歴史は私たちの鏡である――「文化大革命」と格差社会を考える

1966年、中国共産党が「反革命分子との生きるか死ぬかの闘い」を呼びかけた「5・16通知」が出されて、今年で50年になる。およそ1億人が迫害を受け、100万人以上が死傷したとされる文化大革命。私たちは今、どうとらえるべきなのか。信州大学人文学部教授の久保亨氏が解説する。2016年05月16日放送TBSラジオ荻上チキ・Session-22「五・一六通知から50年〜『文化大革命』とは一体何だったのか?」より抄録。(構成/大谷佳名)

 

 荻上チキ・Session22とは

TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。様々な形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら → http://www.tbsradio.jp/ss954/

 

 

文化大革命とは何だったのか

 

荻上  ゲストをご紹介します。『〈シリーズ 中国近現代史 4〉社会主義への挑戦 1945-1971』(岩波新書)などの著者で、中国近現代史に詳しい信州大学人文学部教授の久保亨さんです。よろしくお願いします。

 

久保 よろしくお願いします。

 

荻上 さっそくですが、「文化大革命」はどういった出来事だったのでしょうか。

 

久保 まず、中国共産党の指導部の間での方針争いが出発点でした。当時、少数派であった毛沢東という指導者のグループ(毛派、毛沢東派)が、一部の民衆を動員する形で自分たちの政策を共産党の政策全体に押し付けようとした。そのやり方は共産党の中の手続きさえ無視し、非常に乱暴に進められたために、政治、社会、経済あらゆる分野で大変な混乱が起きました。

 

荻上 毛沢東派側が引き起こした出来事になるわけですね。当時、毛沢東派と対立していた多数派はどういった人たちだったのですか。

 

久保 日本で言えば大統領にあたる、当時の国家主席の劉少奇たちです。中央政府、あるいは地方政府でも、行政を動かしていた多数の人たちは毛沢東派とは違うグループでした。毛沢東派は彼らを、実際に権力を持っているという意味で「実権派」と呼んだりしていました。

 

劉少奇たちは、50年代末〜60年代初めにかけて毛沢東派が行った「大躍進」という急進的な社会主義の政策に対して批判的な立場でした。この政策は、とにかく大規模な共同化を進め、国営化を徹底すれば生産が上向くという、非常に根拠のない考え方でした。大躍進政策は失敗に終わり、二千万人以上の死者が出る結果に終わりました。

 

これに対して劉少奇たちは、ゆっくりと少しずつ社会主義をやっていく、あるいは社会主義を控えめにして、資本主義的な市場経済を活用していく方針で、政治の立て直しを始めました。つまり、80年代末〜90年代から中国共産党が進める政策に繋がるような考え方だったと言えます。こうした動きに、毛沢東らは非常に危機感を持ちました。そして、今からちょうど50年前の1966年5月16日に「5・16通知」を出し、文化大革命が始まったわけです。

 

荻上 大躍進政策は、なぜそれだけの死者が出る結果になってしまったのでしょうか。

 

久保 農村なのに食べるものがない状態だったのです。当時、人口の増加に食糧の生産が追いつかなくなっていましたが、その少ない食糧の一部まで輸出に回し、なんとか体面を取り繕いながら核開発に必要なものを輸入する、というような、非常に乱暴な政策を行っていたからです。

 

ちょうど今の北朝鮮と同じような状態で、国民の生活は悪いけれども、国威発揚のために原爆やミサイルの開発がどんどん進められていった。結果として、非常に多くの方々が餓死や病気で亡くなりました。人口のカーブを見てみると、大躍進の時期に高齢な方々や生まれたばかりの子どもたちが大勢亡くなっていることが分かります。

 

また、一般の国民の生活は悪くても、幹部や中堅の技術者、労働者たちの生活はしっかりと保障されていました。そんな中で、半失業状態の若者は不満を持って存在している。こうして、非常に大きな問題を抱える格差社会が生まれていきました。

 

それに加え、集団の利益配分を徹底する急進的な社会主義ですので、農民はいくら働いてもみんなで利益を分けなくてはいけません。そんなことでは働く意欲も起きませんし、食べるものもなく、次第に体力も落ちていきます。

 

こういう状態を立て直すためには、やはり農民が小さな自家農園で作った野菜を売った分くらいは、その農民の取り分にしようと。資本主義を取り入れるといっても、これまで社会主義という名の下の集団農場で共産党がやってきたことを全て無しにするのではなく、ある程度農民たちのやる気が出て、結果として、より多くの食べものが市場に出回るような政策をしていこう。それが、劉少奇たちの考えたことでした。

 

荻上 なるほど。それに対して毛沢東派は批判していくわけですね。

 

久保 はい。毛沢東たちは貧富の差が生まれると、結局それが社会主義の理念を崩してしまうと考えていました。農民が多少なりとも自分の工夫で金儲けするようになれば貧富の差が広がる、それは社会主義の理念に反するというわけです。

 

従って毛沢東派は、メインストリームであった劉少奇たちのグループを厳しく批判するため、共産党の内部で「社会主義とは何なのか」という教育を進めていきました。それが始まったのが1960年代の前半です。こうした教育を受けた若者たちは、貧富の差が生じることに対して非常に不満を持つようになるわけです。

 

一方、その頃、毛沢東は大躍進の失敗で責任を負い、国家主席という政府の役職は退きましたが、共産党のトップリーダーという地位は持ち続けていました。毛沢東の権威は社会主義の政治教育を通じて、若者たちに浸透していっていたのです。

 

荻上 そうした中で、毛沢東は「5・16通知」を出したということですが、その内容と、それによる影響はどういったものだったのでしょうか。

 

久保 その通知自体は、党員や一般の国民に向けて、資本主義の流れを作るような思想や文化をばら撒いている人たちを打倒しなさい、権力の場から追い出しなさい、と呼びかけるものでした。すでに、その以前から北京を中心に社会主義の運動は始まっていましたが、そこに参加していた若者たちが中心となって毛沢東の呼びかけに応じ、運動がより加速される形となりました。

 

そうした中で、「紅衛兵」という若者たちの組織が作られるようになり、彼らを中心に実権派を権力の場から追い出そうという運動が全国に広がっていきました。

 

 

久保氏

久保氏

 

 

孤立と格差社会の中で

 

荻上 紅衛兵たちは具体的にどのような運動を行っていったのでしょうか。

 

久保 たとえば、「資本主義的な文化を摘発する」といって、北京の街頭でジーンズを履いていた若者を捕まえてジーンズを破いてしまうとか、パーマをかけて歩いていた女性の髪の毛を切ってしまうとか。あるいは、図書館で資本主義に関する書物を全て引きずり出して燃やしてしまう。

 

また、「古い宗教、古い文化は社会主義に相応しくない」といって、仏像や石碑を破壊したりもしました。キリスト教や仏教など、それまで細々と認められていた宗教活動が、全て禁止に近い状態にされていったのです。そうすることが社会主義の精神を広げることに繋がるのだと、彼らは素直に信じ込んでいた。そういう行動をお互いに自慢しあって広げていってしまったのです。

 

荻上 紅衛兵として活動していたのはどのような若者だったのですか?

 

久保 最初は、毛沢東派であった共産党の幹部の息子や娘たちが紅衛兵の組織を作りました。それに応じて、毛沢東派の政治教育を受けた他の若者たちもグループを作っていく。やがてエリート層の子どもたちだけでなく、格差社会の中で半失業状態にいた若者たちも呼応していきました。

 

同じ大学、高校の中に二つ、三つ、いくつも紅衛兵の組織が作られていきます。ただ、その主張は少しずつ違っていて、それぞれが「自分たちこそが毛沢東の教えを守っているんだ」と言い出すようになります。紅衛兵同士の争いで亡くなった紅衛兵も随分多いです。

 

荻上 これが毛沢東の教えだ、という基準になるようなものはあったのですか?

 

久保 一応、「毛沢東語録」という、毛沢東の演説や書いたものを短くまとめた赤い表紙の手帳のようなものがありました。もともとは人民解放軍の教育用に作られていたものです。ただ、内容は非常に短く抽象的で、いくらでも解釈可能なのです。そのために、「私こそが」「俺こそが」という衝突が生じ、紅衛兵同士の暴力を用いた争いが広がっていきました。

 

それに加え、当時、中国は「人民戦争」という考え方で武力を維持しようとしていましたから、民衆が手に取りやすいところに銃や機関銃、大砲などがありました。すると、そうしたものを使った争いが始まってくる。中国共産党が公式の発表で、文化大革命の死傷者は100万人以上と認めざるをえないのは、大躍進のような餓死ではなく、本当に武力衝突で亡くなった人たちが大勢いたからです。

 

荻上 なるほど。紅衛兵になるには、届出のようなものは必要なのですか。

 

久保 いいえ、名乗ればいいのです。ただ、全くの自発的な組織として全国に広がったとは考えにくい。やはり、裏では毛沢東派が糸を引いていたと考えられます。実際に、毛沢東派が権力を握るのに役に立つ形で、紅衛兵の組織は利用されていきました。たとえば、文化大革命では各地の行政機関の幹部らが集会で吊るし上げられ、権力を奪われるという事件が次々に起きました。長い三角の帽子を被らされ、後ろ手に縛られてみんなの前で謝罪させられている様子が、いろいろな写真で残っています。

 

荻上 これだけ多くの民衆や学生たちがこの文化大革命に参加するにはどういった背景があったのでしょうか。

 

久保 当時の中国は、共産党の幹部から一般の民衆まで含めて、非常に国際的に孤立していました。外からの情報が入って来ない中で、格差社会で先が見えない。半失業状態で生活が良くならない。49年革命のときと食べ物も着る物も同じというような生活がずっと続いていました。そのような状況の中で、毛沢東が「もう一度、社会主義の理念を徹底すれば上手くいく」と言っている、その教えに従おうという形で若者が動き出すわけです。

 

若者たちが既成の秩序に対して動き出すという点は、まさに68、69年に世界へ広がったベビーブーマー(団塊の世代)の動きと同じです。日本やアメリカ、フランスの運動に共通する面もあったと私は考えています。

 

荻上 なるほど。学生運動などが世界各地で盛り上がった60年代後半、日本ではインテリ層の運動として解釈されていましたが、中国では困窮、情報の遮断という要因と絡み合い、大衆的なパワーとして誤った仕方で発揮されてしまったわけですね。

 

久保 はい。さらに、そこに毛沢東派による社会主義教育が加わり、紅衛兵の暴走が出来上がってしまった。当時の若者たちの間では、今では信じられないような毛沢東のカリスマ化、個人の権威にすがるような傾向がありました。一番分かりやすい例でいうと、ちょうど今の北朝鮮のような雰囲気の中心に毛沢東が存在していたわけです。

 

しかし、毛沢東たちは紅衛兵たちを上手く操ろうとする一方、コントロールできない部分もありました。次第に紅衛兵同士の争いが激化し、社会的混乱へと進んでいったのです。そうすると、毛沢東は「君たちは私の教えを間違って理解している」と言って、今度は紅衛兵を追い出しにかかります。通知が出されて1年半ほど経った後のことです。【次ページにつづく】

 

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