ウィキリークスのもつ普遍性と凡庸さについて  

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在外のため、日本でウィキリークスに関する一連の報道がどう受け止められたのか詳細には解らないが、関心の度合いはアメリカとヨーロッパと比べて低いように感じられる。それは、この種の話題に対するニーズの高低だけに由来するだけでなく、ウィキリークスによって先に暴露されたアメリカの外交公電に日本が直接的に係っているケースが少ないからかもしれない。

 

ウィキリークスが暴露した公電のうち、日本に直接関係するものとしては反捕鯨団体「シーシェパード」をめぐる日豪の関連文書に留まる。いわば、日本はウィキリークスの直接的な利害関係者ではないのである。それゆえ、勢いメディア論やインターネット論としてのウィキリークス論が中心を占め、日本国内の既存メディアもこれに追従しているというのが構図であるように思われる。

 

ウィキリークスについての報道や論説はすでに多くなされているし、関心はむしろ創設者アサンジの処遇やその妥当性に向かっているようにみえる。しかし、ここではウィキリークスがもった意味に焦点を絞った上で、遅ればせながらの、そして条件つきでのウィキリークス肯定論を、重要と思われる3点にわたって展開してみたい。

 

 

既存メディアvs.ウィキリークスという間違った構図

 

まず、各国の既存メディアは漏洩した公電公開に先立って、最初からウィキリークスと関係を樹立し、その精査をしていた点が重要である。英国の「ガーディアン」、フランスの「ル・モンド」、ドイツの「デア・シュピーゲル」、スペインの「エル・パイス」のグローバル・クオリティペーパー4紙に対して、ウィキリークスは公開を予告した上で事前に情報を提供していた。

 

これに米国の「ニューヨーク・タイムズ」が加わり、各紙は互いに連携をとり、専門記者数百人を動員して内容の真実性を精査した上で、ウィキリークスの公開情報を紙面で紹介したのである。これまでにも、各国ジャーナリズムは数々のスキャンダルを暴く上でウィキリークスと協力関係を構築していた実績をもっていたのだから、こうした流れになるのは必然でもあった。

 

ウィキリークスによる追加情報公開に応じて、その内容は今でも紙面で紹介されているが、既存メディアはウィキリークスの提供する情報に補足や解説を施し、公共利益に反すると思われる情報を削除することで、紙面で紹介することの意義を保っている。

 

すなわち、既存メディアvs.ウィキリークスという構図ではなく、むしろそれぞれの特性を活かした上で、相互補完関係が成り立っているのである(この既存メディアとの過大な協力関係がウィキリークスから分裂したオープンリークスの誕生の理由のひとつとされる)。こう考えても、ウィキリークスに批判的な論調を展開した日本のマスメディアは、国際的な報道ネットワークとはかなり異質なポジションをとっているようにみえる。

 

もちろん、ウィキリークスと情報提供者が違法行為を行っているのか否かといえば、違法であることは間違いがない。しかし、これは守秘義務を負った人間が内部告発をした場合と同じである。

 

ジャーナリズムの使命のひとつが「公衆の利益の実現」(これは米ジャーナリズムの基礎をつくったピュリツァーのモットーでもあった)にあるのならば、民主政治においては、それが政府によって「機密」とされている情報であっても、公開するのは当然である。ウィキリークス創始者アサンジの「わたしは人権擁護を目的とする人々を守るシステムをつくる活動家兼ジャーナリスト兼プログラマー兼通信暗号専門家」という自己規定と、「社会の木鐸」たるジャーナリズムの違いは、さほどない。

 

何れにしても、ウィキリークスと類似の情報公開組織は世界各地で登場しており、この流れはウィキリークス単体を非難したところで留まるようなものではないことは承知しておく必要がある。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.267 

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