藤さん!避難するよ!」と家の窓を叩いていました。私は何が起こっているのかわかりませんでした。母に言われるがまま、2着ほど着替えを持って、町役場に向かいました。町役場にはすでに沢山の人が集まっていましたが、父はそこにはいませんでした。ますますわけがわからなくなって、また私は具合が悪くなってしまいました。

 

誘導されてバスに乗って、40㎞ほど離れた田村市の公民館に避難して、すぐに私は寝込んでしまいました。あとで母や姉に聞くと、私が寝ている間に色々なことが起きていたそうです。

 

支給されるご飯の量が、私たち家族にとっては少なすぎたらしく、当時妊娠中だった母が、1kmほど離れたところにあるスーパーに、大きなお腹を抱えて食料を買いに行ってくれたそうです。体調が良くなってきた私は、事情も知らず、その食料をたくさん食べてしまいました。あの食料は、まだ小さな妹たちや妊娠中の母にたくさん食べさせてあげなければいけなかったのに。今でもそのときの自分を許せないです。

 

 

父の働いている建物が突然爆発した

 

 

――東京電力福島第一原子力発電所の事故については、どのように知りましたか。

 

だんだん気分が落ち着いてきたので、体育館の中を回りました。小さな女の子が、熱を出して寝込んでいました。人々がヒーターの周りに集まっていました。電話ボックスの前には長い行列ができていました。多分、その行列には母もいたのではないかと思います。父と連絡が取れないと言っていたと思うので。誰もが焦っているように見えました。

 

ふと、テレビで流れているニュースが目に入りました。青くて四角い、見覚えのある建物が映っていました。「あれって、お父さんが働いている建物だったっけ」と思って、足を止めてテレビを見ていました。そのとき、突然その建物が爆発したんです。

 

 

――お父さんとはいつ頃再会できたのですか。

 

公民館に避難している間も、父は帰ってきませんでした。公民館に避難した翌日、私たちは叔母の家に移動して、そこで父と連絡がとれました。すごく安心したのを覚えています。

叔母の家から新潟の友だちの家に避難して、そこでやっと父に会えました。

 

再会した父は、ヒゲがぼうぼうに伸びていて、髪も何日も洗ってない感じで、瘦せていました。私は、父が爆発した原発構内で命を賭けて闘っているとも知らず、おもわず笑ってしまいました。「お父さん、そんな恰好で、どうしちゃったの?」って。父も笑いました。それで、私も安心できたんだと思います。普段は、あまり感情を表に出さない人なのですが、そのときの父の笑顔は今も覚えています。

 

 

「私も同じ人間」ということが否定されていく

 

――その後はどのように避難されたのですか。

 

田村市や須賀川市と福島県内を転々として、新潟、山梨にも行って、最終的には会津に行きました。会津では、最初、旅館で生活していました。旅館の人たちはとても親切でした。私たちのことを気にかけ、毎日おいしいごはんを作ってくださいました。

 

旅館にいる間、多くの人からのご支援をいただきました。物資での支援もありましたし、マジックショーや歌、自動車によるパフォーマンスなどで元気づけてくださった方もいました。

 

 

――避難生活を送られていて、辛かったことはありますか。

 

父の作業着を洗って外に干そうとしたら、「原発で使った作業着を外に干さないで」と言われました。部屋が空いているというので、アパートを借りようとしたのですが、「原発事故で避難してきた」ということがわかると、入居を断られてしまいました。

 

私たちも同じ人間なのに、それが次々に否定されていくようで、どうしてなのかわからなくて、日々悲しい気持ちが重なっていきました。そして、私は心の調子を崩してしまいました。

 

会津で、廃校舎を借りて、大熊町民の小学校が再開しました。でも、私は、なぜか家族から離れるのがとても怖くて、小学校に行けませんでした。たまに行けても、保健室に通うのが精いっぱいでした。みんなが大変なときなのに、私のせいで余計に家族に迷惑をかけているという申し訳なさでいっぱいでした。「私は弱い人間だ」「どうしてこんなに家族に迷惑をかけることしかできないんだ」と、毎日自分を責め続けているうち、どんどん自分が許せなくなりました。

 

周りからは「大熊から避難してきた」という目で見られていると感じて怖いし、自分は自分自身のことが大嫌いだし、毎日生きていくことが辛かったです。

 

 

――そこから立ち直ったきっかけはありましたか。

 

まず、だんだん会津での暮らしに慣れてきたことです。アパートが借りられて、学校にも皆と同じように通えるようになりました。放課後に友だちと遊べるようにまでなりました。多少の不便はあっても、大熊町での暮らしに近い日常生活を送ることができるようになったことは大きかったと思います。

 

それから、日本全国、世界各国の方々の支援にも励まされました。原発事故後、1~2年の間、ほとんど毎週、なにかしらの支援が届きました。「私たちを応援してくださる方がこんなに大勢いるんだ」と思うと、弱気になっている場合じゃないな、と元気になれました。それと同時に、私も、いつか誰かが困っていたら、元気づけてあげられるような人間になりたい、と思うようになりました。

 

 

今度は私が困っている人に元気を

 

――具体的にはどのようなことをしましたか。

 

たくさんの方々のサポートをいただき、いろいろなことにチャレンジしました。中学生になって、旅行などを通して海外の文化に触れる機会がありました。私が生きてきた世界とはまったく異なる生活スタイルや考え方があることを知り、興味を持ちました。そして、海外で働いてみたいと強く思うようになりました。

 

高専生になって、初めて一人で海外に行きました。きっかけは、2015年に9000人近くの犠牲者を出したネパール大地震から、なかなか復興が進まないという現地の状況をニュースで知ったことでした。

 

私たちは、東日本大震災から数カ月で、衣食住に関してはほぼ震災前と同じ水準の生活ができるようになりました。しかし、ネパールでは、すでに震災から何年も経っていたのに、まだ苦しく辛い生活を送っている方々が大勢いらっしゃいました。東日本大震災の後、私が多くの方に元気をいただいたように、今度は私がネパールの方々を元気づけることはできないだろうかと思いました。そこで、高専2年生の夏、ネパールに1ヵ月間ボランティア留学をしました。

 

 

――留学中、どのような取り組みをされましたか。

 

ネパールと福島における復興の進み方が違う理由を調べました。現地の方への聞き取り調査をしている間、私の心の中に、何かがずっと引っかかっていました。ネパールに住む方々や支援に入られている他の国の方々に福島のことを話すとき、私はいつも、「大熊町にはまだ帰れないけれど、多くの方のご支援のおかげで、震災前とほぼ変わらない生活ができるようになりました」と言っていました。住んでいた場所が震災で損壊したまま復旧が進まないネパールの人に向かって、「帰れないけど」と言い続けているうちに、私は疑問を感じるようになりました。「帰りたいのに帰れない」という状況なのに、自分はどこかで今の生活に満足してしまっているのではないかとも思いました。

 

私は、ネパールに行ってみて、震災と原発事故後の福島の現実に、正面から向き合ってこなかったことに気がつきました。海外の状況に目を向けることも大切ですが、自分のふるさとの現実ともしっかり向き合いたい、福島の抱えた課題を解決したい、という思いが湧いてきました。

 

 

大熊町に生まれ育ったという誇りを取り戻す

 

「汗を流して皆で手植えした稲」福島県楢葉町「木戸の交民家」前  (2019/8/10)撮影:齋藤真緒

 

 

――一般社団法人AFWでのインターンを決めたきっかけを聞かせてください。

 

福島県楢葉町にある「木戸の交民家」で、田植えを体験したことです。AFWには、以前福島第一原発の構内を視察するツアーでお世話になりました。

 

私は、初対面の人とコミュニケーションを取ることが苦手なので、とても緊張して、不安でいっぱいのまま参加しました。田植えを始めるとすぐに、AFWの代表の吉川彰浩さんが、私に優しく声をかけてくださいました。「今日は来てくれてありがとう。いろんな人が来ているから、話してみてね」と。私はそれでもまだ緊張が解けなくて、そのまま独りで黙って田植えを続けました。でも、吉川さんに続いて、皆さんが次々と笑顔で話しかけてくださったので、だんだん緊張が解けてきて、そのうち自分から皆さんに話しかけることができるようになりました。田植えの後、「木戸の交民家」で、前年度のお米を炊いて、皆でカレーを食べました。

 

 

――田植えに参加なさっていたのは、どのような方々だったのですか。

 

おもに福島県内で活動をしている方々でした。双葉郡出身の方もいましたし、県外から通っているという方もいました。生活の拠点はばらばらでも、皆さんに共通しているのは、「福島が大好き」という思いだと感じました。

 

田植えに参加する前は、「この田植えもきっと『福島の復興のため』という名目なのだろうな」とやや冷めた気持ちもあったのですが、全然違いました。「復興のため」なんかではなくて、皆、ただただ純粋に福島が大好きで、田植えを楽しんでいました。

 

ネパールから帰って、「ふるさとの福島に貢献したい」と思っていた私は、皆さんからたくさんの刺激を受けました。「AFWにいれば、今日のように、たくさんの人と出会って、話して、視野が広がって、自分がふるさとでやりたいことも見つかるかもしれない」と、思いました。AFWでインターンをさせてもらおう、と思いました。

 

 

――インターンをするにあたって、目的を整理したと伺いました。

 

「私がなぜAFWでインターンをしたいのか」ということについて、整理するのを吉川さんが手伝ってくれました。

 

大熊町が大好きだという気持ちを話すうち、次第に悲しくなってきました。「ふるさとの大熊のことが大好きなのに、周りが大熊町を見る目が気になってしまって、私はふるさとを心から誇りに思えなくなっているのかもしれない」と、気づきました。

 

大熊町のある双葉郡に軸足をおいて、双葉郡に住む人や、双葉郡という土地や、双葉郡の抱える問題を知ることを通して、ふるさとを知り、ふるさとへの誇りを取り戻すこと。私は、3週間のインターンの目的をそう決めました。

 

 

――インターン中に、印象に残ったことはありますか。

 

インターンを始めた頃、双葉郡の人に「将来はまちづくりをしたい」と言うと、「まちづくりか、それは難しいね」という反応をいただくことがよくありました。双葉郡の人は、まちづくりやふるさと復興のために働いているものだと思っていたので、不思議に思いました。そこで、どんな思いをもって双葉郡で働いているのかをうかがいました。ほとんどの方の答えは「改めて考えたことはないなあ。このまちや人が好きだからかな」というものでした。それは、木戸での田植えで出会った人たちのおっしゃっていたことと似ていました。

 

復興のためにという使命感からではなく、ただ双葉郡のまちが好きだから、人が好きだから。「好き」という気持ちを原動力にして、皆さん一生懸命に働いていました。

 

「好き」という気持ちは、暮らす人の心を豊かにしてくれるし、豊かな心を持つ人たちが集まれば、自然とまちも豊かになるんだと思いました。「復興のために」「まちづくりのために」という義務感から、やりたくないことを無理に頑張っている人はほとんどいなかったんじゃないかと思います。また、自分自身が「福島の未来を担う若い世代として、頑張らなくちゃいけないんだ」とプレッシャーを感じていたことにも気づきました。

 

 

「相馬の海でとれた大きなシャコ」福島県相馬市 (2019/ 8/13)

 

 

――現地での活動のほかにはどのようなことをなさいましたか。

 

図書館に行って、ふるさとの大熊町について調べました。富岡町の図書館で大熊町史を読み、大熊町の歴史や文化を知りました。古くて分厚い本で、読むのに抵抗感があったのですが、読み進めるうち、私の住んでいた頃の大熊町や町の人たちの人間性とつながっていって、楽しくなってきました。大熊町に、こんなに興味深い歴史や文化があったことを、私は知りませんでした。

 

それまで、「大熊町ってどんなところ?」と聞かれたときに、震災と原発事故が起きたときのことから話し始めていました。そうすると、大熊町の話がどうしても暗い話になってしまいました。でも、こんなに面白い大熊町の歴史や文化を忘れたくないと思いました。たくさんの人に、大熊町の歴史や文化の面白さを伝えたいと心から思いました。

 

 

――インターン中、辛いと感じたことはありますか。

 

双葉郡が今抱える問題を知ろうと思い、自分自身の目で見て回りました。震災と原発事故の後から、もう長い間シャッターが閉まったままの商店街や、草木が伸び放題になっている場所がありました。

 

そして、特定廃棄物埋立処分施設の前に、「自分たちの町にはもう人が住んでいるのだから最終処分場を作るな」「まだ避難指示が解除されず人がいない町があるのだから、そこに作れ」という主張をする看板が立っていました。国や原発とばかりか、双葉郡内の住民同士ですら仲良くできなくなってしまったのか、と私はとても悲しくなりました。復興がなかなか進まないのは、放射線のことだけではなく、住民同士の信頼関係がなくなってしまったからじゃないか、と感じました。

 

私自身、自分が生まれ育った大熊町のことばかり考えて、双葉郡のほかの地域の方々の痛みや悲しみは、想像したこともありませんでした。震災と原発事故の後に起きている地域の問題は、国や東電、支援してくださる方々に任せるのではなく、ここに住む私たち自身が解決していかなければならないのだ、ということに、改めて気づきました。

 

 

「未熟な私」と向き合うきっかけに

 

――インターンを通じて学んだことはありますか。

 

私は、もともと自責感が強く、失敗すると落ち込んでしまい、なかなか立ち直れない性格でした。インターン中、働く生活に慣れていなかったこともあり、辛くなったときに「どうして自分はこんなにダメな人間なんだ」と自分を責めた時期がありました。体調も崩して、吉川さんや皆さんに迷惑をかけてしまいました。

 

そのとき、吉川さんが「なんでも自分の責任と考えるのは、齋藤さんの良いところでもあるのかもしれないけど、自分の弱さを認められないと成長から遠ざかってしまうんじゃないか」と諭してくださったんです。

 

自分を責めてひとりで落ち込んでいると、周りが「真緒ちゃんは大丈夫だよ。ちゃんとできているよ」と慰めてくれるので、自分の弱さと向き合うことをせずに済んでいました。成長せず、周囲の方々の優しさに甘えてきたことに気づいて、恥ずかしくてたまらなくなりました。

 

「至らずを知り省みる。未熟なるものが私。」という言葉を吉川さんに頂き、心に残っています。

 

 

――インターンを終えた気持ちをお聞かせください。

 

「まちを美しくするのは『土地』ではなく『人』だ」ということです。そのまちで出会う人が素敵なら、そのまちに住んだり訪れたりしたくなるのではないでしょうか。そしてまちを愛する人が増えれば、さらにそのまちは豊かになります。

 

今回のインターンでは、まだ、将来大熊町で私がしたいことを見つけることはできませんでした。でも、それ以上に大切なことをたくさん学べたと思います。双葉郡の人たちや土地を知り、少しずつ、一度は失ったふるさとの大熊町への誇りを取り戻せたような気がしています。このような貴重な機会を与えて下さった吉川さんや、インターン中に出会ったたくさんの方々に、深く感謝しています。

 

 

――今後、今回のインターン経験をどのように活かそうと思っておられますか。

 

将来、大熊町の魅力を活かして、多くの人が住みたくなる、訪れたくなるまちにしたいと思っています。また、災害の多い日本で、今後災害が起きたときに、政府と住民、企業と住民、まちの住民同士の信頼関係が崩れて、物事がうまく進まないような状態にならないようにするにはどうしたら良いか、考えていきたいと思います。

 

インターンを終えて、9~10月の1ヵ月間、イギリスに留学しました。インターンや留学で学んだことを、多くの人に伝え、皆で協力して、素敵なまちや、力強い信頼関係を築く道を探していきたいです。

 

 

参考

・被災地のコミュニケーターを目指す AFW代表理事吉川彰浩さんインタビュー

https://synodos.jp/fukushima_report/22479

 

 

福島の「いま」を伝える情報サイト「福島レポート」

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シノドス国際社会動向研究所

vol.269 

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