2016.01.15

『ぼくたちは戦場で育った』――子どもたちが語るボスニア紛争

ヤスミンコ・ハリロビッチ×角田光代×千田善×荻上チキ

国際 #荻上チキ Session-22#ぼくたちは戦場で育った#ボスニア紛争

第二次世界大戦のヨーロッパにおいて最悪の戦争と呼ばれたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の終結から20年。かつての戦時下の子どもたちも、今や30代前後の年齢になっている。そんな戦場育ちのサラエボの人々から160字以内で体験談を募り、一冊にまとめた本「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」(集英社)が発売された。

そこで、著者のヤスミンコ・ハリロビッチ氏、日本語版の翻訳に携わった小説家の角田光代氏、そして通訳者で国際ジャーナリストの千田善氏にインタビューを行った。TBSラジオ「荻上チキSession22」2015年11月11日(水)「ボスニア紛争のサラエボ包囲戦から20年。戦場となった街で子供達は何を体験したのか?」より抄録。(構成/大谷佳名)

■ 荻上チキ・Session22とは

TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら → http://www.tbsradio.jp/ss954/

戦争に翻弄されたサラエボの歴史

「戦争中に子どもでいるってことは、つまり、学校に好きな子がいて、その子が迫撃弾で殺されるってことだよ」

ヤセンコ(男性)1977年生まれ

「戦争の思い出――おもちゃの代わりに、銃弾を集めて遊んだこと!」

ザナ(女性)1987年生まれ

荻上 今回は「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」(集英社)の著者である、ヤスミンコ・ハリロビッチさんに日本にお越しいただきました。よろしくお願いします。

ヤスミンコ お招きいただきありがとうございます。よろしくお願いします。

荻上 また、日本語版の出版を熱烈に希望され、翻訳にも携わった小説家の角田光代さんです。よろしくお願いします。

角田 よろしくお願いします。

荻上 角田さんはなぜこの本を日本で出版しようと思われたのですか。

角田 3年前にボスニアを訪れ、ヤスミンコ君に会ってこの本を見せてもらいました。本の中には子どもたちが戦争で何を感じたか、非常に短い言葉で書いてあったので、何よりも私自身が「読みたい!」と思いました。

荻上 そして、サッカー日本代表オシム元監督の通訳も務め、今回、翻訳にあたって全面的に協力をされた、通訳者で国際ジャーナリストの千田善さんです。よろしくお願いします。

千田 よろしくお願いします。

荻上 千田さんは翻訳に関わるにあたって注意した点などはありますか。

千田 現地の人にしかわからない単語がたくさん出てきたので、それをどう訳せば日本の方が理解しやすいのか、情報を集める作業が大変でした。

荻上 リスナーの中にも、ボスニア・ヘルツェゴビナについて初めて知る方が多いと思います。

ヤスミンコ 日本の方には元サッカー日本代表監督イビツァ・オシムや、歌手のヤドランカ・ストヤコヴィッチの名前が知られているかもしれません。ボスニアはヨーロッパの中では大変小さな国の一つです。1992年にユーゴスラビア連邦共和国が分裂した際に独立しましたので、ボスニアとしての国の歴史は非常に短いです。

サラエボはボスニアの首都で、一番大きな街ですが人口は50万人ほどです。この地域には1000年以上の歴史があり、東西文明の様々な要素が通り過ぎていきました。サラエボにいらっしゃれば、あらゆる文化が混じり合っていることを感じていただけると思います。また、1984年のサラエボ冬季オリンピックが有名かもしれません。サラエボにとって一番美しい記憶の一つです。しかし、戦争に翻弄された別の歴史もあります。

1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であったフランツ・フェルディナントが暗殺されたのはサラエボでした。そして一番新しい戦争というのが、1990年代のサラエボ包囲戦に象徴されるボスニア紛争です。それが終わって今年で20年になります。

しかし私の表情はあまり冴えません。というのは、復興の進み方が非常に遅いからです。独立前は社会主義国家でしたが、今は市場経済への移行期にあります。汚職の問題が深刻で、経済的にはあまり上手くいっていません。しかし、ボスニアの人たちは様々な災害、戦争から立ち直った経験を持っていますので、未来は楽観的に考えるようにしています。

「民族主義」を看板にした領土争い

「電気が来ると言われていた日を指折り数えて待っていたのをおぼえている。結局来なくて、がっかりしたことも。」

ミルサド(男性)1982年生まれ

「覚えていること。『ママが死んだよ』とパパが言った夜。それから『君のパパが死んだよ』という言葉。戦争の馬鹿野郎」

ミレラ(女性)1981年生まれ

荻上 冷戦が終結し、社会主義の国が次々に解体していく中で、ユーゴスラビアでもその動きが進んでいきました。そして1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立を宣言することになります。その直後に始まったボスニア紛争ですが、これはどういったものだったのでしょうか。

千田 かつて、ユーゴスラビアはヨシップ・ブロズ・チトー大統領の手によって一つの国に統一されていました。彼は独裁者でしたがカリスマ性もあり、みんなから愛される存在だったのです。

ところが、彼が亡くなって体制は崩れ、少しずつ紛争が始まっていきました。深刻な経済危機に陥り、政治不信も高まり、政治家が選挙運動で「みなさんの生活を良くします」と言っても誰も信じない。そんなとき、一番分かりやすかったのが民族主義でした。――我が民族はみんな被害者で、悪いのはあいつらだ。あいつらのために我々は不幸な生活をしている――。日本や韓国でも同じことが言えると思います。

当時ユーゴスラビアには、マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国の6つの国がありました。

もし単純にその国境ごとに独立できたら、それほど傷は大きくなかったでしょう。しかし、それぞれの国には複数の民族が混在しており、国境の向こうにも自分たちの仲間がいる、という状況だった。このため、民族間対立はやがて武力行使を伴う領土争いに発展していったのです。

そのうち、紛争が一番激しかったのがボスニアでした。人口430万人のうち、4割がムスリム人、3割がセルビア人、2割がクロアチア人。それぞれが自分たちの領土を主張して競い合う。そのなかで政治家は「領土をどれくらい取ったか」ということでポイントを稼いでいく。この「領土分割戦争」の看板が民族主義でした。

「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」ヤスミンコ・ハリロビッチ(著)、千田善(監修)、角田光代(翻訳)
「ぼくたちは戦場で育った サラエボ1992─1995」ヤスミンコ・ハリロビッチ(著)、千田善(監修)、角田光代(翻訳)

無差別な攻撃、悲しい分割

「おとうさんがトレベビッチの前線に発つ前に、どうしてもう1回キスしておかなかったのかな……」

エディン(男性)1984年生まれ

「戦争中、まだ8才だったけど大人の女になった。水を運び、市場へいき、妹の面倒をみて、こわいなんて思っている暇はなかった。」

ドラガナ(女性)1985年生まれ

ヤスミンコ ボスニア紛争は、独立に賛成するクロアチア人・ムスリム人勢力と、反対するセルビア人勢力との争いです。首都サラエボは盆地の底にある街で、約50万人が暮らしています。多数派は独立賛成でした。そして周りを囲む丘の上には独立に反対するセルビア人の占領者たちが陣地を構え、盆地の底を目がけて攻撃してくるのです。

想像してみてください。毎日何百発、何千発もの大砲の弾、迫撃弾などが空から降ってくる。3年半の戦争で、合計すると200万発以上だったと数えられています。サラエボ包囲戦は1430日あまり続き、犠牲者の8割は一般市民でした。人道援助もありましたが、少なくて足りませんでした。

そして街には動くものなら何でも撃つ「狙撃手(スナイパー)」がいました。それを避けるためにみんな大通りを走って渡るのです。サラエボを出るためには飛行場の滑走路を横切って走らなければいけない。そこでも狙撃されて命を落とした人がたくさんいました。

そこで、街から脱出するためのアイデアを思いつきました。滑走路の下にトンネルを掘ったのです。長さ800メートル、そのトンネルが命綱でした。色々な食料や燃料や、負傷者を運び出したり、外の世界とサラエボをつなぐ唯一の手段だったのです。

攻撃は本当に無差別に行われました。街の中のどんな建物も被害を受けています。それは病院であろうと、学校であろうと変わりません。そのために使われた武器は旧ユーゴスラビア連邦軍が備えていた武器です。ユーゴスラビアは戦争が始まる前はヨーロッパで第四の軍事力を持っていたので、武器は豊富にありました。

それに対して街を守ろうとした側は軍服すらなく、スニーカーにシャツを着た人々がサラエボを守る兵隊でした。武器は第二次世界大戦の時に使われていたような古いものや有り合わせのもの。ですので、軍として格好がついたのも戦争が始まって2年目くらいでした。そこから、一旦奪われた領土を取り戻す力を蓄えていったのです。

そして1995年、ボスニア側がかなり力を備えてきたところで戦争が終わりました。それを決めたのが「デイトン合意」という、パリで調印された和平合意でした。つまり、勝者なき戦争だったのです。この和平合意は妥協の産物だったので、領土は勢力ごとに複雑な線引きをされ、一つの国とは言えないような状態になりました。この領土分割は今も続いていますし、精神的な意味では各民族の対立は以前より深刻だと私は感じています。

「ごく平常な生活を送ることが、戦争に対する抵抗なのだ」

「父が出ていって、急にこわくなった。その夜父は帰らなかった。その後もずっと。」

デニス(男性)1986年生まれ

「窓越しに外を見ていた膨大な時間……5分でいいから外に出してとしつこくせがんでも、ぜったいにだめだった……」

アルマ(女性)1982年生まれ

荻上 サラエボはなぜ包囲されてしまったのでしょうか。

千田 やはりボスニアの中ではサラエボが一番大きな街で、観光資源も含めて魅力がありました。周りを包囲して攻撃していたのはセルビア人勢力、つまり民族主義の勢力です。彼らもサラエボが欲しかった。だから老若男女問わず無差別に攻撃し、街から人々を追い出そうとしました。

一方でボスニア政府軍としては、みんなが逃げて空っぽになるとセルビアの街が取られてしまいます。そのために、一般市民を街の中に閉じ込めておくことにした。街の外とつながるトンネルも、ごく限られた人にしか使えないもので、一般市民にとってはむしろ狙撃の危険性が高い場所でした。そして自分たちのための政府であるはずなのに、ボスニア政府からは人質として扱われ、街から出ることはできない。

一般市民が生活している場で戦争が起こっていたのです。女の人はハイヒールにスカート姿で生活していた。本当に奇妙な戦争だったと思います。市民の人々は「ごく平常な生活を送ることが、戦争に対する抵抗なのだ」といって日々を過ごしていたのです。

荻上 市民の側からすると陣取り合戦のコマに使われているような状況だったんですね。

生々しく内側から叫んでいる

「ねえさんと、『ヒューッ』って砲弾の音のまねをして、よくかあさんをからかった。」

アガン(男性)1990年生まれ

「人道支援物資バッグから取り出した石鹸をガブリ。お菓子だと思ったの!」

ファティマ(女性)1989年生まれ

荻上 角田さんはもともとボスニア紛争に興味をお持ちだったのですか。

角田 サラエボを訪れるまでほとんど何も知りませんでした。現地の方からボスニア紛争について色々とお聞きしましたが、あまりにも複雑なので、知識としては理解できても感覚としては分からなかったです。

ただ、この本は子供の声なので大義名分や歴史的事実ではなくて、生々しく内側から「戦争はこんなに怖いものなんだ」と叫んでいる。そんな印象を受けました。歴史的事実を理解することも大事ですが、それと同時に生きていた人のリアルな声を伝えたことで、すごく重要な本だと思います。

荻上 ボスニアを訪問するにあたって、日本でも資料を探しておられたそうですね。国内で手に入る資料はどういう状況だとお感じになりましたか。

角田 頭で完全に理解するのは無理だな、と思いました。例えば「三つの民族の争い」といっても、日本にいると国籍の違いや人種の違いと捉えてしまいますが、実はそうではない。宗教の違いによって、同じ街に暮らしていても別の民族なのです。そこからまず、感覚として理解できませんでした。

荻上 知識や構図だったり、歴史的背景から説明する本が多いと思います。この本が特徴的なのは、当時子どもだった立場から振り返って、どんなことを考えていたか、非常に短い文章で伝えている点ですよね。角田さんは表現者の立場から、この表現の数々に触れて驚きもあったと思います。どのような感覚でしたか。

角田 やはり「生々しい」という感想が一番にありました。大人は多くの言葉を持っているので、政治的にものを言ったり、正義でものを言ったり、大人としての言葉の使い方があると思います。ただ、この本では20〜30代の人たちが当時のことを思い出して、子どもの言葉で書こうとしている。ですから非常にわかりやすいのです。真に迫ってくる、という感じがしました。

荻上 今回は、日本の読者に何を伝えたくて翻訳に関わられたのでしょうか。

角田 街に住んでいる人たちが標的にされる戦争は特殊なものです。ただ、私はその特殊さを伝えたいとは思いません。そうではなくて、いかにみんなにとってあり得ることなのか。もしかしたら、戦争が起こるなんて思ってもいないまま、いつの間にか戦争に突入してしまうことがあるかもしれない。

それがどういうことなのか、非常に近しい問題としてこの本には現れていると思います。私も読んでいて、そのことにびっくりしました。もしこの本を読んでくださる方がいたら、その遠さではなく身近さを感じていただけたら嬉しいです。

戦争のはじまりの記憶

「犯罪。僕は、無理やり戦争に、しかも前線にいかされた。未成年だったのに」

サミール(男性)1975年生まれ

「最初におぼえた英語は、『プリーズ チョコレート』。ドブリニャ地区を通り過ぎる国連の兵隊さんたちにそう叫んだの。」

レイラ(女性)1985年生まれ

荻上 ボスニア紛争が始まったのは、ヤスミンコさんが4歳のころだそうですね。そのころの雰囲気は覚えていらっしゃいますか。

ヤスミンコ  戦争がはじまって銃撃戦が自宅の近くであったので、私たち家族は近所の親戚の家に引っ越しました。そのことが戦争のはじまりの記憶として残っています。細かいところは全く覚えていませんが、ある場面ごとの視覚的なイメージは記憶にあります。

攻撃がはじまると、みんな地下室に逃げました。地下室には上の方に窓があり、そこから大人の男達が心配そうに外を眺めている。そのうちの一人が私の父親でした。その光景をなぜか写真のように覚えています。

そして、叔父が大切にしていた車のこともよく覚えています。その車はガソリンが入っていませんでした。今から思えばどうして満タンにしておかなかったのかと感じますが、当時はこれが戦争だなんて思いもよらなかったのです。ちょっとした小競り合いで、数日で終わるだろうと考えていました。ある日、その車は全く跡形もなく壊されてしまった。おそらく迫撃弾が命中したのでしょう。

また、そのころ初めて経験したのが「空腹」です。それまではお腹がすくという経験をしたことがありませんでした。何日かに一度、一家族にパンがたった一つ配給される。それだけで数日間過ごすのです。これは自分自身の記憶なのか、あとから家族に聞いたことなのか分かりませんが、少ない食料を分け合わなくてはいけなくなった時に、父親が「自分はいらない」と言って自分の分を私に食べさせてくれました。最初の戦争の記憶はそういうものです。

断片から戦争を考える

「僕は4歳だった。母が妹を妊娠中に、父が前線で死んだ。その翌日、妹が生まれたんだ。」

アブドララフマン(男性)1988年生まれ

「ニンジャ・タートルズの大ファンで、ミケランジェロがピザを食べているのをしょっちゅう見ながら、ピザって何!?て思ってた」

アミラ(女性)1989年生まれ

荻上 本の中では一つ一つがTwitterなみに短い文章なので、結果的により多くの声が一冊で読めるように仕上がっています。

ヤスミンコ この本を出す前に、私はサラエボに関する本を2冊出していますが、いつかは自分が経験した戦争をテーマに本を書きたいと思っていました。

戦争に関する本というと、別の方が戦時中に書いた日記を出版して世界的に注目を集めています。けれども、私自身は当時4才で日記をつけるような歳ではなかったので、その代わりに何かできないかとずっと考えていました。手法としてはドキュメンタリーがありえますが、それだけでは平凡で、何百万、何千万もの情報が飛び交う中では埋もれてしまいます。ですから何か面白いものを、と思っていたのです。

読者が惹きつけられて、かつ記録に値するような情報が入っているもの。そして私たちの世代が使い慣れた長さの文章で、より多くの人の声を集めようという試みでした。結果的に千人あまりの声が集まり、一つの戦争に対する様々な視点を統合することができたのではないかと思います。

戦時中、私は両親と一緒に過ごしましたが、別の家庭では両親が亡くなったり、様々な理由で孤児になってしまった人もいます。そうしたことはリアルタイムでは全く想像できなかったです。みんな自分と同じように親に守られていると思っていましたが、そうでない世界もあったのです。

寄せられた文章は一読して理解・納得できるものだけでなく、自分の体験からではあっても、それを必ずしもいい尽くしていない、中途半端なセンテンスもたくさん集まりました。しかし、それらは物事の背景を暗示する効果を持っていて、日本の俳句も同じところがあるのではと思っています。

荻上 全てを説明しきるのではなくて、行間から想像してほしい。そうした力を一つ一つの文章の中に感じました。また、テーマごとに分類することを敢えてしていませんよね。だからこそ、戦争というものを断片から考えさせるような力強い本になっていると思います。

(左から)荻上氏、角田氏、ヤスミンコ氏、千田氏
(左から)荻上氏、角田氏、ヤスミンコ氏、千田氏

ユーモラスに語ろうとすること

「砲弾はこわくなかった。ひとりでいるのがこわかった。」

エミール(男性)1989年生まれ

「戦争中、子どもだった私が、戦争をやめてって強く願った瞬間をおぼえている。友だちが死んだときだ。」

ヤーニャ(女性)1981年生まれ

荻上 この中から、特に印象に残っているメッセージはどういったものでしたか。

ヤスミンコ 本当にたくさんの声が集まりましたが、その中で「こんなの無理よ。難しすぎるわ。」と書いてきた友人がいます。それを読んだとき、「これでいいんだ。自分がやっていることは正しいんだ。」と思えたんです。大変励みになりました。それは私のやり方に対する批判でもありますが、彼女の本音がそこに出ているという意味では、本作りのコンセプトが成功しているということでした。

角田 印象深い声がたくさんありましたが、多くの人たちがユーモラスに語ろうとされています。サラエボに行ってみて強く感じましたが、本当にユーモアを大切にしている方たちなんです。なので、この記憶も「辛い」「悲しい」というだけではなく、ユーモラスになんとか話題を持ち込もうとしている。その姿勢が本当に悲しかったし、一方で子どもの力ってすごいな、とも思いました。

千田 本の中にオシムさんが文章を寄せてくださいました。彼は今まで政治的な発言を避けてきた。誤解を生む恐れがあるからです。しかしこの本は違うぞと、今回ご自身の体験を長い文章で語ってくださったことは、僕にとっても驚きであり、非常に嬉しいことでした。

荻上 やはり触発されたからという点が大きそうですね。

千田 オシムさんは戦時中にサラエボにいなかったことが負い目でもあるようですが、この本をきっかけに当時の記憶を思い出して、改めて平和が大事だと語ってくれたのだと思います。

ほかの民族、ほかの地域に広げていく

「スナイパーがねらっている通りを、友だちが走って渡ろうとしていたんだ。母親は髪を逆立てて見守っている。それを見ていた2人の男が賭けをしていたんだ。彼が生き残れるかどうか。」

マヒル(男性)1978年生まれ

「戦争中に子どもでいるってことは、子どもではいられないってこと!」

セルマ(女性)1983年生まれ

荻上 ヤスミンコさんは先日、「戦時下の子どもたち博物館」を開館されることを発表されました。

ヤスミンコ この本を作る過程の中で、人々の記憶だけでなく、当時の物もたくさん保存されていることに気がつきました。それらも、より多くの人に見ていただけるような場所を作りたい。もちろん戦争が終わって20年経っているので、探しても見つからないことがあります。ですから、まず人々の記憶を言葉として本にまとめて、次の段階で「戦時下の子どもたち博物館」という施設を作ろうと考えたのです。

今年から当時の物を集め始めました。来年の夏か春には開館させようと思っています。この本には千人以上の言葉が集まっているので、物も千点以上集めて博物館に展示したいです。それらを見れば、どんな戦争だったのか、どんな子ども時代だったのか、よりリアルに理解していただけるはずです。本はサラエボに限った内容ですが、「戦時下の子どもたち博物館」はボスニアの記憶として共有したいと思っています。

本を作ろうと思ったのは、最初は戦争や平和を意識したのではなく、とにかく自分の体験を吐き出してもらえる場を作りたい、というモチベーションでした。そして私自身の精神的なトラウマを克服する意味もありました。

しかし、これからは大変な体験をしている別の民族の人々との交流が始まっていけばいいなと思います。それからサラエボの子どもたちの戦争体験を、他の地域の子どもたちの戦争に重ね合わせていきたいです。その意味でも、この本を日本語に翻訳してくださった、角田さんと千田さんには非常に感謝しております。

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プロフィール

角田光代小説家

1967年、神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。90年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞しデビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で野間文芸新人賞、98年『ぼくはきみのおにいさん』で坪田譲治文学賞、『キッドナップ・ツアー』で99年産経児童出版文化賞フジテレビ賞、2000年路傍の石文学賞、03年『空間庭園』で婦人公論文芸賞、05年『対岸の彼女』で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年『八日目の蝉』で中央公論文芸賞を受賞。現在は『源氏物語』(池澤夏樹=個人編集 日本文学全集)の現代語訳に取り組んでいる。

(撮影・三原久明)

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ヤスミンコ・ハリロビッチ

1988年、サラエボ生まれ。作家、NPO法人URBANアソシエーション代表。5歳のときにサラエボ包囲戦が始まり、「戦場の子ども時代」を過ごす。和平合意成立後、サラエボ第一中学校在学中に始めた「サラエボ的思考」というブログが評判になり、書籍として出版。同書はボスニア・ヘルツェゴビナで初めての「ブログ本」となった。以後も執筆活動を継続し、写真付きエッセイ集『サラエボ—ぼくの町、出会いの場所』を出版している。

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千田善通訳者・国際ジャーナリスト

1958年岩手県生まれ。国際ジャーナリスト、通訳。ベオグラード大学政治学部大学院中退(国際政治専攻)。外務省研修所、一橋大、中央大、放送大学などの講師を歴任。2006年よりサッカー日本代表イビツァ・オシム監督の通訳を務める。2012年より立教大講師。著書に『ユーゴ紛争—多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)、『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか』(勁草書房)、『ワールドカップの世界史』(みすず書房)、『オシムの伝言』(同)、『オシムの戦術』(中央公論新社)などがある。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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