特集:当事者と非当事者

1.小峰公子氏インタビュー 福島の美しさを歌いたい——福島に「半当事者」としてかかわって

 

福島県出身、音楽ユニット「ZABADAK」で活動されている小峰さんに、「半当事者」だから言えること・言いにくいこと、原発事故に関わるデマや偏見についてお話を伺いました。

 

◇放射線を消す石?

 

――小峰さんは物理学者の菊池誠さんと『いちから聞きたい放射能のほんとう』を出されるなど、放射線のリスクの発信に積極的に取り組んでいますね。ミュージシャンの方には原発反対のひとが多いイメージがあります。

 

そうですね。あの、私も原発には反対なんです。知る限りまわりに推進派っていう人はいません。たしかに声高に反原発を叫ぶひとたちは目立ちますし、それはほぼイメージ通りとは思いますが、実は事態を冷静にとらえているひとたちもけっこういます。でもそういう人はあまり声をあげませんし、WEBにわざわざ書きこんだりもしないですね。すごく詳しく原発事故のしくみを説明してくれた方もいて、だれよりもわかりやすい!って感激したのを憶えています。

 

でも彼もそういったことはSNSに書いたりはしませんでした。極端な反対派の中には「実は(福島第一原発では)核爆発しているんだから」と言うような人もいます。昨年夏かな、ある打ち上げで、私が尊敬している大先輩が「福島の事故は、ほんとうはチェルノブイリよりもひどい」とおっしゃっていて……頭を抱えました。

 

――それは、ショックですね。

 

いわゆる陰謀論のひとびとで…「ほんとうは、核爆発しているのにみんな知らされていない」と言うんです。「小峰さんも(実家が)福島で大変でしょう?」と。

 

――そういうときはどうされるんですか。

 

そのときはなにも言いませんでした。肯定も否定もせずに聞いてました。みなさんかなり飲んだあとみたいだったし、これは言ってもだめだな、と思って。あれから第一原発の視察に二度いったので「見てきたけど爆発してなかったですよ」って今なら言えるんですけどね。残念。でもそれもきっかけのひとつになって、シノドスの記事(「福島第一原発3号機は核爆発していたのか?――原発事故のデマや誤解を考える」菊池誠×小峰公子https://synodos.jp/science/15807)を書きました。

 

 

小峰氏

小峰氏

 

とはいえ、はっきり指摘することもあります。福島の小高町(おだか)のコンサートに一緒にいく予定だったメンバーが「実は福島第一原発では作業員が800人も亡くなっている」というデマをSNSでシェアしていたんです。

 

小高はご存知の通り、原発がらみで働いているひとが多かった場所です。主催者側もデマをまく側の人間がかかわっているのは嫌でしょうから、これはさすがにまずいなあと思って、メッセージや電話のやりとりをして、これは事故後にすぐに広まったデマのひとつなのだということを話しました。その彼と私に共通のなじみ深い秋田県のU町というところがあるんですけど、「小高はU町より人口が少ない田舎だよ、そこで働くひとが800人いなくなったら内緒にできると思う?」と言ってみたら、やっとリアルにその規模がつかめたようでした。

 

「政府や東電が隠している」と聞くととたんに思考停止になってしまうのかもしれませんね。知っている町と比べているうちに、それほどの小さい町、親戚友人の誰かしら働いてる大企業で、もしそんなことが起きたら隠せるはずがない、それはそうだよな、って想像が働いたみたいでした。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 

 

2.山本智子 知的障害がある当事者の「思い」を支えるために――「当事者性」に関与する「私たち」のあり方

 

知的障害がある人は本当に「自己決定」が難しいのか。彼らの当事者性に私たちはどう関わっているのか。「私たちが思う『当たり前』が、当事者の『意思』を見えなくしてしまう」と山本さんは指摘します。

 

◇素朴な問いとして

 

知的障害がある人は自分の生活や人生に関する「自己決定」や「意思」をもつことが難しいのでしょうか。そして、もし、彼らが自分の生活や人生に対して「自己決定」したり「意思」を主張したりすることが難しいと考えるのであれば、私たちは彼らにどう関わっていこうとするのでしょうか。

 

かつて、障がい者に対する支援は、「措置」、「指導」、「管理」が中心的な役割だと考えられていました。私は月に数回、スーパーヴァイズや調査でいくつかの障害者支援施設(知的)を訪れていますが、入所施設や生活介護事業所を長く利用している人々はいまだに職員のことを「先生」と呼んでいる場合があり、それを聞くたびに心が痛むことがあります。養護施設や学校からそのまま施設を利用している人も少なくないので、職員に対してつい「先生」と呼んでしまうこともあるのでしょうが、やはり私はそこにある種の力関係が含まれているように感じて苦しくなるのです。

 

ひと昔前の施設では、知的障害がある人を自分の人生の主役であり「自己決定」や「意思」が尊重されるひとりの人として捉える視点はまだまだ少なかったように思います。なぜかというと、知的障害がある人を外側からみて、「認知的な機能障害や言語的なコミュニケーションに困難がある人に、果たして自分の意思があり、自分の人生の方向を決定したり主張したりすることが出来るのだろうか」と考えてしまっていたからかもしれません。そのため、知的障害がある人たちへの支援は、誰かが彼らの「代わり」となって彼らの人生を組み立てていくのが当たり前であり、支援する側の責任や役割であると考えられていたのだと思います。

 

近年になり障がい者の権利や支援に関して世の中の動きを変えるような法令や指針が次々とだされるようになり、障がいがある人が自分たちの意思によって自らの人生を決定する権利を有する存在として捉えられるようになりました。しかし、制度的な変遷はあったものの、そこで、支援する人々の意識や利用者の生活が大きく変わったのかといえば、実際はそうではありません。とくに知的障害者を支援する場においてはどのように彼らの「自己決定」や「意思」を尊重すればよいのかと戸惑っているのが現状なのです。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 

 

3.李洪章 「研究者の言葉」から「当事者の言葉」へ

 

研究者自身の当事者意識・ポジショナリティをめぐる葛藤。在日朝鮮人の調査研究を通して、「いかにも『当事者の言葉』であるように見せかけてきた」当事者研究のあり方を問います。

 

◇動機としての当事者意識

 

私は、現代を生きる在日朝鮮人が、民族や国家をめぐっていかなる経験をしているのかを、その語りに基づいて記述することを目指して研究をしています。その成果を、2016年3月に上梓した『在日朝鮮人という民族経験―個人に立脚した共同性の再考へ』(生活書院)にまとめましたが、そこでは、在日朝鮮人と日本人の間に生まれたいわゆる「ダブル」や、朝鮮籍在日朝鮮人、日本人との「国際結婚」などを事例として取り上げました。

 

私がこのような研究に取り組むようになったのは、やはり当事者意識によるものでした。在日朝鮮人社会に身を置きながら、コミュニティの必要性や重要性を強く感じながらも、閉鎖的な共同性がゆえに排除・周縁化される人々がいる状況に忸怩たる思いがあったからです。そこで私は、在日朝鮮人個々人の経験を有機的に繋ぎうる、開かれた共同性のあり様を模索するようになりました。

 

しかし、私と配偶者はともに韓国籍を保有しており、また、非「ダブル」であることを自認しています。したがって、私が研究で取り上げてきた人々は、私とは異なる立場にあります。私は、このような立場にある自分が、在日朝鮮人社会の主流を構成し、血統主義的風潮のもとで「ダブル」や「国際結婚」した人々を、極端に言えば「民族の裏切り者」として排除・周縁化してきた側の、「正統」な在日朝鮮人であると自覚しています。インフォーマントと自分自身を「在日朝鮮人」や「当事者」として同じカテゴリーに括ってしまうことで、そうした在日朝鮮人社会内部に潜む暴力性を隠蔽してしまうことには、はじめから抵抗感がありました。

 

それゆえ、研究の動機は確かに当事者意識に起因したものではありましたが、自身の研究を当事者研究として位置づけたことは、一度たりともありませんでした。しかし私は、調査を進めていくなかで、当事者意識に基づいた考えを被調査者にぶつけてしまうことで、「被調査者の経験を記述する」という調査の目的をかなえられない状況に自らを追い込むことになりました。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 

 

4.熊谷智博 他人同士の争いに参加する非当事者の心理

 

自分は得しないのになぜ他人の争い事に参加するのか?「自分も被害者だ」という気持ちから他人の争いに加わる心理について、実験を通して解説していただきました。

 

「関係の無い奴は引っ込んでいろ」「他人の問題に口を出すな」。こういった発言は人々が争いごとの最中によく聞きます。争いごとの当事者達は、一般的に無関係の人=非当事者からの介入を嫌います。それは非当事者による介入が紛争場面での力関係を変化させるので、それが自分に有利に働くなら良いのですが、反対に自分にとって不利に働くことを危惧し、それを予防する為だと考えられます。

 

一方、非当事者にとって他人の争いに介入することは非当事者自身も被害を受けるというリスクを生みます。また介入による争いの解決は、多くの場合は当事者にとっての利益(例えば問題解決)にはなっても、非当事者個人の利益にはなりにくいと考えられます。従って他人の争いに非当事者が参加することは一見非合理的な行動であると言えます。それにも拘わらず非当事者はなぜ他人の争いに介入するのでしょうか。本稿では集団成員性の観点から、非当事者が他人の争いに攻撃的に参加する点を検証した実験(熊谷, 2013)を紹介し、その心理過程を解説します。

 

◇「ずるは許さない」or「自分の被害者だ」

 

被害を受けていないはずの非当事者が他人同士の争いへの参加する理由としては2つの動機が考えられます。1つは「制裁」であり、これは個人的被害とは無関係に、他人の行為に対する価値判断によってその者への否定的評価が形成され、それに対する怒りが非当事者に生じ、正義や公正の回復を動機づけられた結果(大渕, 2011)、他人の争い事に介入するというものです。

 

例えば詐欺によって他人の財産をだまし取った犯罪者に対して、「他人を騙してはいけない」という信念を持っている人は、違反者に対して怒りを覚えます。そしてその怒りから違反者、つまり詐欺の犯人に対し罰を与えたいと考えます。もし犯人に対して罰が与えられた場合には、違反された自分の信念が正しいものとして見なされたと解釈出来るし、罰によって損なわれた信念の価値も回復出来たと考えるでしょう。その結果、非当事者は高い心理的満足を得ることができます。言い換えると「ずるは許さない」という気持ちから他人の争い事に参加しているわけです。

 

もう1つは、「報復」です。Batson et al.(2007)によれば、公正違反に対する人々の怒りには道徳的憤慨以外にも個人的怒りと共感的怒りがあります。このうち共感的怒りは、幸福を気にかけている相手が不公正な扱いを受けるのを知覚した際に生じると考えられています。個人的に好意を持っている人物に対して不公正な扱いをした者に対して人々は敵意を抱き、その敵意が加害者に対する非当事者の攻撃行動を動機づけることが考えられます。

 

例えば自分の恋人や家族といった身近で親密な関係にある人に対しては、多くの人は基本的にその人が幸せになることを望んでいるでしょう。しかしながらその親密な人が詐欺被害に遭うなど幸せが損なわれた状態にあると知ると、あたかも自分自身が傷つけられたように感じ、その犯人に対しては強い怒りとその仕返しが動機付けられると思います。……つづきはα-Synodos vol.196で!

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

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無題

 

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